万年初心者のための世界史ブックガイド

2007年7月20日

松本重治 『上海時代 下』 (中公文庫)

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1936年12月、ついに驚天動地の西安事件が起こる。

「張学良による蒋介石への“兵諫”」という事件の概要をいち早く掴んだ著者は、南京政府の送電禁止令を潜り抜けて世界的なスクープを勝ち取る。

蒋介石と張学良の関係は元々良好で、1930年の汪兆銘、西山派、閻錫山、馮玉祥の反蒋運動の際には配下の軍を華北に進出させ、それを挫折せしめている。

満州事変で本拠を追われた東北軍は帰還を熱望するが、大局的見地から対日融和策を打ち出した蒋はそれを許さず、梅津・何応欽協定により東北軍を河北省から撤退させ、西北部延安の共産勢力討伐に従事させる。

蒋としては依然張学良を信頼し、「安内攘外」策の最終段階で活躍の場を与えたつもりだったが、張は東北軍が紅軍との戦いで消耗するのを待って整理・排除されるのではないかと疑心暗鬼を募らせる。

この時期、33年ヒトラー政権の成立を受けたコミンテルンは「人民戦線」路線を打ち出し、広く統一戦線を求める方針に転換している。

中共も同様の路線で、高まる一方の抗日感情を利用し、「中国人は中国人と戦わず」とのスローガンで、延安と対峙する東北軍・西北軍将兵に猛烈な宣伝戦を仕掛け、相当程度の効果を挙げる。

このような情勢下で西安事件が勃発し、蒋介石・張学良・周恩来の微妙で複雑な交渉の後、「内戦停止」を暗黙の了解として蒋は解放され南京に帰還する。

松本氏は、張によって軟禁される前に蒋介石が東北軍・西北軍の戦意喪失状況を見て、共産党討伐の一時停止もやむなしと考えており、それが事件勃発後の蒋の態度にも反映しているのではないかと推測している。

南京帰還後の蒋介石は「内戦停止」には同意したものの、それを「一致抗日」にまで即、進めることには依然慎重であった。

狙撃・負傷後の療養・外遊から帰国した汪兆銘も、共産党の脅威を知り尽くしているだけに同様の態度を取る。

1937年2月の国民党三中全会でも、日本側に冀東政権の解消など華北行政主権の維持を強く要求したものの、人民戦線派の「抗日即戦主義」は退けられ、共産党との合作にもソヴィエト政権の解消、三民主義の尊重、階級闘争の停止など厳格な条件を課せられた。

37年日本では広田内閣総辞職後、短期間の林銑十郎内閣を経て、6月第一次近衛文麿内閣が成立する。

中国での反日感情が一層激しさを増し、不穏な情勢が深まりつつある中で、7月7日北平(北京)近郊の盧溝橋で日中両軍の偶発的な衝突が起こる。

最初は小規模な事件であり、現地軍の橋本群参謀長の努力もあり、何度か停戦協定が結ばれるものの、その度に新たな衝突が起こり、雪ダルマ式に戦闘規模が膨れ上がっていく。

中国側の宋哲元、秦徳純らの指揮官も配下の将兵の抗日風潮を抑えきれなくなっていた。

東京では拡大派と不拡大派が激しく対立するが、不拡大派の石射猪太郎外務省東亜局長、石原莞爾参謀本部作戦部長、多田駿参謀本部次長などの努力も実らず、7月27日内地三個師団の動員令が発令されてしまった。

この決定は国民政府に大きな衝撃を与え、蒋介石は「最後の関頭」に至れば徹底抗戦の他なしと演説する。

全面戦争を避けるため、石射局長が陸海軍中央と協議して、塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東政権、冀察政権を全て解消する代わりに中国側は満州国を問題視しないとの密約と、防共協定締結、邦交敦睦令の徹底、経済・貿易協力の拡大を承認するとの和平案が提示されるが、交渉が本格化する前に8月13日上海で日中両軍の衝突が起こり、頓挫する。

この第二次上海事変で戦火は中国経済の心臓部たる華中にも飛び火し、全面戦争の気配が濃厚となる。

この時海軍良識派の代表である米内光政海相が、海軍陸戦隊と在留邦人の危機を訴えて陸軍よりも強硬に出兵を主張したことが、良識派扱いされる軍人にしてはあるまじき重大な過ちと福田和也氏などは書いているが、本書では特に触れられていない。

(ちなみに上海近辺の戦いで国民政府軍事顧問のゼークト将軍の指導で作られたクリークなど防衛設備に日本軍が苦戦するのを見て、松本氏は「この日中戦争は一面では日独戦争である」との文章を雑誌論文で書いたところ、前年日独防共協定が結ばれていたことを慮った編集部に削除されたそうである。)

10月米国大統領ルーズヴェルトはシカゴでいわゆる「隔離演説」を行い、日独伊を国際政治上の危険な勢力と見做すことを明らかにし、日本の将来に不吉な影が差す。

11月中国軍は華中で総退却を始め、12月には首都南京も陥落するが、すでに蒋介石が長期抗戦の構えを見せていた以上、無意味なものに過ぎなかった。

11月から始まっていた駐華ドイツ大使トラウトマン、駐日ドイツ大使ディルクセンによる和平工作、いわゆるトラウトマン工作も南京陥落の情勢を見て和平条件を吊り上げようとする日本陸軍の近視眼的態度によって挫折する。

翌1938年1月近衛内閣は「爾後国民政府を対手にせず」との声明を出し、事態収拾に一層の困難をきたす。

だが泥沼化する一方の戦局に、日中双方の和平派が再び動き出す。

6月近衛内閣の改造が行われ、就任した宇垣一成外相の下、様々なルートで極秘の交渉が行われる。

汪兆銘、周仏海、董道寧、高宗武、梅思平など中国の和平派との交渉に著者自身も加わることとなる。

蒋介石の自発的下野、満州国の承認、長城以南の領土的行政的主権の堅持、華北の一部における防共のための一時的駐兵を除く日本軍の総撤兵を主な内容として話が進められ、日本側の撤兵意思声明を出して後、中国側で大々的に和平運動を繰り広げる手筈となる。

12月汪兆銘は重慶を脱出するが、直後に出された近衛声明には「全中国からの撤兵」の文字は無く、和平運動に暗雲が立ち込める。

著者はこの38年12月で上海から離れ、本書はここで幕を閉じる。

汪脱出時、期待された、雲南の竜雲、広東の張発奎など地方軍閥の蒋からの離反は起こらず、汪ら和平派は極めて厳しい道を歩まざるを得なくなる。

以後の話は杉森久英『人われを漢奸と呼ぶ』(文芸春秋)犬養健『揚子江は今も流れている』(中公文庫)を併読すると、非常に良いでしょう。

長々と書き過ぎて申し訳ありませんが、自分なりのポイントをできるだけメモしておこうとするとこうなりました。

本書は非常に良い。文章が読みやすい上に、内容は濃い。

著者の個人的体験と日本側の外交官や軍人、中国側の要人との接触が豊富に記されていてそれが臨場感のある叙述になっている。

そういう個別的な記述と共に、日中関係の大局的な観点からの解説も要を得ており、わかりやすい。

史実の流れがスラスラ頭に入ってきて、非常に便利な本。

この本は末尾の南京事件の記述で、右派的な一部の人からは目の敵のように批判されているらしいが、それだけで読まないのはもったいない。

強くお勧めします。

ただ品切れなのが、何とも残念。ネット古書店ではすぐ見つかりますが、できれば常時新刊として手に入るようにしてもらいたいもんです。

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