万年初心者のための世界史ブックガイド

2006年11月1日

高坂正堯 『大国日本の世渡り学』 (PHP文庫)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:02

タイトルはえらい砕けた感じだが、中の議論は結構ハード。

歴史の教訓の真の汲み取り方について触れた後、日米経済摩擦・近隣諸国との外交について歴史的な見地から考察を行っている。

こういうビジネスマン向けの時事解説のような本でもさまざまな知識と知見を与えてくれるのだからさすがだなあと思う。

私がイギリスを訪れてもっともすばらしいと思い、羨ましくさえあるのは、優れた歴史書が実に豊富だということである。それは読んでいて面白く、かつさまざまな教訓を与えてくれる。日本の歴史書が概して無味乾燥であるか、教条主義であるのと対照的である。

・・・・その歴史だが、私はこれまで歴史の勉強にずいぶん時間を割いてきたし、そのために読んだ書物の大半はイギリス人によるものだった。それらは実にさまざまなことを教えてくれた。・・・・

・・・・これまでのいきさつが判らなければ現在が判らないというのは、歴史を学ぶ意義の最小限のものでしかない。それであれば、ギリシャ・ローマとか、古代の中国といった現在とかかわりのない、あるいは自分たちとかかわりのない歴史を学ぶ必要はなくなるのだが、そうした歴史の方がむしろ歴史を学ぶことの主流なのである。

その意義について、再び判りやすいことから始めるなら、歴史は人々を勇気づけ、反省させ、あるいはヒントを与える。たとえば、ドゴールはその晩年、「ひとつの時代の終わりを意識しながら生きるのは奇妙なことだ。こんなことはローマの末期以来なかった」と述べた。それは彼が終わりつつある文明を支えているのだという自負心をもち、それ故に毅然とし勇気をもって行動したことを示している。

もっとも歴史は危険なものでもある。そのことは歴史の法則にのっとっていると自称する人々や国々の歴史をみれば判る。・・・・その理由は、歴史は人間が語るものであることにある。実際、物語でない歴史は読むに堪えず、歴史でさえない。ところがその際、事実を抽象するという作業がなくてはならない。そうでなくては、さまざなま人間の相互作用が生み出す複雑な事態の展開を一冊の本にまとめられるわけがない。

しかし、人間はまったく同じ思い出話をやらないものである。「おじいさんの釣った魚は、おじいさんが話すたびに少しずつ成長する」という言葉が示すように、人間は同じ話をくり返すうちに、面白いように、あるいは自分に都合のよいように、いつの間にか話を変えていく性向をもっている。歴史という話についても同じことがいえる。しかしそうなってしまっては自分を相対化するどころか、その偏見を歴史によって強化することになってしまう。

その危険から自らを守るためには「事実」すなわち歴史上の細かい点について注意を払い、正確に記憶することが肝要である。実際イギリス人の書いた歴史はディテイル(細部)に注意が払われすぎている感さえある。たとえば、中世の武器の細かい点を長々と語られると、そうした気持ちになる。

しかし、それが大切なのである。細部を正確にしておくことは、話しているうちに物語を作り変えるのを防止するもっとも確かな方法だからである。たとえば、物価の変動の数字を知らなければ、話をくり返しているうちに、少々のインフレが大インフレになってしまうかも知れないが、数字を知っていればそれほど作り変えるわけにはいかない。また歴史は推理小説に似たところがあって、小さくみえる事実が全体を解明するカギとなることが少なくない。したがって、事実を正確に認識し、記録し、記憶しておくことは、まず現場をそのままの形で保存して、それを検証し、探偵が現実をそのままの形でよくみようとするのと同様重要なのである。推理小説はイギリスで生まれ、イギリス人の大いに好むところである。そしてイギリスの歴史家は、自分たちのやっていることを推理小説の探偵の仕事と同じだと誇らしげにいう。それが歴史家の原型であって託宣を下す神官や、正統書を渡す家元のようになっては、歴史はかえって人を誤らせるのである。

私のもう一人の先生である猪木正道先生はそのことを教えて下さった。先生は二言目には「事実」という言葉を口にされたが、事実、年号や統計やある官職についていた人名の記憶力は抜群であり、今なおそれは変わらない。私などはその点でときどき間違ったが、そのつど訂正された。それらは、一見ささいなことで全体の筋書きに関係がないようであっても、よく考えてみるとそこでの誤りが全体的判断の歪みに通ずることがしばしばあった。

日本では高校までの歴史教育において、物語ではなく、年号やら人名やら地名やらをやたら暗記させられるので、それへの反発から、そうしたものが軽視されがちで、歴史観といったものがとりわけて重視されるが、実は細かい事実に誠実でなければ歴史は危険な学問になってしまうのである。

この書物は、私が勉強し、研究したことをそのまま素直に書いたという性格のものである。一方では、現在の国際関係を研究し、なにがおこっているかを知り、そして将来について考えてみるのが、私の仕事である。それは仕事、もしくは勉強という言葉が妥当するように、骨が折れ、そう楽しくはないものである。現在おこっていることを知るのは案外難しい。いろいろなことが出たら目のようにおこっているようなところがあり、重要なできごとと思ったものが詰まらぬものとなったり、その逆のことがおこったりする。それに、われわれの生活に関係のあることだから、腹を立てたり、喜んだりするのを抑えるのも難しい。

しかし私の研究時間のほぼ半分は歴史の書物を読むことに費やされる。それは趣味といってよいほどの楽しさを含んでいる。直接かかわりがないから気楽だし、結果が判っているから物語も頭に入りやすい。それでいて、ときどき思いがけない発見があって、知的に興奮しもする。私はこの二つの作業を組み合わせて今日まで仕事をしてきた。

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