万年初心者のための世界史ブックガイド

2007年7月18日

松本重治 『上海時代 中』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

1935年6月梅津・何応欽協定と同時に、国民政府は「邦交敦睦令」を発布し排日運動とそれを利用する反蒋・反汪派の取り締まりを強める。

だが同月、華北ではさらに土肥原・秦徳純協定が締結され、国民党勢力はチャハル省からも撤退を強いられる。

年末には天津軍の圧力によって冀東防共自治政府が成立。華北分離工作がさらに進行する。(ほぼ同時に冀察政務委員会が成立するが、これは国民政府が日本の圧力をかわすため作ったもので、一応は中央の統制下にある自治組織で、南京からの分離を明言し傀儡的性格の強い冀東政権とはやや異なる。)

日中間の破局を避けるには満州国のみを固守し、長城以南の中国本土への進出は厳に慎むことが必要であると、著者を含めた心ある人々は考えるが、残念ながら歴史はそのようには展開しなかった。

中国国内では排日世論が大きな高まりを見せ、長征の最中の中共は八・一宣言を発表し、この事態を最大限利用しようとする。

抗日テロや知日派中国人への暗殺も横行し、11月には汪兆銘が狙撃され重傷を負い、12月には汪の下で対日外交に従事した唐有壬外交部次長も射殺され、蒋・汪合作政権は崩壊する。

またこの1935年にはリース・ロスを介してイギリスの支援を受けた国民政府の幣制改革が行われ、蒋は経済的にも全国統一を進めることになる。

この幣制改革を日本が財政的に支援していれば、中国の対日世論を大いに改善し、中国自身は難しくとも、イギリスはこの時点で満州国を承認した可能性があり、そうなれば以後の歴史は相当変わっていただろうというのは、岡崎久彦氏や福田和也氏がその著作で何度か言及している「歴史のif」だが、著者の松本氏はあまり本書ではそういった視点に触れていないようである。

汪遭難後、蒋は自ら行政院長に就任、張群外交部長、蒋作賓内政部長、何応欽軍政部長など知日派を多く含んだ内閣を組織し、日本の強攻策と国内の排日世論の狭間を通り抜ける際どい政権運営を続ける。

明けて1936年、日本では二・二六事件が勃発、岡田内閣が倒れ、後継の広田弘毅内閣で陸・海軍大臣現役武官制が復活、軍の政治介入がますます強まり、対中政策の硬直性も一層酷くなる。

共産党を西北辺境に敗走させ、各地方の軍閥を整理・解消し、最後まで半独立の形勢を保っていた「西南派」たる広東・広西の李宗仁、白崇禧、陳済棠も屈服させ、幣制改革も成功させた蒋は自信を深めると同時にこれ以上排日世論を抑えることは困難と考える。

36年中、断続的に行われた関係改善のための日中外交会談において、中国側は冀東政権の解消などを日本側に要求することとなり、日中両国は不幸な衝突路線へと突き進んでゆく。

11月に関東軍の支援を受けた内蒙古自治運動軍が、傅作義率いる中国軍に破れるという綏遠事件が起こり、中国のナショナリズムは一層燃えさかる。

胡適など反共自由主義の立場を堅持した人は急進的な対日強硬論一辺倒を退けるが、ほとんど影響力を持たない。

共産党と左派知識人によって煽り立てられた排日・抗日世論にはますます激化し、国民政府の政策選択の余地を狭め、不幸な全面戦争への足音が一歩一歩近付いてくる。

広告

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。