万年初心者のための世界史ブックガイド

2006年8月3日

ヨハン・ホイジンガ 『朝の影のなかに』 (中公文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 18:14

ホイジンガの主著としては有名な『中世の秋』があるが、これは素人には到底読めない。

読んでもその良さを感じ取れる初心者は非常に少ないと思う。

それより本書にじっくり取り組んだ方がよい。

1930年代、左右の全体主義が荒れ狂う絶望的な状況の中で、歴史的に形成されてきた価値と自由を何とか次の世代に引き渡そうと希望したホイジンガの信念は深い信仰の域に達している。

哲学などほとんど読まない自分でも極めて深い印象を受け、何箇所も傍線を引き、2、3度読み返した。

特に最後の2章は感動的。絶望的状況の中でも希望の一片を保持して自らの義務を果たし続ける人間の高貴さを強く感じる。

人間の相互依存という原理が存分にその力を発揮し、そのいわば統率のもとに、さまざまなかたちの義務感が配列される。文化がそのような状況を示す度合に応じて、それだけいっそう純粋に、いっそうみのりゆたかに、およそ真の文化にしてこれを欠くことのゆるされぬあの奉仕の観念がかたちづくられる。神礼拝から、たんになんらかの社会的関係によってたまたま自分より上位におかれたものに対する奉仕まで。この奉仕の観念を民衆の精神から根こそぎとりはらうこと、これが十八世紀の皮相な合理主義の破壊的活動の最たるものであったのだ。

以前の時代には、一般に認められた理想というものがたしかにあった。たとえば、その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑念のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、結局それに代わったものといえば、互いに抗争する一群の欲望に過ぎないのだから。今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶ言葉は、豊かな暮らし、権力、安全(平和と秩序ということもこれに含まれる)といった語彙のうちに見いだされる。すなわち、自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりは互いに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。

今日、しきりに国民文化、階級の文化が語られる。ということは、文化という概念が、福祉、権力、安全といった理想に従属させられているということだ。従属させることによって、人びとは、事実上、文化の概念を動物の水準にまで引き下げるのである。この概念は無意味になってしまう。一見矛盾する、だが、以上述べてきたところにもとづけばどうしても避けられぬ結論、文化という概念は、文化の志向性を規定するある理想がその文化をになう共同体のさまざまな利害関心の外側に、またそれを越えてつらぬかれるとき、はじめてその場を与えられるという結論が忘れられてしまうのである。文化は形而上に志向づけられなければならない。さもなければ文化は存立しないであろう。

国民教育が広くゆきわたり、日々の出来事が広くじかに広報され、分業のシステムが貫徹されている社会にあっては、一般の人が自分で思考し、自分で表現する機会はますます少なくなる。このことは、なにか逆説ときこえるかもしれない。普通、人はこう考えている、知力の程度が低く、知識の普及が遅れている文化環境にあっては、個々人の思考は、なにしろ彼ら自身の生活する狭いサークルに限定され、支配されているのであってみれば、より高度に発展した文化環境におけるよりも、束縛される度合が強い、と。だから普通このようなプリミティブな思考は、典型的、画一的といった具合に性格づけられるのだ。ところが、他方、こういう事実がある。すなわち、ひたすら自分自身の生活環境をのみ対象としてねらう、このようなプリミティブな思考は、手段が制限され、視野が狭く限定されているにもかかわらず、いやむしろそれゆえにこそというべきであろうが、より組織化の進む時代にあってしだいに失われてゆく自立性をある程度まで保持しているのである。かつての時代の農夫、漁夫あるいは職人といった人々は、完全におのれ自身の知識の枠内で図式を作り、それでもって人生を、世界を測っていたのである。自分たちの知力では、この限界を越える事柄については、一切判断を下す資格が無い、そう彼らは心得ていた。いつの時代にも存在するほら吹きも含めて、そうだったのである。判断不能と知ったとき、彼らは権威を受け入れた。だから、まさしく限定において、彼らは賢くありえたのである。表現手段の制約、このことこそが、彼らをして聖書やことわざに頼らせ、彼ら自身の言葉にしばしば様式を与え、彼らをして雄弁家たらしめたのである。

知識伝達の近代的組織化は、まことに残念ながら、このような精神活動の限定のもたらす有益な効果の喪失を結果した。・・・・・・たとえその人が知識への一途な希求に動かされている場合でも、いわば既成の文化一式の強引な働きかけにあって、そのいうがままに考え、判断してしまうという危険から身をかわすことは困難であろう。多種にわたる皮相な知識、批判の武器を備えていない視線にとってはあまりにも広すぎる精神の地平、ここに判断の能力は不可避的に弱まってゆかざるをえないのである。

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