万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年11月15日

ブライアン・ウォード=パーキンズ 『ローマ帝国の崩壊  文明が終わるということ』 (白水社)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 04:40

ローマ帝国崩壊時における「蛮族」の暴力と破壊、その後の没落と衰退を強調する伝統的史観に反して、「古代末期」という時代区分を提示し、ゲルマン民族の穏やかな同化とローマ人の静かな適応、および文化的・精神的での新たな肯定的側面を主張する研究が多く現れてきた。

(これにはドイツ敗北後のヨーロッパ統合や多文化主義の台頭など、現代の状況が歴史研究者に影響を与えたことが見て取れる。)

それに対して、本書はそれらの研究による成果を認めつつ、ポスト・ローマ期における破壊的状況と生活水準の大幅な低下、ローマ・ゲルマン民族間の軋轢、人口激減は間違いなく事実であり、それを過小評価するのは誤りだ、と主張している。

それを、陶器の量と質、建築物の大きさ、貨幣量、家畜の骨格の大きさ、雑多な文字史料から推定される識字率などから手堅く論証している。

なお、ローマ帝国崩壊の要因そのものについても論じられており、著者によると、帝国経済全体の衰退は認められず、税制システムと財政の破綻が軍事力崩壊に直結したことが西ローマ滅亡の原因であり、西ローマと東ローマの命運を分けたのは地理的要因が大きいとしている。

私の意見では、ローマの成功あるいは失敗の鍵となる内政にかんする要素は、納税者の経済的安定であった。帝国はその防衛を職業的な軍に依存しており、軍のほうは充分な資金に依存していたからである。四世紀のローマ軍はおそらく六〇万人もの兵士たちを含んでおり、その全員に給料が支払われ、装備が与えられ、食糧が供給されねばならなかった。武装した軍の数と、それらに惜しみなく施せる軍事訓練と装備の水準は、ひとえに調達可能な現金の額によって決まった。現代国家と同様に、数千万人もの非武装の帝国民による税金という面での寄与が、常勤の兵士からなる精鋭の防衛軍の資金をまかなった。結果として、これまた現代国家と同じく、軍の強さは、その基礎をなす税基盤の健全さと密接に関連していた。さらに言えば、ローマ時代には、この関係は今日よりはるかに密接だった。軍事的支出は帝国予算のなかで飛び抜けて大きな項目であったし、「防衛」を守るために必要とあれば支出を削減可能な、「厚生」あるいは「文部」といった大きな部門は他に存在しなかった。緊急時に相当額のまとまった金銭を帝国が借り入れることが可能な貸し付けのメカニズムも、古代においては存在しなかった。軍事力は、課税可能な富への直接的なアクセスに依存していたのである。

ごく最近まで、帝国の経済全体は、人口の減少と放棄される土地の増加のために、三・四世紀のあいだ、深刻な衰退傾向にあったと信じられていた。これら二つの要因は、侵入の時代のはるか以前から、明らかにローマの税基盤を、それゆえに軍事力をも弱めてきたのであろう、というわけである。しかしながら、第二次世界大戦後の数十年間の考古学の成果は、この解釈に深刻な疑念を投げかけるようになっている。地中海東方の大部分、そして西方のいくつかの地方では、発掘と調査を通じて、田園地帯と都市の繁栄が豊富かつ幅広く確認され、後期帝国のもとでの経済的繁栄を示す決定的な証拠が発見された。

実のところ、私たちが注目する必要のある西方では、地中海東方と比べて状況はより多様で複雑である。イタリア中央部の大部分やガリアの一部を含むいくつかの属州は、三・四世紀のあいだ、帝政前期の非常に良好だった生活状態と比べて衰退傾向にあったようである。しかし、北アフリカの大部分を含むその他の属州は、侵入の直前まで明らかに非常に繁栄してていた。これは結論としてはやや弱く思われるかもしれないけれども、全体のバランスを取ると、帝国西方の経済全体、したがってその軍事的な強さは、五世紀初頭の諸問題によって打撃を受けるよりも以前から衰退していたかどうかという重要な問題について、陪審はまだ協議を続けるべきだと私は思っている。ただし、陪審の意見が割れていることは、いかなる衰退も圧倒的なものではなかったことを示唆する。そして、多くの歴史研究者と同じように私は、帝国は四世紀の末にあっても依然としてきわめて強力であったと信じている。不幸にも、一連の惨事がじきに状況を変えてしまうことになるのであるが。

四世紀西方の比較的平穏な状況は、蛮族の侵入の結果、五世紀最初の十年間でたちまち消滅した。イタリアは四〇一~二年(アラリックとゴート族)、四〇五~六年(ラダガイスス)、そして再び四〇八年から四一二年まで(アラリック、二度目)、多数の敵軍に苦しめられた。ガリアは四〇七~九年にヴァンダル族、アラン族、スエウィ族によって荒らされた。イベリア半島は四〇九年から、同じ諸民族による災難にみまわれた。帝国西方で四一〇年まで侵略によって深刻な影響を受けなかったのは、アフリカと地中海の島々だけであった(それらがヴァンダル族の手にかかる番がまわってくるのは、もう少し後のことである)。その結果、帝国西方の税基盤は、さらなる資金が急ぎ必要となったまさにそのときに激減したことになる。四一三年に帝国政府がイタリア中央部および南部の諸属州に付与せざるをえなかった五分の四の減税は、失ったものの規模についての明瞭な指標となっている。

・・・・・・

正確にはいつ西方の軍事力が衰退したのか、歴史研究者のあいだで論争になっている。私自身は、五世紀最初の十年間の混乱が、帝国の税収入における、したがって軍事費と軍事力における、突然で劇的な下落を引き起こしたと考えている。失われた領域のなかには、四二〇年代に一時的に取り戻したところもあった。しかし、多く(ブリテン島全体とガリアおよびスペインの大部分)は、二度と戻らなかった。再征服された属州でさえ、健全な財政をすっかり回復するには長い年月を要したのである。すでにみたように、四一三年にイタリアの諸属州に与えられた税の減額は、四一八年に更新されねばならなかった。この間、イタリアはいかなる侵入も受けずにいたにもかかわらず、である。さらに、帝国の回復はごく一時的なものに過ぎなかった。四二九年、ヴァンダル族がアフリカへの渡航に成功したこと、帝国西方の最後に残った無事な税基盤が荒廃したことで、決定的に終止符が打たれた。・・・・・

高度に社会的分業が進み、職業軍人を非武装の民衆からの税収で支えてきたローマ帝国は、蛮族間の不和にも乗じて軍事的優勢を長年保ってきたが、その技術的優位は近代ヨーロッパ諸国が植民地に対して誇示した程のものではなく、近世西欧諸国の財政軍事国家のような借り入れシステムもない、単純な財政制度であったことも災いし、民族大移動の危機の時代、蛮族自身が自己の安全の為に巨大な集団に固まる傾向を見せる中、5世紀冒頭にその侵入を許すと、一挙に国勢のバランスを崩し、立ち直ることが出来ず短期間で崩壊した。

しかし、東ローマ帝国は、難攻不落の首都を持ち、小アジア・シリア・エジプトという最も豊かな属州が幸運にも蛮族の襲撃を受けることがなく、生き延びることが出来た。

ローマ帝国の東半分は、この時代のゲルマン民族とフン族の攻撃を生きのび、五世紀から六世紀初頭には繁栄を迎えた。実際、ローマ帝国の東半分が終焉を迎えたのは、それから一千年後、一四五三年にコンスタンティノープル市がトルコによって陥落した折であった。帝国西方の崩壊について説明するなら、帝国東方がよく似た外圧をどのようにして耐え抜いたかを論じなければ、充分納得のいくものとはなりえない。このとき決定的であったのは、帝国東方がもともとより強力だったからというより、まずもって幸運だったからだと私は信じている。

・・・・・・

東方にとって有利に働いた決定的な要因は、軍事力で勝っていたことやその結果として戦闘でより大きな勝利を得たことではなく、たったひとつの地理的偶然であった。場所により幅七〇〇メートル未満で、アジアをヨーロッパと隔てる狭い海(ボスフォロス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡)である。五世紀のあいだに、この自然の防衛線にかなりの人的資源が投入され、防御設備が建設されたことで、コンスタンティノープル市はローマ世界で最も偉大な要塞と化した。ボスフォロス海峡のヨーロッパ側の岸に立つコンスタンティノープル市は、バルカン半島の敵に対して、それ自体が恐るべき防御用構築物すなわち「長城」によって守られた防波堤となったのである。・・・・帝国東方の生存にとって決定的だったのは、海およびローマの海上支配であった。北方からの侵入者たちは、コンスタンティノープルを迂回して帝国の内陸部に大被害を与えることが可能だったが、それは海峡とローマ海軍が乗り越えられない障害物となっていなければの話である。四一九年、東方において「それまで蛮族には知られていなかった、船を製造する技術を彼らに漏らした人びと」を死刑に処すと脅す法律が発布されたのは、驚くにはあたらない・・・。

海峡は帝国東方の税基盤の最も大きな部分を保護していた。ゴート族とフン族はバルカン半島とギリシア、さらには遠くペロポネソス半島さえも荒らすことができたが、海が存在していたために、決して小アジアへは渡れなかった。結果、コンスタンティノープル市からナイル川にいたる東方の最も豊かな諸属州は、コーカサス山脈を越え、アルメニアを通ってシリアへと侵入してきたフン族の集団による三九五年の大胆不敵な襲撃を例外として、四世紀後半および五世紀の災厄から影響を受けなかった。帝国東方の税基盤の大部分(おそらく三分の二以上)は無事であり、実際、五世紀のあいだ、かつてない繁栄を享受していた。バルカン半島の領土と安全が失われたことは深刻な問題で、五・六世紀のあいだに東方の皇帝たちが定住し首都となったコンスタンティノープル市を常に脅かした。しかし、破滅的なものではなかった。小アジア、レヴァント地域、エジプトといった平穏な諸属州から安全に物資が供給されていた帝国東方では、北方からの侵入者たちと戦うことと、彼らを金とバルカン半島の土地で買収することの、どちらがましかを議論することさえできたのである。

もちろん、他の事情によっても戦争と荒廃が帝国東方の心臓部へともたらされた可能性はあったわけで、東方が無事に生きのびるにはあと二つの要因が必要だった。ひとつは、すでに見たように、内乱が起きないこと、もうひとつはペルシアとの国境地帯の平和である。四世紀末から五世紀いっぱい、帝国とペルシアの関係は、四二一~二年と四四一~二年の短い敵対期間を除けば平和だった。これは幾分かは幸運によるものだったが(ペルシア人はしばしばよそに深刻な問題をかかえていた)、いくらかは上手な運営のおかげでもあった。三・四世紀の状況とは正反対に、五世紀のペルシア人とローマ人はともに、戦争は必ずしも得策ではなく、違いを越えて話し合った平和的な和解が可能であるし望ましいということを認識していたようである。・・・・・

帝国東方の歴史は、もし現代のヨーロッパとアジアを隔てる一帯の海がなかったら、まったく異なるものになっていたかもしれない。実際、もしゴート族が、三七八年のハドリアノポリスにおけるめざましい勝利の余勢を駆って、小アジアとシリアの奥深くまで遠征し略奪することができていたら、東方は西方よりもはるか以前に崩壊していたかもしれない。地理と、人間による少しばかりの力添えが、東方を救ったのだった。

似たような利点は、帝国西方においても作用した。しかし、不幸にもその効果は少なく、しかもはるかに短期間だった。海とローマの海上支配のおかげで、アフリカと地中海の島々(豊かなシチリアを含む)は、初期の荒廃を免れた。四一〇年のローマ市劫略後、ゴート族はシチリアに到達しようと試みたが、イタリアのちょうど爪先まで行軍した末、退却を余儀なくされた。メッシーナ海峡を渡れなかったのである。五年後、彼らはアフリカへ渡ろうとスペインの最南端まで行軍したが、ジブラルタル海峡で再び退却を強いられた。西方のローマの海軍力は、東方の海軍がボスフォロス海峡とダーダネルス海峡を効率的に掌握していたのと同じくらい、これらの海峡を掌握することができた。しかし不運だったのは、西方の安全地帯(アフリカ、シチリア、その他の島々)が、同様に安全だった東方諸属州よりもはるかに小さかったことであり、そこからはおそらくずっと少額の収入しか生まれなかったであろう。東方の税基盤のうち三分の二以上が安全だったのに対し、西方ではおそらく三分の一を下回った。しかもさらに不幸なことに、この三分の一以下の税基盤もまた、四二九年のヴァンダル族によるジブラルタル海峡の渡航成功に引き続く数年間に失われた。四三九年までに、ヴァンダル族はカルタゴやアフリカのなかでも最も豊かな諸属州を征服すると、すぐさま海からの攻撃をするようになり、シチリアやその他の地中海西方の島々に大混乱をもたらした。

五世紀末に、帝国東方が以前よりもずっと豊かに、強力になったのに対し、帝国西方は完全に消滅したという(ほんの百年前には想像だにしなかった)驚くべき状況を説明するうえで、地理的な違いという偶然こそが中心的なものだったと信じるのは、まことに不本意である。というのは、それが人間の努力を嘲笑っているかのように見えるからである(過去を秩序づけようとする歴史研究者の努力さえも)。しかしながら、海軍力によって強化され他の前線の平和に支えられた海峡が、帝国東方の最大の防御であったという証拠は、きわめて強力である。それに対し、この利点がない帝国西方は、五世紀初頭の一連の侵入によって、荒廃、税収の喪失、共倒れとなる苦しい内紛の悪循環のなかへ投げ込まれた。そして二度と立ち直れなかった。

 

 

非常に良い。

論旨が明確で、それを初学者にも理解できる形で述べてくれている。

最新の歴史研究の成果を分かり易くかみ砕いて説明してくれているのは貴重。

訳文も平明、流暢で読み易い。

著者の主張にも全く違和感なし。

良質な歴史読物として推奨します。

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2018年11月11日

福田和也 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 (PHP研究所)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 02:07

読書論のカテゴリを充実させるために、関連文献:読書論の記事で名前を挙げた9冊の本のうち、小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書)以外の本も、単独の記事にするか。

まず、これ。

2001年初版。

小谷野氏著と並んで、自分の中で実にしっくりくる読書論だった。

 

 

ネット書店の黎明期に出た著作だが、その利便性は認めつつ、読むべき本の効率的選択のためには、リアル書店の店頭で立ち読みして「あたり」をつける必要性を指摘する。

そして、新刊書店および古書店の実店舗が集中する東京・神保町に行くことの効用を説いているが、この辺は全く同感です(出版界の現状ではそれもいつまで続くかという懸念もあるが)。

書物の内容把握と記憶のためにはメモが必要となるが、読書途中でのメモは集中力を途切れさせるので、これを避け、ひとまずページの端を折り、後で見返すことを薦めている。

本書の実践的提案で最も有益だったのはこれだな。

自室以外での読書では、ノートを取るのはもちろん、線を引くのもあまり現実的ではない。

通勤電車内でも、ページを折ることだけは出来る。

あんまり折る部分が多いと話は別だが、何の印も無い場合に比べれば、重要箇所の端が折られているだけで、後でポイントを再確認する際、効率性が全然違ってくる。

(言うまでもなく、これをやるのは自分で所有している本に限られる。傍線引きはもちろん、折り目を付けるのも図書館で借りた本では絶対やらないように。私は、借りた本をどんな小さな傷みも付けないように細心の注意を払って扱うという感じではないが、意図的に傷つけたことも一度も無い。)

で、著者はその後でテキストを抜き書きすることを薦めている。

しかも、手書きで。

原稿はキーボードで書いても、抜き書きは生理的に違う部分があるので、文章の理解と記憶のためには手書きの方が良いとしている。

「面倒だな」という気持ちを利用して、抜き書きする箇所を徹底的に厳選し、何が自分にとって最も重要なのかを確認することが必要だとする。

ここは、ちょっとなあ・・・・・。

分からないではないが、私はかなり前から読書ノートもパソコンで書いています。

このブログを書いているから、紙のノートをさらにパソコンで入力するという二度手間に耐えられなくなってきたので。

蔵書管理については、その極大化と極小化にそれぞれ利点があることを認める。

しかし当然、前者は置き場所と費用の問題で壁に突き当たるし、後者も蔵書を何気なく眺め、手に取ることから得る効用を手放すことになる。

蔵書は精神なり感受性のバックボーンであるという性格を持つので。

結局、書物を「資料的な本」と「本質的蔵書」に分け、前者を定期的に処分するという結論になる。

これにも同感。

蔵書の極大化は誰もが一度は憧れるものだとは思う。

しかし、作家や研究者でもそれが完全に満足させられることは決してない。

まして我々のような一般読者が、年々経済状況が厳しくなる中、蔵書をハイペースで増やし続けられる訳がない。

書籍代の問題はもちろん、置き場所の問題は絶対に解決不可能だ。

このブログだって、私の自宅からさしたる交通費も使わずに通える距離に、蔵書の極めて多い県立図書館がなければここまで続けることは出来なかったでしょう。

だから「読む本はすべて買う」という方針は早晩放棄せざるを得ない。

しかし、だからと言って、図書館に通えば蔵書なんて不要だと断言する、逆の極端を薦める訳ではない。

本書の「本質的蔵書」という考えは重要である。

単行本ではなく、文庫と新書中心でいいから、300~400冊程度を所蔵できる本棚を準備し(これなら狭い一室にも収納できるはず)、そこに自分にとって特に重要な書籍をいつでも手に取れる形で保管し、後は公共図書館で借りるという方法で読書生活を続けるのが最も現実的だと思われる。

ここまでが本書の前半部の内容、以後は書き手としての方法を述べる部分なので、一般読者が直接参考にする内容ではない(それなりに興味深いが)。

 

 

「ページを折る」という実践と「本質的蔵書」という考え。

この二つを主に本書から得て、有益だった。

刊行からかなり経つが、今も価値ある読書論だとは思う。

ただ、ここ数年、著者の言論活動が低調になっている気がするのは、偏見あるいは私の目に入らないだけなのだろうか。

2018年11月7日

眞鍋周三 編著 『ボリビアを知るための68章』 (明石書店)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 02:45

この国も当シリーズで済ませていいか。

南米諸国で初心者が単独の一国通史を読む必要があるのは、ブラジルはまあ別格にしても、あとはアルゼンチンと、あえて付け加えてもチリまでのような気がする。

本書では、第5章が歴史で、第3章が政治・外交なので、5章から3章に戻る読み方をして、他の章はほぼ無視することにする。

 

 

ボリビアは、ブラジル、ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイに囲まれた内陸国。

当初は太平洋岸の領土も持っていたが、後述の事情で海への出口を失った。

西部、ペルーとの国境沿いに太湖ティティカカ湖が存在。

人口は800万人ほど、首都は西部にあるラパス、南西部に銀山で有名なポトシがある。

銀、錫という鉱物資源の他に、現在では天然ガスを産出し、天然資源には恵まれている。

スペイン語の他、先住民語であるケチュア語、アイマラ語が常用語として使用されている。

 

現在のボリビア西部はインカ帝国の版図内にあった。

インカ帝国滅亡後、後のボリビア地域も征服され、ラパス市など支配拠点が建設、アルト・ペルーと呼ばれるようになる。

1545年ポトシ銀山が発見され、スペインに莫大な富をもたらす。

サン・マルティンとシモン・ボリバルによるペルー占領に続いて、ボリバルの副官スクレがアルト・ペルーに進撃、スペイン軍を撃破。

1825年アルト・ペルーは独立を宣言、「ボリバル共和国」を名乗る(後にボリビア共和国に変更)。

大統領にはスクレが就任したが、27年には国外に追放され、後任にサンタ・クルス将軍が就任(1829~39年)、保護関税と鉱業復興、政府機能拡充と法整備、教育・厚生の充実と、独立国家の基礎を築く。

サンタ・クルスはペルーに干渉して、ペルー・ボリビア連合国を樹立、自らが終身護民官として最高統治者に君臨したが、それを警戒したチリとの戦争となり、連合国は崩壊、サンタ・クルスは欧州に亡命。

太平洋沿岸の硝石・銀を産出する領土をめぐる紛争から、1879~83年「太平洋戦争」が、再びボリビア・ペルー対チリで戦われ、またもチリが勝利、ボリビアは太平洋に面する領土を割譲し、海への出口を喪失、内陸国に転落した。

敗戦により軍人カウディーリョの時代は終焉し、政党政治時代に突入。

当初は銀鉱山所有者を基盤とする保守党が長期支配。

1899年新興錫財閥に支持された自由党が政権を奪取するが、寡頭的支配は継続。

1903年分離運動が起こっていた広大なアクレ地方をブラジルに割譲。

パラグアイとのチャコ戦争(1932~35年)にも敗れ、ボリビアは天然資源が原因となった領土紛争にことごとく敗北し、独立以後領土を奪われっぱなしとなっている。

だが、この敗北の中から「国民革命運動」という組織が生まれ、1952年市街戦蜂起を経て保守体制を倒し政権獲得、これがボリビア革命と呼ばれる。

パスらが大統領となり、鉱山国有化、農地改革、インディオへの差別撤廃を実行したが、国家組織の肥大化、経営の非効率化、急激なインフレが進行、中間層が離反。

この間、アメリカは、革命政権が民族主義の枠内に収まり、共産主義に向かわないよう、圧力をかけるのではなくむしろ手厚い援助を与えていた。

64年パスが三度目の大統領に就任するが、革命運動は完全に分裂、同年軍事クーデタが勃発、革命政権は崩壊し、以後82年まで続く長い軍政時代に入る。

しかし、この軍事政権内部でも右派と左派の抗争があり、左派が実権を握った時期には石油企業国有化が実行されている。

その後、右派の経済開放政策に転じ、外資導入と外国借款による開発、天然ガス輸出振興により一時的に好況がもたらされたが、累積債務が問題化、経済情勢は暗転する。

なお、軍政時代の1967年キューバを離れてゲリラ活動を行っていたチェ・ゲバラがボリビア政府軍によって捕らわれて銃殺されている。

ゲバラに何かロマンティックな思い入れを持つ人には悪いが、ゲバラが日記で農民大衆の支持を得られず、むしろ彼らが政府への密告者となっていることを嘆いている、という記述を読むと、私はむしろほっとする感情を持つ。

米国カーター政権の「人権外交」の圧力で徐々に民政移管が進み、1982年にそれを実現。

以後、パスの「国民革命運動」、左派のシレスの「左翼革命運動」、軍政時代の元大統領で右派バンセルの「民族民主行動党」の三勢力に政治地図は収斂し、政党間協定によって政治は安定化したものの、結局経済危機克服の為、左派を含めて緊縮財政的な構造改革を進めざるを得なくなり、露骨な猟官運動が相俟って、国民の不満が高まる。

2003年大規模な抗議運動で大統領が国外に逃亡、2006年には新興左派勢力の「社会主義運動」に支持されて、初の先住民系としてモラレスが大統領に就任、既成政党はいずれも没落。

モラレス政権は、ベネズエラのチャベス政権と同じく、ラテン・アメリカにおける21世紀初頭からの急進反米左派路線の代表格と言える存在になったが、これはどうなんですかねえ。

アメリカの覇権主義に抵抗すること自体はもちろん正当でしょうし、市場主義を金科玉条にする構造改革路線の経済政策は国民を貧しくかつ不幸にするだけだというのにも完全に同意しますが、逆の極端に走ればいいというものではない。

チャベス死後のベネズエラも、報道で見る限り、何だか悲惨なことになりそうです。

対米従属的で無制限の資本主義と市場原理主義がもたらす害悪を無視する「右派」と、硬直した教条左派の二者択一以外の政治的選択肢を、この地域の人々が持つことを願います、とやや偉そうに書くところだったが、まず日本がそれを持てるようになれよ、という話ですね。

 

 

もう、これでいいや。

ボリビア史については、以上のようなことが、細かな人名を除いて、わかっていれは十分だ。

終わり、終わり。

ハーバート・クライン『ボリビアの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)』(創土社)とか、さして強い興味も無いのに読まなくていい。

2018年11月3日

トーマス・マン 『魔の山 上・下』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:13

言わずと知れたトーマス・マンの代表作。

20世紀を代表する長篇思想小説でもある。

あのですねえ・・・・・わからないです。

造船技師見習いの青年ハンス・カストルプが、肺病に罹った従兄弟のヨアヒムをスイス・ダヴォスのサナトリウム(療養施設)に見舞って、自身も病と診断され入院してからの、その長い療養生活と特異な患者たちとの議論や生活を描いた教養小説。

19世紀以来の合理主義と進歩的自由主義を奉じるセテムブリーニ、ブルジョワ社会の現状を唾棄し宗教的独裁によりその矯正を目指すイエズス会士ナフタの二人が主要な脇役。

一番簡単で表面的な解釈を言えば、保守的価値観を持つ祖父が死去した後、確たる思想的背景を持たない技術者としての道を辿りつつあったハンス・カストルプがドイツ国民の平均的精神を暗示し、その心を、セテムブリーニが象徴する理性・進歩とナフタが象徴する虚無・反動が奪い合う状況を寓意している、ということでしょう。

中盤、二人が議論する場面がある。

セテムブリーニが教会の束縛を脱した世俗的な人間中心主義と啓蒙思想の発展による進歩を礼賛し、世界共和国への展望を語れば、ナフタはそれらがもたらしたものは国家の物神化とエゴイズムの蔓延、金銭の支配、民衆の窮乏だ、宗教を否定することによってそれらを矯正する手段そのものが失われてしまった、と反論する。

これ、どちらが正しいと思いますか?

どちらが現実のドイツを破滅に導いたナチズムのような大衆運動の起源に近いと思いますか?

私には前者がそうだとしか思えない。

しかし、本書での議論はここから迷走する。

ナフタが、現在のプロレタリアートの共産主義運動はブルジョワ的進歩主義を打ち壊す意味で実は善きキリスト教的反動運動だ、と言い出すのである。

これには、うん?となった。

この作品が完成したのは戦間期で、『非政治的人間の考察』を書いた頃とは打って変わって、すでに作者のマンは民主主義者に「転向」していたはずである。

左右の大衆運動を過去の遺物が生み出した悪しき反動と片付け、進歩的デモクラシーを擁護するのは、はっきり言って欺瞞としか思えない。

そう単純に読み取ること自体がとんでもない誤読なのかもしれないが、本書で最も興味深く読んだ部分すら、何とも言えない違和感が残ったのは事実である。

その他、作品の大半を占める時間論をはじめとする思想的議論など、私の頭で理解できるはずも無い。

もう、とにかくキツかった。

2週間かけて何とか読み通したが、相当苦しい。

先程挙げた部分があるので、全く心に残るところが無かったわけでも無いが、評価は間違いなく「1」だ。

それしか付けようがない。

疲れた・・・・・。

やはり20世紀以降の小説は、私には向いていない。

いや、それどころか、文学自体向いていない。

文学カテゴリも冊数だけはそこそこになったが、著名作をとりあえず読了したという知的見栄を張る以外に、本当に感動した作品というのは寥々たるものである。

できるだけ幅広い作品に触れてきたつもりではあるが、それでも読んでいない古典はそれこそ星の数ほどある。

だが、自分の関心の中心はやはり文学ではなく歴史である。

そのことは変えようが無い。

私がやっているのは、基礎的教養の為の文学読書、という位置づけである。

文学カテゴリを眺めれば、詩と20世紀小説以外で高校教科書に載っているような作品は大体読んだような・・・・・。

(誰に対して言っているのか自分でもわからないが)この辺で勘弁してもらって、文学はひとまず打ち止めということにさせてもらえませんか。

2018年10月27日

中公新書『物語~の歴史』について

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 02:36

 

金両基 『韓国』  3 易

藤沢道郎 『イタリア』  5 易

猿谷要 『アメリカ』  1 易

武田龍夫 『北欧』  3 易

波多野裕造 『アイルランド』  2 中

寺田隆信 『中国』  3 易

小倉貞男 『ヴェトナム』  3 中

鈴木静夫 『フィリピン』  3 中

増田義郎 『ラテン・アメリカ』  3 易

阿部謹也 『ドイツ』  2 易

竹田いさみ 『オーストラリア』  3 易

田澤耕 『カタルーニャ』  3 易

森田安一 『スイス』  3 中

牟田口義郎 『中東』  3 易

宮田律 『イラン』  1 易

岩根圀和 『スペイン』  2 中

黒川祐次 『ウクライナ』  4 易

志摩園子 『バルト三国』  4 易

岩根圀和 『スペイン 人物篇』  1 易

藤沢道郎 『イタリア Ⅱ』  3 易

薩摩秀登 『チェコ』  4 易

柿崎一郎 『タイ』  4 易

大垣貴志郎 『メキシコ』  3 易

高橋正男 『イスラエル』  3 中

内田日出海 『ストラスブール』  3 易

笈川博一 『エルサレム』

村田奈々子 『近現代ギリシャ』  3 易

岩崎育夫 『シンガポール』  4 易

松尾秀哉 『ベルギー』  3 易

根本敬 『ビルマ』  3 易

君塚直隆 『イギリス 上・下』  3 易

渡辺克義 『ポーランド』  3 易

桜田美津夫 『オランダ』  5 易

石野裕子 『フィンランド』  4 易

蔀勇造 『アラビア』

 

 

最初にこのシリーズを立ち上げた中央公論の編集者は天才だとつくづく思う。

 

以上のリストは刊行順に並べています。

(リンクを設定していないものは未読。『エルサレム』は『イスラエル』と内容が相当被っていると思えるので今後も読まないかも。それ以外でこの先読了したものにはリンクを貼っていきます。ただし、私は新刊を刊行直後に読むということをほとんどしないので、比較的新しい本については、読んで記事にするのはかなり遅れると思います。)

多分見落としは無いと思うんですが・・・・・。

(『物語京都の歴史』や『物語数学の歴史』など世界史以外の書も出ているが、それらは当然無視。)

最初の金両基『物語韓国史』は、タイトルが微妙に違い、多分このシリーズには含まれないと思うが、それが絶版になって、これから『物語韓国の歴史』が出るとも思えないので、一応入れました。

したがって、実質的なシリーズ開始の書は、1991年刊行の藤沢道郎『物語イタリアの歴史』ということになる。

これがシリーズ冒頭を飾るにふさわしい傑作となっている。

その「あとがき」で著者の藤沢氏は以下のように述べている。

イタリア語では「歴史」と「物語」とは同じ言葉である。人間は物語るという行為によって自分の属する集団の過去の時間を秩序づけてきたのである。集団が解体し成員がばらばらの個人に分解していく近代という時代に、物語としての歴史が衰亡したのは、決して偶然ではない。過去の事実の考証は精密になり、史料の発掘も大規模になったが、その事実の連鎖としてのストーリーは、きわめて凡庸な水準に落ち込んでしまった。物語に代わってイデオロギーが主役をつとめ、それがその当然の限界を露呈すると、「歴史の終焉」だといわれるような時代である。歴史学者の数は多いが、彼等の提供する貴重な素材の山を「歴史=物語」として秩序づける歴史家は存在しない。それどころか、過去にあった歴史=物語をすら一群の言語記号として解体分析し、いくつかのパラダイムに還元することが、現代の有力な思潮なのである。

現代人はもはや物語としての歴史を必要としないのか。過去の時間を物語によって秩序づけ、それを未来へ向けて語り継ごうとした長い伝統は、もはや死に絶えてもいいのであろうか。現在私たちが耐えがたい思いで忍んでいる現代の数々の病弊は、果してこの歴史の喪失と関係していないだろうか。一口にいえばそれは、文明のアルツハイマー病とでも称すべき状態であるように私には見える。アルツハイマー病の患者は過去の記憶を完全に喪失しているのではない。ただその記憶が一義的に秩序づけられず、過去の時間がストーリーとして整序されていないのである。そしてこの病気の患者がほとんど例外なく行う「作話」は、過去の時間をストーリーとして整序することが、人間の精神の基本的欲求であることを示しているように思われる。そういえば「小説」という「作話」が、やはり近代という時代から始まっていることは興味深い。「歴史小説」が隆盛を見るに至ったのは、十九世紀のことである。

この状態は耐えがたいが、容易に癒すこともまた不可能である。病気であるという認識さえほとんど存在していないように思われるほどである。物語としての歴史の復権というようなスローガンは、叫ぶのはたやすいが、それを実現するための現実の条件は、成熟していない。当分は、孤独な試行錯誤を続けるほかないのだ。本書もまた、そのような手探りの試行の一つであると考えてもらいたい。

強い共感を呼ぶ文章である。

そしてこのような考えを基に本文で記された人物中心の歴史叙述は、稀に見るほど素晴らしい。

このイタリアの巻がシリーズ全体の成功を象徴するものとなっている。

さしたる予備知識の無い初学者向けに、歴史的人物を中心とした物語としての政治史を語り、その国(まれに地域ないし都市)の歴史について最も基礎的な俯瞰図とスケッチを提供し、それに加えて文化や社会や経済、国際関係にも目配りして総合的な視野をも与えてくれる。

このシリーズで出来の良い巻は、それに充分成功している。

とは言え、残念ながら以上の方針から外れた、遺憾な仕上がりになってしまっている巻もあることは事実である。

一度出たものを絶版にして、例えば『新・物語〇〇の歴史』を別著者が書き下ろすというのは極めて難しいでしょうから、中央公論新社の編集者様には以下のことを是非お願いしたいと思います。

 

1.近現代史研究者や現代を対象とする地域研究者ではなく、その国の前近代史を専攻とする研究者に主に執筆を依頼すること。

2.シリーズの方針をよく著者に説明し、歴史学者ではなく歴史家として、物語性を何よりも重視して執筆してもらうこと。

 

「近現代史(特に現代史)偏重」は「自身の専門分野への没入」と並んで、このシリーズでも躓きの石になっている。

本シリーズに限らず、極めて良好な出来の一国通史でも、その(近)現代史部分が前近代部分と同様の密度で価値ある叙述となっている例は極めて稀である。

言葉に矛盾が生じるが、「通史」といっても、基本その対象は古代から近代までと想定して、現代史はまた別と考えましょう。

ある国の歴史については、「通史」と「現代史」の二本立てで本を探した方がよい。

ちょうど、中公新書でも『~現代史』という収録作品がいくつかある。

 

賀来弓月『インド現代史』  2 難

渡辺啓貴『フランス現代史』  2 中

小島朋之『中国現代史』  2 易

木村幹『韓国現代史』  4 易

伊藤武『イタリア現代史』  5 易

今井宏平『トルコ現代史』  5 易

 

これと『物語~の歴史』をセットと考えてもらって、『物語~』の方はあくまで前近代を中心とした通史としての性格を貫いてもらいたいです。

 

 

わざわざこのシリーズについて単独で記事を書いたのは、やはり初心者にとって極めて有益でしかも入手し易い貴重なものと評価しているからです。

幸いなことに、これまで順調に刊行が継続しているし、今後も続きそうです。

米英仏独など超主要国については新書版で良い通史を書くことはさすがに難しいでしょうが、中堅国以下については最良の入門書になることが多いでしょう。

少しでも気になる本は手に取ってみることをお薦めします。

 

2018年10月23日

間野英二 『バーブル  ムガル帝国の創設者』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: インド — 万年初心者 @ 00:40

バーブルは、インド最後の統一王朝の創始者であるが、もともと中央アジア出身で、そこでの旧領回復を果たせずインドに来た「敗者」でもあるという、珍しいパターンに属する人物。

ティムール朝帝室の一員として1483年に誕生。

当時衰退期だったティムール朝は、アム川・シル川に挟まれたサマルカンド政権と、それより南西に離れたアフガンのヘラート政権に分裂しており、バーブルはサマルカンド政権の一部フェルガナ領国君主の子として生まれる。

母は、東チャガタイ・ハン国の後裔モグーリスターン・ハン国出身(ティムール朝は西チャガタイ・ハン国発祥)。

「ムガル朝」という言葉は、このモグーリスターン・ハン国か、あるいはそれ以前のモンゴル襲来の記憶から西北部から侵入する中央アジア勢力をすべて「モグール」「ムガル」と呼んだことに由来するとのこと。

ただいずれも他称であるので、バーブルの故郷である現在のウズベキスタンでは、ムガル朝を「バーブル朝」と呼んでおり、この方が適切な歴史用語であると評されている。

バーブル誕生後、しばらくして、遊牧テュルク系民族であるウズベク人が南下、ティムール朝を圧迫。

その長、シャイバニ・ハンは、チンギス・ハンの長男ジョチの後裔であると主張した。

1500年シャイバニ・ハンはサマルカンドを征服。

バーブルはその奪還を目指すが失敗、アフガンに撤退しカーブルに拠点を置き、ヘラート政権と協力、ウズベクに対抗。

しかし、1507年シャイバニ・ハンはヘラートも陥落させ、ティムール朝は完全に滅亡。

だが、意外なところから救いが現われる。

1510年創設間もないサファヴィー朝のイスマーイール1世とシャイバニ・ハンが戦い、シャイバニ・ハンは戦死する。

その好機を捉えて、バーブルはサファヴィー朝の支援を得てサマルカンドを奪回。

だが、シーア派であるサファヴィー朝の援助がサマルカンド住民の不満を買い、ウズベク人の反撃を受けて、バーブルはサマルカンドを保持できず撤退。

1514年シャー・イスマーイールが、チャルディランの戦いでオスマン朝軍の火器に敗れたことを聞くと、バーブルは自軍に火器を採用。

結局中央アジア征服を諦めたバーブルはインドへ向かい、1526年パーニパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝であるロディー朝の軍を撃破、デリーとアグラに入城。

後継者フマーユーンを案じつつ1530年死去。

『バーブル・ナーマ』という、生き生きとした精彩に富む自伝的作品を残したことでも有名。

 

 

まあ、普通。

悪くはない。

通常の王朝の興隆パターンとは異なる、ムガル朝の成立過程を知るにはいいでしょう。

2018年10月20日

エドワード・ハレット・カー 『ロシア革命  レーニンからスターリンへ、1917―1929年』 (岩波現代文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 02:25

著名なソ連研究家の著者が、『ボリシェヴィキ革命』『一国社会主義』など四部から成る自らの大著『ソヴィエト・ロシア史』から、そのエッセンスを「蒸留」して、一般読者向けの入門書として書き上げた作品。

副題通り、叙述範囲は十一月革命からスターリンの権力確立まで。

ざっと読んだが、内容的にはごく平凡。

可も無く不可も無いが、手際のよい叙述で、コンパクトにまとめられている。

解説では、冷戦時代にソ連当局からは「反共的」、西側では「容共的」と見なされつつも、学界では高い評価を得たカーの研究が、ソ連崩壊後にロシア革命以後のすべてを否定的に捉える「清算主義的」な全体主義論によって、無価値とのレッテルを貼られたが、それには歪みや行き過ぎがある、と記されている。

この辺のことについて、個人的判断は留保します。

 

ある程度予想はしていたが、本書によって新たに得た知識や知見は特に無い。

もっとも、これまで読んだ本の中で、著者の研究によって定着した見方に、知らず知らずのうちに接しているのかもしれないが。

かと言って、一部に邦訳のある『ソヴィエト・ロシア史』に取り組もうなんて気は全く起きない。

カーについては、歴史思想に関する書『歴史とは何か』も、国際政治学を確立したと言われる『危機の二十年』も読んだが、どちらも強い感銘を受けるほどでもなかった。

本書についても同じである。

結局、私にとってのカーは、『カール・マルクス』という優れた作品を書いた伝記作家という位置づけです。

2018年10月16日

片山正人 『現代アフリカの悲劇  ケニア・マウマウ団からザイール崩壊まで』 (叢文社)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 04:43

2000年刊。

戦後アフリカの独立闘争と内戦を年代順に並べて記述し、通史的役割も持たせた本。

取り上げられているのは、ケニアのマウマウ団闘争、アルジェリア独立戦争、コンゴ動乱、ナイジェリアのビアフラ戦争、スーダン内戦、チャド内戦、最後の植民地帝国であるアンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウなどのポルトガル帝国崩壊、南アフリカの黒人政権樹立、ルワンダ虐殺、ザイールのモブツ体制崩壊が主。

その合間合間に他の国々の独立とその後の政情が触れられており、確かに通史としても使える。

上記の中では、スーダンとチャドの内戦が馴染みが薄いくらいで、後は確かに取り上げるに足る、アフリカ現代史上の重要事項ではある。

ただちょっと、失礼ながらこの方は文章があまり巧くない気がする。

「植民地の歪み」という言葉が、「何回使うんですか」と言いたくなるくらい、繰り返し出てくる。

まあ総合的に見れば、それほど酷い本でもないか。

読むのなら、細かな固有名詞にはそれほど拘らなくていいし、煩瑣な部分は飛ばしていいでしょう。

ただコンゴ動乱だけは、ルムンバ、カサブブ、チョンベ、モブツという人名とその政治的立場がわかるようになれば良し。

あと、ナイジェリアからの分離独立運動が悲惨極まりない結末に至ったビアフラ戦争ですが、国内の諸部族をまとめ得るカリスマ的指導者の不在が内戦の一因だと書かれていた。

世界史教科書にも出てくるような、各国の著名な「独立運動の父」は、独立後は往々にして、独裁的権限を握り、東側共産圏に接近し、独善的な半社会主義的政策で国を破綻させる、というのが一つのパターンだが、しかし国民意識が未成熟な新興独立国においては、ともかくも国をまとめ、民族間の紛争を抑止するために、そうした強力な指導者はかなりの程度必要悪なのかもしれません。

以前、『タンザニアを知るための60章』で、初代指導者ニエレレが今も評価されていると書かれていたのを意外に感じたのですが、以上のような観点から見れば、別におかしくはないのかも。

日本やイギリスのように、実質的統治に携わらない象徴的君主が同じ役割を果たすのが本来最良なんでしょうが、そうした幸運に恵まれている国の方が珍しいでしょう。

「北海道から沖縄まで、どこに住んでいようと同じ日本人だ」という同朋意識が、どれほど多くの時間と努力を経て得られた貴重なものか、我々は忘れがちである。

それも最近では怪しくなりつつあるし、もしそれが失われた後、何が起こるかを考えるとぞっとします。

 

 

悪書とまでは言わないが、特に薦める気も起きない。

地図が全く無いのも、何だかなあという感じ。

だが類書が豊富なわけでもなし、とりあえず貴重なところもある本としておきますか。

2018年10月12日

アナトール・フランス 『神々は渇く  (アナトール・フランス小説集2)』 (白水社)

Filed under: フランス, 文学 — 万年初心者 @ 09:46

これも学生時代に読んだきりで、なおかつ深い感動を覚えた作品なので、いつかは再読したいと思っていた。

岩波文庫版以外の翻訳は無いかなあと探すと、これがあった。

元版の刊行は1950年らしく、こちらの方が古い訳だと思うが、特に問題は無し。

1793~94年、恐怖政治時代のパリが舞台。

純真な正義感の持主であるはずが、ジャコバン派に加わり、革命裁判所の陪審員として冷酷残忍な行為に手を染める青年画家エヴァリスト・ガムランが主人公。

政治に無関心な典型的庶民である母、亡命貴族と駆け落ちした妹ジュリー、ガムランの恋人エロディ、エロディの父で成金的富裕商人のブレーズ、元貴族で皮肉な無神論者の隣人ブロトー、迫害された修道士で深い信仰を持つロングマール、強い反骨心の持主である娼婦アテナイス、軽薄な享楽主義者デマイ、エロディの元恋人で唾棄すべき日和見主義者の竜騎兵アンリらが登場人物。

読後感は、やはり素晴らしい、の一言。

美しい文章で、深刻なテーマをこれ以上無いほど読者に考えさせてくれる。

場面の転換も早く、小説技法的にも長け、読みやすい。

マラー、ロベスピエールなど史上の著名人物も顔を出し、当時の状況が非常によくわかる。

歴史小説として、シェンキェヴィチ『クォ・ヴァディス』プーシキン『大尉の娘』ユゴー『九十三年』と並んで、本当に完璧な作品。

真の傑作だ。

未読の方には是非薦める。

2018年10月8日

高坂正堯 『地球的視野で生きる  日本浮上論』 (実業之日本社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 02:48

1975年刊。

これは高坂氏の著作でも、相当入手しにくいと思う。

没後出版された著作集にも未収録のはず(たぶん)。

私も今まで未読で、関連文献:高坂正堯の記事でも名を挙げてない。

第一次石油危機による高度経済成長の終焉と資源ナショナリズムの高揚、ヴェトナム戦争による国力低下に直面したアメリカが選択した米中接近と通貨切り下げという二つのニクソン・ショックと日米経済紛争の本格化、国際政治の多極化と普遍主義の退潮がもたらした各国の国益中心主義の台頭、にわかに経済的巨人となり急速に経済進出をしてきたことへの反発から生まれた東南アジア諸国の反日運動、と大きな対外的危機を抱えていた当時の日本への分析と対処法の模索の書。

資源が乏しく、対外貿易によって生きる、軽武装の「経済大国」(中級国家)としての日本が採るべき道は、他国の衰退産業等の国内事情と開発途上国の国益に配慮し、部分修正された上での自由貿易主義の維持発展を目指し、自発的にその為の負担を背負うこと、日米同盟が地域の安定要因になっていることを認めた上で中ソなど近隣諸国との関係改善を慎重に図ること、省資源型産業構造への転換を促進すること、積極的な文化交流を行い、その為の人材育成を目指すこと、などである。

高度成長期の極端な楽観論の裏返しで、(高坂氏が前者と共に批判したような)当時見られた終末論的悲観論は、日本についても、世界全体についても当たらなかった。

世界経済は混乱をどうにか乗り越え、日本の国力の絶頂は、むしろこの後、1980年代に来ることになった。

今世紀に入ってからの日本と世界の方が、本書が書かれた70年代よりも本格的な危機の時代とすら思える。

当時の状況をある程度理解しながら読めば、現在でも有益な点がある書物でしょう。

2018年10月4日

田中高 編著 『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』 (明石書店)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 03:30

中米諸国のうち、三ヵ国をまとめて、しかもこのシリーズでは少な目の45章でまとめている。

しかし、これで充分でしょう。

その後、本書の他に、なぜか同じシリーズで各国単独の巻が出たようだが、無視する。

 

 

まず、エルサルバドル。

グアテマラの南に位置する小国(中米全部が小国だが、その中でも国土が特に狭い)。

地理的に重要なのが、太平洋岸の領土のみを有し、カリブ海には面していないこと。

首都はサンサルバドル。

グアテマラと同様、征服者の一人アルバラードが侵攻。

中米地域にはスペインが求める貴金属が無かったので、植民地時代に社会投資も行われず、その「後進性」の一因となる。

独立は1821年、ホンジュラス、ニカラグアと同じ。

中米連邦共和国を経て、その有力政治家フランシスコ・モラサン没落後、各国が分離独立。

時代がざあっと飛んで、1931~34、35~44年マルティネスが大統領を務め、独裁的統治を敷き、マルクス・レーニン主義者ファラブンド・マルティの反政府運動を武力で鎮圧。

コーヒー栽培が発展し、富裕層に富が集中するが、グアテマラ、ホンジュラスなど近隣のバナナ栽培諸国のように、外国資本に国を支配されるような状況には陥らず。

マルティネス政権成立から1982年まで、半世紀にわたり軍事政権が続く。

ラテン・アメリカでの権威主義政権は、軍部官僚型、軍部派閥型、個人独裁型の三つに分類されるが、エルサルバドルは軍部派閥型に入るとされている。

軍部内の進歩派と保守派による疑似政権交替が行われてきたが、左派ゲリラ「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」と政府軍との内戦で多くの死傷者が出ており、遅くとも60年代に民政移管できていれば、より国の発展が見込まれたはずだ、と評されている。

1992年に和平合意締結、内戦終結、コーヒー輸出が減少する中、経済復興に努めている。

 

 

続いて、ホンジュラス。

人種構成はメスティソが九割以上。

首都はテグシガルパ(全く聞いたことないな・・・・)。

ユナイテッド・フルーツ社など国外大資本によって事実上支配される「バナナ共和国」の汚名を着る。

1969年国境紛争や移民問題を抱えていた隣国エルサルバドルと、サッカー・ワールドカップの予選を切っ掛けに短期間戦闘状態に入る「サッカー戦争」が起こる。

しかし、この国の政治は(コスタリカと並んで)なぜか安定している。

御多分に漏れず、1933年成立のカリアス独裁政権はじめ、軍政が長期間続いたが、盛んな労働運動に対応するため、軍事政権も比較的穏健な社会改良政策を採ることが多く、メスティソが圧倒的多数派を占めるので人種対立も目立たず、エルサルバドルのような強固で貪欲な富裕層も形成されず、ニカラグアのソモサ一族(後述)のような怨嗟の的となる存在も出なかった。

加えて、保守的で穏和な国民性もあって、ついに武装ゲリラが政治勢力になりえず、中米諸国を苦しめた内戦の禍を避け得たし、現在も1880年代創設の自由党とそこから1902年に分離した国民党の、安定した二大政党制が続いている。

 

 

最後にニカラグア。

首都はマナグア。

中米諸国では最も大きな面積を持つ。

独立後、保守派と自由派の激しい対立と内戦の中で、招かれたアメリカ人傭兵隊長のウォーカーが、1856年どさくさ紛れに大統領になるという滅茶苦茶な事態が起こっている。

1920~30年代メキシコ革命とマルクス・レーニン主義の影響を受けた自由派内急進派のサンディーノが、介入してきたアメリカ海兵隊と戦うが、34年殺害される。

1937年から79年にかけて、父、長男、次男のソモサ一家が断続的に大統領となり、アメリカの支持・黙認の下、長期独裁政権を維持。

これに対し、左派ゲリラ「サンディニスタ民族解放戦線」が武力で抵抗、1979年遂にソモサ政権を打倒し、オルテガ革命政権を樹立。

このニカラグア革命は、キューバ革命と共にマルクス・レーニン主義に近い勢力が自力で達成した革命として重要。

折からの冷戦最終段階での米ソ関係緊張の中、81年成立の米国レーガン政権はオルテガ政権を敵視、右派反政府ゲリラ「コントラ」を支援する。

サンディニスタも一枚岩ではなく、彼らが総体として「共産主義者」と言い得るか微妙な点はあるとされているが、硬直した教条的な社会主義的経済政策の失敗はあり、米国の制裁も相俟って、経済状況は大きく落ち込む。

一方、アメリカ国内では、これに絡んで「イラン・コントラ事件」というスキャンダルが発覚。

同じく79年に起こったイスラム革命後、敵対関係にあったイランに秘密裡に武器を売却し、その代金をコントラへの援助にあてていたという違法行為に関するもの。

冷戦後、ニカラグア内戦も終結、1990年自由選挙でサンディニスタは敗北し、下野。

以後の選挙ではサンディニスタが政権に返り咲いているようだ。

 

 

まあ、こんなもんかな。

この三ヵ国で一番重要な史実は、1979年のニカラグア革命だ。

それだけは年号と共にしっかり押さえておく。

それ以外は軽く流そう。

2018年9月29日

渡辺克義 『物語ポーランドの歴史  東欧の「大国」の苦難と再生』 (中公新書)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 05:17

おお、この国も出たか。

喜び勇んで手に取るが・・・・・薄いな。

本文は200ページほどか。

で、目次を見ると・・・・・。

序章が建国時のピャスト朝、第一章がヤギェウォ朝、二章でもうポーランド分割で、「うわー、近現代史偏重パターンかあ」と頭を抱える。

気を取り直して読み始める。

 

966年ポラニェ族君主ミェシュコ1世がキリスト教に改宗して建国、ピャスト朝成立。

この辺の民族は「異教からの改宗イコール建国」ということが多いですね。

息子のボレスワフ1世は教会組織を独立させ、神聖ローマ帝国と抗争。

以後の国王の系譜は、本書の記述があっさりし過ぎているので、省略。

モンゴルが侵入、1241年レグニツァ(リーグニッツ・ワールシュタット)の戦い。

13・14世紀にはドイツ騎士団と抗争。

1333~70年在位したカジミェシュ3世はポーランド史上唯一大王と呼ばれ、最盛期を現出。

大王死後、ピャスト朝は断絶、甥の娘のヤドヴィガがリトアニア大公国の君主ヨガイラ(ヤギェウォ)と結婚、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国が始まる。

ドイツ騎士団、オスマン朝との戦いを継続。

西欧諸国が絶対王政に向かう中、シュラフタ(中小貴族)が大きな実権を持つ国制に移行、後にはマグナト(大貴族)の寡頭政に変わるが、王権が弱体なのは同様。

コペルニクスに代表されるルネサンス文化を開花させ、ドイツ騎士団がプロテスタント化・世俗化して生まれたプロイセン(まだブランデンブルクと連合していない)を一時宗主権下に置くなど、依然強勢を誇る。

1572年ヤギェウォ朝断絶、選挙王制に移行。

「断絶」と言うが、系図を見ると、以後も旧王家と血縁のある人物が王位に就いてはいる。

それはスウェーデンのヴァサ家の君主で、その時期スウェーデンとポーランドが同君連合に置かれていたということかと思うが、むしろスウェーデンとポーランド間の戦いが継続したとも書いてあり、本書では全くの説明不足でよく分からない。

それ以外で国外から王位に就いたのは、フランス王即位前に短期間在位したアンリ3世、ザクセン選帝侯家の人物などがいる。

他にも地元のポーランド系国王もいて、その合間にヤン3世ソビェスキの第二次ウィーン包囲でのオーストリア支援とか、レシュチンスキの王位継承に絡む18世紀前半のポーランド継承戦争などが挟まるのだが、まあよく分からない。

この序章と第一章で叙述される時代が一番知りたいのだが、ページ数が圧倒的に不足しており、全く不満足である。

で、普墺露三国によるポーランド分割だ。

強大化したロシアが影響力を強め、ポーランド最後の国王に選出されたスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは、元はエカチェリーナ2世の寵臣である。

三次にわたる分割の年号は1772年、1793年、1795年。

昔、山村良橘『世界史年代記憶法』(代々木ライブラリー)の「(下三桁が)ななつ、なくさん、なくごとく」という語呂合わせで覚えたなあ。

一回目から少し間が空いて、二回目、三回目はフランス革命中であることをチェック。

細かい経緯は覚える気がしない。

高校世界史でも出て来るコシチュシュコ(コシューシコ)の抵抗だけ知ってればいい。

ナポレオンが作ったワルシャワ公国は露と消え、再び周辺三国による分割統治。

1830・48・63年(1、2番目は仏での革命が影響)に三度の独立運動蜂起が起こるがいずれも鎮圧。

19世紀後半に社会主義運動台頭、民族独立より労働者の国際的連帯を主張するローザ・ルクセンブルクらのポーランド王国・リトアニア社会民主党、逆に民族独立を最重視するユゼフ・ピウスツキらのポーランド社会党が結成。

他に反社会主義的な民族主義政党、国民民主党(ドモフスキら)もある。

第一次世界大戦でドイツ・オーストリア敗北、ロシア帝政崩壊でポーランド再独立、ピウスツキが軍事指揮権を握り最高指導者に就任。

1920~21年ソヴィエト・ポーランド戦争で東部に領土を拡大。

その後一時引退していたピウスツキが1926年クーデタ敢行、35年の死まで独裁的権限を握る。

外交では、フランスとの同盟優先と対ソ対独強硬論から、独ソ等距離外交に変化。

32年外相となったユゼフ・ベックは一時親独的外交を展開するが、39年ダンツィヒ併合というドイツの要求は断固拒否、第二次世界大戦が始まる。

(このベック外相は、同時期のポーランドの大統領・首相の名は全く知られていないのに、第二次大戦直前の外交交渉でしばしば名前が出てくるので、不思議な印象がある。)

独ソ不可侵条約により、両国が侵攻、分割支配下に置かれる。

ソ連はポーランド人将校らを秘密裡に大量虐殺した(カティンの森事件)。

独ソ戦開始後、アウシュヴィッツ(ポーランド名でオシフィエンチム)などでユダヤ人絶滅収容所が稼働。

1944年8~10月、ワルシャワ蜂起勃発、接近するソ連軍に呼応して、ポーランド亡命政府系の国内軍がドイツ軍に対して蜂起したが、国内軍の反共的性格を知るソ連軍は突如進撃を止め、国内軍がナチに殲滅されることを傍観し、空路で支援を与えようとする米英両国の提案も拒絶した。

私、昔高校生の頃、かなり硬直した左翼少年だったんですが、この史実を知ったときはショックでねえ・・・・・。

社会主義への幻想が覚める一つのきっかけになった。

最近ではこのワルシャワ蜂起は元々成功の可能性がほとんどない無謀な企てであったとする見方もポーランドでは存在すると本書では書かれているが、それでもやはりこの出来事はスターリン体制下のソ連の本質を示していると思えてならない。

以後はザーッと流そう。

戦後、労働者党(スターリンの大粛清で壊滅したポーランド共産党を再建したもの)が社会党を吸収合併してポーランド統一労働者党結成、敵対する農民党などの勢力を徹底的に弾圧して一党独裁体制樹立、スターリン主義体制下、ビエルトが独裁者となる。

1956年スターリン批判を機にポズナンで暴動発生、「民族主義的偏向」との理由で逮捕されていたゴムルカ(ゴムウカ)が政権に復帰することで、同年のハンガリー動乱のような流血の事態は避けられた。

そのゴムルカも生活難への国民の不満の高まりで70年退陣、後任のギエレクも経済状況を改善できず、80年に辞任、78年即位したポーランド人教皇ヨハネ・パウロ2世の精神的支えもあって、80年以降ワレサ率いる自主管理労組「連帯」などの反体制運動は拡大、81年ヤルゼルスキが指導者となりソ連軍の介入を避けるため戒厳令を布告、「連帯」を弾圧。

ソ連のペレストロイカ進展により、政権当局と「連帯」との対話が進展、89年非共産系首相誕生、東欧各国の変革を経て、90年統一労働者党解散。

以後の政局は詳しく見ないでいいでしょう。

「連帯」系勢力が分裂、ワレサ、クファシニェフスキ両大統領の下、旧統一労働者党系の政党と政権交替を繰り返し、そのうち右派民族主義色の濃い「法と正義」が台頭する、という東欧旧共産圏諸国ではどこも似たり寄ったりの政治情勢である。

 

 

終わり。

ちょっと残念な出来だった。

実質『ポーランド現代史』になっているという、『物語~の歴史』の駄目なパターンに嵌り込んでいる。

この国の現代史では一般常識として知っておくべきことが多いとは言え、前近代史が手薄過ぎる。

以前読んだ山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』(三省堂選書)に比しても相当劣る。

その記事の末尾で「中公新書の『物語ポーランドの歴史』が出る場合は、これ以上の出来を期待します。」と書いたが、残念ながらその期待は裏切られた。

まあ東欧の主要国でこのシリーズが出たのは悪くない。

『チェコ』はもう既刊だから、以後ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、セルビア辺りは刊行してもらいたいです。

(スロヴァキア、スロヴェニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、アルバニアはさすがに難しいだろうが。)

2018年9月25日

Ts・バトバヤル 『モンゴル現代史』 (明石書店)

Filed under: 中央アジア — 万年初心者 @ 03:39

20世紀モンゴル史の本。

清の統治下、その服属時期によって、内蒙古と外蒙古の区分が生まれる。

1911年辛亥革命で、ホトクト(ラマ教高位僧侶の号)を指導者に独立を宣言。

ロシアの支援で、中国宗主権の下、外モンゴルの自治権が認められる。

この法的に曖昧な半独立形態が第二次大戦まで尾を引き、中国は外モンゴルの独立をなかなか認めず、外モンゴルと中国領の内蒙古は現在も分離したままである。

ロシア革命が起こると、今度はロシアが無力化し、それに乗じて1919年中国は自治を取り消し。

さらにウンゲルン率いるロシア白衛軍が侵攻、中国軍を追い出し、居座る。

これに反抗する人々がモンゴル人民党を結成、ソヴィエト・ロシアに支援を求める。

1921年赤軍が侵攻、ホトクトを名目上立憲君主とした人民政府を樹立。

政府内穏健派は排除、処刑され、国防相スフバートルが台頭するが、23年病没、翌24年にホトクトが死去すると、モンゴル人民共和国建国を宣言、人民党は人民革命党に。

とは言え、独立性は極めて薄く、完全にソ連の衛星国状態。

第二次大戦後まで、ソ連以外の唯一の共産主義国とされるモンゴル人民共和国だが、実質的にはやはりソ連一国だけと言った方が適切かも。

中国での国共合作崩壊とスターリン独裁体制が確立した1928年以後、ソ連の指示で、仏教徒と封建諸侯の弾圧、伝統的集団牧民の財産没収が行われ、37年以降、ソ連と同様な大粛清が始まり、犠牲者が続出する。

その中で、チョイバルサンが指導者に就任、独裁権力を握り、スターリンに盲従。

この流れを見ていくと、中露の帝国主義を避ける為に、より過酷で残忍な赤色帝国主義の支配に飛び込んでしまった感がある。

ソ連軍が進駐、39年ノモンハン事件で日本軍と交戦、45年ソ連と共に対日宣戦。

1952年チョイバルサンが死去、後任のツェデンバルが、スターリン批判の余波を受けつつ、ライバルを打倒し、長期政権を維持。

このツェデンバル政権が、実に、1984年まで続く。

中ソ対立では、伝統的な中国への警戒意識から、完全にソ連寄りとなり、62年にはコメコンにも参加、大規模なソ連軍が国内に駐留し、ブレジネフ政権と緊密な関係を築く。

西側諸国とは、63年に英国と国交樹立、72年日中国交正常化と同年に日本とも外交関係樹立。

米国との関係はさらに遅れ、結局外交関係樹立は87年と、冷戦終結直前までかかった。

東欧共産圏崩壊と冷戦終結を受けて、1990年複数政党制へ移行、自由選挙で人民革命党員が大統領当選、96年選挙では政権交代が実現。

本書の刊行は2002年なので、それ以後のことは書かれていないが、別にフォローしなくてもいいでしょう。

第二部の日蒙関係の記述を除けば、100ページほどの小品に過ぎない本だが、モンゴルについて特段の興味と関心が無ければ、これくらいの分量の方がいいと思います。

それも、上でメモしたような、最低限のことだけ分かっていればいい。

憶えるべき人名は、チョイバルサンとツェデンバルだけ。

軽く流して、一般常識としての事項だけ身に付ければ十分。

類書として、このブログでは、はるか以前に田中克彦『草原の革命家たち』(中公新書)を紹介しているが、この分野で推奨するのは本書の方です。

2018年9月21日

小島朋之 『中国現代史  建国50年、検証と展望』 (中公新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 02:49

中華人民共和国建国から50年の1999年に合わせて出たという、天児慧『中華人民共和国史』(岩波新書)と似たような本。

二部構成で、第一部が通史的叙述、第二部が比較・関係論的叙述。

一部では、最初と最後の概論を除いて、建国後50年の歴史を、「前三十年」(毛沢東時代)と「後二十年」(鄧小平時代)に二分。

毛沢東時代、建国当初は新民主主義の名の下、共産党以外の民主諸党派との協力、資本主義的要素を残存させた漸進主義的路線が採用され、共産党独裁への懸念を弱めたはずが、わずか数年後にその姿勢は放棄され、「反右派闘争」、「大躍進」政策、文化大革命という凄惨な政治弾圧が繰り返され、膨大な数の犠牲者が生まれる。

1978年に始まる鄧小平時代、改革開放路線を採用、市場経済を導入し経済成長が軌道に乗るが、一党独裁体制の変革を主張する学生らを1989年天安門事件で弾圧、その後経済改革も停滞するが、1992年「南巡講話」でそれを再加速させ、「社会主義市場経済」を全面的に推進し、高度成長を遂げる。

第二部では中国と、東アジア・香港・台湾・アメリカ・日本の関係について簡単に触れている。

そして終章で建国百周年2049年に向けた展望を語って終わり。

その終章で「二〇一五年には米国と並ぶ経済大国に?」という節があるが、その時点を過ぎた現在、日本を追い抜き、米国に次ぐ経済規模となっている。

本書は中国の将来を楽観も悲観もせず、冷静な筆致で記しているようである。

 

 

さほど詳細な史実は取り上げず、概観を述べていくタイプの本で、あまり面白くない。

それも、同じような話の繰り返しが多く、内容はそれほど濃くない。

最初に挙げた天児慧『中華人民共和国史』(岩波新書)の方が普通の通史に近く、役に立つ感じ。

しかし、やはり初心者向け中国現代史の決定版は、依然中嶋嶺雄『中国 歴史・社会・国際関係』(中公新書)かなと思う。

明解な時代区分を始め、極めて効用の高い入門書となっている。

これは1982年初版の本で相当古いが、本書も刊行後20年ほど経っている以上、中嶋著に比して最新情勢までフォローされているというメリットはかなり薄れてしまっているでしょう。

現在、強いて読む必要がある本ではないかなあ。

2018年9月17日

桜井三枝子 編著 『グアテマラを知るための65章』 (明石書店)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 04:18

労力を使わずに記事を書くには、このシリーズが一番だ。

(次いで山川出版社の世界史リブレットになる。)

歴史と政治に関する記述だけ読んで、後は全く無視しているんだから、そりゃ楽ですわ。

安易と言えば安易だが、しかしそれくらいで済ますしかない分野も確かにある。

中米諸国のグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマについてそれぞれ通史1冊ずつ読め、と初心者に強いるのは無理と言うもんです。

かと言って、ラテン・アメリカ通史の中の断片的な記述では不充分だし、結局本書のようなものを飛ばし読みするのが一番適切になってしまう訳です。

 

 

グアテマラはメキシコのすぐ南にあり、東隣のベリーズと並んで中米諸国では最も北にある国(もちろんメキシコ自体は除いて)。

首都は国名と同じくグアテマラ市。

マヤ文明の中南部が現グアテマラの地に存在。

現在も混血のメスティーソではなく、先住民マヤ族が人口の6割を占め、多数派を形成。

アステカ帝国を滅ぼしたコルテスの部下アルバラードがグアテマラの先住民を征服、総督に就任。

先住民の保護と改宗を条件に貢納と労働力の使用を許すエンコミエンダ制が敷かれた後、賦役を割り当てるレパルティミエント制に移行したが、先住民保護は徹底せず。

1821年中米連合の一員として独立。

一時メキシコとの併合を目指す動きがあったが、皇帝イトゥルビデ失脚によって破綻、その後の1823年の完全独立宣言の方が現在では重視されているという。

1838年中米連邦共和国は分解、グアテマラも分離独立。

保守派と自由主義派が対立し、軍の頭領カウディーリョがしばしば専制的支配を敷くのは、他国と同様。

東隣ベリーゼにイギリスが入植、グアテマラは協定で同地を割譲、ベリーゼは中米唯一のイギリス領となり、他地域から大きく遅れて1981年ベリーズとして独立。

コーヒー栽培が発展、中米再統合主義が生まれたが、他の中米諸国とアメリカ、メキシコの反対で挫折。

1898~1920年大統領のカブレラが独裁者として君臨、ユナイテッド・フルーツ社にバナナ栽培プランテーションの為に広大な土地を譲渡、自国の中に外資企業国家の飛び地領が存在するような状態になってしまう。

1931~44年にはウビコも独裁的統治を敷くが、対外債務減少と経済発展では功績を残す。

1944年ウビコ失脚後も続いた軍人政権に対するアルベンス・グスマンら若手将校の蜂起が成功、大統領アレバロを長とする進歩派政権が成立。

続いて51年大統領となったアルベンスが、ユナイテッド・フルーツ社はじめとする外国資本大企業の経済支配を排し、土地改革を行おうとするが、冷戦激化時代の反共政策を採り、自国の覇権下にある地域での左派政権に過敏になっていた米国および国内保守派と軍の反対で、54年アルベンス政権はクーデタで崩壊。

以後旧体制に逆転、長期間軍政が敷かれ、60年代から左派ゲリラとの内戦が勃発、1996年の和平協定締結まで多くの犠牲者を出す。

80年代半ばからは文民大統領が就任、とりあえず民主体制が続いている。

同国では、ノーベル文学賞受賞作家アストゥリアスが一番の有名人か。

 

 

まあ、こんなもんでいいでしょ。

これだけ読み取れば十分。

グアテマラと聞いて、国の位置と以上のようなことさえ頭に浮かべば、社会人の一般常識として恥ずかしくない。

これで終わりにしますが、このシリーズ、書名一覧で難易度を付けるときに悩むんだよなあ。

歴史と政治の章だけを、しかも精読せず飛ばし読みするだけなら「易」に決まってるんだが、自分がやってない全編通読なら少なくとも「中」にはなる。

最近は「中」を付けてるし、本書もそうしますか。

2018年9月12日

桜田美津夫 『物語オランダの歴史  大航海時代から「寛容」国家の現代まで』 (中公新書)

Filed under: オランダ — 万年初心者 @ 04:17

このシリーズで、出て欲しかった国がちょうど出た。

低地諸州で、中央集権化への反発と宗教改革の影響により、ハプスブルク家支配からの独立運動が起こる。

ルター派は、カトリックとは違う教会組織の代案を持たず、教会の支配権を世俗君主に委ねてしまう。それゆえ、君主の支持が得られない場合の対応策を知らなかった。他方カルヴァン派は、同じ新教徒でも、自前の教会組織のネットワークを作り上げ、世俗君主による迫害に対しては抵抗権理論をもって反撃する戦闘性を備えていた。

こうして牧師と俗人の長老を主要構成員とするカルヴァン派の「教会会議」が、南部諸州(現ベルギー)各地に続々形成される。だが北部諸州(現オランダ)にカルヴァン派が根づくのは一〇年余り遅く、「低地諸州の反乱」(オランダ独立戦争の前半)勃発以後になる。

北部はカルヴァン派が多かったので独立し、南部はカトリックが多かったので再びスペイン王の支配を受け入れたという、昔からよく耳にする説明は事実に反する。オランダとベルギーの宗教の違いやその背景に想定されている国民性の違いなどは、低地諸州の南北分裂の原因というよりむしろ結果であった。分裂以前に北と南に違いがあったとすれば、それは、先進地帯の南のほうが宗派対立が先鋭化していた点だろう。

オランイェ(オラニエ)公ウィレムは、ドイツのナッサウ家出身。

ナッサウ家は、ドイツの地方君主と南フランスのアヴィニョンの北にあるオランジュ(オランイェ)公の二系統に分かれていた。

ウィレムはカール5世の信任も厚く、フェリペ2世とも当初良好な関係。

1568年オランダ独立戦争、79年ユトレヒト同盟、81年国王廃位布告(いわゆる独立宣言)。

1584年ウィレム1世暗殺、1609年休戦条約で実質独立達成。

国名はネーデルランデン(ネーデルラント)連邦共和国であり、国制は正式には君主制ではない。

各州議会では、都市為政者層(レヘント)と農村貴族が政治を運営。

高校世界史では「オランダ総督」と習うが、正式には州ごとに総督が存在し、北部の一、二州はドイツ・ナッサウ家が、残りの大半の州ではオラニエ家が兼務するという形だった。

経済的に大躍進を遂げ、17世紀にはヨーロッパ最先進国となる(それに関して、オランダ東インド会社によるアジア貿易の寄与はこれまで過大評価されてきた、とのこと)。

カルヴァン派内での「穏健派」「厳格派」「中間派」の争いもあったが、カルヴァン派が絶対多数を占めていたわけではなかったこともあり、カトリック、ルター派、メンノー派(再洗礼派から過激派を除いた宗派)、ユダヤ教含め、同時代での比較では相当に寛容な宗教政策が採られる。

ウィレム1世死後、その子のマウリッツおよびフレデリック・ヘンドリックが跡を継ぐ。

「厳格派」に近い総督マウリッツと「穏健派」レヘント層との対立が深まり、後者の代表オルデンバルネフェルトは死刑となり、「国際法の父」として有名なグロティウスも投獄される。

1625年フレデリック・ヘンドリックが総督になると対立は緩和。

その息子ウィレム(2世)は英国王チャールズ1世の娘と結婚、両者からウィレム(ウィリアム3世)が生まれる。

1647年フレデリック・ヘンドリック死去、48年ウェストファリア条約でオランダ独立正式承認、50年ウィレム2世死去、レヘント層の勢力が強まり、以後「第一次無州総督時代」に入る。

この無総督時代の指導者になった政治家が、ヨハン・デ・ウィットである。

しかし、その治世は国難の連続に見舞われる。

1651年航海法(航海条令という名称はもう消えましたか)と52~54年第一次英蘭戦争、提督トロンプが戦死し敗北。

1665~67年第二次英蘭戦争は名提督デ・ライテル(ロイテル)の活躍もあって何とか勝利。

開戦直前に奪われたニウ・アムステルダム(後のニューヨーク)はそのまま英領となったが、オランダは逆に南米のスリナムを奪取しているので、この第二次戦争をもイギリス勝利として捉えるのは間違っているとのこと。

しかし、1672年「災厄の年」と呼ばれる最悪の事態が訪れ、第三次英蘭戦争とルイ14世のオランダ戦争が勃発。

苦境の中、国民の声に押されて、ウィレム3世が総督に就任、デ・ウィットは激昂した民衆に惨殺される(この行為にデ・ウィットの友人である哲学者スピノザは憤激の言葉を残している)。

岡崎久彦『繁栄と衰退と』では、この17世紀オランダの政争では、中央集権志向のオラニエ家がとにかく正しくて、州権分立主義のブルジョワ政治家は全体的国益を省みず、厳しい国際情勢を直視しない利己主義に走って国を破滅させた、というかなり一方的な書き方になっているが、本書を読むと、やはりそう単純に断言できるものでもないようだ。

ウィレム3世がジェームズ2世の長女メアリと結婚(上記の通りウィレム自身の母がチャールズ1世の娘だから従妹との結婚だ)、名誉革命でウィリアム3世、メアリ2世として即位するのは周知の通り。

ここでイギリスとオランダが「同君連合」となったという場合があり、私もこのブログでそう書いたことがあるはずだが、厳密にはもちろんオランダはこの時代共和国なので、本書ではイングランドの国王とオランダの州総督が同一人物になった、と正確に記している。

ウィレム3世が死去すると、メアリとの間に子がいなかったので、英国はアン女王が継ぎ、オランダは「第二次無州総督時代」に入る。

階層が硬直化し、貧富の差が拡大、経済は明らかに衰退期に入る。

スペイン継承戦争で、南仏のオランジュ(オラニエ)公領を最終的にフランスに割譲。

オーストリア継承戦争の危機の中、ドイツ・ナッサウ家からウィレム4世が迎えられ、総督就任。

続くウィレム5世時代にアメリカ独立戦争を支援、1780~84年第四次英蘭戦争が戦われ、オランダは甚大な被害を蒙る。

フランス革命で、1795年仏軍と「愛国者」派を名乗る急進派の軍勢が侵入、(ローマ時代の古名にちなむ)「バターフ(バタヴィア)共和国」を樹立。

1806年ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世の父)を国王とする「オランダ王国」が生まれるが、それも1810年にはフランス帝国に併合。

ウィーン会議では、オランダはベルギーと合邦して連合王国を形成、総督ウィレム5世の長男が初代国王ウィレム1世として即位。

「啓蒙専制君主」志向のウィレム1世と議会が対立、王国成立と憲法制定に尽力した保守派政治家ホーヘンドルプもしだいに自由主義的反対派に属するようになる。

仏七月革命の余波でベルギーが分離独立。

海外ではジャワ戦争とアチェ戦争でインドネシアを植民地化。

1840年即位したウィレム2世は、仏二月革命に恐れをなし、国王の統治権限をほとんど無くした新憲法を容認、大臣が議会に責任を負う制度に移行、自由主義者トルベッケが三度にわたり内閣を率いて議院内閣制と近代化政策を確立、49年跡を継いだウィレム3世(~90年)もそれを覆すことは出来ず。

以後オランダでは、100年以上に亘って、女王が三代続く。

ウィルヘルミナ(1890~1948年)、ユリアナ(1948~80年)、ベアトリクス(1980~2013年)。

(2013年にはウィレム・アレクサンデル王が即位。)

カルヴァン派(カイペル率いる反革命党)、カトリック(スハープマンら)、社会主義者(穏健派トルールストラの社会民主労働者党)、自由主義者の四大勢力が並立。

第一次世界大戦では、隣国ベルギーがドイツの侵攻を受けたが、オランダは自由主義者の首相コルト・ファン・デル・リンデンの指導下、中立維持に成功。

戦間期、世界恐慌襲来後の困難な時期に反革命党党首コレインが首相在任(1933~39年)、緊縮財政と金本位制に拘り、恐慌対策には成功しなかったものの、高い人気と威信を保ち、親ナチ政党の勢力拡大を阻止。

1940年5月西部戦線で大攻勢に出たドイツ軍により蹂躙され降伏、ウィルヘルミナ女王と政府はロンドンに亡命。

ナチ支配下、アンネ・フランクを始めとして多くのユダヤ人が犠牲になる。

戦後、反革命党、カトリック国民党、労働党、自由民主国民党などで議会を運営、内閣はほとんど連立政権。

(後に急進派主体の「民主主義者1966年党」が誕生。)

東インド植民地維持を目論むが失敗、1949年インドネシア独立。

48~58年首相を務めた労働党のドレースは、外交では連立相手のカトリック国民党に引きずられ植民地維持政策を一時採ったものの、結局軌道修正し、内政ではマーシャル・プランの援助を得て経済再建に成功、社会保障制度を整備して福祉国家を建設し、現在でも最も高い評価を得る首相となっている。

67~71年首相デ・ヨング(カトリック国民党)は急進的学生運動が高揚した時代を巧みに舵取りし、イギリスのEC加盟(73年)の道筋をつけることにも貢献。

73~77年首相デン・アイル(労働党)は石油危機後の困難な経済情勢に対処、雇用・福祉問題で進歩的政策を推進。

キリスト教系政党は1973年連合して「キリスト教民主アッペル(CDA)」を結成。

82~94年そのCDAのルッベルス長期政権、財政再建と労使協調による社会保障制度見直しを進めることに成功。

94~2002年労働党のコック政権も旧来型の社会民主主義とは決別し、高い経済成長を実現。

21世紀に入ると、反移民・反多文化主義政策を掲げるポピュリスト的なピム・フォルタイン党および自由党が台頭。

しかし、02~10年のバルケネンデ(CDA)内閣、10年~のルッテ(自由民主国民党)内閣ともに、移民・難民政策を転換し、ピム・フォルタイン党・自由党と一時連立や閣外協力を組み、共同責任を負わせて「無害化」する、といった巧みな手法を発揮し、主導権を確保することに成功している(とりあえず本書刊行時までは)。

 

 

かなり良い出来。

時代ごとのページ配分も偏りが無く、内容的にも穏当。

このシリーズにふさわしい良質な通史になっている。

やっとオランダ史の標準的テキストが出た。

岡崎久彦『繁栄と衰退と』(文春文庫)は独立と17世紀だけしか記されておらず、内容的にも偏りがある(ただし物語的には面白い)。

ブロール『オランダ史』(白水社)チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』(平凡社)は生硬で日本人初心者向けでは到底ない。

本書に加えて松尾秀哉『物語ベルギーの歴史』(中公新書)ジルベール・トラウシュ『ルクセンブルクの歴史』(刀水書房)を読めば、ベネルクス三国については「あがり」です。

初心者は他に何も読まなくていい。

定番本が出て良かったなあ、と記して終わります。

(『物語ベルギー~』の書名一覧での評価を「3」にしているのに気付いたが、改めて考えると「4」くらいにはなりそうである。今から変えようかとも思ったが、記事を書いた当時はそれなりの感覚上の根拠があってそうしたのかもしれないので、とりあえずそのままにしておきます。)

2018年9月8日

アレクサンドル・プーシキン 『大尉の娘』 (未知谷)

Filed under: ロシア, 文学 — 万年初心者 @ 06:38

高校生の頃、岩波文庫版を読んで以来、数十年振りの再読。

他社の翻訳が無いかなと探していたら、2013年にこれが出ていた。

しかし、元は1969年講談社版『世界文学全集』の中に収録されていたものを校訂したものだそうで、訳自体はそれほど新しくない。

200ページ余りの分量で、ストーリー展開が速く、読みやすい。

登場人物は皆精彩に富んで、生き生きしている。

プガチョフとエカチェリーナ2世という史上の著名人物の肖像も非常に興味深い。

 

面白い。

もの凄く面白い。

家庭小説としても歴史小説としても、最高の傑作だ。

通読難易度は著しく低いが、完成度は素晴らしい。

『青木世界史B講義の実況中継 5 文化史』で、著者が本書を皮切りに世界文学に耽溺するようになったと書かれているが、さもありなんという感じだ。

文学初心者の入門書としても良好。

決定稿からは外された補遺の章で、プーシキンは以下のように記している。

神よ願わくは、このロシヤ的反乱――不条理で無慈悲な――をもう見ることのないようにしてください。不可能な大変革をわが国で企てる人々は、年若くてわが国民を知らない連中か、あるいは自分の首を一コペイカぐらいに考え、他人の首なら四分の一コペイカぐらいに思っている残忍な連中なのである。

プーシキンは専制政治と農奴制への批判、デカブリストへの共感を咎められ、監視された謹慎生活を送っていた人だが、しかしこの文章は当局の検閲を意識したものというより、作家の本心からのものだと思える。

プーシキンの生きた時代から一世紀後、「不可能な大変革をわが国で企てる人々」が起こした「ロシヤ的反乱」によって、ロシアと世界はこの世の地獄に突き落とされた。

眼前に見る残酷な階級社会の不平等をそのまま肯定することなど出来るはずもないが、だからといって急進的な破壊運動がすべてを解決するという狂信に陥ってはならないことは、どんな社会においても肝に銘じるべき真理だと思う。

 

 

これは再読して正解だった。

素晴らしい作品。

私個人の仮想「世界文学全集」には必ず収録されるべきものと思えます。

2018年9月4日

高島俊男 『本と中国と日本人と』 (ちくま文庫)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 04:19

関連文献:読書論の記事末尾で名を出した本では、『世界史のための文献案内』(山川出版社)はその記事を書いた時点で単独の記事にしていたし、残るのは『独断 中国関係名著案内』(東方書店)を改題文庫化したこれだけか。

中国関係の書籍の紹介を通じて著者自身の読物的評論を展開した本。

この文庫版の紹介本は、元版からかなり変更されている。

元版の方が面白いかなあという気がする。

なお同じ著者の本としては『中国の大盗賊』および『三国志 きらめく群像』(特に後者)が素晴らしいので、お薦めしておきます。

2018年8月31日

君塚直隆 『物語イギリスの歴史 上・下』 (中公新書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 02:43

このシリーズで、ド直球の主要国が出た。

国の重要性からして、一巻200ページ余りではあるが、上下巻になった。

「王権」と「議会」という二つの要素が、対立と協調の試行錯誤を経ながら、一方が他方を圧倒することなく、相互依存と共存の関係を作り上げ、結果として少なくとも近現代の世界では最も良質で安定した政治を成立させた、というモチーフを持った通史。

決して長くはない紙数と簡略な叙述ではあるが、そのことが読み取れる内容になっている。

 

 

アングロ・サクソン七王国での統一への動きでは、まずマーシア王国のオファ王に触れ、(エグバートには触れず)デーン人襲来で唯一生き残ったウェセックス王国のアルフレッド大王と孫のアゼルスタン王、その甥エドガー王の治世を重視。

アゼルスタンが設置した「賢人会議」は、後の国王評議会と議会の起源となった。

「北海帝国」の征服者カヌートのデーン朝が成立、イングランドの「海峡を越えた王政」が始まり、その後ウェセックス朝が復活、エドワード証聖王が即位。

後継ぎに恵まれなかった証聖王死後、地方豪族出身のハロルド2世、ノルウェー王ハラールとの三つ巴の戦いを制したノルマンディー公ギョームがウィリアム1世として即位、ノルマン朝が始まる。

これら王位の転変においても、国王が支持を得る為に、賢人会議など臣下との対話と協調を保証したことは幸運なことだった。

王位争いはその後も続き、ウィリアム1世の子ウィリアム2世およびヘンリ1世を経て、ウィリアム1世の娘アデラの子スティーヴンとヘンリ1世の娘マティルダ(独帝ハインリヒ5世未亡人)間の内乱が勃発、結局マティルダの再婚から生まれたアンジュー伯ヘンリ2世が即位しプランタジネット朝が始まるが、そこでも父子・兄弟間の抗争が継続。

だが、これが国民の自由と自立の為には、肯定的に作用した。

ノルマン朝・プランタジネット朝とも、大陸に所領を抱え、その防衛の為に、臣下に課税についての協調を求めざるを得ず、海外遠征における王の不在や王位争いの末の王の廃位は議会の実権を大いに高めた。

フランスを始め、中世に身分制議会を持った国は少なくないが、イングランドの議会だけが国政において格別の重要性を持つに至った理由は上記のものと思われる。

百年戦争とバラ戦争を経て、国内では議会が確固たる地位を確立していたが、国際的にはヴァロワ朝フランスとオーストリア・スペインの両ハプスブルク帝国に挟まれたイングランドは依然小国に過ぎず。

17世紀には国王と議会の協力が崩れ、クロムウェルの独裁的共和政を経験するが、幸いにも伝統的国制を目指す復元力が働き、名誉革命で「議会君主政」が復興。

18世紀ハノーヴァー朝治下では、議院内閣制を確立、フランスとの植民地争奪戦に勝利。

19世紀には革命と戦争に明け暮れる大陸諸国を尻目に、選挙法改正・穀物法廃止・カトリック教徒解放などの改革を順調に推し進め、国内の騒乱と急進的変革を見事に阻止する。

20世紀に帝国の没落とアメリカ的大衆民主主義化の波に洗われ、大きな変容を余儀なくされながら、今も君主制と貴族院を守り続けている。

 

 

やはりこの国は、日本を含む多くの国にとって範とするに足る、鑑の役割を果たす存在といっていいと思う。

この中公新書『物語〇〇の歴史』シリーズの主要国では、中国が成功例で、ドイツが失敗例だと私は考えているが、これは前者に近いと言っていいんではないでしょうか。

限られた紙数で、平板な事実羅列式の通史ではなく、歴史的登場人物の個性と彼らの活動が織りなす物語性を感じさせる、特色のある歴史叙述を何とか成り立たせている。

「イギリス通史の決定版」という感じはしないが、普通に推薦できる良書。

しかし評価は「3」かな。

書名一覧の評価で「3 易」が多過ぎるから、もっとメリハリをつけた方がいいんだろうが、内容からするとやはり本書に「4」はつけられない。

なお、同じ著者の君塚氏が書いたイギリス君主の伝記は(『ヴィクトリア女王』『ジョージ五世』『ベル・エポックの国際政治』[エドワード7世伝]など)それぞれ充実した内容を持っているので、(本書よりも)お薦めです。

2018年8月27日

中澤俊輔 『治安維持法  なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:37

讒謗律・新聞紙条例(1875年)、集会条例(1880年)、保安条例(1887年)、治安警察法(1900年)などが知られる近代日本の公安立法の中で、最大級の悪名を着せられている治安維持法(1925年)の具体的研究。

1922年提出の過激社会運動取締法案が、その「宣伝」取締法としての性格から、言論弾圧の懸念を生み、不成立。

1923年虎ノ門事件、25年日ソ基本条約を経て、加藤高明護憲三派内閣で治安維持法成立。

日ソ交渉で、ソ連は相互の破壊的宣伝禁止を政府間では認めたものの、コミンテルンはソ連政府とは直接無関係との遁辞を吐いているが、これは正常な国際関係のルールが通用しない国家であることを自ら示したとしか言いようが無いと思える。

言論の自由を重視する憲政会の影響で、治安維持法から「宣伝」罪が除かれ、「結社」取締法として成立、「国体変革」と「私有財産制否認」を主張する結社の組織・加入を罰する。

なお原案では「国体」だけでなく、「政体」が護持の対象とされていたが、例えば貴族院・枢密院改革の主張がそれに抵触するとされる恐れがあることなどから削除。

しかし「政体」の文言を代議政体・衆議院と解して存置しておけば、すぐ後に来た政党政治の危機において極右勢力の攻撃を防ぐ上で、むしろ役立ったのではないかとの見解もある。

1928年三・一五事件での検挙者の多数が、共産党自体には加入しておらず、「結社」取締法としての治安維持法では対応できず。

外郭団体を取り締まる為に、同年田中義一内閣下で治安維持法改正。

この改正では、従来最高刑が死刑となったことが注目されてきたが、著者は「目的遂行」罪が導入されたことの方を重視し、これが以後拡大解釈されて猛威を振るうことになった。

(日本本国では、治安維持法違反のみを理由とした死刑執行例はゼロ。ただし取り調べ途中の拷問死や、植民地朝鮮での死刑執行例はあり。)

1930年代に入り、激しい弾圧とそれに伴う転向で共産党はほぼ壊滅、代わりに極右国家主義の脅威が台頭、その右翼テロを罰する為の改正が意図されたが実現せず、政党政治は没落。

41年支援結社・準備結社への罰則、予防拘禁の導入を内容とする二度目の改正実施。

新興宗教団体、植民地独立運動、反戦運動などにも適用範囲は広げられていったが、一方近衛新体制運動・大政翼賛会による総力戦体制整備が、「私有財産制否定」「幕府的存在による国体毀損」という観点から、ブレーキがかけられるという一面もあった。

 

著者は最後に以下のように述べる。

個人の言論の自由を不当に抑圧するような結社はやはり規制されてしかるべきである。

しかし、その為に政党は共産主義思想よりもまず不法な暴力(誹謗中傷という言論の暴力も含む)を取り締まるべきだったのであり、当然左翼だけでなく右翼のテロもその対象となる。

また、日本の命運をかけるには「国体」という言葉は漠然とし過ぎており、もっと真摯に言葉を選ぶべきであった、と。

 

この著者の見解はごく穏当なものだとは思うが、私としては本書の冒頭に記されている、過去に清水幾太郎が述べたような治安維持法肯定論に近い感想を抱いてしまう。

以下、あくまで個人的感想です。

私は、無制約の自由放任的資本主義がどれほどひどく社会を荒廃させ、悲惨な状況を作りだすかについては理解しているつもりです(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)。

それを防ぐ為、政府による規制と介入は絶対に必要である(中野剛志『保守とは何だろうか』)。

しかし、共産主義という狂信が勝利し、体制として確立した場合、どれほどおぞましい地獄の沙汰がもたらされるかは、20世紀の歴史が嫌と言うほど証明している。

例えば、小林多喜二のような人が持っていた超人的な勇気と自己犠牲の精神を、私も認めないわけではない。

だが、彼が拷問死していたのとまさに同時期のソ連では、国家の政策によって人為的に数百万人の農民が餓死させられていたし、その後に狂気の大粛清が始まり近現代史上最悪の暗黒政治と大量虐殺が訪れる(戦前昭和期についてのメモ その2)。

もちろん多喜二の死は日本国家にとっての不名誉であり、無かった方がよかった。

しかし、以上の対比は歴然とした事実である。

にも関わらず、いかに多くの知識人と大衆がその狂信に魅せられ、支持者となったかに驚かされる。

共産主義に対しては、その不法な暴力行為のみを取り締まり、「思想には思想をもって戦う」方針で言論・結社の自由は制限すべきではなかったというのが、現在の平均的意見かもしれません。

しかし、私には、完全な言論の自由を保証すれば、極端で過激な思想は自然に淘汰され、穏当な多数意見が予定調和的に形成されるという、自由民主主義の「神話」が信じられない。

多数派世論が完全に間違った偏向意見を支持して破滅的な結果をもたらし、世論が依存する基盤的自由自体が崩壊するという、民主主義の自己破壊は、実は歴史上しばしば見られることではないか。

共産主義国家の底無しの残忍さ・劣悪さが、戦後数十年間の左翼偏向世論でほとんど無視されていたことを思うと、戦前の「国家による闇雲な弾圧」にも一定の効果はあったと考えざるを得ない。

それが様々な弊害を生んだのは事実にしても、国家にそのような過剰反応をさせた民衆の側の責任は間違いなくあるはずである。

そして、治安維持法がほぼ無力だった右翼テロと軍部の暴走の原因となった排外的国粋主義も、民衆世論の中の急進主義・現状変革志向・革新熱・破壊衝動・攻撃欲の現われという点では、共産主義と同じものである(井上寿一『山県有朋と明治国家』福田和也 『昭和天皇 第四部』)。

そうした世論の根本的問題性を避けて、治安維持法を諸悪の根源として扱うのはやはり当を失していると思える。

 

 

以上は、あくまで私の個人的感想です。

本書の内容とはほぼ関係ありませんので、「何言ってやがんだ、馬鹿野郎」と思われた方も、本書を避ける必要はございません。

いろいろ考える材料を提供してくれる良書として推薦します。

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