万年初心者のための世界史ブックガイド

2007年7月30日

関連文献:読書論

Filed under: おしらせ・雑記, 読書論 — 万年初心者 @ 06:00

今、手元にある主な読書術の本というと以下の通りです。

(1)小谷野敦 『バカのための読書術』 (ちくま新書)

(2)呉智英 『読書家の新技術』 (朝日文庫)

(3)清水幾太郎 『本はどう読むか』 (講談社現代新書)

(4)渡部昇一 『知的生活の方法』 (講談社現代新書)

(5)立花隆 『ぼくはこんな本を読んできた』 (文春文庫)

(6)山内昌之 『「反」読書法』 (講談社現代新書)

(7)斎藤孝 『読書力』 (岩波新書)

(8)勢子浩爾 『自分をつくるための読書術』 (ちくま新書)

(9)福田和也 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 (PHP研究所)

読書法として、「本を買うか、借りるか」「読書ノートを取るか、本に書き込みするか」で別れますが、まず読む本について図書館で借りるものを主にすべきと書いてるのは呉氏の2だけで、あと8が一回しか読まない本は借りろと書いてるのを別にすれば、その他の著者は皆できるだけ本は買うべきだと言ってます。

読書ノートについても、2が積極的に書くべき(ただし本の細かな要約的なものでなく自分なりのポイントを明示したもの)としていて、その点3も同様の主観主義的なノートを取ることを勧めてます。9も最終的には何かメモして残しておくべきと書いてます。あとはどんどん本に線を引いたり書き込んだり付箋紙を貼れという人が多いようです。

私の場合、やはり読む本は買ってしまいます。図書館でも借りますが、その時点で通読するためというより、買って読むべき本か判断するための下調べの目的で予約することがほとんどです。

読書ノートについては、今までつける習慣が全くありませんでした。一度書こうと思ったこともあったのですが、全然長続きしませんでした。しかも貧乏性で本に傍線を引っぱったりするのにも抵抗があり、読んでも何もしないというのが常態でした。

しかし生来の物覚えの悪さから、読んだ本の内容を片っ端から忘れるといった次第で、さすがに悔しさが否めず、何とかしようと考え、9で紹介されていた方法ですが、これはと思った記述のあるページの角を折っておくということだけはここ数年するようになりました。これは一番気軽にできることなのでお勧めします。

それ以上のことは今でも滅多にしないのですが、このブログでタイトルと大体の感想以外に、少々細かな内容を記している記事がありますが、それが実質読書ノート替わりになってます。

時には「ネタバレ」に近い記述もあるかと思いますが、個人的には読んだ本のポイントの記憶を鮮明にするのに極めて便利な手段ですので、何卒ご容赦ください。

なお「読書論」カテゴリに吉田寅他・編『世界史のための文献案内』(山川出版社)を入れてますが、類似の本として高島俊男『独断 中国関係名著案内』(東方書店)と、花井等編 『名著に学ぶ国際関係論』(有斐閣)、猪口孝 『社会科学入門』(中公新書)、中嶋嶺雄『国際関係論』(中公新書)を挙げておきます。

2007年7月27日

岩永博 『ムハンマド・アリー 近代エジプトの苦悩と曙光と』 (清水書院)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

清水新書2冊目。類書が少なくて、自分の苦手分野を選ぼうとしたら、これになりました。

ナポレオンの遠征の後、ムハンマド・アリーは混乱状態の続くエジプトで、セリム3世治下トルコ中央政府から派遣された総督と地元マムルーク層の対立を利用して両者を各個撃破し、1805年自らエジプト総督の地位に就く。

就任当初はトルコのスルタンに忠実であり、イェニチェリ全廃を断行したことで有名なマフムト2世の命に従い、長子イブラヒムを指揮官として各地に軍を派遣し、1818年にはアラビア半島のワッハーブ王国を一時滅亡させ、1821年から始まったギリシア独立戦争にも従事するが、1827年参戦した英仏露の連合艦隊にナヴァリノ海戦で惨敗する。

その間、地元マムルーク勢力を打倒し、徴税請負制度と各種免税特権を廃止、商品作物専売制、国営工場の設立、軍備増強、スーダン遠征などで国力を増強した後、所領の独立と世襲化を求めて、トルコに戦いを挑む。

1831~33年の第1次エジプト・トルコ戦争では圧倒的優位を占め、シリアを難なく征服するが、1839~41年の第2次戦争ではオスマン帝国崩壊を恐れた英・普・墺とこれを期にトルコに恩を売り更なる領土を得ようとするロシアがエジプトの前に立ちはだかる。

1840年時点で、フランスのみはエジプトを支持するが、同年本国でティエール内閣が倒れ、それも失われる。

結局エジプト総督職のみの世襲を認められ、アラビア帝国建設というムハンマド・アリーの野望は挫折する。

(ちなみに第2次戦争の危機的状況の中で1839年アブデュル・メジト1世によりギュルハネ勅令が発布されタンジマートが始まっている。)

手薄な分野の補強のつもりで読みましたが、なかなか良いです。

この辺は高校教科書程度の記述もあやふやだったのですが、いい復習になりました。

これは新刊として手に入りますので、気が向いたら買ってください。

2007年7月24日

堀川哲男 『林則徐』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

宮崎市定『隋の煬帝』礪波護『馮道』寺田隆信『永楽帝』などと同じく人物往来社「中国人物叢書」の文庫化。

ごく平易な文章で、読みやすい伝記。

清廉潔白で有能な官僚として順風満帆の人生を送ってきた林則徐が、アヘン問題への対応をめぐって世界史の舞台に踊り出る経過がよくわかる。

嘉慶帝・道光帝時代を通じて、アヘンの輸入増加による銀の流出・高騰が、地丁銀制のせいで一般民衆の過重な税負担に直結し、アヘン問題は道徳的・衛生的問題から経済的・社会的問題にまで発展する。

その対策として、林則徐は黄爵滋が唱えた、一定の猶予期間を経た上でアヘン吸飲者の死刑を含めた厳禁論に賛同し、1838年欽差大臣に任命され39年広州に赴く。

林は両広総督鄧廷楨、提督関天培らと協力して、アヘンの没収・廃棄に乗り出す。

その過程で、39年中に起こった武力紛争では、中国側が優勢であり、イギリスの首席貿易監督官チャールズ・エリオットは一時撤退を強いられる。

当時の清朝官僚の中では例外的に西欧事情に強い関心を持ち、有能な軍事組織者であることを立証した林だが、それでもやはり限界はあった。

林は、「中国はすべての物産を自給自足できるが、夷狄は必需品を中国に求めるほかない」という朝貢貿易の建前を疑わず、全面的な貿易途絶が必ずイギリスの屈服を齎すと信じていた節がある。

しかしイギリスは反撃に出る。当時の政府はメルボーン内閣(ホイッグ党)でありパーマストンが外相を務めていた。

現在の視点からだけでなく、当時からこの戦争は評判が悪く、出兵案の議会での承認はわずか9票差で可決された。

若きグラッドストンは堂々たる派兵反対論を議会で語っている。(なお当時のグラッドストンは尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』によると保守党に属していたようである。)

イギリス以外の欧州列強においても、アヘン戦争は不評を極めたが、中国の時代錯誤の貿易制限は打破したいとの思いは強く、それゆえにイギリスの軍事行動への牽制は弱いものとなった。

ジョージ・エリオット(チャールズ・エリオットの従兄)を総指揮官とした総兵力4000人、軍艦16隻、大砲540門、輸送船等32隻のイギリス陸海軍が1840年6月中国海域に到着する。

林則徐は民兵を組織し、海上でのゲリラ的戦法で対抗し、イギリス軍は攻めあぐむ。

そこで英艦隊は北上し、浙江省寧波の沖合にある舟山列島の定海を占領する。

こうして戦線が広州に止まらず、華中におよぶ気配を見せると、清朝宮廷で和平・妥協論が急速に強まる。

さらに、イギリス艦隊が続いて北上し天津沿岸に現れると、皇帝のいる畿内から一刻も早く夷狄を追い払うために安易な妥協論が高まるのだが、これは現代の感覚からするとちょっと理解に苦しむところである。

清朝の敗因としては、軍事技術の劣勢だけでなく、官僚指導層の内部分裂、道光帝の恣意的指令など、政治意志上の欠陥も大きいのではないかと思えた。

イギリス軍の状況も磐石ではなく、定海占領中にマラリア・赤痢などで実に総兵員の一割にあたる400人が戦病死している。

林則徐は持久戦による抗戦継続を訴えるが、道光帝に退けられ、和平派の琦善が新たに欽差大臣に任ぜられ、林の組織した民兵は解散され、兵船は削減され、港の防御施設も多くが撤去された。

俄然強気になったイギリス軍は香港の割譲を要求し、拒否されると12月広州の清側砲台を攻撃・占領し、1841年1月に香港割譲・広州開港・公文上の対等などを内容とする穿鼻仮条約が結ばれる。

ところが英艦隊の天津退去を見た清朝宮廷ではまたもや強硬論が高まり、イギリスに宣戦するが、再び砲台を破壊・占拠され、勇将関天培も戦死する。

その後新たにイギリス側全権委員となったポティンジャーは軍を北上させ、厦門、鎮海、寧波、上海を次々と占領し、南京攻撃態勢を整えたところで、清朝は屈服し1842年8月史上有名な南京条約が結ばれる。

内容は高校世界史でも習いますが、確認すると香港割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海開港、開港場への領事駐留、賠償支払、関税協定権付与、公行廃止、対等の国際関係確認。

翌43年には、五港通商章程で領事裁判権を承認、虎門寨追加条約で関税自主権喪失、片務的最恵国待遇、開港場における土地租借と居住権を承認する。

44年清・米間の望厦条約、清・仏間の黄埔条約でも同内容を認める。

最後の章では、その後の林則徐の経歴にも触れられている。

一時新疆地方のイリに追放されるが、その後帰京を許され、陝西や雲南に地方長官として赴任する。

彼は1850年に亡くなるが、本書の末尾に、最晩年のあまり知られていない史実が記されている。

1851年太平天国の大規模武装蜂起の以前からすでに問題となっていた上帝会の洪秀全一派を鎮圧するため、林が再び欽差大臣に任ぜられ討伐に向かったのだが、その途中で病を得て亡くなった。

もし彼があと数年生きていたら、清朝を守るため、かつてイギリスに対したのと同じように、太平天国軍とも勇敢に戦ったのは間違いない。

そうならなかったが故に、幸か不幸か共産中国成立後も林は「民族英雄」として扱われ続けたのだった。

前から読もうと思っていた本書をこの度通読しましたが、内容はまあまあでした。

真ん中あたりまで、林の前半生の官僚コースを記した部分はややタルいし、その後も期待したほどの面白さは無かったですが、基本的にはまずまずの良書と言えると思います。

2007年7月20日

松本重治 『上海時代 下』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

1936年12月、ついに驚天動地の西安事件が起こる。

「張学良による蒋介石への“兵諫”」という事件の概要をいち早く掴んだ著者は、南京政府の送電禁止令を潜り抜けて世界的なスクープを勝ち取る。

蒋介石と張学良の関係は元々良好で、1930年の汪兆銘、西山派、閻錫山、馮玉祥の反蒋運動の際には配下の軍を華北に進出させ、それを挫折せしめている。

満州事変で本拠を追われた東北軍は帰還を熱望するが、大局的見地から対日融和策を打ち出した蒋はそれを許さず、梅津・何応欽協定により東北軍を河北省から撤退させ、西北部延安の共産勢力討伐に従事させる。

蒋としては依然張学良を信頼し、「安内攘外」策の最終段階で活躍の場を与えたつもりだったが、張は東北軍が紅軍との戦いで消耗するのを待って整理・排除されるのではないかと疑心暗鬼を募らせる。

この時期、33年ヒトラー政権の成立を受けたコミンテルンは「人民戦線」路線を打ち出し、広く統一戦線を求める方針に転換している。

中共も同様の路線で、高まる一方の抗日感情を利用し、「中国人は中国人と戦わず」とのスローガンで、延安と対峙する東北軍・西北軍将兵に猛烈な宣伝戦を仕掛け、相当程度の効果を挙げる。

このような情勢下で西安事件が勃発し、蒋介石・張学良・周恩来の微妙で複雑な交渉の後、「内戦停止」を暗黙の了解として蒋は解放され南京に帰還する。

松本氏は、張によって軟禁される前に蒋介石が東北軍・西北軍の戦意喪失状況を見て、共産党討伐の一時停止もやむなしと考えており、それが事件勃発後の蒋の態度にも反映しているのではないかと推測している。

南京帰還後の蒋介石は「内戦停止」には同意したものの、それを「一致抗日」にまで即、進めることには依然慎重であった。

狙撃・負傷後の療養・外遊から帰国した汪兆銘も、共産党の脅威を知り尽くしているだけに同様の態度を取る。

1937年2月の国民党三中全会でも、日本側に冀東政権の解消など華北行政主権の維持を強く要求したものの、人民戦線派の「抗日即戦主義」は退けられ、共産党との合作にもソヴィエト政権の解消、三民主義の尊重、階級闘争の停止など厳格な条件を課せられた。

37年日本では広田内閣総辞職後、短期間の林銑十郎内閣を経て、6月第一次近衛文麿内閣が成立する。

中国での反日感情が一層激しさを増し、不穏な情勢が深まりつつある中で、7月7日北平(北京)近郊の盧溝橋で日中両軍の偶発的な衝突が起こる。

最初は小規模な事件であり、現地軍の橋本群参謀長の努力もあり、何度か停戦協定が結ばれるものの、その度に新たな衝突が起こり、雪ダルマ式に戦闘規模が膨れ上がっていく。

中国側の宋哲元、秦徳純らの指揮官も配下の将兵の抗日風潮を抑えきれなくなっていた。

東京では拡大派と不拡大派が激しく対立するが、不拡大派の石射猪太郎外務省東亜局長、石原莞爾参謀本部作戦部長、多田駿参謀本部次長などの努力も実らず、7月27日内地三個師団の動員令が発令されてしまった。

この決定は国民政府に大きな衝撃を与え、蒋介石は「最後の関頭」に至れば徹底抗戦の他なしと演説する。

全面戦争を避けるため、石射局長が陸海軍中央と協議して、塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東政権、冀察政権を全て解消する代わりに中国側は満州国を問題視しないとの密約と、防共協定締結、邦交敦睦令の徹底、経済・貿易協力の拡大を承認するとの和平案が提示されるが、交渉が本格化する前に8月13日上海で日中両軍の衝突が起こり、頓挫する。

この第二次上海事変で戦火は中国経済の心臓部たる華中にも飛び火し、全面戦争の気配が濃厚となる。

この時海軍良識派の代表である米内光政海相が、海軍陸戦隊と在留邦人の危機を訴えて陸軍よりも強硬に出兵を主張したことが、良識派扱いされる軍人にしてはあるまじき重大な過ちと福田和也氏などは書いているが、本書では特に触れられていない。

(ちなみに上海近辺の戦いで国民政府軍事顧問のゼークト将軍の指導で作られたクリークなど防衛設備に日本軍が苦戦するのを見て、松本氏は「この日中戦争は一面では日独戦争である」との文章を雑誌論文で書いたところ、前年日独防共協定が結ばれていたことを慮った編集部に削除されたそうである。)

10月米国大統領ルーズヴェルトはシカゴでいわゆる「隔離演説」を行い、日独伊を国際政治上の危険な勢力と見做すことを明らかにし、日本の将来に不吉な影が差す。

11月中国軍は華中で総退却を始め、12月には首都南京も陥落するが、すでに蒋介石が長期抗戦の構えを見せていた以上、無意味なものに過ぎなかった。

11月から始まっていた駐華ドイツ大使トラウトマン、駐日ドイツ大使ディルクセンによる和平工作、いわゆるトラウトマン工作も南京陥落の情勢を見て和平条件を吊り上げようとする日本陸軍の近視眼的態度によって挫折する。

翌1938年1月近衛内閣は「爾後国民政府を対手にせず」との声明を出し、事態収拾に一層の困難をきたす。

だが泥沼化する一方の戦局に、日中双方の和平派が再び動き出す。

6月近衛内閣の改造が行われ、就任した宇垣一成外相の下、様々なルートで極秘の交渉が行われる。

汪兆銘、周仏海、董道寧、高宗武、梅思平など中国の和平派との交渉に著者自身も加わることとなる。

蒋介石の自発的下野、満州国の承認、長城以南の領土的行政的主権の堅持、華北の一部における防共のための一時的駐兵を除く日本軍の総撤兵を主な内容として話が進められ、日本側の撤兵意思声明を出して後、中国側で大々的に和平運動を繰り広げる手筈となる。

12月汪兆銘は重慶を脱出するが、直後に出された近衛声明には「全中国からの撤兵」の文字は無く、和平運動に暗雲が立ち込める。

著者はこの38年12月で上海から離れ、本書はここで幕を閉じる。

汪脱出時、期待された、雲南の竜雲、広東の張発奎など地方軍閥の蒋からの離反は起こらず、汪ら和平派は極めて厳しい道を歩まざるを得なくなる。

以後の話は杉森久英『人われを漢奸と呼ぶ』(文芸春秋)犬養健『揚子江は今も流れている』(中公文庫)を併読すると、非常に良いでしょう。

長々と書き過ぎて申し訳ありませんが、自分なりのポイントをできるだけメモしておこうとするとこうなりました。

本書は非常に良い。文章が読みやすい上に、内容は濃い。

著者の個人的体験と日本側の外交官や軍人、中国側の要人との接触が豊富に記されていてそれが臨場感のある叙述になっている。

そういう個別的な記述と共に、日中関係の大局的な観点からの解説も要を得ており、わかりやすい。

史実の流れがスラスラ頭に入ってきて、非常に便利な本。

この本は末尾の南京事件の記述で、右派的な一部の人からは目の敵のように批判されているらしいが、それだけで読まないのはもったいない。

強くお勧めします。

ただ品切れなのが、何とも残念。ネット古書店ではすぐ見つかりますが、できれば常時新刊として手に入るようにしてもらいたいもんです。

2007年7月18日

松本重治 『上海時代 中』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

1935年6月梅津・何応欽協定と同時に、国民政府は「邦交敦睦令」を発布し排日運動とそれを利用する反蒋・反汪派の取り締まりを強める。

だが同月、華北ではさらに土肥原・秦徳純協定が締結され、国民党勢力はチャハル省からも撤退を強いられる。

年末には天津軍の圧力によって冀東防共自治政府が成立。華北分離工作がさらに進行する。(ほぼ同時に冀察政務委員会が成立するが、これは国民政府が日本の圧力をかわすため作ったもので、一応は中央の統制下にある自治組織で、南京からの分離を明言し傀儡的性格の強い冀東政権とはやや異なる。)

日中間の破局を避けるには満州国のみを固守し、長城以南の中国本土への進出は厳に慎むことが必要であると、著者を含めた心ある人々は考えるが、残念ながら歴史はそのようには展開しなかった。

中国国内では排日世論が大きな高まりを見せ、長征の最中の中共は八・一宣言を発表し、この事態を最大限利用しようとする。

抗日テロや知日派中国人への暗殺も横行し、11月には汪兆銘が狙撃され重傷を負い、12月には汪の下で対日外交に従事した唐有壬外交部次長も射殺され、蒋・汪合作政権は崩壊する。

またこの1935年にはリース・ロスを介してイギリスの支援を受けた国民政府の幣制改革が行われ、蒋は経済的にも全国統一を進めることになる。

この幣制改革を日本が財政的に支援していれば、中国の対日世論を大いに改善し、中国自身は難しくとも、イギリスはこの時点で満州国を承認した可能性があり、そうなれば以後の歴史は相当変わっていただろうというのは、岡崎久彦氏や福田和也氏がその著作で何度か言及している「歴史のif」だが、著者の松本氏はあまり本書ではそういった視点に触れていないようである。

汪遭難後、蒋は自ら行政院長に就任、張群外交部長、蒋作賓内政部長、何応欽軍政部長など知日派を多く含んだ内閣を組織し、日本の強攻策と国内の排日世論の狭間を通り抜ける際どい政権運営を続ける。

明けて1936年、日本では二・二六事件が勃発、岡田内閣が倒れ、後継の広田弘毅内閣で陸・海軍大臣現役武官制が復活、軍の政治介入がますます強まり、対中政策の硬直性も一層酷くなる。

共産党を西北辺境に敗走させ、各地方の軍閥を整理・解消し、最後まで半独立の形勢を保っていた「西南派」たる広東・広西の李宗仁、白崇禧、陳済棠も屈服させ、幣制改革も成功させた蒋は自信を深めると同時にこれ以上排日世論を抑えることは困難と考える。

36年中、断続的に行われた関係改善のための日中外交会談において、中国側は冀東政権の解消などを日本側に要求することとなり、日中両国は不幸な衝突路線へと突き進んでゆく。

11月に関東軍の支援を受けた内蒙古自治運動軍が、傅作義率いる中国軍に破れるという綏遠事件が起こり、中国のナショナリズムは一層燃えさかる。

胡適など反共自由主義の立場を堅持した人は急進的な対日強硬論一辺倒を退けるが、ほとんど影響力を持たない。

共産党と左派知識人によって煽り立てられた排日・抗日世論にはますます激化し、国民政府の政策選択の余地を狭め、不幸な全面戦争への足音が一歩一歩近付いてくる。

2007年7月14日

松本重治 『上海時代 上』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

ネタが無いのと、かなり読み応えのある本だということで、上・中・下巻を分けて記事にします。

1932~38年に通信社特派員として主に上海に駐在したジャーナリストによる回顧録。

日本の運命を決した数年間の日中関係史を迫真の文章で綴る本。

著者が赴任した当時の中国は、北伐によってようやく全国統一の兆しが顕われると同時に、満州事変によって日中間の緊張が高まる不穏な情勢下にあった。

北伐完了後も蒋介石の地位は磐石とは言えず、胡漢民派、汪兆銘派、孫科(孫文の子)を長とする「太子派」、西山派(右派長老組)などの対抗勢力の反対によって、一時下野を強いられる。

1931年には孫科が行政院長に就任するが、同年満州事変が勃発すると挙国一致の世論が高まり、それを利用した蒋介石の反対派切り崩し策が功を奏し、翌年には汪兆銘を行政院長、蒋を軍事委員長とする蒋・汪合作政権が成立する。

1935年まで存続するこの政権は満州事変後国内に高まる強硬論を可能な限り抑え、蒋の「安内攘外」、汪の「一面抵抗・一面交渉」をスローガンに対日融和策を打ち出す。

33年に塘沽停戦協定を結び、満州国の存在を当面黙認することにより、日中間に小康状態を確保した後、中国共産党殲滅に全力を挙げる。

1927年蒋介石による上海クーデタの際、国民党左派の汪兆銘は一時武漢で容共的な国民政府を組織したことがあったが、その直後共産党の独裁への野心を知り、即座に分離した後は極めて強い反共的信念を持つようになっていた。

蒋・汪政権の「剿匪」作戦は大きな成果を上げ、34年には瑞金のソヴィエト政権を壊滅させ、中共は後世「長征」と呼ばれることとなる大敗走に移る。

国民政府による排日運動取り締まりと対日接近外交によって、1935年初頭には日中間の緊張も大いに緩和され、両国の外交関係者の間には「日中合作」の期待が高まった。

当時の日本は32年五・一五事件で犬養内閣が倒壊した後、海軍穏健派出身の斉藤実内閣(32~34年)、岡田啓介内閣(34~36年)が二代続き、極端な対中強攻策を避け、有吉明大使の融和親善外交が展開された。

しかしここで親日派中国人を狙った抗日テロと、関東軍・天津駐留軍による「北支工作」(「華北自治工作」)が始まってしまう。

これによって運命の歯車が狂い始め、共産党以外の全ての当事者にとって破滅的な結果を齎すことになる。

35年6月梅津・何応欽協定によって日本側は河北省から国民党勢力を撤退させる。

以後、日本軍が華北を中央から切り離し、事実上の勢力化に置こうとする策動が続き、それに対して中国の抗日世論が沸き立ち、しばしば抗日テロが起こされ、それが日本の武力行使を招くという敵意と憎悪の悪循環が繰り返され、日中両国が奈落の底に落ちていくこととなってしまう。

そのような不吉な赴きを示唆しながら、本書の上巻は幕を閉じる。

2007年7月13日

阿川弘之 他 『二十世紀日本の戦争』 (文春新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

タイトル通り、日露戦争から湾岸戦争に関して縦横に語る座談会。

出席メンバーは阿川弘之、猪瀬直樹、中西輝政、秦郁彦、福田和也。

ごく読みやすい体裁ながらも、ポイントを突いた議論で近代日本史に関する頭の整理に最適。

様々な「歴史のIF」の検討が面白い。

初心者でも十分読み取れる程度の記述。

同じ文春新書の『昭和史の論点』(秦、坂本多加雄、半藤一利、保阪正康)も似たタイプの本でおすすめ。

2007年7月10日

関連文献:林健太郎

Filed under: おしらせ・雑記, 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:00

この人も非常に好きな著者である。

平易、簡潔、明快で、これ以上無いほど流暢な文体が素晴らしい。

内容も穏健で、常に熱狂や狂信を避けようと意識したもので、深く信頼できる。

『個性の尊重』(新潮社)

1958年刊と大昔の本ですが、これに収められている「映画と文学による歴史の勉強」という文章はなかなか興味深いので、一度図書館で借りてみてください。

『共産国東と西』(新潮社)

1967年の本。文革真っ最中の中国紀行も面白いが、特に良いのが現地の歴史学者との対話を記したソ連・東欧紀行。

スターリン批判後、一定限度の自由が認められたソ連圏でナショナリズムの主張を通じて脱マルクス主義を徐々に図っていこうとする歴史家たちの実情が面白い。

『歴史からの警告』(中央公論社)

一気に時代が下がって1995年刊。「正論」誌上で展開された「大東亜戦争肯定論者」との論争が主な内容。いい悪いは別にして、確かにこの頃から「正論」「諸君」の誌面は先の大戦の全面肯定論一色になっていった感がある。

2007年7月7日

関連文献:岡崎久彦

Filed under: おしらせ・雑記, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

1996年高坂氏が亡くなった後、しばらくの間国際政治関連で個人的に一番その意見を参考にしていたのがこの人だった。

2000年ごろまでは雑誌等に掲載された文章にはほぼ目を通していたと思う。(その頃から「親米保守」の代表格として岡崎氏が「反米保守」から批判されるようになったが、私が岡崎氏の論説を熱心にフォローしなくなったのは、それとは直接関係無いです。)

そういう保守論壇内部の対立の話は脇に置いても、岡崎氏の文章が一番面白かったのはやはり80年代から90年代前半だったように思える。

以下手元にある本を主に挙げてみます。

『国家と情報』(文春文庫)

1984年刊。国際情勢概観とソ連・韓国・北朝鮮・中国の各国事情を述べた本。特に韓国・北朝鮮の章は希少価値があって面白い。時事的話題に耽溺することもなく、歴史的アプローチを取っているので、今読んでも参考になるところが多い。

『情報・戦略論ノート』(PHP文庫)

単行本としては1984年刊。講演やエッセイ、短文集など。特に後半収められた短文エッセイ集が面白く、意外な知識を仕入れることができて有益。飛ばし読みでもいいので一度借りてみてください。

『情報・戦略論ノート Part2』(PHP研究所)

1990年刊。直接的な歴史関係の章が多く面白い。日本近代史の読み方の他、「『ローマ帝国衰亡史』で読む中東」なんて一風変わった文章もあって興味深い。巻末の対談では、「反米保守」の代表格西部邁氏とにこやかに対談するなんていう、今では絶対考えられない章があります。また最後の著名な中国研究者中嶋嶺雄氏との対談では、中嶋氏が対ソ関係改善とアメリカからの一定の自立の可能性について示唆しているのに対し、岡崎氏がやんわりかわしているところが今読むと面白い。ただ、これもひとまず借りるだけでいいと思います。

『新しいアジアへの大戦略』(読売新聞社)

1993年刊。何と言っても冒頭の「わが外交官卒業論文」と(今は無き「This is読売」で)題された、タイに関する長大な論文がすごい。中身が非常に濃い。初心者でも読めるレベルの地域研究としてはとても良い。

『国際情勢の見方』(新潮社)

94年刊。ソ連崩壊、湾岸戦争、カンボジア和平などを題材にして雑誌「フォーサイト」に掲載された論説が中心。手堅い内容でこの辺の国際情勢をよく理解させてくれる。

『国際情勢判断』(PHP研究所)

96年刊。真ん中あたりにある章で、当時のクリントン政権の日米包括協議での対日圧力に対して珍しくアメリカ側に反論しているのが面白い。またその少し後でキッシンジャーを代表とする米外交の「中国重視・日本軽視」派への批判も興味深い。

『日本の失敗と成功』(扶桑社)

2000年刊。佐藤誠三郎氏との共著。対談形式で近代日本の歩みを振り返った本。文庫版も出ている。ごく平易な表現で明快な評価を下しているので、初心者でも面白く読める。

あと「近代日本」カテゴリに入れてます、PHP文庫の近代日本外交史シリーズはやはり読むべきだと思われます。あれは反米保守ないし左派的な考えを持つ人でも参考になるところが多いと思いますので。

2007年7月5日

関連文献:高坂正堯

Filed under: おしらせ・雑記, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

これまでも多くの著作を紹介してますが、記事にしなかったものをここでまとめて書いてみます。

私はこの人の著作にはほぼ全て目を通しているので、「お勧めの本は何だ?」と言われれば、「全部」と答えたいところだが、それじゃしょうがないので以下特にお勧めしたいものを挙げます。

『長い始まりの時代 外交感覚3』(中央公論社)

前2巻に続く短文の外交評論集。読みやすい上に歴史的知識に裏付けられた叡智に満ちた本。ごく気楽に読めて、なおかつ密度が濃い。非常においしい本。

『平和と危機の構造』(NHKライブラリー)

1991年ごろに放送されたテレビ教養講座の書籍化。と言っても内容はかなり変更されているようである。冷戦後の世界情勢を概観するための切り口を提供してくれる良書。現代史を理解するための大きな武器となる。元の番組を録画したビデオを持っていたはずなのだが、今は手元に無い。惜しいことをしました・・・・・。

『高坂正堯外交評論集』(中央公論社)

亡くなられた直後に出た本。単行本未収録の論文もあって貴重。抽象的理論ではなく具体的な歴史を踏まえ、感情や教条に動かされることを避け、深慮と諦観を持ちながら冷静に世界を眺めた碩学の軌跡を辿ることができる。

高坂節三『昭和の宿命を見つめた眼 父・高坂正顕と兄・高坂正堯』(PHP研究所)

弟さんが2000年に書いた本。非常に興味深い。ただ亡くなる直前の話を読むと何とも言えない寂しさと悲しさを感じます。しかし「乱れた死に方だけはしたくない」と立派に病床の日々を乗り越えられたそうで、改めて感銘を受けます。

『アメリカはどこへ行く』(カセット・新潮社)

1988年の講演を収録したカセットテープ。肉声で高坂氏の講義を受けているようで、非常に贅沢な気分に浸れます。内容は当時のアメリカ衰退論を踏まえた評論。話し方は本当にうまいです。難解な表現は何一つ無いのですが、それでいて聞き終わるとずしりと心に残るものがあります。

『歴史としての二十世紀 1・2・3集』(カセット・新潮社)

これは亡くなられた直後、1996年に出た講演集。世界大戦・大恐慌・共産主義・高度経済成長・大衆民主主義と資本主義・文明の衝突などについて縦横に語る。ユーモアを交え軽妙に語りながら、深い見識を披露して、確実に重要な知識や見方は聴衆に与えてくれます。手に入りにくいとは思いますが、もし近くの図書館であれば是非借りてみてください。できれば上の『アメリカは~』とあわせてCD化して再版してもらえないでしょうか。

以上個人的に特に面白かったものを挙げてみましたが、その他にも興味深い著作がありますので、お手に取ってみては如何でしょうか。この人は歴史を学ぶことの重要性を常に説いていた方であり、その著作にも歴史的視点からの識見が多く記されているので、世界史の参考文献として大いに役立つと思われます。

2007年7月4日

平川祐弘 『西欧の衝撃と日本』 (講談社学術文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

比較文化史の本で、本来私の守備範囲外でわからない本のはずだが、この人の文章は読んでいて気持ちがいい。

人にも依るでしょうが、個人的には非常に趣味に合う文体で好きです。

近代日本と西欧の接触に関する様々なテーマを豊富な事例を挙げながら叙述している。

飛ばし読みするだけでも結構面白いので、一度図書館で借りてみてください。

2007年7月3日

ジョージ・ケナン 『危険な雲』 (朝日イブニングニュース社)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

1979年刊。アメリカ外交の長老ケナンによる80年代への国際情勢展望。

第二次大戦直後、米ソ協調の理想主義的な甘い夢に耽る指導層や世論に対して強い警告を発し、「封じ込め」政策の立案者と言われたケナンだが、スターリン死後のソ連の変化を受けてからは、ハト派の代表格としていたずらな対ソ強攻策や軍拡、過剰介入への批判者となっていった。

本書はそういった観点からのものであり、冷戦の最終対決期としての70年代末から80年代前半を考えると、少々のズレを感じるような面もある。

ただ、どんな著作においても、ケナンの持つ叡智が滲み出ており、本書も大いなる含蓄に富んでいる。

それと本書を読んでいると、「この人は何でこうまで日本に理解を示してくれるのかな」と思うことが少なくない。

「親日」とか「反日」とかのレッテル貼りがしばしば不毛な結果に終わるのはよく承知しているが、この本に限って言えば極めて好意的な記述に感銘を受ける。

是非にとは言いませんが、機会があればお読みください。

 

極東における米政策の要が日本に置かれるべきことは疑いない。(以下日本の地政学的・経済的重要性を述べて)これらはすべて重要である。しかし最重要というわけではない。最重要事は描写するのが困難な、別にある要素である。それは日本との関係で、われわれの目前にある奇妙な道義的義務、道義的機会なのだ。日本人もまた注目すべき国民である。高度に知的で極めて勤勉であり、感受性に富んで思慮深く、しばしば、くよくよしすぎるほどであり、意思疎通では、中国人が器用であるのを逆にしたように不器用である。

だが中国人ほど自己中心的でなく、中国人より自らの周囲の世界(米国を含め)に興味を持っており、(少なくともその最良の人々は)大変な、悲劇的で時としては高貴なまでのひたむきな良心と義務感を備えている。中国人と同様、日本人はわれわれとは非常に異なった国民であり、もし太平洋戦争がなかったとするならば、私もちょうど中国人について述べたように、不自然な親密さを押し付けないようにしようなどと言っていたかもしれない。だが日米間にまさに戦争が生じたし、その結果米国は戦後、まったく密接に日本人と接触する破目になったのである。そこから一種の親密さが生じた。これは争いと多くの苦悩、とくに日本側の苦悩から生まれた親密さ、だがそれが親密さであることには変わりない。日米両国民とも、この不幸な歳月に互いに善悪を問わず、多くを学んだ。親密さとは本来こうしたものなのだ。

私はここで感傷的なことを述べているわけではない。愛や賛美を語っているのでもない。そういうものは、戦時中の宣伝担当者やロマンチックな民族主義者の感情の発露にしばしば引き合いにされるが、諸国家の現実の生き方には存在しないのである。私が述べているのは、より根深いもの、つまり運命が(あるいは先代の過ちがと言ってもいいだろう)両国民の行く手を示したということであり、それは互いに争いつつものごとをやっても無益というよりもっと悪く、そしてともに協力する以外選択のないことを、日米両国が共に認識した事実である。

責任はわれわれ米国人の側に一層強くかかっている。なぜならば日本人を打ち破り、無条件降伏という方式で彼らのことがらに対する全面的な権力(かくして全面的な責任)を求め、この現代において従来よりもより幸せに、より安全に、より有益に生きる方法を教えようとやや高飛車にまで引き受けたのは、ほかならぬわれわれ米国人であったからだ。人はこれにまさる責任を負うことはあるまい。

しかし日本人もまた、責任がないわけではない。日本人はいま、その後の出来事によって、なにがしか傷ついた同盟国、米国と付き合わなければならない。多くの米国人は経験によって、尊大な抱負や誇張された自己讃美の危険を学んだ。その結果、われわれはよそ目には前ほど堂々としていないし、自分たちがいつも、ものごとの解決策を持ち合わせているとの確信を弱めるにいたった。そこでわれわれもまた、助力と導きを必要とし、友人たちから注意深い扱いを必要とするのだ。日本人は苦痛に満ちた方法で米国人について学んだ。その結果、彼らは、おそらく米国の他の友好国の大多数にも増して、米国をよく知るにいたった。日本がわれわれに及ぼす潜在的影響力を過小評価してはならず、これも日本側の責任と言えよう。

これらのことが示しているのは、日米関係がまさに苦痛と争いの中から誕生したものであるが、それゆえに、米国にとって日米関係とは双方が国際問題でそれぞれ思慮深くかつ役立つように振舞う能力を持っているか否かを試す独特な尺度となっていることだ。

もしこれに成功しないようなら、われわれがどこへ行っても事態は思わしく進まないだろう。日本が戦後そうであり続けたように、今後も極東における米国の地歩の要石であり続けなければならないのは、こうした理由によるものだ。要といっても、受動的ではなく能動的に発言する要石であり、しばしば優れた英知を秘めた相談相手となり、われわれが時には導きを、時には指導性さえを求めて対すべき要石であり続けなければならないのだ。

2007年7月2日

おしらせ

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

これまで415タイトルを記事にしてきましたが、昨日でほぼネタ切れと相成りました。

読んでない本やごく最近読了した本でかなり水増ししてきたのですが、それでも間に合わなくなってきました。

すみません、これが私の限界です。

結局一年ちょっと続いただけでしたね。

「史論・評論」カテゴリに入れるような本ならまだ2、30冊ありますし、自分としては普通の通史的書物だけでなく、そういった本からも多くを学んだ気がしますが、あまりブログタイトルと離れた本ばかり載せるのもアレだと思いますので、これまでご紹介した「どうしても」というものだけにしておきます。(後日ある程度まとめて記事にするかもしれませんが。)

これからも細々と続けていきたいと考えていますが、以後更新頻度はガタ落ちになると思います。

ブックガイドとして大して役に立たなかったり、妙なこと書いてたりしますが、気が向いたらまた覗いてやってください。

2007年7月1日

伊東冬美 『フランス大革命に抗して』 (中公新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

副題は「シャトーブリアンとロマン主義」。

著名な文学者の目を通して見たフランス革命史。

1768年生まれのシャトーブリアンは同世代の多くの青年貴族と同様に、啓蒙思想の洗礼を受け、アメリカ独立革命に胸躍らせ、大革命直前には共和主義的思想を持つことになる。

ゆえに運命の1789年、バスティーユ襲撃の時点ではそれを歓迎し、そこにフランスと人類の夜明けを見た。

しかしおぞましい虐殺行為が何ら罰せられることなく横行し、暴力の連鎖が止めどなく続く現状に嫌悪を抑えきれなくなる。

89年10月の「ヴェルサイユ行進」の際、虐殺した近衛兵の首を槍先に掲げ笑いながら帰還する男女の群れを見たとき、彼の革命支持の立場は完全に崩れ去る。

「あの二つの首と、その直後に見た幾つかの首は、私の政治的立場を変えた。食人種のごとき残忍な人間たちの饗宴に、私は恐怖を抱いた。フランスを離れて、どこか遠方の国へ行こうという考えが浮かんだ。」

逃げるようにアメリカに向かったものの、そこでもかつて理想化していた新生共和国の実態に触れ、深い失望と幻滅を覚える。

君主制や教会など国家統合の原理を持たず、西欧の君主国以上の経済的社会的不平等が放置され、国内すべてに行き渡る伝統的慣習も無く、成文法と契約のみを金科玉条とする弱肉強食の野蛮な社会、これが彼の見たアメリカであった。

「冷酷非情なエゴイズムが都市を支配している。銀貨、ドル、銀行券、紙幣が財産を殖やしたか、減らしたか、これが話題のすべてだ。・・・・・新聞には多様性が認められはするものの、載っているのは、粗野な事件や無駄話ばかりである。」

91年現地でヴァレンヌ逃亡事件の報を聞いたシャトーブリアンは、翻然と悟る。

政治的・精神的無秩序の中で野放しになった民衆の凶暴な破壊衝動を目の当たりにし、かつてあれほど忌まわしく思っていた君主制と身分制秩序が文明社会にとっていかに貴重な抑制要因になっていたかに目覚め、以後揺るぎの無い確信を持った絶対王政主義者へと回心を遂げる。

ヨーロッパへ帰還し、独仏国境で亡命貴族の義勇軍に加わり、勇敢に戦うものの、プロイセン・オーストリア・ロシアの同盟諸国の足並みの乱れもあり、利あらず瀕死の状態で辛くもイギリスに逃れる。

ジャコバン独裁時代には兄が処刑される悲運を舐め、母や姉も投獄される。

その後ロベスピエール没落を経て、ナポレオン時代になり、ようやく帰国を果たす。

シャトーブリアンは、フランスの無秩序を克服するため当初ナポレオンを好意的に見ていた。

だが彼が王族のアンギャン公を暗殺するという暴挙を犯すと、激しい嫌悪を感じ、フランスに戦乱を強いる誤った統治者と見做すようになる。

1814年には『ブオナパルトとブルボン王家』を著し、世論にブルボン王家の復辟を訴える。

宿願のブルボン復古王政成立後は王政支持者の中道派として政界に活躍し、外相・イギリス駐在大使、ローマ駐在大使などを歴任する。

外相時代の1823年には列強の承認を得て、内乱状態のスペインに単独出兵し当地のブルボン朝政府を再建する。

だが1830年七月革命に遭い、シャルル10世が亡命するとブルボン家への忠誠を守って公職から引退する。

そして1848年病床で二月革命と共和政成立の報を聞き、失意の内にその生涯を閉じる。

以上、ごく簡略な紹介ですが、新書版とは思えない品位と叡智に満ちた本。

こういう素晴らしい本を出すのはさすが中央公論と思うが、ずっと品切れのままなのは頂けない。

重版再開するか、文庫化してください。お願いします。

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