万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年4月28日

ゴーゴリ 『死せる魂 上・中』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:18

タイトルに下巻が無いのは間違いじゃありません。

上・中巻が第一部で、下巻が第二部。

第二部は未完で、草稿状態に近いものらしいので、今回読んでいません。

死んだ農奴の戸籍を買い集め、金を騙し取ろうとする詐欺漢チチコフを主人公に、帝政ロシアの腐敗を暴いた作品、ということになるんでしょうが、文章に何とも言えないユーモアがある。

読みやすくて、十分面白い。

名作と言われる理由がわかる。

初心者でも十分通読できる古典として、推奨します。

2017年4月20日

板橋拓己 『アデナウアー  現代ドイツを創った政治家』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:02

第二次大戦後、ドイツの「西欧化」を決定付けた政治家を描いた評伝。

内政面では自由民主主義を定着させた。

ヴァイマル共和国の人民投票的民主主義と価値相対主義を排し、代表制を徹底させ、民主主義を破壊する勢力には寛容を適用せず闘う姿勢を取り、首相権力を強化した宰相民主主義を確立。

外交面では「西側結合」路線を選択。

それまでのドイツ外交は、東西を股に架ける「ブランコ外交」や、東方ロシアと結ぶ「ラパロ外交」、中東欧を自己の勢力下に収める「中欧政策」が主流だった。

 

 

コンラート・アデナウアーは1876年ケルンの中級官吏の子として生まれる。

敬虔なカトリック信仰を持つ環境で育つ。

ケルンのカトリック教徒は比較的リベラルで社会改良的。

ウィーン会議後、ケルンを含むラインラントがプロイセン領になったことは、高校世界史の範囲内で既知のことでしょう。

アデナウアーが成長した頃には文化闘争も終息しており、自治権も強く、反プロイセン感情は強くなかったという。

ケルン名門一族の娘との結婚を機に出世、中央党の支持を得て、1909年ケルン副市長となり、第一次大戦中1917年に市長就任。

翌1918年ドイツ革命勃発、当初レーテ勢力抑圧を試みるが、情勢を見て、革命勢力と決定的に対立せず、かつ主導権を奪われないよう巧みに実務能力を発揮し、革命の統御と急進化阻止に成功。

戦後イギリス占領軍と良好な関係を築く。

ここでラインラント分離構想問題が出てくる。

この問題について、戦後の混乱期に、四つの立場が現れた。

(1)「併合」路線=フランスへの併合

(2)「分離」路線=中立の「ライン共和国」独立

(3)「自律」路線=ラインラントをドイツ国家内の一州としてプロイセンから分離

(4)現状維持=これまで通りプロイセンの一部に留まる

アデナウアーは(3)の立場だったが、(2)の勢力とも一時連携を図ったことがあるため、「分離主義者、売国奴、戦勝国の手先」との非難を受ける。

しかし、アデナウアーはラインラントのドイツからの分離ではなく、プロイセンからの分離を主張しただけであり、これによってフランスの対独恐怖に配慮し、それを和らげることができると考えた。

(2)の勢力との接触も、単に政治的考慮からで、自己の信念とは関係が無いとされている。

ちなみにアデナウアーの構想は、第二次大戦後、ノルトライン・ヴェストファーレン州成立で実現されている。

ヴァイマル共和国時代も継続してケルン市長。

市のインフラ整備、大学再建に努める。

ナチ政権よりも前に、ケルン・ボン間のアウトバーンを建設して成果を上げるが、やや放漫財政の傾向もあった。

政党では中央党に所属していたものの、党人色は強くない。

1921年賠償問題での組閣難で、アデナウアーに首相就任の打診が来る。

「相対的安定期」の1926年にも社会民主党から人民党までの大連立内閣での首班となる打診があった。

双方とも、アデナウアーが首相の絶対的人事権を主張したため、流れる。

1933年ナチ政権成立、首相就任1ヵ月にもならないヒトラーのケルン訪問時に出迎えをせず、市道のナチ旗を撤去したことを切っ掛けに市長を罷免。

ナチに迎合する一部カトリックや中央党を冷ややかに眺める。

翌34年レーム事件時に逮捕され、一時拘留される。

以後引退し、年金生活へ。

44年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件で逮捕され、収容所送りとなる。

生き延びたものの、終戦時にはすでに69歳であった。

米軍によって再度ケルン市長に任命される。

しかし45年6月占領軍がイギリス軍に替わると、それと衝突し10月に罷免。

結果的にはケルン市長の業務に没頭することを避けることができ、個人的キャリアにはプラスとなった。

政治信条としては、国家の神格化、物質主義、ナショナリズムへの傾倒を批判、政治におけるキリスト教倫理的基盤の回復を主張。

工業化・都市化による個人の「根無し草化」が物質主義を通じて国家と権力への崇拝を生んだ、マルクス主義もその一種であり、ナチズムとスターリニズムは同一の範疇に属するとする。

個人主義(というより人格主義の言葉を用いた方が適切かもしれないと著者は記す)を擁護し、徹底した反共主義を貫く。

ただ、ソ連を批判して「アジア的」と表現するのは、ドイツ人の悪い癖だなあと個人的には感じる。

戦後、カトリック・プロテスタントの枠を超えた超宗派的政党結成の機運が盛り上がり、45年7月ベルリン、ケルン、フランクフルトなどでキリスト教民主党(CDP)が結成される。

この地方レベルでの自生的な動きを全国レベルで組織化することが目指されるが、その過程でベルリン・グループ指導者ヤーコプ・カイザーらとアデナウアーの主導権争いが生じる。

45年12月キリスト教民主同盟(CDU)結成、アデナウアーは、綱領でキリスト教社会主義色を排除し、外交面でも東西間の架け橋を目指すとするカイザーらに反対。

ソ連占領地域において、共産党が社会民主党を吸収合併して成立した独裁政党、社会主義統一党(SED)の圧力でカイザーがCDU議長を解任され、ベルリン党の影響力が減退。

CDUとキリスト教社会同盟(CSU バイエルン州のみを基盤とする、より保守的な党派)が共同議員団を結成。

自由民主党(FDP)と北ドイツの保守政党ドイツ党(DP)と連携し、社会民主党(SPD)を排除することをアデナウアーは目指す。

1947年冷戦が進行し、トルーマン宣言とマーシャル・プランが発せられる。

48年2月チェコが事実上のクーデタで共産化、3月ドイツの西側占領区統合と西ドイツ国家創立決定。

同48年通貨改革とベルリン封鎖。

(憲法ではなく)暫定的性格の「基本法」制定会議議長にアデナウアーが就任。

占領軍との「特権的対話者」の位置を占め、ドイツ国内での調停者的立場の有利さも享受する。

1949年5月基本法採択。

首都はフランクフルト・アム・マインではなく、ボンと定められる。

ボン基本法にはヴァイマル憲法の反省が盛り込まれる。

ヴァイマル共和国時代、まず民意を正確に反映するとされた比例代表制が小党分立による政治の不安定化を招いた。

ナチ、共産党ら反議会主義勢力が過半数を占めると議会政治が麻痺し、人民投票に基づく強大な大統領権力に依拠した政権運営が行われた。

ボン基本法では、大統領は名誉職化し儀礼的存在とされ、さらに国民の直接投票ではなく議会による選出とされる。

「建設的不信任」制度を採用し、内閣不信任案の成立には、議会で後任内閣を支持する勢力を準備する必要を課し、議会解散も厳重に制限。

国民発案(イニシアティヴ)、国民票決(レファレンダム)など、直接民主主義制度を廃止。

「闘う民主主義」の立場から、「憲法敵対的」政党を禁止、共産党とネオナチ政党が実際に禁止判決を受けている。

首相の「基本方針決定権限」(65条)を制定、首相権限を強化。

基本法条項ではないが、選挙法において「5%条項」を定め、5%以下の得票率の政党には議席を与えず、小党分立による混乱を回避。

 

 

こういう施策を見て、どう思います?

「ドイツはナチスを生んだ反省から、第二次大戦後、より民主化した政治制度を採用した」と思いますか?

逆ですよね。

国民投票など直接民主主義的制度を退け、国家元首を人民の直接投票で決めることも止め、政治の安定化のため実質的権力者である首相の地位と権限を強化し、死票が増えることも厭わず完全比例代表制を捨て、結社・言論の自由を(たとえ一部たりとも)制限する。

戦後ドイツがやったことは「民主化の徹底」ではなく、「民主主義の制限」です。

そうとしか言い様がない。

狂信的な大衆運動がナチズムを生んだことへの反省から、そうした衆愚が政治に与える影響を少しでも抑止しようと、民主主義を、特に直接民主主義を制限したんです。

(政治的立場の左右を問わず、だが、最近では特に右寄りの)多数派民意を絶対視し、それをありとあらゆる問題に反映すれば、すべては解決すると考え、重要課題はすべてネットの国民投票で決めろと言う(残念ながら現在の世界、特に日本では圧倒的多数を占める)人間は、近現代の世界史と日本史から何一つ学ぶことができない、本来なら政治について何の発言権も持つべきではない愚か者です。

「いや、そんなことはない、戦後、我々は過去への反省から、民衆の意志を権力の正当性を保障する唯一の源泉と考え、民主主義を選んだんだ」というドイツ人がいたら、「今のご発言は、“我々は国民の51%が望めば、再び、断固として、ヒトラーに権力を与える”と私は解釈しますが、それでよろしいですか?」と問い詰めたいです。

 

 

1949年8月第一回連邦議会選挙が行われ、CDUは「社会的市場経済」を掲げ、SPD党首シューマッハーと対決し、勝利。

9月大統領にFDP出身のホイス就任、アデナウアーを首相として、CDU、CSU、FDP、DP政権樹立。

何より注意すべきなのは、この時点でのドイツ連邦共和国(西ドイツ)は主権国家ではないこと。

米英仏の高等弁務官が軍事・外交・最終警察権を留保し、外務省も建国時にはなく、軍隊もなし。

49年10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、大統領はピーク、首相はグローテヴォールだが、実質的最高指導者はウルブリヒトか。

首相となったアデナウアーは「西側結合」外交を最重視し、西ドイツ主権回復とヨーロッパ統合を同時に追求。

本書ではここで『ドイツ再軍備』が薦められている。

50年5月仏外相シューマンと計画庁長官ジャン・モネが立案したシューマン・プランが提出され、同年6月勃発の朝鮮戦争がもたらした危機感の中、51年欧州石炭鉄鋼共同体条約調印、欧州統合の第一歩が踏み出される。

安全保障面では、50年10月仏首相の発案によるプレヴァン・プラン発表。

「欧州防衛共同体(EDC)」を設立し、その統制下で西ドイツの再軍備を行うというもの。

このEDCは、「失敗し、成立しなかったことが重要史実である」という珍しい例。

高校レベルでは出てこないが、初歩的な国際政治史では必ず出てくる。

西ドイツ内での再軍備議論が激しくなり、内相ハイネマンは再軍備に反対し辞任(のちにSPD入りし、1969年には大統領となる)。

「ブランク機関」が設けられて再軍備の研究・準備が進行、それが国防省となる。

51年外交権回復、外相はアデナウアーが兼任。

ドイツの復興と西側陣営の結束を見たソ連は52年スターリン・ノートを提示。

東独の共産主義政権を事実上放棄し、ドイツの再統一を容認する代償に、中立化を要求。

自由選挙と国防に必要な軍事力を容認するもの。

これは西側への揺さぶりや「平和攻勢」ではなく、真剣な取引の可能性があった。

空想的平和主義者や親共主義者ではない、現実主義者からも交渉を主張する人々がいた。

与党内のカイザー、ブレンターノらもそれを支持。

だが、ソ連崩壊後の最近の研究では、「西側同盟内で再軍備した西ドイツよりは、東ドイツを犠牲にしてでも、再軍備した中立・統一ドイツをソ連は好んだ」という主張は支持されず、この時点でドイツ再統一の好機を逸したとは考えられていない、と書かれている。

ただ、アデナウアーの方針が正しく、ソ連の意図を見抜いたのではなく、自身の見解に固執しただけ、との評も記されている。

53年訪米、アイゼンハワー政権の国務長官ダレスと意見一致。

同年スターリン死去、東ベルリン暴動が起こり、対共産圏強硬姿勢への支持が高まり、第二回議会選挙で圧勝。

基本法の連邦権限に国防義務を補充。

54年仏議会が上記EDC批准を拒否、英外相イーデン(第二次チャーチル政権)の主導で、48年調印のブリュッセル(西欧連合)条約に独伊を加入さた上で、パリ協定を締結、西ドイツのNATO加盟と主権回復を達成(ただし統一とベルリンについての権利と責任は留保)。

西独は核・生物・化学兵器を条件付きで放棄。

55年国防省設立、外相にブレンターノ就任。

同年東側ではワルシャワ条約機構設立。

フルシチョフ政権はドイツ統一と中立化よりも、ドイツ分断固定化と東ドイツの維持・安定化を目標とするようになる。

55年アデナウアーはソ連を訪問、国交を樹立。

外務次官の名を取ったハルシュタイン・ドクトリンを採用、(ソ連を例外として)東ドイツと外交関係を持つ国とは断交するとの方針。

57年対ソ和解したユーゴスラヴィアが東独を承認すると、断交を実施。

同年ザールラントが復帰し、独仏間の懸案が取り除かれる。

ベルギー外相スパークの提案でさらなる欧州統合が計られ、原子力問題での自立性や米英協調志向の経済相エアハルトらの反対を押し切り、アデナウアーは57年欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(ユーラトム)条約調印(翌年発効)。

イスラエルとの和解の一歩へも踏み出し、52年ルクセンブルク補償協定に調印、イスラエルとユダヤ人団体への補償を行い、イスラエル首相ベン・グリオンと協力、56年スエズ戦争時、ダレスの要請にも関わらず支払いを停止せず(それぞれの後任、エアハルトとエシュコル間は関係が険悪であった)。

ただ、ドイツ人の集団的罪責は否定し、ドイツ人もナチの被害者と位置付ける傾向があったとの批判も受けた。

外交面での華々しい活動に比して、内政面では閣僚・議会任せの感もあり。

宰相民主主義と呼ばれる、首相権力の安定化・強化に努力。

それに協力した首相府次官グロプケは、実は悪名高きニュルンベルク法の注釈を書いた人物であり、一部で非難を浴びた。

これはやや暗い名だ。

CDU組織の脆弱さを逆に利用、調停者として自己の権威を高めることに成功。

DPなど右派小政党を吸収。

反共の立場のSPDを、やや不当にも反マルクス主義宣伝で批判。

50年代奇跡的経済成長を達成、社会保障制度を整備。

57年第三回選挙でも圧勝。

後継者として台頭した経済相エアハルト(より自由主義経済の原則に忠実な専門化タイプ)と対立。

59年大統領ホイスが任期満了、ホイス三選を目論むが失敗、次にエアハルトを大統領職に祭り上げようとして失敗、さらにはアデナウアー自身が立って閣議への参加権などを定め、大統領が実質的権力を持つという、かつて自身が禁じていた方針を目指し、さらに失敗、権威を失墜させる。

結局農相リュプケが大統領就任。

58年ド・ゴール政権成立、第二次ベルリン危機、米英ソの頭越しの妥協を恐れ、それを牽制するため独仏枢軸路線を採用。

61年ケネディ政権誕生、ベルリンの壁構築、第四回選挙で辛勝。

米国との懸隔が生じ、独仏枢軸による一定の対米自立を目指す「ゴーリズム」と対米協調を最重視する「大西洋主義」のうち、前者を選択。

SPDは59年バート・ゴーデスベルク綱領を採択、マルクス主義と絶縁、国民政党として政権担当能力を示す。

62年NATO機密報道をめぐって雑誌『シュピーゲル』編集長らを逮捕、この事件で一時FDPが連立離脱。

63年エリゼ条約(独仏友好協力条約)調印。

同年ド・ゴールはナッソー協定(米潜水艦ミサイルの対英供与)を批判し、英のEEC加盟を拒否。

しかしエリゼ条約も一部修正され、結局「EEC=NATO体制」を大枠で確認するものに留まる。

同63年アデナウアーは首相を辞任、67年に死去。

 

 

最後にアデナウアーの西側結合の永続性についての評言。

ブラント政権の東方政策は「中欧路線」という伝統と「西側結合」との統合と言えるが、ドイツにとって西側との協力はもはや「国益」を超えた「国家理性」となった。

内政で、国民をあまり信用しなかったアデナウアーが権威主義的とも言える指導によって基本法秩序を安定させ自由民主主義を定着させた。

ドイツの歴史問題について、内心ではナチへの集団的罪責を認めていた面もあるが、それへのナショナリズムの反動を恐れ公にはせず。

しかしそれでも「過去の克服」の出発点を築いた、と著者は評価する。

そして著者は、本書末尾で、自国民のナショナリズムを煽り、迎合する「保守」政治家がのさばる日本へのやり切れなさを記している。

これは、政治史研究者としては失格の、時代も国際環境も無視した稚拙な所感だが、そう思ってしまったのだから仕方ない。

昔の私なら反発していたであろう記述だが、今の余りに酷い世論状況を見ると、そんな気持ちも無くなります。

 

 

非常に良い。

コンパクトながら、内容は極めて充実している。

初心者にとって有益な知識が吸収しやすい形で配されている。

『アデナウアー回顧録 1』『同 2』を以前紹介しているが、入手も通読も困難なので、本書を読んだ方がいいでしょう。

効用の高い入門書として十分お勧めできます。

2017年4月18日

マーク・トウェイン 『アダムとイヴの日記』 (福武文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:48

神に造られた最初の人類、アダムとイヴの象形文字で書かれた日記を、著者が解読して記した、という設定の短編。

他愛もないユーモア、パロディ小説と言えばそれまでだが、最後は哀感を誘う。

挿絵が毎ページ入っているので、あっという間に読める。

『王子と乞食』と同じく、大いに薦めます。

2017年4月14日

南川高志 『ユリアヌス  逸脱のローマ皇帝』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 02:14

この薄いシリーズは、書店や図書館でよく見かけてはいた。

巻末のリストを見ると、全100巻で世界史上の有名人をカバーしている。

内容的には特にどうと言うこともない。

大体知ってることが多いので。

この皇帝は、中世キリスト教時代には当然悪罵の限りを尽くされたが、近世以降は、同時代人でタキトゥスに次ぐラテン語史家とされるアンミアヌス・マルケリヌスの同情的叙述が見直され、好意的に語られるようにもなった。

その代表が、ギボン『ローマ帝国衰亡史』であり、日本では辻邦生『背教者ユリアヌス』がある。

一方現代アメリカの歴史家バワーソックのように、批判的な評価を示す研究者もいる。

私自身は初めてギボン『衰亡史』を読んだ時の印象が余りに強烈で、この皇帝には強い好意を持つようになった。

とは言え、異教復興という政策には無理があったと思われるのも事実である。

ローマとヨーロッパ文明はキリスト教受容による発展が歴史の正道だったとしか考えられない(引用文チェスタトン1)。

その流れに逆らったユリアヌスは、巨視的に見れば、やはり「背教者」の名に値する。

しかし、非常に魅力的で興味深い人物であることには変わりないと今でも思ってはいます。

 

 

紙数が少な過ぎる。

ほぼ100ページですからね。

よっぽどマイナーな歴史的人物でない限り、物足りなさが残ってしまう。

初学者の小手調べとして利用するのならいいのかも。

興味のある人物の巻なら、手に取ってもいいでしょう。

2017年4月10日

ロマン・ロラン 『ピエールとリュース』 (みすず書房)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:13

『ジャン・クリストフ』を読む気がどうしてもしない。

一度決心はしたんですが、やはり岩波文庫の分厚い分冊を見ると、手に取る気が失せました。

『戦争と平和』だって読んだんだろ、サボるんじゃないよ」という声が心の中から聞こえてきますが、いややっぱり19世紀の大長編小説と20世紀のそれとは違うんですよ。

文学全集でも『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』が、『戦争と平和』と同じ巻数を費やして収録されているのを見ると、「何かアンバランスだなあ」という気持ちを禁じ得ない。

しかしロランの作品が『愛と死との戯れ』だけなのも格好付かないと思ったので、短編のこれを選びました。

第一次世界大戦末期のパリを舞台に、偶然出会った若い男女の悲恋を描く。

ほんの小品だが、いかなる特権階級も存在しないはずの民主的共和国において、世論が絶対的な専制者となり、無力な個人が戦争の地獄に放り込まれていくメカニズムが読み取れる。

 

著名文学者の穴埋めのつもりで読んだが、悪くは無かったです。

私の感性では、それ以上の感想は持てません。

2017年4月6日

ジョン・ロック 『市民政府論』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:58

はるか昔、学生時代に岩波文庫版を通読済み。

もう記憶も完全に薄れているので、この新訳で再読。

他に中公クラシックスにも収録されているが、訳は「世界の名著」シリーズからのもので、新しくはない。

あと、現在の岩波文庫には第一篇も含めた新しい全訳が収録されています。

最近の邦題は『統治論二篇』としている場合が多いが、この訳書は昔ながらのタイトルを採用している。

読んでみましたが・・・・・予想通り全然面白くない。

難解で何を書いてあるのか分からない、ということはない。

初心者でも多少の忍耐を持ってすれば、普通に読める。

だが内容的には感心したり、心に残るところはほとんど無い。

家父長権からの類推を根拠に絶対君主制を擁護するフィルマーら王権神授説論者への批判に説得力を感じないでもないが、歴史上実際の「絶対王政」は諸身分の様々な特権によって制約され、恣意的な独裁権力には程遠かったわけですから。

「自然状態」と「社会契約」という仮構に基づき、平等な原子的個人からのみなる社会を目指した近代の果てに何があったか。

ロックの叙述から「多数の専制」への懸念がほとんど感じられないことに改めて驚く。

自由で平等な個人の多数派が易々と低劣・野蛮な狂信に囚われ、いかなる世襲君主も及びもつかないほどの圧政を敷く独裁者を生み出すことになるとは、ロックには想像だに出来ないことだったんでしょうか。

「自由民主主義の標準的テキストブック」という以上の印象を持つことは難しい。

高校・大学で学んだ内容を原典に当たって確認することに多少の意味はあるでしょうが、まあそれだけですね。

訳文は流暢で読みやすいが、解説は特にどうと言うこともない。

むしろ、ロックを現在のリバタリアニズムの祖として評価するかのような記述は、正直ちょっと気持ち悪いです。

まあ、これだけ有名な著作ですから、知的見栄の為に一読しておくのも決して悪くないでしょう。

2017年4月2日

ブレヒト 『三文オペラ』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 00:58

ロンドンを舞台にした、職業的物乞い団の「社長」の娘と窃盗団の首領の恋を主題にした演劇。

ワイマール共和国時代の1928年に初演され、大成功を収めたそうだが、表面的に読めば、訳のわからないドタバタ劇にしか見えない。

ブルジョワ社会の俗悪さへの批判などということが読み取れなくはないが。

これをブレヒトの代表作として高校教科書に載せるのは不適切に思える。

『肝っ玉おっ母とその子どもたち』の方が、はるかに心に染み入るものがあった。

 

まあ、つまらないです。

高校生の頃から名前を知っている名作が、私にとっては面白くなく、理解もできないと、わかったことが収穫です。

2017年3月28日

栗田和明 根本利通 編著 『タンザニアを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 02:06

東アフリカにある国。

北はケニアとウガンダ、西はルワンダ、ブルンジ、コンゴ民主共和国、南はザンビア、マラウィ、モザンビークに接する。

自然環境では、アフリカ最高峰キリマンジャロ山が存在、北にヴィクトリア湖、西にタンガニーカ湖、南でニャサ湖に面する。

首都は中部のドドマだが、中心都市は東海岸近くのダルエスサラーム。

スワヒリ語が公用語、宗教的にはキリスト教徒とイスラム教徒が半々ほど。

歴史としては、イスラムの影響が浸透してくるまではよく分からない。

バントゥー語とアラビア語が合わさって、スワヒリ語が形成。

16世紀ポルトガルがモザンビークを占拠。

それに対抗して、オマーンのイスラム勢力が沖合いのザンジバル島を中心に海上帝国を築くが、1890年イギリスによって保護領化。

1884~85年アフリカ分割に関するベルリン会議で、現在のタンザニア本土はドイツの勢力圏下に。

1905~07年「マジマジの反乱」が起こるが、ドイツ軍に徹底的に弾圧される。

第一次大戦後、イギリスの委任統治領タンガニーカとなる。

1961年独立、翌年ニエレレが大統領就任。

63年ザンジバルが英保護領時代も継続して在位していたスルタンを元首とした立憲君主国として独立したが、翌64年アラブ系とアフリカ系の対立から革命勃発、同年タンガニーカと合邦し、タンザニア連合共和国となる。

ニエレレ政権は徐々に西側諸国と距離を置き、内政ではアフリカ社会主義を標榜、農村での「ウジャマー社会主義」建設を唱えたが、農業集団化と基幹産業国有化という政策は当然行き詰ります。

ニエレレは経済不振の責任を取って1985年辞任。

しかし、私財蓄積もせず、自身への個人崇拝を嫌い、アフリカ諸国では通例となっている内戦やクーデタ、軍政を経ずに国家の統一と平和を維持し、宗教・民族をめぐる対立を深刻化させなかったという点で、依然「国父」としての尊敬を集めている、本書では記されている。

私はもう少し厳しい意見が記されているのかなと予想していたので、やや意外の念を持ちましたが、もちろんこういう見方もあるんでしょう。

その後の政局は特にフォローしないでいいでしょう。

国の位置と、イスラムの影響、独→英という宗主国の変遷、ザンジバルとの合邦、ニエレレという人名、この国についてとりあえず憶えるべきことはこれだけ。

何か国際ニュースになった時、その都度記事を参照すればいい。

それで困ることは無いでしょう。

2017年3月23日

ゴンチャロフ 『オブローモフ 上・中・下』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:16

原著は1859年刊。

高校世界史では影も形も無い、少々詳しい文学史ではないと出てこない著者と作品名である。

ただ、非常にユニークな作品であるということは、仄聞していた。

あらゆることに無気力で、両親より受け継いだ領地から上がる年貢を糧に、従僕のザハールと共に無為徒食の日々を送る主人公オブローモフを描いた、「元祖ひきこもり小説」。

主人公唯一の親友であり、活発で有能なシュトルツは、オブローモフを社会活動に連れ出そうと、知的で清純な美少女オリガを彼に紹介する。

すると、彼もオリガも互いに愛し合うようになる、という都合の良すぎる展開に。

だが、オブローモフの生活上の無能力さに、さすがのオリガも愛想を尽かし、二人は別れる。

その後、オブローモフは性質の悪い知り合いに騙され、あやうく食い物にされそうになるが、再登場したシュトルツに救われる。

シュトルツとオリガは、オブローモフを何とか無気力な生活から連れ出そうとするが、それも実を結ぶことなく、彼はこの世を去る。

ほとんどの人は、主人公のあまりの駄目人間振りにあきれ果てるでしょうが、私自身は、間違いなく自分にも同様の性質があることがわかっているので、何とも言えない同情と共感の念を抱いてしまう。

それにオブローモフにも否定的な面しか無いわけでもなく、後半でシュトルツの身の上に起こったある事実を知って心から彼を祝福したり、自分を害そうとした人物に対し、自分以外の人への侮辱について激怒したり、と時には感動的なまでの振る舞いをすることもある。

シュトルツが作中で言うように、オブローモフはこれ以上ない駄目男ではあるが、善良で潔白な魂も持っている。

 

 

これは凄い・・・・・。

とんでもない怪作だ。

感想に窮するが、非常に印象的な作品であることに間違いはない。

普段あまり文学など読まないという方にも十分薦められる。

機会があれば、是非お読み下さい。

2017年3月16日

佐藤賢一 『ヴァロワ朝  フランス王朝史2』 (講談社現代新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 05:26

『カペー朝』の続編。

2014年刊。

本書を読む上で、当然全ての国王を憶えることを目標にする。

以下、内容メモ。

 

 

 

フィリップ6世(1328~1350年)

王権を大いに伸長したフィリップ4世の子、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世(とルイ10世の嬰児ジャン1世)が次々に死去。

王朝成立以来、奇跡とも呼ばれる単線的な父子継承を続けてきたカペー朝もさすがに断絶。

フィリップ4世の兄弟ヴァロワ伯シャルルの子フィリップ6世が即位、ヴァロワ朝が成立。

と言っても、要は従兄弟に王位が移っただけである。

ここで前著『カペー朝』の記事末尾で、私が書いた疑問に触れられている。

なぜこの程度の継承が王朝交替と見なされるのか、後述のヴァロワ朝内部の継承では、より不自然なものが見られるのに、という疑問です。

結論は、英国王エドワード3世が異議を唱え、王位継承権を主張し、百年戦争という大事件が勃発したため、結果として王朝交替と見られるようになった、ということです。

フィリップ4世の娘で三国王の姉妹イザベルがエドワード2世と結婚、そこから生まれたのがエドワード3世。

先代エドワード1世がウェールズ征服を成し遂げたのに対し、エドワード2世はスコットランド王のロバート・ブルースに大敗、イザベルは、このように失政の多かった夫を宮廷クーデタで廃位し、息子の3世を王位に就けている。

1339年フランドル伯領の争いも絡んで百年戦争勃発。

ブルターニュ公国の継承争いにも英仏が介入。

1346年、北仏を西から東に荒らしまわるエドワード3世にフィリップ6世が応戦し、最初の決定的な戦闘、クレシーの戦いが起こる。

英軍が国王の命令一下、騎兵が下馬して敵を待ち受けたのに対し、統制の取れない仏軍は中世騎士の習いでただただ突進するだけ。

左右に配置された英軍の長弓兵の餌食となり、その後騎兵の突撃を受けて、仏軍は大敗。

王弟、フランドル伯など重要人物の戦死も相次いだが、その中にボヘミア(ベーメン)王ヨハンがいたことを記憶しておく。

ヨハンはルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で、のちの皇帝カール4世の父、ジギスムントの祖父に当たる。

このクレシーの戦いが1346年です。

年号をもう一度見て下さい。

「何か、もうすぐとんでもないことが起きそうだなあ」と感じませんか。

思いません?

出来れば思いついて欲しいんですが。

 

 

 

 

1348年前後の黒死病の大流行です。

(1648年ウェストファリア条約、1848年仏二月革命・独三月革命など全欧規模の革命、と並んで憶えるべき「三つの48年」の一つです。)

ヨーロッパ全域で人口の三分の一が失われたとも言われる、破滅的な災厄となった。

フィリップ6世はドーフィネ候領を購入して獲得するなど(フランス王太子の称号ドーファンの語源)、手堅い政治的手腕を見せたこともあったが、その治世はやはり散々なものと言わざるを得ない。

1350年崩御、子のジャンが跡を継ぐ。

 

 

 

ジャン2世(1350~1364年)

高校世界史では用語集にだけ名前が出るレベルの国王だが、正直、ローマ帝国のヴァレリアヌス帝やオスマン朝のバヤジット1世と並んで、「捕虜になった人」というイメージしかない。

父王に比べれば軍事的才能には恵まれており、国王の命令が貫徹される軍の設立を目指す。

1356年ポワティエの戦いが勃発。

友軍との合流に失敗した黒太子エドワードをジャン2世が捕捉、英軍六千、仏軍三万と数では圧倒的にフランス優位。

今回は仏軍騎兵も国王の命令で下馬したが、徒歩であっても単純な突撃戦法は変わらず、前回同様長弓の餌食となり、大敗を喫する。

ジャン2世自身も捕虜となるが、厳しい監禁生活は強いられず、王侯にふさわしい待遇を受ける。

この戦いで奮戦した王の末子フィリップが「豪胆公」と呼ばれるブルゴーニュ公の祖となったことは要記憶(他の本では「剛勇公」の訳語を当て、「豪胆公」(あるいは「突進公」)は四代目ブルゴーニュ公のシャルルに与えるものもある)。

危機の中、王太子シャルルは全国三部会を招集。

ところが、パリ商人頭(市長)のエティエンヌ・マルセル率いる平民議員は顧問会議による王権の掣肘を主張、王太子の側近が殺害されるなど、革命の様相すら見せ始める。

農村では1358年ジャックリーの乱が起こる。

王太子は両反乱を何とか鎮圧。

イギリスとの交渉では、ポワトゥー、アキテーヌ、カレー市周辺など王国の三分の一と莫大な身代金を代償にジャン2世解放。

で、履行保証のため、国王の身代わりに第二・第三王子などが人質になったのだが、第二王子が逃亡し外交問題になると、傑作なことにジャン2世は海を渡り、自発的に再度捕虜になった。

本書でも記されているように、一国の統治者としては軽率な振る舞いかもしれないが、戦争に国民的憎悪が不在で、名誉とフェア・プレイを重んじる中世の理想が存在していたことは称賛に値すると言うべきかもしれない。

ジャン2世はそのままロンドンで客死。

 

 

 

シャルル5世(1364~1380年)

初代、二代目と散々な治世が続いたヴァロワ朝だが、このシャルル5世の時代に顕著な立ち直りを見せる。

神聖ローマ皇帝カール4世は母方の伯父にあたり、王太子時代に金印勅書発布の場にも居合わせたという。

病弱ではあるが、頭脳明晰、着実に事を進める堅実さを持つ。

タイユ(人頭税・直接税)、エード(消費税・間接税)、ガベル(塩税・間接税)という大革命に至るまで王国財政の基礎となる恒常的全国課税制度を確立。

それまで直接支配する王領の年貢収入25万リーヴルほどに頼っていた王国の予算は、次代シャルル6世時代にかけて200万リーヴル規模に拡大したという。

デュ・ゲクランという小貴族を王国軍総司令官に抜擢、傭兵隊の弊害を避けるため、小規模ながら常備軍を整備。

フランドル伯継承者の女子と末弟ブルゴーニュ公フィリップ(捕虜から解放された際の父ジャン2世によって跡継ぎの無かった公に据えられていた)を結婚させ、ネーデルラントとブルゴーニュを結びつける(中世末期ブルゴーニュはフランスに併合、ネーデルラントは政略結婚政策でハプスブルク家領に)。

各地の要塞を整備、パリにバスティーユ要塞を建設したのもこの王。

ナバラ王国、ブルターニュ公領、カスティリャ王国にも介入。

イギリスとも再戦し、カレー、ボルドー、バイヨンヌなどの港湾都市とその周辺にのみ、英領を封じ込める。

1377年エドワード3世没、孫のリチャード2世即位。

1378年アヴィニョンとローマに両教皇並立(~1417年。教会大分裂[大シスマ])。

ブルターニュの併合には失敗した後、1380年シャルル5世崩御。

 

 

 

シャルル6世(1380~1422年)

シャルル5世の治世に大きく立ち直ったフランスだが、このシャルル6世時代にその国威はどん底にまで落ちてしまう。

11歳で即位。

叔父のアンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公が補佐するが、その中でブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)が台頭。

ブルゴーニュ公に対し、バイエルン公家出身の王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールと王弟ルイ(のちオルレアン公になり、ミラノ公ヴィスコンティ家の娘と結婚)が対抗、両者のバランスの上に、シャルル6世は親政を開始する。

だが、1392年頃から王は不幸にして精神異常の兆候を見せ始め、定期的に正気と狂気の間をさまようようになる。

国王という要を失った国は、ブルゴーニュ派とオルレアン派に分裂していく。

英仏間は長期間の休戦協定が結ばれ、シャルル6世の王女が英国王リチャード2世に嫁いだが、1399年リチャードは王位を奪われ、従兄弟のヘンリ4世が即位、ランカスター朝が成立。

1404年ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が病没、子のジャン無畏公が登位。

ジャン無畏公はパリを占拠し、オルレアン公ルイとイザボー王妃は地方へ逃れる。

一時和解が成立したが、1407年オルレアン公がブルゴーニュ派に暗殺され、いよいよ両者の対立はのっぴきならないものとなり、宮廷内の勢力争いから、武力衝突を伴う内乱のレベルになってしまう。

新たにオルレアン公となったのは子のシャルルで、その後ろ盾になったのが義父の有力諸侯アルマニャック伯だったので、以後オルレアン派はアルマニャック派と呼ばれるようになる。

両派ともにイギリスに支援を求めるという致命的行為を為し、それに消極的だったヘンリ4世が1413年死去すると、替わったヘンリ5世は再度フランスに上陸。

ブルゴーニュ派は「カボッシュの乱」という混乱を引き起こしてしまい、パリを退去、替わってアルマニャック派が入城、中央政権を奪取。

このアルマニャック派政権とヘンリ5世軍が激突したのが、1415年アザンクールの戦い。

クレシー、ポワティエと同じく、数では四分の一以下のイギリス軍が長弓兵の威力で圧勝、仏軍は惨敗する。

さらに、王太子と弟が病没、シャルル6世の末息子シャルルが王太子に昇格、アルマニャック派の旗印になる。

王太子は政争の種となってきた母イザボーを追放するが、イザボーはブルゴーニュ派に投じ、パリを奪還、再びブルゴーニュ派がフランス王家を代表することになる。

これまで親イングランド政策を続けてきたジャン無畏公だが、ヘンリ5世がパリ進軍の気配まで見せるようになると、さすがにアルマニャック派との和解に動く。

王太子シャルルとの会見が準備されたが、そこでジャン無畏公が暗殺されるという衝撃的事件が起こる。

この破滅的事件で内乱への最後の箍が失われてしまった。

激昂したブルゴーニュ派と三代目の公フィリップ(善良公)は「アングロ・ブールギィニョン同盟」を締結、アルマニャック派を不倶戴天の敵と見なし、フランス王国の保全よりもアルマニャック派への復讐を優先するようになる。

後世から見て、党派争いの為に敵国と結ぶのは「裏切り」「売国」の印象が強く、百年戦争におけるブルゴーニュ派にはどうしてもそのイメージが付きまとうが、ナショナリズムと国民国家成立前にはそれが奇異で嫌悪すべきものとの感覚が共有されていなかったし、そもそもブルゴーニュ公も三代目となると、フランス人というより重要な領地であるフランドル人としての自己意識の方が強かったのではないかと本書では述べられている。

1420年トロワ条約締結。

将来のシャルル6世死後、その王女と結婚したヘンリ5世がフランス国王となり、英仏両王国は統合され、同君連合を結び、王太子シャルルは廃嫡される、との内容。

もしこれが実現していたら、世界の歴史は全く変わっていたはずである。

しかし、運命の女神はそのような道を許さなかった。

1422年ヘンリ5世は35歳の若さで死去、その後同年中にシャルル6世も亡くなるが、わずか二ヵ月の差で、ヘンリ5世はフランス王にはなれず。

後継ぎのヘンリ6世はまだ赤子に過ぎず、もしヘンリ5世が強健なまま、王太子シャルルと対峙していたら、との空想は興味深い。

 

 

 

シャルル7世(1422~1461年)

身体能力に恵まれず、外見もぱっとせず、利発とも言えないこの王が百年戦争を勝利に導くことになる。

父シャルル6世の摂政に指定されたアンジュー公家の娘と結婚、賢夫人と定評のある義母ヨランド・ダラゴンの影響を受ける。

父の死後、フランス国王即位を宣言したが、イングランド・ブルゴーニュ派からは「ブールジュの王」と呼ばれる。

ただ、教科書などでは、このシャルル7世の即位当初のフランスを「崩壊寸前」と描写しているものも多いが、この最悪の時期でも中部から南部にかけて、フランス王国の半ば以上はシャルル7世の支配下にあり、あまり窮状を誇張すべきでもない、という意味のことが書かれている。

とは言え、アルマニャック派内部の政争もあり、厳しい状況だったのは確かである。

そこに1429年ジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアンの包囲を解いて入城する。

ジャンヌが王と会見し、信頼を得たのはヨランド・ダラゴンの手引きであり、王に語ったのは母イザボーの奔放な振る舞いから、本当は自身が父王の子ではないのではないかとの疑惑を払拭するに足る出生の秘密ではなかったか、との説もあるが、この辺の真相は永遠に不明でしょう。

オルレアン包囲戦について、ジャンヌの戦術自体は単純で、持久戦となり、各砦に戦力を分散させ過ぎていたイングランド軍を、ジャンヌの登場で戦意が向上していたフランス軍が各個撃破した、というもの。

その背景として、長年続いた戦争とその被害によって、フランスの国民意識が固まりつつあったこと、そのナショナリズムの象徴がまさにジャンヌ・ダルクだったとされている(ジャンヌ自身、ブルゴーニュ公には同じフランス人として和平を勧める手紙を送っている)。

オルレアン解放後、ランスでシャルル7世の戴冠式が挙行されるが、1430年ジャンヌは捕虜となり、31年火刑に処されてしまう。

だが、1435年アラスの和で、ブルゴーニュ派との和平達成、翌36年にはパリ回復。

残るはノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)の二地方だが、シャルル7世は焦らず、大商人ジャック・クールを用い財政制度と常備軍を整備。

ブルターニュ公を親仏派に転向させた上で、1450年ノルマンディーを征服、1453年ボルドーを陥落させ、ギュイエンヌも解放、これで遂に百年戦争が終結。

戦後、王国の行政制度を整え、1461年シャルル7世没。

即位時と崩御時の王国の状況は天と地ほど異なっている。

やはり「勝利王」の名に値する国王であると思われる。

 

 

 

ルイ11世(1461~1483年)

シャルル7世とフランソワ1世の間に在位した三人の王は最も馴染みがない。

「シャルル7世から即8世に行かず、二人のルイが挟まっている」と憶える。

百年戦争終結前後のフランスの課題は、ブルゴーニュ公とブルターニュ公に代表される諸侯の勢力を削減すること。

だが、王太子時代のルイ11世は父シャルル7世にしばしば逆らい、それら大諸侯と共謀し、王に反抗している。

シャルル7世死去時には、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の下に身を寄せていた。

即位後は前王の側近を追放、恣意的・強権的統治を敷き、「暴君」との評も得る。

だが、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公らの反抗を圧伏することでは、かつての父王と同じ立場に立つことになった。

フィリップ善良公死後、後を継いだシャルル突進公と衝突を繰り返す。

シャルル突進公はますます独立傾向を強め、ブルゴーニュとフランドル間の地域も併合し、独仏間に強大な独立王国を建設することを目論むが、それに対してロレーヌ公、アルザス諸都市、スイス諸州が立ちはだかる。

1477年シャルル突進公は、ロレーヌ公とスイス諸州の連合軍に敗れ、戦死。

細かな話だが、ブルゴーニュは西のブルゴーニュ「公」領と東のブルゴーニュ「伯」領に分かれ、東の伯領は「フランシュ・コンテ」と呼ばれる。

突進公戦死後、ブルゴーニュ公領はフランス王国に併合される(フランシュ・コンテが仏領となるのは1679年オランダ戦争を終結させたナイメーヘン条約によって)。

しかし、突進公の一人娘マリーは身柄を拘束されることなくフランドルに逃れ、ハプスブルク朝皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンと結婚、これでフランドルはハプスブルク家のものとなってしまう。

だが、アンジュー公親王家の断絶を機に、元は神聖ローマ帝国に属していたプロヴァンス伯領の併合に成功。

北東部でフランドルを失い、南東部でプロヴァンスを得て、中世フランス王国と現在のフランス共和国の領域変化が概ね完成。

最晩年のルイ11世は異常なほど信心深くなり、半狂乱に近かったとも言われる。

 

 

 

シャルル8世(1483~1498年)

ルイ11世47歳の時の子。

そのせいもあってか、厳重に保護され、外の世界と接触しないまま育てられる。

1483年13歳で即位、当初は王姉夫妻が実質統治、オルレアン公ルイ2世(初代ルイの孫、二代目シャルルの子、後にルイ12世として王位に就く)と勢力争いを演じる。

それまで、北仏のラングドイルと南仏のラングドックに分かれて開かれていた三部会が、文字通り全国三部会として開催されるようになる。

ブルターニュ公が死去、後を継ぐ男子はおらず、公女アンヌとシャルル8世が結婚、これでブルターニュの併合が既定路線となる。

親政を開始したシャルル8世は、幼少期の反動からか、空想とロマンに突かれた言動を見せ、それがフランス王国をイタリア戦争に導く。

1494年から1559年まで断続的に続いた近世初頭におけるヴァロワ朝フランスとハプスブルク朝神聖ローマ帝国(とスペイン)間のこの大戦争は、主権国家体制の確立に大きな影響を与えたが、結局イタリアがスペインの支配下に置かれて終結する。

13世紀、神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝断絶後、その領地だった南イタリア王国をルイ9世の弟でアンジュー伯のシャルル・ダンジューが支配。

フランス支配に反発する「シチリアの晩鐘」という反乱が勃発、シチリア島はアラゴン王家出身者が統治、ナポリはアンジュー家が支配するようになるが、中世末期シチリア王国がナポリを併合。

これを継承権の根拠に、1494年イタリア侵攻を開始。

大軍を擁し、ナポリ入城を果たすが、イタリア内外の諸列強が連合し、ナポリを確保できず。

シャルル8世は1498年城の改築中に柱を頭にぶつけて、28歳の若さで事故死、ヴァロワ朝の直系は途絶える。

 

 

 

ルイ12世(1498~1515年)

シャルル6世の弟が初代オルレアン公ルイ、子がシャルル、孫がこのルイ12世。

即位でヴァロワ・オルレアン朝が成立したとの見方もある。

冷静沈着で温厚寛容な人柄で名君との評も得たが、減税の為に「官職売買」という、大革命に至るまで大きな弊害を残す制度を始めてしまう。

イタリア戦争を継続、初代オルレアン公の妃がミラノ公ヴィスコンティ家出身だったことを根拠に、スフォルツァ家統治に替わったミラノの継承権も主張。

一時ミラノ占領に成功、続いてナポリにも出兵するが、奪回され、以後特にナポリはヴァロワ朝諸王の手には二度と入らないことになる。

1515年死去。

 

 

 

フランソワ1世(1515~1547年)

初代オルレアン公ルイ1世の次男が初代アングレーム伯、その孫がフランソワ1世。

分家の分家が後を継いだわけだから、以後の王統はヴァロワ・アングレーム朝とも呼ばれる。

身長2メートルを超え、陽性で派手好き、活動的な性格、絢爛豪華なルネサンス君主として君臨する。

1519年神聖ローマ帝国皇帝位を争い敗れ、即位したカール5世は終生の宿敵となり、イタリアで死闘を繰り広げるが、1525年パヴィアの戦いで惨敗、フランソワ1世自身が捕虜となる。

内政ではレオナルド・ダ・ヴィンチを招くなどルネサンス文化を保護したが、カルヴァンらの宗教改革については徐々に厳しい姿勢を見せ始める。

1547年死去した際には、オスマン朝やドイツの新教徒との連携も空しく、イタリアは失われており、悪化した財政が残された。

その華やかなイメージは強い印象を与えるが、治世の実績はあまり芳しくないと言わざるを得ないかもしれない。

 

 

 

アンリ2世(1547~1559年)

フランソワ1世まで来ると、後はかなり楽。

その子と三人の孫でヴァロワ朝が終わるので(最後に三兄弟が相次いで即位するというのは、奇しくもカペー朝と同じ展開である)。

まず子のアンリ2世が即位。

妻がメディチ家出身のカトリーヌ・ドゥ・メディシスだったことは当然要チェック。

父のフランソワ1世が捕虜になった際、解放の代償として人質に出され、スペインで一時囚人のような扱いを受ける。

その復讐心もあってか、イタリア戦争を再開、シュマルカルデン戦争中のドイツ新教徒と連携、フランソワ1世の父がサヴォワ家の女性と結婚していたことを根拠に、フランスと隣接し保持しやすいピエモンテに食指を動かす。

内政では後に職務別大臣制の先駆となる地域別の国務卿を設置、諸州巡察制度を整備し、権限の大きな州総督も設置するが、自身の治世中はその独立傾向を抑制し得た。

ギーズ公(当主フランソワ)派とモンモランシー元帥派(甥のコリニー提督を含む)の党派対立が激しくなる。

主戦派のギーズ公がイングランドからカレーを奪回、大陸の最後の英領が消滅。

だが戦局は好転せず、1559年カトー・カンブレジ条約締結、これによって半世紀以上続いた、長い長いイタリア戦争がようやく終結。

シャルル8世以来のイタリア戦争の細かな経緯が本書でも記されているが、憶えるのはかなり苦しい。

結局、ミラノもナポリもサヴォイアも、継承権を主張した地域は全く得ることができず、イタリアはスペインの実質的支配下に入ったことだけをチェック(イタリア統一支持の代償にサヴォイアだけは第二帝政時代に仏領となったのは高校世界史で既出)。

和平後、ドイツのプロテスタントと同盟したアンリ2世は、国内のユグノーに対しては強硬姿勢で抑圧に向かう。

ユグノーはすでに王家にも信者を持ち、フランソワ1世の姉妹マルグリットとナバラ王との間の娘ジャンヌ・ダルブレはそうであり、その夫アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは態度を明確にしなかったが、その弟コンデ大公ルイ・ドゥ・ブルボンは新教徒であることを公言。

1559年アンリ2世は騎馬試合に出場した際、事故で槍が頭部に刺さり、事故死。

この死をノストラダムスが予言していたとされているのは有名。

アンドレ・モロワ『フランス史』を読み返して気付いたのが、このアンリ2世に対する評価の意外な高さ。

16世紀前半、結局敗れたとは言え、スペインとオーストリアの両ハプスブルク帝国に対し戦いを挑み、ヨーロッパの一国支配阻止と勢力均衡維持に貢献したヴァロワ朝フランスが、世紀後半には国内の宗教戦争で混迷を極め、そのバランサーとしての役割をイギリスとオランダに譲ることになったのは、このアンリ2世の不慮の死という偶然も与っているのかなと思った。

 

 

 

フランソワ2世(1559~1560年)

アンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスとの間の王子で順当な即位だが、極めて病弱で、ごく短い在位。

この王については、妻が誰であったのかを必ず記憶しておく。

スコットランド女王メアリ・ステュアート。

イングランドを睨んだ政略結婚だが、メアリ・ステュアートの母はギーズ家出身なので、ギーズ公フランソワは叔父、ギーズ公アンリは従兄弟に当たる。

ギーズ公派は熱心な旧教徒としてユグノーを弾圧。

フランソワ2世と母后カトリーヌは融和策に努めたが、フランソワ2世は病死。

子の無いメアリ・ステュアートは母国に送り返され、後に王位を失い、イングランドに逃亡して捕らわれ、最後は処刑される(ただしその子がジェームズ1世として英国王となる)。

 

 

 

シャルル9世(1560~1574年)

フランソワ2世の弟が即位。

母后カトリーヌが実権を握る。

まず頭の中で「カトリーヌ・ドゥ・メディシス=サン・バルテルミの虐殺の実行者=狂信的カトリック」という図式がもしあれば(私は高校時代このようにイメージしていました)、それを一度完全に白紙にして下さい。

少なくとも当初カトリーヌが追求したのは、新旧両派の融和と王国の安定。

三部会を招集し、新教の限定的容認を定めたが、非妥協的な党派感情が激化する一方で、不幸にして実を結ばず、1562年ユグノー戦争勃発。

旧教側がギーズ公、新教側がコリニー、コンデ大公が中心、モンモランシーとナバラ王アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは旧教側に付く。

この内乱が以後断続的に世紀末まで続く。

ギーズ公フランソワが暗殺され、ナバラ王が戦傷死した後、一時戦火は収まるが、折から1568年オランダ独立戦争が勃発、この国外の事件を機に再度対立が深まる。

コンデ大公が戦没、ギーズ公アンリは王妹マルグリットとの醜聞で失脚、王弟アンリが旧教側の指導者として台頭。

コリニーと並ぶ新教徒の指導者で、アントワーヌの子ナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンと王妹マルグリットとの結婚が両宗派和解の為に決められるが、1572年その婚礼時に勃発したのが、サン・バルテルミの虐殺。

コリニーら多くの新教徒指導者が惨殺され、ナバラ王は捕らわれの身に。

母カトリーヌからの影響を脱し、エキセントリックで異常な行動を見せるようになったシャルル9世の決断と見られる。

王弟アンリが、ヤギェウォ朝断絶後選挙王制となっていたポーランドの国王に選出され、国を離れる。

新教徒はフランス南西部を中心に徹底的に抵抗。

1574年半狂乱に近い状態でシャルル9世は死去。

 

 

 

アンリ3世(1574~1589年)

またもや弟が即位。

兄の死を聞くと、王位に就いていたポーランドを抜け出し、帰国。

即位前は強硬な旧教派だったが、国王となると強硬派だけに密着するわけにはいかなくなる。

モンモランシー家など穏健派カトリックが第三勢力として台頭、宗派よりも政治優先という意味で「ポリティーク派」と呼ばれるようになり、王弟フランソワが担ぎ上げられる。

オランダの君主としてフランソワを迎える動きもあったが、結局実現せず、フランソワは病死。

こうなると、子が無く、男色家の噂のあるアンリ3世の死後、最も近い王位継承者はナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンということになる。

ナバラ王の父の家系ブルボン親王家は、はるか昔、ルイ9世の六男を祖としており、しかもその分家筋だから、王家の末裔とは言え、ずいぶん離れている。

母方はやや近く、上述の通りフランソワ1世の姪ジャンヌ・ダルブレがナバラ王アンリの母であり、そして王妹マルグリットと結婚している。

新教徒とポリティーク派が同盟、旧教派のギーズ公アンリと激突。

アンリ3世とカトリーヌは旧教派に担がれているものの、本心では妥協を求め、右往左往するばかり。

1588年(スペイン無敵艦隊敗北の年だ)パリを中心にますます強硬になる旧教派は事実上のクーデタを起こし、実権を掌握、アンリ3世はパリを逃れる。

激昂した王は側近に命じ、ギーズ公アンリを暗殺させる。

翌1589年カトリーヌが死去、追い詰められたアンリ3世はナバラ王と手を結び、パリを包囲。

しかしここでアンリ3世は旧教派の報復の刃に倒れ、暗殺される。

ナバラ王アンリが、アンリ4世として即位、ブルボン朝が始まることになる。

 

 

 

 

末尾でヴァロワ朝の治世が総括されている。

14世紀から15世紀前半の百年戦争、15世紀後半のブルゴーニュ戦争とブルターニュ戦争、16世紀前半のイタリア戦争、16世紀後半のユグノー戦争、と戦いと国難の連続だった。

しかし、豊かな国土と膨大な人口を持つ、中近世におけるヨーロッパ最大の国家であるフランスはその都度、すぐさま再起することが出来た。

カペー朝の王権拡張と国家統一政策を引き継いだヴァロワ朝は、ブルゴーニュとブルターニュの二大公国を併合、オルレアン公領やアングレーム伯領もルイ12世、フランソワ1世の即位により王領となり、ヴァロワ朝末期には王権に対して実質的独立性を持つ有力諸侯はもはや存在しなくなった。

確かに依然フランスの一体的国家意識よりも地方郷土のアイデンティティを優先する感情は強かったし、カトリックあるいはプロテスタントの信仰を国家統一より重視する考えも濃厚だった。

それがヴァロワ朝末期のユグノー戦争で爆発することになった。

王権を神聖化することによって、それらの障害を克服し、完全な中央集権的統一国家を創り上げることが、次代のブルボン朝の課題となる。

 

 

 

前巻と同じく手堅い良書。

史実を要領よく叙述しているし、その評価も分かりやすい。

効用の高い啓蒙書。

次は『ブルボン朝』が出るんでしょうけど、ブルボン朝の場合、馴染みの無い国王はいないし、『聖なる王権ブルボン家』も既読だから、それは手に取らないかもしれません。

2017年3月10日

井上文則 『軍人皇帝のローマ  変貌する元老院と帝国の衰亡』 (講談社選書メチエ)

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クラウディウス・ゴティクス(在位268~270年)からヴァレンティニアヌス2世(375~392年)までのローマ皇帝は、バルカン半島出身がほとんどで元老院階層でもない下層出身。

イリュリア人(パンノニアとモエシア出身者)皇帝の時代と言える。

本書では、中国史とヨーロッパ史に見られる並行関係から筆を起こす。

ローマと漢という東西における古代帝国の繁栄と蛮族侵入によるその衰亡。

独創的な東洋史家で、このブログでも多数の著作を紹介している宮崎市定の説。

五胡をゲルマン人に、東晋を東ローマに、隋唐をフランク王国に喩える。

ただし、中国では文人貴族が支配層として継続し、文明の断絶が起こらなかった点が違う。

文人貴族の強靭性が東西の歴史を分けることになった。

ローマ帝国は「自治をおこなう諸都市の連合と、この連合の上にはめこまれたほとんど絶対的な君主政(略)との奇妙な混合物だった」(ロストフチェフ)。

元老院、騎士、都市参事会という三つの階層の都市富裕層が名誉の感覚を持って、様々な自発的施与行為を行って自治を成り立たせていた。

セヴェルス朝下で軍の専横化が生じ、その後も内戦が続く。

元老院議員の軍事的無能力化、軍人キャリアと文民キャリアの分離・専門化が進行。

首都とイタリアにはさしたる兵力が無く、中央軍は弱体、国境沿いの属州に大軍が集中しており、軍の支持を受ければ帝位簒奪が極めて容易。

外敵の侵入よりも、この二つの現象が軍人皇帝時代に深刻化。

そこで行われたのが、ヴァレリアヌス帝の改革。

一般にはササン朝のシャープール1世に敗れて捕虜となったことだけが知られているが、この皇帝の治世が極めて重要な画期を成したと本書では記されている。

帝国統治分担のための複数帝制度を導入、拘束の多いローマを恒常的に離れ、実務的人材登用を軍で実行、中央機動軍を創設し直衛軍を強化。

これらの改革は20世紀前半までの歴史研究では子のガリエヌス帝の業績と考えられていたが、最近の研究では父子の評価が逆転しつつあるという。

クラウディウス・ゴティクス以降、イリュリア人自身が帝位に就く。

帝国東部でパルミラ帝国、西部でガリア帝国が事実上独立。

帝国に残された中央部で強健な兵を供給できたイリュリクムの重要性が高まり、アウレリアヌス帝の帝国再統一でそれがさらに強まる。

ディオクレティアヌス帝がそれを完成させた。

イリュリア人は、厳しい風土ではあるが、それゆえ大規模農場が発達せず自作農が保存されたイリュリクムで生まれ、強壮な兵士を生む。

ローマの軍需に依存して生活、国境ゆえに外敵への対抗意識と愛国心、郷党意識が強く、軍内の国家宗教に深く帰依し、外来宗教ではミトラ教によって軍の団結を強めた。

宮崎市定の言葉を借りれば、典型的「素朴民族」。

一方、この時代の元老院議員について、その文人生活は個人名声の追求に留まり、社会全体から支配者の条件として承認されていたわけではない。

軍事職からの排除にも抵抗せず、その影響力を低下させる。

皇帝不在の都では文民職はむしろ拡大し、比較的平穏なイタリア・アフリカの所領を持ち、経済的には栄えたが、実際にはこの時代が没落の第一歩となる。

ディオクレティアヌスはその前のイリュリア人皇帝の政策を基本的に引き継ぐ。

それに対し、コンスタンティヌスの治世は断絶があるとの判断が記されている。

再度の内戦でコンスタンティヌスは帝国北西部からのし上がり再統一を達成したので、ゲルマン人が軍の中心となり、イリュリア人の地位が低下。

元老院議員の属州総督・近衛長官への任命を増やし、定員も拡充。

キリスト教普及対策というより新たな勢力基盤を広げるため。

コンスタンティノープル元老院創設も同じ意図から。

イリュリア人はゲルマン人と融合して軍人貴族層を形成。

彼らが文人化することはなかったが、それが中国との大きな違いとなる。

首都ローマ市と国境地帯に駐屯する中央機動軍との距離、通婚関係にもならず、相互蔑視の関係が続き、軍人貴族は元老院貴族化せず。

そして圧倒的多数の非支配層も元老院貴族を拒否するようになっていた。

名誉感覚を失い、公的贈与も行わず、利己主義に自閉する文人への敵意が増大していた。

表面的には東西両帝国の不和が、帝国滅亡の政治史的直接原因だが、上記の軍人貴族と元老院貴族の分離も極めて重要と言える。

 

 

論旨が明解。

最新の学説を噛み砕いて分かりやすく提供してくれる良質な啓蒙書。

決して損はしない、手堅い本です。

2017年3月6日

E・H・カー 『危機の二十年  理想と現実』 (岩波文庫)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 00:59

翻訳にかなりの問題があると、一部で言われていた旧版に替わって、原彬久氏訳のこの新版が2011年に出た。

学生時代以来の再読。

1919~39年の国際関係を概観し、ユートピアニズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)の相克を捉える。

19世紀の自由主義と功利主義を単純に受け継ぎ、国際社会における利益の予定調和、世論の正しさと合理性、政治と経済の分離、国際法万能主義などを前提とするユートピアニズムを批判し、それに対し国家間の力関係を直視するリアリズムを対置。

ただし、カー自身は、国際社会における道義の存在を全否定し、国家権力の拡張を自己目的化し、いかなる国際秩序の成立も不可能にする永続的闘争状態をもたらすような似非リアリズム(というかシニシズム)をも批判し、理想と現実の緊張感のある対話と妥協の重要性を説いている。

目の冴えるような面白さ、というものは無いが、国際政治学・国際関係論黎明期の古典として、やはり一読の価値はある。

自衛のための最小限の軍備の必要性すら認めず、「社会主義国の平和的性格」を前提に非武装中立を主張した戦後左翼の平和主義が愚かなユートピアニズムの代表なら、中国・韓国など特定の国・民族に対する硬直した敵対感情の虜になって、子供じみた強硬姿勢を誇示し、反対者を集団的な誹謗中傷と罵詈雑言で沈黙させることを外交の本質だと考えるような最近の形式的ナショナリズムは最低最悪の愚劣なリアリズム(シニシズム)の表れでしかない、と強く感じる。

2017年2月26日

創元社版「図説世界の歴史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 01:25

 

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 1 「歴史の始まり」と古代文明』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』(創元社)  4 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 3 古代ローマとキリスト教』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』(創元社)  5 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』(創元社)  5 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 7 革命の時代』(創元社)  4 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 8 帝国の時代』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 9 第二次世界大戦と戦後の世界』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』(創元社)  3 易

 

 

この日本語版の刊行は比較的新しい。

タイトルに「図説」と付くだけあって、写真や図表が極めて多く掲載されている。

しかもオールカラーなので、見やすく美しい。

もっとも、その分紙質も厚くて重いし、本文が始終分断される感もあって、やや読みにくさもあるが。

全集の形式ではあるが、全10巻と巻数は相当少な目。

しかも1巻ごとの文章量も大したことはないので、通読難易度は著しく低い。

各巻の日本語版監修者も、著名な学者が顔を揃えており、信頼できる。

翻訳も極めて良好。

特に「です・ます」調を採用したことは、大成功。

非常に読みやすく、説得力のある文体に仕上がっている。

内容的には、一人の著者による執筆ということもあってか、一貫した史観が感じられる。

「多くの人びとに重大な影響を与えた思想・出来事・人物」のみを重視し、それに適合しない史実は思い切って省略(ただし図表の解説文などで補足している。よってそこも読み飛ばさない方が良い)。

オリエント文明およびそれから分岐したヨーロッパ文明とイスラム文明を最重視し、それらから独自性を守ったインド文明と中国文明に一定の評価を与えつつ、アフリカおよびアメリカの文明に対する評価は低い。

昔ながらの西欧中心主義からは脱しつつ、それでもギリシア文明からヨーロッパ文明に受け継がれてきた流れを人類の歴史の中で極めて特異で価値のあるものであると評価する。

その筆致があまりに冷静で説得的なので、ほとんど反発も感じない。

凡庸な学者が、もし同じ巻数で世界史を記述しても、毒にも薬にもならない平板な著名史実の羅列に終わるだけでしょう。

しかし、このシリーズは、一見平凡な叙述を続けているように見えて、各巻の中に必ず数箇所、はっとさせられる著者独自の見解が含まれており、知的興奮が得られる(記事中でも、そうした部分を引用したつもりです)。

決してありきたりで内容の粗い通史に終わっていません。

本文中での事実関係の扱いが薄い部分は、上記のように図表とその解説でカバーしていて、網羅性もある程度確保している。

ただ、平易極まりない叙述とは言え、世界史について全く白紙の読者が読んだとして、どれだけ印象に残るかはやや心許ないかもしれない。

漫然と読むのではなく、記事中で引用したような部分を含むポイントをしっかりと把握することが必要になるでしょう。

(もちろん、私と全く同じ感じ取り方をする必要は毛頭ありませんが。)

通読した結果、十分お薦めできるシリーズだと確信しました。

 

2017年2月20日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:00

最終巻。

冷戦と第三世界、日中印三ヵ国を中心とするアジア情勢、冷戦終了後の世界秩序について。

本文に入ると、まず現代アジア史を、イデオロギー的視点から離れた、極めて巨視的な観点から大掴みする記述がある。

第二次世界大戦後、アジアの多くの国が植民地支配を脱し、次々に独立していきました。その結果、植民地時代の政治的・文化的影響は急速に消滅していきます。たとえばインドでは、イギリス支配のもとで一度は実現していたインド亜大陸の政治的統一が、大戦終了から二年後の独立時に崩壊しました。東南アジアの国々も同じです。たとえばインドネシアには強力な中国人(華僑)コミュニティが存在したため、国全体の進路が中国本土の動向に大きく左右されるようになったのです。

そうした事情を考えると、実はアジアの大部分の国々にとって、西洋列強による植民地支配もその終焉も、それほど重大な歴史上の転換点ではなかったように思えます。数世紀にわたり、アジアの広大な地域がヨーロッパ人によって支配されたことは事実ですが、本当の意味でヨーロッパ文明の影響を受けたのは、どの国でもごく少数の支配者層だけでした。アジアでヨーロッパ文明を待ち受けていたのは、おそらく世界のなかでもっとも強力な文化と伝統をもつ社会だったのです。

アジアの文化はアメリカ大陸やアフリカ大陸の文化とは異なり、ヨーロッパ文化の侵入によって一掃されることはありませんでした。ヨーロッパ人がアジアにヨーロッパ文化をもちこもうとしても、あるいは現地の指導者たちがみずからヨーロッパ文化をとり入れようとしても、いずれも大きな障害にぶつかることになったのです。近代教育を受け、古い伝統からすでに脱却したと自認していた人びとでさえ、さらに深い部分ではその伝統的な思想や行動様式になんら変化はありませんでした。大学教育を受けたインド人も日本人も、出産や葬儀の際には伝統的な習慣にしたがい、中国の共産主義者たちの意識から伝統的な中華思想が消えさることもなかったのです。

インドから東側のアジアは、大きくふたつの文化圏に分けることができます。ひとつは南アジア(インド亜大陸)および東南アジアです。この地域は古くから三つの文化-ヒンドゥー文化、イスラーム文化、ヨーロッパ文化-の影響を受けてきました。ヨーロッパ文化はこの地域に、かなり古くから交易や布教とともに伝えられ、のちの植民地支配によってさらに広まっていきました。

ふたつ目の文化圏は、中国を中心とする東アジアです。中国自身が膨大な人口と国土を有することはもちろんですが、加えて周辺諸国に移住した華僑の存在、さらには二〇〇〇年以上も前から日本や朝鮮半島、インドシナ半島などにあたえてきた文化的影響も、この地域における中国の重要性を理解するうえで忘れてはなりません。このふたつ目の文化圏は、ひとつ目の文化圏にくらべるとヨーロッパ諸国に直接支配された期間が短く、その弊害も前者ほど大きくありませんでした。

結局、アフリカとアメリカの固有文明はヨーロッパ文明の進出によって圧倒され、ほぼ消滅することになったが、インドを中心とする南アジアと中国を中心とする東アジアはその存在を守り抜いたことになる(西アジアのイスラム圏もそのはずだが、ヨーロッパとの距離が近い分、[南アジアと同様]政治的には劣勢を強いられたということか)。

ヨーロッパの進出に最もよく抵抗した東アジア文明の動きの先鞭をつけたのは日本だったが、第二次大戦後、それを受け継いだのが中国。

一九六〇年までにアジアで起きた最大の変化は、中国が大国として復活をとげたことだったといえるでしょう。一方、共産主義勢力を排除して西側陣営に属していた日本と韓国は、中国が共産主義国となったおかげで、欧米諸国に対する政治的立場を強めていきました。

伝統的に東アジア諸国は、ヨーロッパ人の侵略に対し、インドや東南アジア諸国よりもうまく対処したといえるでしょう。第二次世界大戦後も東アジア各国は、共産主義国、非共産主義国ともに独立を維持することに成功し、中国から支配されることもありませんでした。これには逆説的ながら、古くから中国を模範としてきた日本社会や韓国社会に深く根づいた、東アジア特有の保守性が関係しているように思えます。

社会の規律、集団としての結束力、個人的権利の軽視、権威と階級の尊重、西洋文明とはまったく異なる文明に属しているというプライド・・・・。東アジアの社会には、中国革命の基盤となった共産主義思想などよりも、はるかに根深い文化的伝統が存在します。実は中国革命そのものも、そうした文化的伝統のなかでとらえて、はじめて理解できるものなのです。

・・・・・・

中国革命ほまちがいなく、人類が行なったもっとも壮大な試みのひとつといえます。世界史全体を見渡してみても、二〇世紀の中国革命に匹敵する出来事は、七世紀のイスラーム教の拡大や、一六世紀以降の近代ヨーロッパ文明の世界進出以外にありません。しかも中国革命が大きく異なっていたのは、それが特定の指導者によってコントロールされ、方向性が定められていたという点です。また無数の民衆の熱気に支えられながら、その一方で国家の指導なしには成立しえなかったという点にも、中国革命のもつ特異性を見ることができます。

中国人は伝統的に権威を重んじ、その権威に高い精神性を求めつづけた人びとでした。これは西洋では遠い昔に失われた現象といえます。個人よりも集団が重視されるべきこと、政府が国家事業のために国民を動員する権限をもつこと、公共の利益のために行使されるかぎり政府の権威は絶対であることを、中国はどの大国よりも長いあいだ、民衆に納得させてきました。国家の権威に対する反抗は、文明全体を崩壊させる恐れかおるため、中国人には受け入れられませんでした。つまり中国では集団としての急進主義はありえても、個人の人権の拡大を求める西洋型の革命は考えられなかったのです。

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中国では権力は「天(天帝)」から授かったものであり、統治者は民衆のために善政を行ない、伝統的な中国文明の価値観を守るかぎりにおいて、その正統性を民衆から認められるという文化的伝統がありました。他の文明圈からは理解しにくい毛沢東という存在は、そうした伝統にのっとって解釈される必要があるのです。

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中国革命のもつ本質的な意味も、その後中国とソ連がすぐに対立するようになったところによく現れています。つまり中国革命は、たしかに歴史上きわめて重要な革命だったものの、実はそれはアジア全体が西洋支配に対して示した拒否反応のひとつだったのです。皮肉なことに、その拒否反応はアジアのどの国でも、ナショナリズムであれマルクス主義であれ、西洋からとり入れた思想や概念をもちいて表現されることになったのですが。

中国の共産主義政権が、主にその最初の30年間で、どれほど多くの犠牲者を生みだしたか、著者は百も承知だろうが、極端な全体主義体制から現在のような権威主義体制に移行した状態を見るならば、中国革命の意義を以上のように大国としての復興と伝統的「王朝」体制への回帰、とまとめることも可能かと思われる。

一方、それに比して現代インドに対する著者の評価はかなり低い。

経済であれ、軍事であれ、政治であれ、諸外国に対して大きな影響力をもつ国を大国とよびますが、インドがそのような国際的地位にないことは、一九八〇年代までにすでにあきらかになっていました。これはよく考えてみると、二〇世紀後半に起きたもっとも驚くべき現象のひとつだったといえます。一九四七年に独立したインドは、その時点ではほかの新興国や敗戦後の混乱期にあった日本などよりも、はるかに有利な条件に恵まれていました。インドにはイギリス植民地時代の遺産である効率的な行政機関と訓練の行きとどいた軍隊、高い教育を受けたエリート層、優秀な大学(約七〇校もありました)などが存在し、国際社会の善意と協力に恵まれ、冷戦構造のなかで米ソの対立を利用することもできたからです。

貧困や栄養不良、公衆衛生の立ち後れといった問題はあったものの、その点では中国も同じだったといえます。ところが一九八〇年代までにインドと中国のあいだには、誰の目にもあきらかなほど大きな格差が生じてしまったのです。中国の都市部の住民たちは一九七〇年までに、ほぼ全員がまともな服(質素でしたが)を着用するようになっており、栄養状態も良好でした。それに対してインドの都市部の住民たちは、そのころになってもまだ貧困と栄養不良に苦しめられていたのです。

独立後のインドの歴史をふり返ると、マイナスの現象ばかりが目につきます。大きく成長した産業もあったものの、その成果は人口の増加によってかき消されてしまいました。一九四七年の独立から長い年月が過ぎても、国民の大半は当時と同じくらいに貧しいか、ごくわずかに生活が改善されたにすぎませんでした。

インド社会にはあらゆる面で歴史と伝統が重くのしかかり、変革の兆しはなかなか現れませんでした。ちょうど同じような状況にあった中国では、毛沢東が修正を加えたマルクス主義によって過去の伝統を一掃したのですが、インドにはそのような強力な思想も運動も出現しなかったのです。とくに独立後はイスラーム教徒がパキスタン建国によって分離したこともあり、インド社会はさらにヒンドゥー色を強めていきました。

現在でも、インドは依然として近代化を達成したといえる段階には達していません。植民地時代にもちこまれた西洋式の政治制度と伝統的なヒンドゥー社会のあいだには、いまなお大きな溝が横たわっています。ガンディーやネルーをはじめとするすぐれた指導者たちが数々の偉業を達成した一方、特権、不正、不平等など、インド社会に根づいた負の遺産は依然としてこの国に重くのしかかり、その発展を妨げているのです。

かなり厳しい評価ではあるが、著者は同時に以下のようにも記している。

・・・・・もっともインド社会の内包する多様性を考えれば、国家としての統一を維持したこと自体が偉大な業績だったともいえます。

・・・・・・

一九四七年、独立とともに明るい未来を思い描いた人びとは、長い歴史をもつインド社会に根本的な変化を起こすことが、どれほど困難で痛みをともなうか、おそらく理解していなかったのでしょう。けれどもインド文明のもつ偉大なる多様性と継続性、異文化に対する同化吸収能力を考えれば、彼らが近代化の過程で足踏みをつづけているからといって、私たちが批判するのはお門違いといえるのかもしれません。

そして、同様に停滞と混乱を続けるイスラム圏について、巨大な宗教共同体と部族集団という大小両極の間で揺れ、その中間の国民国家という政治組織を安定して発展させることが出来ないことを指摘。

なぜ高い教育を受けた学生たちがイスラーム原理主義者の反動的な主張を支持しているのか、西洋人からはほとんど理解できませんでした。けれどもそうした状況を理解するには、イスラーム世界においては長らく西洋式の国家、あるいはいかなる西洋式の政治組織も存在しなかったことをよく認識しておく必要があります。

たとえ有能な政府が存在しようと、その政府が民衆にとって何か望ましい結果をもたらそうと、全イスラーム教徒を包含する宗教共同体「ウンマ」を基本原理とするイスラーム世界にとって、西洋式の国民国家は正統な権威にはなりえませんでした。社会主義的な政権の樹立を求めた急進派の若者たちも、実際のところ国家に本質的な価値を見いだしておらず、たとえば青年将校カダフィが起こした一九六九年のリビア革命でも、その後樹立された新しい「国家」は、西洋式の国民国家の概念からは大きくかけ離れたものでした。部族主義と「ウンマ」の理念にもとづいて維持されてきたイスラーム世界の伝統が、今後どのような形で存続していくのか、それは現在のところ誰にもわからない問題です。

アラブ諸国の多くで見られる暴力的な政争は、抑圧的な独裁制と原理主義運動が敵対した結果として起こるケースが多いようです。一九八〇年代のモロッコとアルジェリアがその典型的な例でした。そうした状況をさらに危険なものにしているのが、アラブ諸国における高い出生率です。人囗にしめる若者の比率と、彼らのもつ不満とエネルギーがあまりにも大きすぎることが、アラブ世界の平和の実現を困難にしているという面もあるのです。

 

 

本文の内容はここまで。

最終巻である本書には、「日本版の刊行に寄せて」という文章が載せられている。

簡単にいえば、本書では伝統的に重要とされてきたテーマを時代順に網羅していくという手法はとりませんでした。過去の事実を網羅するのは百科事典の仕事だからです。その代わりに、「もっとも多くの人びと」に「もっとも重大な影響」をあたえた出来事だけをとりあげ、その相互の関連性を示したいと考えたのです。

そのため本書は年代的にも地理的にも、かなりの偏りをもっています。もちろん私は第一版の刊行後も多くの時間と労力をついやして、ユカタン半島の壮大な遺跡やジンバブエの廃墟、イースター島の神秘的な巨像などについて調査を行なっています。そのような文化について知ることが望ましいのは、いうまでもないでしょう。

しかし世界の歴史という観点からすれば、これらの社会は実はあまり重要とはいえません。サハラ以南のアフリカや、コロンブスが到着する以前のアメリカ大陸についても同じことがいえます。たとえばブッダやキリスト、プラトン、孔子などの教えは、二〇〇〇年ものあいだ、地球上で暮らす無数の人びとに影響をおよぼしてきました。けれどもヨーロッパ人がやってくる前のアフリカやアメリカでは、世界の歴史に大きな足跡を刻むような出来事が起きた証拠は、いまのところ発見されていないのです。

いずれにせよ、世界史に関する膨大な資料をすべて把握することなど不可能です。本書は、「有名」な出来事ではなく、「本質的に重要な」出来事に焦点を当てています。たとえばフランスのルイー四世はヨーロッパ史ではもっとも有名な人物のひとりですが、本書中の彼に関する記述はごく短く、逆に二〇世紀前半に起きた中国革命についてはかなりくわしく説明してあります。そうした視点は現代史を見るうえで、いままで以上に必要になっているといえるでしょう。ある出来事が「有名」だから、つまり大きく報道がなされているからといって、それが重要だとはかぎらないのです。

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もちろんそのような視点には、私自身のもつ文化的バックグラウンドが大きく影響しています。私はイギリスの中産階級に属する白人男性としてしか、歴史書を書くことができません(今回の全面改訂版では、それに「初老の」が加わります)。もし皆さんがそれをあまりにも重大な欠陥だとお考えになるなら、ほかの歴史家が別の視点から書いた歴史書を探されたほうがよいでしょう。

しかし正直にいえばどのような歴史書であれ、結局は著者本人の個性を離れては存在しえないものなのです。私は自分の視点がどのような偏りにおちいりがちかということを、つねに念頭におきながらこの本を書きました。そうすることで、歴史家アクトンのいう「すべての国々を網羅した歴史とは異なった」歴史を皆様に提供し、文明の偉大なる豊かさと多様性を示すことができたのではないかと思っています。

このシリーズを読み通して、著者の以上の様な史観をはっきり感じることができたし、それに対して特に違和感は感じなかった。

 

 

こういう通史ではありがちだが、近現代史の部分は内容が粗くなって効用が薄れる。

本書もそれを免れているとは言えないが、まだ大分マシな方だと思う。

全10巻を読み切りましたが、通読はものすごく楽。

読んだ価値は間違いなくあった。

全体的な感想は別の記事で述べることにします。

2017年2月15日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 9 第二次世界大戦と戦後の世界』 (創元社)

Filed under: 近現代概説, 全集 — 万年初心者 @ 05:21

第二次大戦と冷戦を叙述し、重要地域として特に東アジアと中東を取り上げた後、20世紀文化を扱った巻。

西洋文明の世界制覇に対する反撃が最も強かった東アジアの情勢について。

アジアに対するヨーロッパ人の侵略は、第一次世界大戦が始まった一九一四年にはピークを過ぎていました。ヨーロッパの植民地主義とその強大な経済的・文化的影響は、すでにアジア各地で深刻な反動をまねくようになっていたのです。そうした反動がもっとも強かったのは、おそらく日本だったといえるでしょう。日本ではヨーロッパ列強に対する反発が、近代化を促進するうえでの大きな力となりました。その結果、日本はこのあと起こる東西文明間の長い戦いにおいて、中心的な役割をはたすことになるのです。

近代化に成功した日本は、二〇世紀の最初の四〇年間、アジア史の主役となりました。一方、辛亥革命をへた中国がアジア史の主役に返り咲いたのは、一九四五年以後のことでした。中国がアジアの政治力学のなかでふたたび日本をしのぐ存在となり、アジアにおける西洋の時代を終わらせるためには、第二次世界大戦の終了を待たねばならなかったのです。

近代日本の発展について、著者の見解は定型的に思えてあまり感心する部分が無いこともあるが、以下の見方などは示唆的である。

・・・一九二〇年代の日本には、「大正デモクラシー」とよばれる民主的かつ自由主義的な空気があり、それが日本の帝国主義をおおい隠す役割をはたしていました。一九二五年に男子普通選挙が実施されたことも、明治維新に始まった立憲君主政への道のりが、着実に進んでいることの現れと考えられていました(もっともヨーロッパではすでに、普通選挙の実施がかならずしも自由主義や政治的中庸に結びつかないことは、はっきりと示されていたのですが)。

そして、イデオロギー対立によって「ドイツ問題」の解決が遠のいたことを指摘し、ドイツのナチズムを(イタリア・ファシズムよりもはるかに過激で危険な存在として)徹底的に批判する一方、日本の戦争についての著者の評価は、驚くほど冷静である。

日本が一九〇五年にロシアを敗北させたことが、ヨーロッパとアジアの心理的な従属関係を揺るがす画期的な出来事となったように、一九三八年から四一年にかけて日本が行なった侵略もまた、歴史に一線を画す出来事でした。それは結果として、第二次世界大戦後におとずれた植民地解放の時代の幕開けをうながすことになります。このように、植民地解放の動きはごく自然な流れとして、もっともうまく「西洋化」をなしとげていたアジアの大国によって、そのきっかけがもたらされることになったのです。

・・・・・・

一九三六年の五月、首都のアジス・アベバが陥落し、エチオピアは独立を失うことになります。今日の時点からふり返ってみると、国際連盟がイタリアによるエチオピアへの侵略を阻止できなかったことは、致命的な失敗だったように映るかもしれません。けれども第二次世界大戦はきわめて多くの要因が重なって発生したものであり、いつの時点で戦争が不可避となったかを論じても、あまり意味がないといえるでしょう。

もっとも、一九三三年にドイツのナチ党政権(それはイタリアのムッソリーニ政権よりも、はるかに過激で恐ろしい政権でした)が誕生したことは、まちがいなく歴史の転換点となりました。そうした政権の誕生を可能としたのも、やはり直前に発生していた世界恐慌だったといえます。

世界恐慌はまた、別の面においても重大な影響をおよぼしています。一九三〇年代に入ると、経済破綻がもたらした階級闘争の激化によって、各国の政治家たちは国際関係上の問題を、ファシズム対共産主義、さらには左派対右派、民主主義対独裁制などといったイデオロギー的な観点から解釈するようになりました。イタリアのエチオピア侵略に対する英仏の反応に激怒したムッソリーニが、ドイツと同盟を結んで反共産主義の「聖戦」をとなえるようになると、この傾向にはさらに拍車がかかりました。このように一九三〇年代の国際問題がおもにイデオロギー的観点から解釈されていたために、ドイツのナチ党政権のもつ真の危険性が見えにくくなり、その結果、ドイツ問題への対応がますます遅れることになってしまったのです。

ソ連のプロパガンダ活動も、世界に大きな影響をおよぼしていました。一九三〇年代のソ連の国内情勢はきわめて不安定なもので、大規模な産業化計画の実施(一九二八年に第一次五ヵ年計画が開始されていました)にともない、民衆は多大な犠牲を強いられていたのです。そうした国情不安に対処するため、スターリンによる独裁体制が強化されていきました。・・・・・こうしたソ連の動向は、それにともなうプロパガンダによって、国際情勢にも大きな影響をあたえ始めていました。この時期にソ連が意図的に、ソ連包囲網が形成されているというプロパガンダを行なったことが、国際情勢を左右したことほまちがいありません。・・・・・そうした動きにともない、コミンテルンの主張する世界的な階級闘争論も各国に浸透していくことになりました。それがどのような結果をもたらしたかは、容易に想像することができます。つまり、世界各国で保守派が危機感をつのらせることになったのです。左派はもちろん、穏健派の改革勢力に対してさえ、少しでも譲歩すれば共産主義に敗北したことになるとする風潮が、各地で生まれるようになりました。こうして右派が態度を硬化させる一方で、共産主義者たちもさらに革命にむけての活動を激化させていったのです。

・・・・・・

終戦直後にはまだ、第二次世界大戦がどれほど大きな影響を人類の歴史にもたらしたかを評価することは困難でした。ただひとつだけ、誰の目にもあきらかな事実がありました。それはドイツのナチ党政権が行なった数々の犯罪行為が、決して許されるべきものではないということです。連合軍がヨーロッパ大陸を進軍し、強制収容所を解放していくにつれ、人類史上最悪ともいえる組織的暴力と犯罪の実態があきらかになっていったのです。

かつてチャーチルは、「われわれが敗北するようなことがあれば、アメリカを含む全世界が、われわれがこれまで親しみ大切にしてきたものすべてを含む全世界が、新たな暗黒の淵へと沈んでしまうだろう。その暗黒の時代は悪用された科学の力によって、ますます邪悪なものとなり、そしておそらくは長期化の道をたどるだろう」と語っていました。その言葉は、まさに真実以外の何ものでもなかったのです。

・・・・・・

平和が回復すると、戦時中の美辞麗句は思いがけない害をもたらすようになりました。銃声が鳴りやんだあとの世界をじっくり見渡した人びとの前には、大きな幻滅が待ちうけていたのです。それでもなお、一九三九年から四五年にかけてのヨーロッパの戦争は、ほかのどんな戦争にもなかったほど、倫理的な側面を強くもっていたといえるでしょう。この点は何度も強調しておく必要があります。第二次世界大戦において連合軍が勝利したことで、自由主義文明に対する最悪の挑戦が退けられたことはまちがいないのです。

深い洞察力の持ち主であれば、ヒトラー政権が反自由主義的な性質をもった支配体制だったという点に、重大な皮肉を見てとることができたでしょう。ドイツは多くの点で、ヨーロッパのなかでも群をぬいて進歩的な国でした。ヨーロッパ文明における最善のものを数多く保有していたドイツが、これはどの規模で集団的な犯罪行為に走ったという事実は、自由主義文明の基盤そのものに何らかの重大な誤りがあるのではないかという疑いを人びとにいだかせました。ナチ党の犯罪は、一時的に野蛮な征服欲にとりつかれたゆえの暴走ではなく、計画的、科学的、統制的、官僚的な方法で進められたものであり、そのおぞましい目的をのぞくと、そこに合理性を欠く要素はまったくなかったからです。

この点からすると、アジアにおける戦争の意味は大きく異なっていました。アジアでは日本の帝国主義が、一時的にそれまでの西洋列強の帝国主義にとって代わりましたが、多くの場合、支配された人びとはその変化をそれほど嘆いてはいませんでした。戦時中のプロパガンダによって「ファシスト」日本という見解が流布したものの、それは長い伝統をもつ日本社会の特質を、意図的に歪曲した見解だったといえます。たとえ日本が勝利を収めたとしても、ヨーロッパ諸国がドイツに支配されていた場合ほど悲惨な結果は生じなかったことでしょう。

しかし、巻末の監修者あとがきで五百旗頭真氏が以下のように指摘している面は、全くもって認めるしかない。

といって日本偏向という訳ではなく、日本がはまってしまった歴史的愚行を明快に語る。日本の中国侵略こそが、中国の愛国心を呼び起こし、中国が再び東アジアの主体にたち帰る契機を提供した。そのうえ「日本は不覚にも国民党政権を攻撃したことで、長年にわたって阻止しようと努めてきた中国革命を、最終的な成功へみちびく」結果となった。日本は逆説と皮肉を好む歴史に魅入られたように、忌み嫌う敵の勝利につくしたのである。東アジアの植民地解放と第三世界の船出にも、概して同じような皮肉な役割を日本は果たしたといえよう。

 

 

他の部分は省略。

この巻の記事は、これくらいにしましょう。

2017年2月9日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 8 帝国の時代』 (創元社)

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19世紀末帝国主義時代から第二次世界大戦直前までの巻。

まず、欧米列強による世界分割が、「平和的」に進んだことを指摘。

一九世紀をとおしてイギリスが海軍力を背景に「イギリスの平和」を実現したおかげで、非ヨーロッパ世界の支配をめぐって争っていたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国のあいだでは植民地をめぐる戦争が一度も起こりませんでした。一九世紀が植民地への直接支配がもっとも拡大した時代だったことを考えると、一七世紀や一八世紀には何度も起きた植民地戦争がこの時期起きなかったのは、かなり異例だったといえるでしょう。この「イギリスの平和」のおかげて、無数の貿易商人たちも、なんの障害もなく世界中の海を行き来することができました。ヨーロッパ文明が世界中に広まることができたのは、イギリスの圧倒的な海軍力が経済活動を保護していたからでもあったのです。

・・・・・・

ヨーロッパ諸国は約四〇年にわたって植民地問題をめぐる激しい論争をつづけ、アメリカとスペインの対立は戦争にまで発展しました。ところがその一方で、ヨーロッパ諸国による「世界の分割」は、実は驚くほど平穏なうちに進んでいったのです。

事実、一九一四年に始まった第一次世界大戦では、植民地問題でもっとも対立していたイギリス、ロシア、フランスの三ヵ国が同盟して戦っています。つまり第一次世界大戦を引き起こした原因は、植民地をめぐる対立ではなかったということになります。

一九〇〇年以降、第一次世界大戦までのあいだに領土争いが戦争に発展しそうになったのは、モロッコをめぐるドイツとフランスの対立だけでしたが、このときも植民地をめぐる攻防よりも、ドイツがフランスを攻撃した際に、他国がフランスを支援するかどうかに注目が集まっていました。

こうしてみると第一次世界大戦以前の植民地をめぐる争いは、ヨーロッパ大陸内に存在する深刻な対立から、各国の注意をそらす役割をはたしたともいえるでしょう。さらにいえば、ヨーロッパ内の平和の維持に貢献したとさえいえるのです。

19世紀後半、「帝国主義の最後の波」の描写。

一九世紀前半にイギリスとフランスが新たな領土を獲得したことに刺激され、その他の列強諸国も一八七〇年以降、領土の拡大に乗りだします。しかし、そうした国々がたんなる羨望からイギリスとフランスのあとにつづいたというだけでは、一九世紀後半に突如として起こった大規模な「帝国主義の時代」を説明することはできません。南極と北極をのぞくと、一九一四年までに世界の五分の四以上の地域が、ヨーロッパの支配下に入るか、ヨーロッパ系の新国家となっていました。真の意味での独立をたもったのは、日本とエチオピア、そしてタイ(シャム)のわずか三ヵ国にすぎなかったのです。

その原因について、経済的動機は余り重視せず、実は当時各国で進行していた「民主化」こそが大きな影響を与えたとする。

なぜこうした状況になったかについては、今日もまだ議論がつづいています。しかし、それまで長期にわたってヨーロッパに蓄積されてきた力が、この時期に一気に噴出したことほまちがいありません。ヨーロッパ文明が進歩し、強力になるにつれて、ほかの地域はますますその覇権に抵抗できなくなっていきました。ある時点までの帝国主義の理論や思想は、そうしたヨーロッパ諸国が突然自覚したみずからの巨大な力を、「合埋的」に説明しようと試みたものだったといえるでしょう。

・・・・さまざまな技術の発達によって、ヨーロッパ諸国は世界中に覇権を確立していくことになりました。けれども世界各地に覇権が広がれば、貿易と投資も自然に活性化するだろうという見通しは、たしかな根拠をもたない場合が多く、たいていの場合、期待外れの結果に終わりました。アフリカの「未開の地」にどれほど魅力があろうと、また何億人という農民をかかえた中国が一見どれだけ巨大な市場に見えていたとしても、工業国はやはり他の工業国を最大の貿易相手としていたからです。海外における資本の投資先としてもっとも人気があったのも、新しく獲得した植民地ではなく、既存の植民地や元植民地でした。たとえばイギリスは海外むけの資本の大半を、アメリカ合衆国と南米につぎこんでいました。またフランスの投資家たちはアフリカよりもロシアに関心を示し、ドイツはオスマン帝国領に資本を投入していたのです。

国家と同じく個人としてのヨーロッパ人のなかにも、領土拡大による経済発展に大きな期待をよせた人たちが数多く存在していました。ところが、そうした多くの個人がかかわったために、この時期のヨーロッパの帝国主義には一貫性がなく、全体としての傾向を語ることをきわめて困難にしているのです。

探検家や商人だちからうながされる形で、各国政府はしばしば新しい領土の獲得に乗りだしていきました。領土拡大がもっとも盛んだったこの時期は、民衆の政治参加が急速に進んだ時代でもあり、探検家や商人たちが民衆から英雄視されることも多かったのです。

民衆は新聞を購入したり、選挙で投票したり、あるいは通りで声援を送ることによって、国家間の領土拡張競争を背後から支えつづけていました。このころ誕生した安価な新聞は、植民地における戦争や探検をドラマチックに報道して、帝国主義的な政策を後押ししていたのです。出費を生むだけでなんの利益にもならないような土地でも、新しい領土を獲得することで民衆の不満をやわらげることができると考えた政治家たちもいました。

さらにいえば、領土拡大の動機となったのは、利益の追求や不満の解消だけではありませんでした。一部の帝国主義者たちが信奉していた理想主義は、多くの人びとの良心を満足させるうえでも大いに有効だったといえるでしょう。ヨーロッパ文明こそが真の文明であると信じていた人びとは、他の民族を支配して彼らに「幸福をもたらす」ことを、自分たちの義務であると考えていたのです。

日本の近代化と独立維持について。

天皇がふたたび表舞台に登場したのも、民衆の支持を得て革新的な改革を断行できたのも、教育を受けた日本人の大半が、西洋文明に対する「不名誉な後進性」をなんとしても払拭したいと願っていたからでした。もしそれができないとすれば日本もまた、中国やインドなどと同じく植民地化への道をたどると考えられていたのです。

・・・・・・

朝廷が京都から東京に移ったのは、「明治維新」と日本の再生をつげる象徴的な出来事だったといえるでしょう。新しく誕生した明治政府がまずとりくんだのは、封建制度の廃止でした。日本がこの時代の非西洋諸国のなかで特別な存在となりえたのは、中国の惨状をまのあたりにした結果、改革を早急に進めようと決意した人びとが数多く存在したことと、日本の社会的・道徳的な伝統がその種の愛国心を支えたこと、そして既存の天皇制のなかに、たんに古い伝統を守るというだけではない精神的な権威が存在したということです。こうした条件があったからこそ、日本はイギリスの名誉革命と同じく、既存の体制内の人びとが起こした革命によって、大きな変革を実現することができたのです。

・・・・・・

こうして明治維新は大きな成功を収めることになったわけですが、そのひきかえに日本は、最終的に精神面で大きな代償を支払うことになります。日本は西洋から熱心に学んでいる最中に、早くも内向的な姿勢に転じ、新たに国家の宗教とされた神道の信者たちは、「外国」から伝来した宗教という理由で、儒教や仏教を攻撃するようになりました。そしてしだいに「現人神」としての天皇の権力が強化され、やがてせっかく誕生した憲法よりも、天皇に対する忠誠心のほうが重視されるようになっていったのです。

もしも文化的土壌が異なっていたら、明治憲法に盛りこまれた近代的な原則の数々は、自由主義的な社会の発展に貢献したのかもしれません。しかし実際の明治時代の社会体制は、きびしい警察の取り締まりに代表されるように、自由主義とはほど遠いものでした。

けれども明治時代の日本が直面していた・・・大きな課題を考えると、そうした権威主義的な傾向を退けるのはきわめて困難であったことがわかります。ひとつは、経済の近代化を短期間で達成するためには、政府の強い指導ときびしい財政政策が不可欠だったという点です。・・・・・

大衆民主主義時代の到来とその弊害について。

選挙制度の民主化にともなって起きた政治の「大衆化」は、さまざまな形で社会を変化させていきました。選挙に勝つためには大衆を組織しなければならなくなり、一九〇〇年までに近代的な政党が次々と誕生していったのです(政党はまずヨーロッパとアメリカで生まれ、やがて世界中に広まっていきました)。こうした政党は、いずれも巨大な組織と宣伝のための手段をもち、それぞれの得意分野を開拓して政党としての特色を打ちだしていきました。

古いタイプの政治家たちはそうした動きに反発しましたが、彼らにも言い分がなかったわけではありません。近代的な政党とは、つまりは政治の大衆化を意味するものであり、大衆に迎合するために政治が堕落する危険性があると彼らは考えていたのです。

・・・・・・

その一方で、新聞の発行者や政治家たちの多くは、世論は操作できるものだと考えるようになっていきました。この点に深いかかわりをもっていたのが識字率の向上です。大衆が選挙権を正しく行使するためには教育が必要であるとされた反面、識字率の向上に支えられて、センセーショナルな記事で読者の感情をあおる安価な新聞が人気を集めていきました。一九世紀のうちに、宣伝・広告という新しい産業も誕生していました。

そしてこのころになってもまだ、大衆をもっともひきつける政治思想といえば、ナショナリズムでした。当時のナショナリズムは、革命を起こす力さえ依然としてもっていたのです。

近代技術の発達が、戦争を政治の延長であり、その一手段とする考え方を極めて危険なものにしていたことについて。

一九世紀に入って戦争が減少したことで、ヨーロッパでは戦争に対する楽観的な考えが生まれるようになっていました。たしかに一八七七年にロシアとオスマン帝国が戦っだのを最後に、ヨーロッパでは大国どうしの戦争は起こっていませんでした。加えて、残念なことにヨーロッパの軍人も政治家も、アメリカの南北戦争であきらかになった重大な事実に気づいていませんでした。南北戦争では鉄道や電信、さらには大量生産された近代的な武器がもちいられたことで、それまでとはくらべものにならないほど大きな被害が出ていたのです。

・・・・・・

こうしたヨーロッパの不穏な状況をいっそう危険なものにしていたのが、社会全体にみなぎった心理的なムードでした。当時はナショナリズムや愛国主義の昂揚期であり、大衆がひとつの方向へ感情的に流されやすい時代だったのです。

もうひとつ危険だったのは、大多数の人びとにとって戦争といえば一八七〇年の普仏戦争(短期間でパリが無血開城されました)だったため、近代戦争のもつ悲惨さがほとんど理解されていなかったということがあります。普仏戦争の数年前にはアメリカで南北戦争が起こっており、近代戦争のもつ悲惨さがすでにあきらかになっていたのですが、ヨーロッパではそうした新大陸の出来事には注意がむけられていなかったのです(南北戦争によるアメリカ人の死亡者数は、アメリカがそれ以外にかかわっだすべての戦争の総死亡者数を上まわっていました)。

近代戦争がとてつもない破壊力をもつこと自体は、もちろん周知の事実でしたが、二〇世紀の戦争はすぐに終わるものだという誤った「常識」も存在していました。軍事費ひとつをとっても、もはやナポレオン戦争のような長期戦を行なうことができるとは考えられていませんでした。複雑さを増した世界経済のなか、文明国の納税者たちが長期戦に耐えられるはずがないと考えられていたのです(こうした誤った「常識」が、戦争への不安をやわらげていた可能性もあります)。

しかも一九一四年のヨーロッパには退廃と閉塞感が広まっており、戦争が起こればそうした閉塞感を脱することができると期待されていたふしさえあります。もちろん革命家たちは、革命につながることを期待して、戦争の勃発を歓迎していました。

さらに当時のヨーロッパ各国が外交交渉によって長らく戦争を回避し、重大な危機を乗り越えてきたという事実にも、大きな危険がひそんでいました。そのため、一九一四年七月にいよいよ状況が手に負えなくなったときも、多くの人びとが事態の深刻さにしばらく気づかなかったのです。開戦前夜になってもまだ政治家たちは、各国の外交官なり首脳なりが協議することによって、危機を回避できるのではないかと考えていたのです。

キリスト教の衰退と科学への安易な礼賛によって、人間の精神を律する倫理的規範が失われ、ヨーロッパと世界は破滅的動乱に近づいて行く。

このように科学は第一次世界大戦以前の段階で、すでに「神話」となるにじゅうぶんな成果をあげていました。ただし、ここでいう「神話」という言葉には、つくりごとという意味は含まれていません。科学の成果の大半は、実験によって「真実であることが証明されたもの」だからです。そうではなく、過去の時代における宗教と同じく、科学は人間の世界観(宇宙観)に大きな影響をおよぼすものとなりました。その意味から、「神話」とよぶにふさわしいということなのです。

いまや科学は、自然を解読してあやつるためだけのものではなく、人間が追求すべき目的や、行動を律するための倫理基準など、形而上的な問題に対しても指針をあたえるものと考えられるようになりました。もちろん、そうしたことはすべて、科学者たちが追求する科学の本質とは、基本的になんの関係もありません。しかしそうして科学が形而上的な尊敬を集めたことによって、近代文明はその中核に共通の宗教をもたない、はじめての文明となったのです。

この文明の中核には、自然を操作することによって豊かな未来が開かれるという確信と、じゅうぶんな知性と資金さえあれば、基本的に解決不可能な問題はないという自信が存在していました。そして「あいまいなもの」が存在する余地こそあったものの、「神秘的なもの」が社会に存在する余地はなくなっていったのです。実は科学者たち自身はその多くが、科学を中心とするそのような新しい世界観を支持していなかったのですが、今日では多くの人びとがそうした世界観をもつようになっています。その基本的な部分は、第一次世界大戦以前にほぼできあがっていたものなのです。

・・・・・・

けれども皮肉なことに、科学もまた第一次世界大戦の勃発した一九一四年までには、ヨーロッパ文明内の緊張感を高める一因となってしまいました。伝統的な宗教が直面したさまざまな問題に科学が大きく関与していたことはいうまでもありませんが、科学はもっと微妙な形でも社会の緊張を高めていました。つまり、ダーウィンの理論からみちびきだされた決定論や、人類学や心理学が示唆した相対主義をとおして、一八世紀以降科学が重視してきた客観性と合理性に対する信頼を、科学自身がそこない始めていたのです。その結果、一九一四年までに、自由主義的で合理的で進歩的な「新しいヨーロッパ」が、伝統的で信心深く保守的な「古いヨーロッパ」と同じくらい、不安定な状態におちいってしまうことになったのです。

第一次世界大戦がヨーロッパ文明に破滅的損害を与えた後結ばれたヴェルサイユ条約について、著者は問題の困難性を考えれば、条約に対する批判はしばしば行き過ぎているとしつつ、もはやヨーロッパ内部のみの均衡維持で平和は達成できない情勢だったので、米ソ二大国を除いた戦後体制に有効性は期待できなかった、としている。

そして戦後における右翼全体主義の台頭について、著者はイタリアをはじめとする各国の「ファシズム」とナチズムを区別し、真に革命的で過激なものは後者のみであるとする。

イタリア以外の国々で起こったファシズムとよばれる動きも、それらがかかげていた手法や目標とはかけ離れた結果に終わりました。たしかにそうした政治勢力はみな、自由主義のあとにつづく「新しい何か」(大衆社会を基盤とした何かとしか表現できません)を反映してはいたものの、いずれもつねに保守勢力に譲歩し、妥協をくり返していきました。「ファシズム」という現象を正確に説明することは困難ですが、多くの国々で権威主義的(全体主義をめざすものもありました)できわめて国家主義的、そして反共産主義をかかげる体制が成立していったことは事実です。

しかし、この種の体制を生みだしたのはファシストだけではありません。たとえばスペインとポルトガルで誕生した政権は、民衆の支持よりも伝統的な保守勢力をよりどころにしていました。

ファシスト内部の急進派のなかには、政府が既存の社会体制に譲歩することに強く反発した人びともいました。けれども「ファシスト」とよばれた政治勢力のうち、伝統的な保守勢力倒して革命を成功させたのは、ドイツのナチ党だけだったのです。以上のような理由から、「ファシズム」という言葉はある種の政治的潮流をあらわす一方で、混乱をまねくことの多い言葉でもあります。

 

 

この巻は、ちょっと鋭さが減じたか?

でも、それほど悪くもないです。

2017年2月3日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 7 革命の時代』 (創元社)

Filed under: ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 04:25

フランス革命と19世紀ヨーロッパ史の巻。

まず、キリスト教を中心とする伝統文化を(のちには)変化させ、政治的変革の思想的前提となった17世紀科学革命について。

当時の研究が既存の技術によって観察と計測が可能な分野に限られていたため、特定の分野では大きな進歩が見られたものの、ほとんど関心がむけられなかった分野も数多く存在しました。たとえば物理学と天文学が急速に進歩したのに対して、化学はあまり発展しませんでした(もっとも一七〇〇年の時点では、さすがに四元素説を支持する人はほとんどいなくなっていたようですが)。物理学と天文学は急速な発展を見せたあと勢いが衰えましたが、それでも一九世紀になるまで着実に進歩をとげ、やがて新たな研究方法のもとでふたたび大きく発展していくことになります。

一七世紀の科学革命はさまざまな点て大きな業績をのこすことになりましたが、そのもっとも大きな成果は新しい世界観(宇宙観)を生みだしたことだったといえるでしょう。ヨーロッパでは古くから、あらゆる事象は神によって生みだされたものであり、予測不能なものであると考えられていました。こうした伝統的な世界観に代わって、宇宙を機械にたとえる新しい世界観が生まれ、世界のあらゆる事象は普遍的な法則にもとづいて起こっていると考えられるようになったのです。

ここで誤解していただきたくないのは、この新しい世界観は、決して神の存在を否定するものではなかったということです。個別の事象は普遍的な法則にもとづいて起こると考えられた一方で、その法則が存在する宇宙という「偉大な機械」をつくりだしたのは、あくまで神であると信じられていたからです(その意味で、神はしばしば「偉大なる時計職人」にたとえられました)。

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一七世紀の科学革命によって新しく誕生した世界観(宇宙観)は、神の偉大さと神秘性を強調するという点では、それまでの古い世界観となんら変わりがありませんでした。アリストテレスの思想が中世のキリスト教神学に受け入れられたように、当時の科学者たちは、自分たちが構築した新しい世界観もキリスト教の体系内に収まることを信じて疑わなかったのです。

そして、より直接的に社会の変化を促した啓蒙思想について。

英語の「啓蒙」という言葉には、暗闇に光を投げかけるというイメージがあります。しかし、ドイツの哲学者カントは有名な論文のなかで、「啓蒙とは何か」という問いかけに対し、それは「みずからがもつ未成熟な状態からの脱却である」と答えています。この答えの核心には、あきらかに権威を疑う姿勢が存在しています。啓蒙思想がのこした最大の遺産とは、そうしたすべての物事を批判的に見る懐疑的な態度だったのです。

その結果、あらゆるものが検証と批判の対象になっていきました。神聖なものなど何ひとつないと考えた人びともいます(もっとも、啓蒙思想の特徴である批判精神そのものは、何の疑問も検証もなく受け入れられていたのですが)。

上記末尾の文章には著者の皮肉を感じる。

19世紀産業革命と違い、通史ではあまり触れられることのない、18・19世紀ヨーロッパの農業革命について。

文明を根本から変化させるような出来事は、そうめったに起こるものではありません。しかし一八世紀のヨーロッパで起きた変化は、まちがいなくそうした変化だったといえるでしょう。食料の生産量が、かつてなかったペースで増加し始めたのです。そのころすでに中世の二倍半に達していた農業生産量は、一九世紀に入るとさらに飛躍的な伸びを見せていきました。ヨーロッパでは一八〇〇年ごろから農業生産量が毎年一パーセントずつ増加するようになったのですが、これは過去の成長率とは比較にならないくらい高い成長率だったのです。

さらに同じころ工業と商業も発達したおかげで、世界各地から豊富な食料を調達できるようになりました。このころ起きた生産性の向上も外国からの食料の輸入も、同じプロセス、つまり生産活動に対する投資が増大した結果として生まれたものでした。そして一八七〇年までにはヨーロッパとアメリカ合衆国に、世界中でもっとも多くの富が集まるようになっていたのです。

一七五〇年から一八七〇年にかけて起こった農業生産量の急増(もちろんその後はさらに急増していきました)は、「革命」というような強烈な言葉でなくては表現できません。しかし同時にそれは、非常に複雑なプロセスの結果としてもたらされたものでもありました。ヨーロッパにおける農業革命は、ヨーロッパ大陸だけでなく、南北アメリカ大陸とオーストラリアなども巻きこんだ世界的な経済変化の一環だったのです。

産業革命よりも、この農業革命の方が、人類にとっては真に実質的な進歩と幸福をもたらしたと言えるのかもしれない。

人々が餓死の恐怖から解放されたことは、やはり大きな前進だと思われる。

一方、産業革命は巨大な生産力を解放した陰で、深刻な社会問題も生んだ。

こうした都市化が伝統的な社会の枠組みを崩壊させる要因となったことも、まずまちがいのないところです。一九世紀になるとヨーロッパの各都市で、伝統的な行動様式が破壊され、新しい社会制度や思想が次々に誕生していきました。

都市で暮らす人びとは、農村社会において日々の生活を監視していた聖職者や大地主や隣人たちの目から、のがれることができました。さらに読み書きが庶民のあいだに普及するにつれ、新しい考え方が既成の社会通念を次々に破壊していくようになります。一九世紀にヨーロッパの上流階級がとくに衝撃を受けたのが、都市において無神論や無宗教が広がっていったことです。そのことで危機に瀕しているのは、宗教上の教義だけではありませんでした。なぜならヨーロッパにおけるキリスト教は、古くから伝統的な道徳と社会秩序の守り手でもあったからです。

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このように、産業革命がもたらした変化は物質面だけにはとどまりませんでした。これまでにあきらかになっているかぎりでは、近代文明は特定の宗教への信仰を中核にもたない最初の文明といえます。その誕生の経緯を解明するのはかなりむずかしい作業ですが、おそらく科学と哲学が知識人に信仰心を失わせたように、都市での生活が伝統的な信仰の形態を崩壊させてしまったことも原因のひとつなのでしょう。

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産業革命は生活のリズムを変化させただけでなく、労働自体の意味も変えていきました。この点について考える際には、むずかしいことではありますが、過去の時代の生活に対して感傷的にならないことが必要です。単調な仕事、個人的な判断の排除、資本家による搾取など、工場労働の実情を知れば知るほど、昔はよかったという気もちになることはたしかです。しかし中世の農民の暮らしも単調なものでした。彼らはたいてい領主から搾取されていたうえ、日々の農作業もかならずしも楽だったとはいえません。日の出から日の入りまで働きづめでしたし、景気の変動はともかくとして、天候の影響はつねに受けていたからです。

いずれにしても、産業革命によって人間の日々の暮らしは一変することになりました。その結果をそれ以前の生活とくらべてどう判断するかは、意見の分かれるところですが。

ヨーロッパから遠く離れた場所で、実験国家として誕生し、孤立状態の中で力を貯えていったアメリカ合衆国について。

当時、古典を勉強したヨーロッパ人なら誰でも、古代の共和政が多くの賞賛を集める一方で、その政体が腐敗と派閥争いにおちいりやすかったことを常識として知っていました。その後もイタリア半島には共和政国家が成立していますが、どれも古代ギリシアのアテネや共和政時代のローマ以上に学ぶべき点はなく、一八世紀のヨーロッパには、それほど成功しているとはいえない少数の共和国が存在しているだけでした。共和政は小国でしか成功しないという意見も強かったようですが、アメリカは地理的に孤立していたため、大国でも例外的に共和政を維持できるのではないかと考えられたのです。

とはいえ、建国の時点でこの新しい国の未来を楽観視していた人は、ほとんどいなかったといってよいでしょう。そのため、のちにアメリカ合衆国が大きな成功を収めたとき、共和政に対する評価も一変することになります。従来の政治体制に批判的なヨーロッパの知識人は、共和政のもつ持続力や、政治のコストが安あがりであること、共和政と切りはなせないと誤解されていた自由主義などについて、強い関心を示し始めました。そして共和政という政治形態は、北米大陸から、まもなく南米大陸へも広かっていったのです。

・・・・・・

・・・国民主権の原則は、一七世紀に一部の植民地で制定された憲法(もっともそれらは、あくまで王政の枠組みを超えるものではありませんでしたが)の流れをくむものでしたが、この原則によってアメリカ合衆国は、イギリス本国の政治体制と決定的に決別することになります。イギリスの立憲君主政はもともと国民の意思によって決定されたわけではなく、慣習にもとづくものだったからです。イギリスの憲法学者メートランドの説にしたがえば、イギリス人は国家原理に代わるものとして、国王の権威を受け入れていたということになります。

私には、ジャクソン時代以降のアメリカは、「腐敗と派閥争い」という共和政の典型的失敗例にしか思えない。

それより、「慣習にもとづく立憲君主政」の方がよほど優れた政体だと確信している。

フランス革命について。

三部会の開催から10年をへた一七九九年になると、フランスが中世の伝統とほぼ完全に断絶したことが、誰の目にもあきらかになっていました。なかでも法律の改正が急速に進んでいました。主要な改正の大半は、少なくとも原理的な部分については一七八九年に制定されていたものでした。封建制度や法律で認められた特権の廃止、王権神授説にもとづく絶対主義の廃止、さらには個人を主体とし、宗教に基盤をおかない社会の創設が、「八九年の原則」のおもな内容だったのです。

こうした原則の盛りこまれた「人間および市民の権利の宣言」(いわゆる「人権宣言」)は、一七九一年に公布された憲法の前文として書かれたものでした。これにより、法のもとでの平等、個人の権利の法的保護、教会と国家の分離、信教の自由が保障されることになったのです。こうした一連の法律を実現したのが国民議会です。国民主権の原則にもとづくこの議会が制定した法律は、いかなる地域や社会階層の特権も認めませんでした。彼らは新しい体制のもとで、王政時代よりもはるかに悪化した財政危機(とりわけ国家財政の破綻と通貨の急落)を乗り越え、啓蒙専制君主には夢見ることしかできなかった大規模な行政改革に成功したのです。

末尾の文章の通り、革命は伝統的君主政には不可能だった程の中央集権化された行政権を生み出した。

そして伝統的君主政が破壊された後も、宗教に対する愛着だけは民衆の間に強く残存したことが述べられる。

・・・大規模な変化のあとには、かならず分裂が起こるものです。なぜなら人間の意識が変化するためには、法律や政治体制が変化するよりもはるかに長い時間を必要とするからです。たとえば農民は封建的な地代の廃止を喜ぶ一方で、それまで使用してきた共有地の利用権がなくなったことに強い不満を感じていました。こうした保守的な反応は、宗教問題においても重要な展開を見せることになります。中世からフランス国王の戴冠式でもちいられてきたランス大聖堂の聖器が、恐怖政治の時代に政府によって破壊され、ノートルダム大聖堂にはキリスト教の祭壇に代わって、「理性の祭壇」が設置されることになったのです。

多くの聖職者たちが激しい迫害に会いました。フランスはもはや伝統的な意味でのキリスト教国ではなくなり、「神聖な存在」としての国王をなつかしむ国民はほとんどいなくなりました。しかしその一方で、教会に対する迫害がほかの何にもまして、革命に対する民衆の反感を買っていたことも事実です。結局、一部の革命家が広めようとした「理性」に対する崇拝は根づかず、カトリック教会が正式に復権したときには、多くのフランス人がそれを心から歓迎しました。すでに各教区では、そのはるか以前から、住民の自発的な行動によって教会が実質的に復権をはたしていたのです。

革命の総括的記述。

一九世紀になると、「普遍的な現象としての革命」は、「すべての場所につねに存在する力である」とする人まで現れるようになりました。これはもっとも極端なイデオロギーですが、今日でもこの種の考えがなくなったわけではありません。

反乱や破壊活動の是非は、個別の状況を無視して判断されるべきだと考える人びとが、現在でも依然として存在しています。こうして革命は神話となり、いくつもの悲惨な状況を生みだしていきました。そして最初はヨーロッパが、つづいてヨーロッパが支配した世界が、この神話に情緒的に反応するやっかいな人びとをかかえこむことになりました(かつて宗教上の対立という愚かな現象をかかえこんだのと同様に)。

こうした思想が現在まで存続してきたのも、フランス革命の影響がいかに大きかったかの証拠だといえるでしょう。

ナポレオン時代の意義について。

・・・ブルボン朝が復活したといっても、フランス革命以前の体制が復活したわけではありません。政教条約も県制度もそのまま存続し、法のもとでの平等は守られ、代議制度も継続されることになりました。革命がもたらした変化は、そのころにはすっかり確立された秩序となっていたのです。逆にいうと、そうした状況が定着するために必要な時間をフランス社会に提供したのが、ナポレオンだったということもできます。フランス革命のなかから後世に引きつがれたものは、すべてナポレオンの承認をへたものだったのです。

革命の精神を受けついだという点で、ナポレオンは伝統的な君主だちとは大きく異なっていました。しかしその一方で彼は新しいものを信用せず、保守的な政策を次々に打ちだしていきました。いわばナポレオンは、「民主的な専制君主」だったといえるでしょう。彼は国民投票という正式な手続きをへて権力を握るとともに、国民の支持を得て強力な軍隊を編成することにも成功しました。こうしてみるとナポレオンの政治スタイルは、かなり二〇世紀の支配者たちに近いものだったといえます。

国際舞台におけるフランスの力を、かつてなかったほど高めたことについて、ナポレオンはこれまでルイー四世とともに自国内で高い評価を受けてきました。ただしこの点でもまた、両者には重要な違いがあります。ナポレオンはルイー四世のはたせなかったヨーロッパ支配をなしとげただけでなく、その支配は「革命という洗礼」を受けていたため、たんにフランスが他国を軍事的に支配したという以上の意味をもっていたのです。

けれどもその点を美化するのは、あまり適切ではないかもしれません。ヨーロッパの解放者であるとか、偉大な天才といったナポレオン像は、後世になってつくられた伝説にすぎないからです。一八〇〇年から一四年までのあいだにナポレオンがヨーロッパ諸国にもたらしたものは、何よりもまず血なまぐさい戦争であり、混乱でした。しかもそうした戦争や混乱は、いずれも彼の異常なまでの権力欲と誇大妄想的な資質によって引き起こされたものだったのです。とはいえ、意図的なものも、そうでないものも含めて、ナポレオンが貴重な副産物を後世にのこしたことは事実です。

革命後の歴史を動かす原動力となった、ナショナリズムと自由(民主)主義について。

・・・ヨーロッパの政治思想のなかに、「歴史的」であると認識された国民(民族)の利益を、政府が守り発展させるべきであるという考えが、急速に広まっていきました。それとともに、どの国民が歴史的に重要であるのか、彼らの利益をどのように定義すべきかなどといった問題について、激しい論争が行なわれることになったのです。

一方、ナショナリズムのほかにも重要な原則がありました。それらの原則は実際には「民主主義」や「自由主義」といった言葉ではとうてい表現しきれないのですが、ほかに適切な表現がないので、ここではそうした言葉をもちいることにしておきます。

ヨーロッパでは、より多くの人びとの政治参加を実現するために、代議制度を採用する傾向が各国に広まっていきました(形式だけの場合もありましたが)。自由主義者と民主主義者はほぼ一貫して、選挙権の拡大と代議制度の改善を要求していました。同時に先進国の政治制度と社会制度は、以前にも増して個人に基盤をおくようになり、地域社会や宗教、職業、家族などの一員であることよりも、個人としての権利のほうが重視されるようになりました。

こうして、たしかに自由が拡大していったわけですが、逆に以前よりも自由を失った面もありました。国民国家においては、国家が国民に対してかつてなかったほど法的に強い立場に立ったため、国家は国民をより効果的に支配できるようになっていったのです。

現代でも、我々は基本、この二つの原理の下で暮らしているわけだが、その弊害も極めて大きい。

国家権力の増大が生みだしたことは、以下の引用文の通り、19世紀後半においては「革命の衰退」であり、ひとまず肯定的に見ることができるが、20世紀に入り、国家の大衆民主主義化と共に、国家自体が恐るべき暴走を始めることになる。

一七世紀にフランスがスペインにとって代わったように、いまやドイツがフランスに代わってヨーロッパ大陸における最強国となりました。しかしこの変化のなかに、厳密な意味での「革命の影響」はほとんど見ることができません。一九世紀の革命家たちは、カブールやビスマルクに匹敵する業績は何ひとつのこすことができず、ナポレオン三世とくらべてもかなり見劣りのする成果をあげることしかできませんでした。この時期に革命によせられていた期待や、あるいは恐怖を考えれば、それは奇妙な現象だったといわざるをえません。いずれにしても、この時期に革命が成功したのはヨーロッパの周辺地域に限られており、しかもまもなく衰退の兆しさえ見せ姶めたのです。

一八四八年までは、陰謀やクーデターだけでなく、ヨーロッパ中で革命があいつぎました。しかし一八四八年以降は、一八六三年のポーランドをのぞくと、大国が支配する地域では一八七一年まで一度も革命が起こらなかったのです。

もっとも、革命の勢いが衰えたのは、それほど不思議なことではありませんでした。結局、革命はフランス以外の国ではほとんど成功しなかったといえますし、フランスでも最終的にはナポレオンによる独裁体制が誕生したのですから。

その一方、革命が目標としたもののいくつかは、別の方法で達成されつつありました。カブールとその後継者たちがイタリアを統一する様子を見て、マッツィーニはさぞ悔しがったにちがいありません。それは革命家たちが認めることのできない形での国家統一だったからです。ビスマルクも一八四八年の革命とは別の方法で、自由主義者たちが望んでいたドイツの統一を達成し、ドイツをまぎれもない大国の地位に押しあげることに成功しました。

その後、かつて革命家たちがかかげていた目標のいくつかは、経済発展によっても達成されていくことになります。貧困に対する恐怖は依然として存在していたものの、一九世紀のヨーロッパは着実に豊かになり、人びとの暮らしも向上していきました。そうした流れをさらに加速させた個別の出来事もありました。一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見され、それによって一八五〇年代から六〇年代にかけて、世界経済が活性化されることになったのです。この二〇年間は、社会に自信がみなぎり、失業率が低下して、秩序もおおむね維持された時代となりました。

社会に革命が起こりにくい状況が生まれていたことも、革命が減少した理由のひとつだったといえるでしょう。おもに軍事技術の進歩によって、どの国の政府も以前よりも容易に反乱を鎮圧できるようになっていたのです。一九世紀に入ると近代的な警察制度が誕生し、鉄道と電信の普及によって、遠くで起こった反乱にもすばやく対処できるようになりました。さらに軍隊も武器を強化して、以前よりも確実に反乱を鎮圧できるようになっており、たとえばフランスでは政府が正規軍を掌握していれば、かならずパリを制圧できることが、一七九五年の総裁政府による民衆の鎮圧によってすでに示されていました。

一八一五年から四八年までつづいた長い平和のあいだに、各国の軍隊のおもな任務は、外国軍と戦うことから、国内の反乱や暴動を鎮圧し、治安を維持することに移っていきました。一八三〇年と四八年にパリで革命が成功したのは、軍の重要な部隊が持ち場を離脱したからです。政府が軍部を掌握していさえすれば、一八四八年の六月蜂起のような事件はかならず失敗に終わりました。実際、この年を最後に、ヨーロッパの主要国では民衆による革命が成功することは一度もなかったのです。

1871年パリ・コミューンも、そうした軍の治安維持機能を示した事件だったのだが、社会主義思想の台頭で、逆に革命神話を強化する働きを果たすことになってしまった。

一方、西欧に比し後進的存在であったロシアでも、自由主義的・社会主義的思想の流入によって変化と混乱に向かいつつあったが、体制の改革に否定的だった皇帝ニコライ1世への本書の評価は厳しい。

独裁国家においては、反体制運動はすなわち地下活動を意味します。一八二五年にアレクサンドル一世が亡くなると、そうした地下活動をつづけてきた秘密結社がクーデターを企てました。(デカブリスト(一二月党員)の乱」とよばれたこのクーデターは結局失敗に終わりましたが、それは新皇帝ニコライ一世をふるえあがらせるにじゅうぶんな出来事でした。その結果、ニコライ一世は歴史的に見てきわめて重要な時期に、自由主義をつぶそうとして、ロシアのその後の運命を大きく狂わせることになります。

ニコライ一世の治世は、ピョートル大帝の治世と並んでもっともロシアの運命を左右した時代だったといえるかもしれません。その理由のひとつは、彼が変革を拒否したことでした。独裁政治の信奉者だったニコライ一世は、権威主義的な官僚制、文化活動の管理、秘密警察による支配などといったロシアの伝統を、ほかの保守的な大国が不本意ながらその種のものを廃止しようとしていたときに、逆に強化してしまったのです。

だが、その著者も、アレクサンドル2世による農奴解放令に対しては、極めて高い評価を与えている。

一七世紀以降に強化されたロシアの農奴制は、ロシア社会の最大の特徴となっていました。ニコライ一世でさえ、農奴制はロシア社会がかかえる最大の悪弊であると認めていたほどです。ニコライ一世の時代は農奴による暴動がとくに頻発し、地主を襲撃し、穀物を焼き、家畜を傷つけていました。貢納の支払い拒否などは、もっともおだやかな抵抗であったとさえいえます。

ところがこの巨大な制度を廃止するのは、とてつもなく困難なことだったのです。というのも、ロシア人の大半が実は農奴だったからです。たんに法律をつくったからといって、一夜のうちに農奴を賃金労働者や自作農に変えられるはずもありません。さらには荘園制度がはたしてきた行政的な役割が廃止され、その代わりになるものがないとしたら、国家が突然大きな負担を背負うことになってしまいます。ロシア政府にそれはどの力はありませんでした。

そのためニコライ一世はあえて何もしなかったのですが、アレクサンドル二世は行動を起こしました。数年間をかけて、さまざまな廃止方法を研究し、それぞれの長所と短所を検討したうえで、一八六一年についに農奴解放令を発令したのです。ロシア史にのこるこの画期的な決断により、アレクサンドル二世は「解放皇帝」のよび名をあたえられることになります。ロシアの農奴解放令は、ロシア皇帝がもつ絶対権力が効果的にもちいられた、もっとも顕著な例といってよいでしょう。

農奴解放令により、ロシアの農民は人格的自由を認められ、土地にしばりつけられた労働形態は消滅しました。しかし土地を獲得し所有するためには、買いもどし金を支払わねばなりませんでした。そして彼らが買いもどし金をたくわえるため、また急激に自由労働市場に移行して混乱を起こさないために、解放令のあとも農民たちは各地の農村共同体のもとにほぼとどまりつづける結果となりました(農村共同体には、土地を家族単位で割り当てる仕事が託されていました)。

まもなく農奴解放のやり方や条件に対して批判が噴出します。しかし、ロシアの農奴解放には評価すべき点も数多く存在しますし、歴史的に見ても偉大な出来事だったといってよいでしょう。数年後にはアメリカ合衆国でも奴隷解放宣言がなされ、ロシアよりはるかに経済発展の可能性のあるアメリカで、ロシアの農奴よりもはるかに少ない数の黒人奴隷が解放されました。しかしそれでも、そのとき奴隷を労働市場に突然放りだし、完全な自由放任経済にまかせたため、その結果にアメリカ社会は今日もなお悩まされつづけているのです。

一方、ロシアでは今日までの歴史でも例をみないような巨大な社会変化が、大きな混乱をともなうことなく実現されることになりました。そして世界最強国となる巨大な可能性を秘めたロシアに、ようやく近代化への道が開かれることになったのです。ロシアが長く慣れ親しんできた農業社会から工業社会へむかうためには、農奴解放は必要不可欠なステップだったのです。

確かに我々は、後の革命と帝政の崩壊という視点から、農奴解放令の「不徹底」性をあげつらうことに慣れすぎているのかもしれない。

民主主義特有の党争の弊害から国家を二分する内戦に突入し、莫大な犠牲を払わなければ黒人奴隷を解放できなかったアメリカに比べて、それ以上に社会に深く食い込んでいた農奴制を整然と廃棄した専制君主制下のロシアの方が、少なくとも19世紀の時点では成功していたとする史観があってもよいように思える。

続いて、地理的な孤立という共通点を持つ米英両国が、独立革命後、反発しつつも徐々に関係を改善していったこと、南北戦争によって合衆国の統一が維持され世界的強国に発展したこと、イギリスは産業革命と民主化を政治的断絶無しに達成することに成功したことを述べる。

以下の文章を読むと、私にはやはり米国よりも英国の方が好ましく、価値ある国家と社会であったと思える。

イギリスの政治体制は、主権を「議会の決定にしたがう国王」におく立憲君主政・・・です。たしかに当時のヨーロッパの基準からすると有権者の数は多いほうといえましたが、イギリス人にとって「民主主義」という言葉は否定的なニュアンスをもっており、その実現を求める勢力はほとんど存在しませんでした。イギリス人にとって民主主義とは、フランス流の革命と軍事専制政治を意味していたのです。

・・・・・・

諸外国にはイギリスの政治制度に大きな関心をよせる人びとが少なくありませんでした。工業都市の悲惨な実態にもかかわらず、イギリスが民衆による反乱をうまく切りぬけたことは、それができなかった国々にとって大きな驚きとなっていたからです。他国で革命が起こりそうになるたびにイギリスは意図的に大規模な制度改革を行ない、自由主義の原則をさらにはっきりと示すことで、国力の強化と豊かな社会の実現に成功していたのです。そして政治家も歴史家も、イギリス社会の基盤は自由にあると誇らしげに語っていたのです。

イギリスは、アメリカのように地理的に完全に孤立していたわけでも、広大な土地をもっていたわけでもありません。そのアメリカですら革命を阻止するために悲惨な南北戦争を経験しだのに、イギリスだけがなぜ革命を回避することができたのか。これまで多くの歴史家が、その答えをさがし求めてきました。

けれどもこの問いかけには、革命はある種の条件が整えばかならず起こるものだ(そしてイギリス社会はその条件を満たしていたはずだ)という無意識の前提があるようです。しかし、そもそもこの前提そのものがまちかっているのでしょう。急速に変化しつづけるイギリス社会において、革命が起こる可能性は、おそらくまったくなかったはずです。フランス革命によってヨーロッパ諸国にもたらされた変化の多くは、イギリスでは数世紀も前から実現していたものだったからです。時代をへるにつれ、そこに不合理なしがらみがまとわりついていたとしても、イギリスには新たな変化を許容するだけの基本的な政治体制がすでにできあかっていたのです。

イギリスの下院も上院も、ヨーロッパ諸国の議会のような閉ざされた組織ではありませんでした。両議院ともに一八三二年の議会改革以前に、すでに社会の新しい要望に柔軟に対応する能力があることを証明しています。たとえば最初の工場法(その内容自体はお粗末なものでしたが)が可決されたのは一八〇一年のことでした。さらに一八三二年以降は、人びとは議会に強く働きかければ、どのような改革でも実行できると考えるようになっていました。議会が改革を実行するうえで、法的な制限はいっさい存在しなかったからです。

当時の社会のなかで抑圧され、怒りをかかえた人たちでさえ、この点については認めていたようです。一八三〇年代から四〇年代にかけて(貧困層の暮らしがとくにきびしくなった時代でした)、過激な暴動が頻発し、数多くの革命家が登場しました。しかし当時最大の民衆運動であった「チャーティスト運動」でさえ、「人民憲章」をかかげて議会制度の民主化を求めたものの、議会の廃止までは要求していなかったのです。

けれどもそうした民衆運動だけでは、おそらく議会に改革を実行させることはできなかったでしょう。ここで重要な点は、工場法をのぞくと、ヴィクトリア時代の大きな改革はすべて、労働者階級と同じくらい中産階級の利益にもつながるものだったということです。イギリスの中産階級は、ほかのヨーロッパ諸国の中産階級よりもひと足先に政治的な発言力を獲得しており、その力を利用して要求を実現できる立場にありました。そのため彼らは革命という手段に訴える必要がなかったのです。

一方、一般の民衆のあいだでも革命を求める気運が高まりを見せなかったという事実は、今日まで左翼の歴史家たちの頭を大いに悩ませてきました。それはイギリスの労働者があまりにも貧しすぎたからなのか、それともそれほど貧しくなかったからなのか、あるいは労働者がバラバラで、ひとつの階級としてまとまっていなかったからなのか・・・・・。イギリスに革命が起こらなかった理由について、これまでさまざまな説がとなえられてきました。

しかし、ただ一点だけあきらかなのは、イギリスでは伝統的な行動様式が依然として根強く存続していたという事実です(イギリスではこの時代になってもなお、身分の高い人間に身分の低い人間が服従する習慣がありました)。

さらには革命という手段に訴えなくても、イギリスの労働者は労働組合によってみずからの権利を主張することができたのです(自助、思慮、倹約、謹厳を重んじたという意味では、この時期の労働組合も「ヴィクトリア風」だったといえるでしょう)。

こうして社会が急激に変貌するなかで、変化しないものの象徴でありつづけたのが、議会と国王でした。議会が開催されるウェストミンスター宮殿が焼失し、新しく建て直される際には、「議会制度の母国」としての伝統の古さを強調するために、中世のゴシック様式がわざわざ採用されています。これはイギリス史上まれにみる変革の時代が、伝統と慣習の衣におおわれていたことをまさに象徴する出来事だったといえるでしょう。

議会とともに、変化しないものの象徴だったのが国王です。ヴィクトリア女王が即位した時点で、イギリスの君主政はヨーロッパでは教皇制度についで古い歴史をもつ政治制度となっていました。しかし、その実態は時代とともに変化しています。ジョージ三世のあとをついだジョージ四世は、イギリス史上最悪の国王と評され、つぎの国王も人気を回復することができませんでした。そして、つづくヴィクトリア女王と夫のアルバート公がようやく威信を回復したものの、女王自身の気質はどちらかといえば立憲君主政には適さないものでした。女王は政治的に中立であることを好まず、その姿勢を隠そうとしなかったからです。

にもかかわらず、イギリスの王権が政治問題から手を引くようになったのは、ヴィクトリア女王時代のことでした。女王は「王室」を一般家庭のお手本に仕立てあげ、ジョージ三世の時代以来、はじめて「王室」という言葉がその実態をもつことになったのです・・・・・。

 

 

残り3巻。

順調です。

2017年1月28日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』 (創元社)

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近世ヨーロッパ史の巻。

この巻からは、特に気になった部分を断片的に引用するだけにし、他の部分はできるだけ省略して行くので、これまでの巻にも増して、全体的に少し脈絡に欠く記事になるかもしれません。

 

紀元前500年頃から紀元後1500年まで続いた諸文明の均衡状態が崩れ、ヨーロッパ文明の進出による世界の一体化が始まる。

ただし、その本格化は19世紀を待たなければならない。

世界の歴史に、新しい時代が始まりつつあることを示す数々の兆候が、紀元1500年前後からあいついで現れるようになりました。そのうちのいくつかについては、これまでの巻ですでにお話ししてきたとおりです。ルネサンスの本格的な開花、活字印刷術の発展、アメリカ大陸の「発見」とスペインやポルトガルによる海外植民地の建設などを、そうした例の代表としてあげることができるでしょう。

そのような出来事は、いよいよ人類の歴史が本当の意味で「世界史」の時代に入り、その中心にはヨーロッパで誕生した「強力な」文明が位置するという、新しい時代の本質をよくあらわしています。ヨーロッパ人の活動によって、世界中で起こる出来事が、しだいに有機的な関連をもつようになっていきます。そしてヨーロッパ人は自分たちも気づかないまま、ほかのすべての大陸に干渉を加え、世界に「近代化」を強要する道を歩み始めることになるのです。

「近世」という時代区分について。

「近代」とは、私たちにとってなじみの深い言葉です。しかし、それがさし示す年代は、つねに一定だったわけではありません。かつては古代ギリシア人やローマ人が活躍する「古代史」からあとの時代を、すべて「近代史」としてひとくくりに考えていました。事実、オックスフォード大学などはいまでもこの時代区分を採用しており、「近代史」の講座には、いわゆる「中世史」も含まれています。

その後、「中世史」が近代史から切りはなされるようになり、現在ではさらに細かく分けられるようになりました。歴史家たちは「近代」をふたつに分け、その前半を「近世」とよぶことが多いからです。この用語を歴史家たちが使うとき、そこにはひとつの重要な歴史的推移が表現されているといってよいでしょう。つまり「近世」とはヨーロッパにおいて、神に支配された閉鎖的な中世キリスト教世界から、合理的精神に満ちた「近代社会」が成立するまでの移行期をさして使われることが多いのです。

そのような歴史上の変化が起きた時期は、国によってさまざまでした。イギリスやオランダでは一七〇〇年ごろまでに移行したといえるかもしれませんし、スペインでは一八〇〇年ごろまでは、まだ不完全なものだったようです。また東ヨーロッパの多くの国では、一九〇〇年ごろになっても、ほとんどそうした変化は起きていませんでした。しかし時期はさまざまだったとしても、広く起こったこの一連の変化が、世界史におけるヨーロッパの覇権を決定づけたことはたしかなのです。

その大きな歴史の流れをこれから見ていくにあたって、ひとつのごく単純な視点をもっておくことが、あるいは重要かもしれません。つまり現在までの人類の歴史において、ほとんどの時代、人間は「安全な暮らし」と「じゅうぶんな食料」を確保するための選択肢をもっていなかったという事実です。そうした状況に変化をもたらし、人びとに選択肢をあたえるきっかけとなったのが、近世ヨーロッパで起こった変化、それもいわゆる西ヨーロッパとよばれるエルベ川から西側のヨーロッパで起こった経済的な変化だったのです。

その経済的変化を象徴する、いわゆる「価格革命」について。

インフレは社会に重大な影響をもたらすことになりました。資産家たちのなかにも、利益を得た大もいる一方で、ひどい目にあった人たちもいました。地主のなかには地代を引き上げることでインフレに対抗した者もいましたが、その一方、土地を売りに出さなくてはならなくなった地主たちもいました。そうした結果、現代の社会でもしばしば起こる現象ですが、インフレが社会の流動性を高めるという現象が起こり始めたのです。・・・・・どこの土地でも、インフレによる打撃をもっとも強く受けたのは、社会構造の両極に位置する人びとでした。つまりインフレによって貧困層が飢えに追いやられる一方、王侯たちもこの新しい事態に対処するため、誰よりもお金を使う必要にせまられたのです。

歴史家たちは約一〇〇年間つづいたこの物価上昇を説明するために、これまで多くのページをついやしてきました。その原因のひとつは、よくいわれているように、スペイン人が南米の鉱山を開拓したために、大量の銀がヨーロッパに流れこんだことにあったのでしょう。ただし、新大陸からもたらされた大量の銀が状況を悪化させたことはたしかですが、ヨーロッパのインフレがそのはるか以前から始まっていたことも事実です。おそらく、もっとも根本的な原因は人口の増加にあったものと思われます。この時期、農業生産が横ばいのときも、人口ほつねに増えつづけていたのです。

近世最先進国となったイギリスの社会構造について。

イギリスでは、フランスで存続していたような「商業化された封建制度」でさえも、一八〇〇年を待たずにすたれてしまいました。貴族たちには議会に出席する権利をのぞけば、いかなる法的特権もあたえられていなかったのです(さらに貴族たちは、下院議員の選挙では投票できないという法的制限を課せられていました)。

イギリスの貴族階級の特徴は、それが非常に小さな集団だったということです。一八世紀末の時点で、イギリスの上院議員の総数は二〇〇名以下でした。彼ら上院議員の地位は世襲制で、直系の相続人だけが継承することを許されていました。つまりイギリスの貴族階級は、ほかのヨーロッパ諸国のように、ひとつの社会階層を形成するような大規模なものではなかったのです。

イギリス以外のヨーロッパ諸国では、どの国にも数多くの貴族がいて、自分たちを庶民層からはっきりと区別し、数々の法的特権を享受していました。革命前夜のフランスには、おそらく二五万人もの貴族が存在し、そのすべてが何らかの法的な特権を保持していたものと思われます。しかしイギリスではそうした特権をもつ貴族は、オックスフォード大学の講堂に入りきる程度の人数しか存在せず、さらに彼らのもつ法的な特権も、それほど大きなものではありませんでした。

一方、イギリスでは貴族階級のすぐ下に、「ジェントリー」とよばれる境界のあいまいな上流階級が誕生していました。この階級は上の方では貴族と、下の方では富裕な農業経営者や商人たちとつながっていたのです。

この高い身分とも低い身分ともつながりをもつジェントリーという社会階層が、イギリスの社会に結束力と流動性をもたらすうえで、大きな役割をはたすことになりました。なぜならジェントリーという身分は、富の蓄積や職業上の成功によっても手に入れることが可能だったからです。

ジェントリーのあいだでは、騎士道精神にもとづく倫理観が非常に重視されていました。つまりジェントリーとは、イギリス貴族の伝統を受けつぐ一方で、従来の排他的な階級制度に風穴をおける役割をはたしたというわけです。そしてこのジェントリー階級が、近代イギリス社会の成立において、大きな役割をはたすことになるのです。

「絶対王政」下の主権国家体制確立に向かう動きについて。

当時のヨーロッパ諸国の統治形態にはさまざまな形のものがありますが、それには惑わされないようにしてください。重要なのはこの時期、ヨーロッパの人びとが、国家の最高権力である「主権」という概念を考えだし、それを国家の基礎として位置づけることで、強力な近代国家を成立させていったという事実です。「主権」の担い手が誰で、その権力はどのような範囲にまでおよぶかという点については、さまざまな議論がありました。しかしヨーロッパではしだいに、もし「主権」が正当な担い手の手中にあるならば、その立法権にはいかなる制限もあってはならないと考えられるようになったのです。

そこには従来の考えとは大きな断絶がありました

「無制限の立法権をあたえられた統治者(主権者)」という概念は、中世ヨーロッパ人の目には、神学的には冒瀆であり、社会的にも従来の既得権(さまざまな特権など)を侵害するものと映ったことでしょう。

その結果、当時そうした「主権」を行使する地位にあった王たちに対して、まったくちがったふたつの立場から批判が起こるようになります。ひとつは「保守的」な立場から、中世的な「自由」を守ろうとするものでした。もうひとつは近代的な「自由主義」の立場から、「主権」が王の手中にあるのはまちがいであるとするものでした。しかし実際にはのちのフランス革命でも見られるように、このふたつの立場は渾然一体となっていたのです。

ヨーロッパにおける近代的な主権国家の登場は、多くの国が君主政(王政)を採用していたために、その革新性が目だたなくなっています。

けれども法的原理についての議論から目を移すと、近代ヨーロッパにおける国家の発展は、王権の強化と一体となって進んでいったことがよくわかります。中世後期に多くの国で採用されていた代議制がすたれてしまったことは、そのひとつの現れといえるでしょう。

代議制が衰退する傾向は一六世紀に始まり、フランス革命が起きた一七八九年には、西ヨーロッパの多くの国は、議会などによって制約を受けることのない王によって支配されるようになっていました(イギリスは例外でしたが)。各国の王たちが一六世紀以降手にするようになった権力は、中世の領主や市民だちから見れば非常に強大なものに思えたことでしょう。

ところでこうした現象は、よく「絶対王政」の台頭と表現されることがあります。この言葉の使用自体に異議をとなえるつもりはありませんが、その場合は王たちがみずからの意向をどれだけ実現できていたかという点に、よく注意しておく必要があります。というのも現実には「絶対王政」の王権に対しても、中世の王権と同じく、多くの抑止機能が働いていたからです。

しかし、王たちのもつ権力が一六世紀以降、あらゆる面で大きくなっていったことは事実です。各国の王たちは新しい財源を見つけては常備軍や大砲を整備し、私兵をもつ余裕のない大貴族たちを押さえつけようとする一方で、芽ばえつつあった国民意識を臣民と共有することもありました。大まかにいえば、一五世紀末ごろには多くの国で、秩序と平和が保証されるなら、そうした強力な王権を受け入れてもよいとする認識が生まれていたようです。もちろん国によって事情はさまざまでしたが、ほとんどすべての国にいえるのは、王たちがこの時期、「もっとも有力な貴族」から、それ以上の存在へのしあがることに成功したということです。そして彼らは武力と徴税権をもちいて獲得した権力によって、新しい統治形態を確立していくことになるのです。

宗教改革も同様に国民国家の萌芽期を促進する役割を果たしたが、その絶対王政、「ルネサンス国家」を襲った「17世紀の危機」について。

このような国内の反乱は、いずれも経済的な困窮に端を発したものでした。つまり財政面では「ルネサンス国家」は、まったく成功していなかったのです。一七世紀になって、ほとんどの国で常備軍が創設されたことも、財政を圧迫する大きな原因となっていました。たとえばこの時期にフランスの国民に課せられた税は、イギリスとくらべて、はるかに過酷なものだったようです。

イギリスは内戦と国王の処刑、一時的な君主政の終焉といった重大な危機をすでに経験していましたが、国土の荒廃はそれほどではありませんでした。イギリスで頻発した物価の上昇を原因とする暴動も、一七世紀に起きたフランスの小作人の蜂起などとは、くらべものにならないほど小規模のものだったのです。逆にイギリスではピューリタンなどの急進派が国家や教会と対立していましたが、そうした信仰上の問題はスペインには存在しませんでしたし、フランスでもずいぶん前に解決済みでした。実際、フランスのユグノーにはさまざまな権利があたえられており、彼らは国王が自分たちを保護してくれていると考えていたため、フロンドの乱のときにも国王側についていたのです。

すでにのべたとおり、一六六〇年にはイギリスで王政復古によってチャールズニ世が王位に復帰し、その翌年にはフランスでルイー四世の親政が開始されます。これはヨーロッパの歴史にとって、大きなターニングーポイントとなりました。フランスではこれ以降、革命が起こる一七八九年まで、大規模な国家的混乱は起きませんでしたし、とくにルイー四世が一七一五年に死去するまでの半世紀は、比類のない軍事力と外交力が発揮された輝かしい時代となったのです。イギリスでも、一六八八年に名誉革命が起こったものの、内乱は二度と起きませんでした。

イギリスでは一六八九年に制定された「権利の章典」のなかで、個人の権利がはっきりと確立されましたが、国家の主権の問題はまだ決着していませんでした。それに対し、フランスではすべての人が王権の絶対性に同意していました。ただし法律家たちだけは、国王にも法的にできないことがあると指摘しつづけていたのです。

この混乱は、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、勢力均衡原則に基づく講和が結ばれることによって終息、長年続くヨーロッパの政治地図が現れる。

一方、西欧に比して後進的存在となった東欧、その中心たるロシアのツァーリズムについて。

こうしてロシア正教会がツァーリに服従した結果、ロシアの政治形態に最後の変革がもたらされ、ロシア型の専制政治が誕生することになりました。この変革の特徴を列挙すると、つぎのようになります。

「法的な制限を受けることのない半ば神格化された支配者(ツァーリ)の存在が認められたこと」、「ツァーリへの奉仕が全人民に課せられた義務として強調されたこと」、「土地保有がその奉仕義務と結びつけられたこと」、「権力の分散がない巨大な官僚機構が発展したこと」、「軍事上の要請が最優先されるようになったこと」などです。

こうした特質は研究者からも指摘されているように、専制政治が始まった時点ですべて存在していたわけではありません。また、すべての特質がいつも同じように効力を発揮していたわけでもありません。それでもロシア型の専制政治は以上のような特質によって、西ヨーロッパ型の君主政とは、はっきりと区別することができるのです。

西ヨーロッパでは、はるか中世の時代から、都市や各階級の人びと、ギルドなどの団体が、さまざまな特権を享受していました。そうした伝統の上に、のちの立憲政治が築かれていったのです。ところがかつてのモスクワ大公国では、最高位の役人ですら、「奴隷」あるいは「召し使い」を意味する役職名でよばれていました(同じ時期のポーランドやリトアニアですら、そうした立場の人びとはすでに「市民」とよばれていたのですが)。

ヨーロッパでもっとも強大な「絶対王政」を確立したフランスのルイー四世でさえ、個人的には王権神授説を信奉していたかもしれませんが、みずからの権力がつねにさまざまな法的権利や既得権、神の法などによって制限されていることをはっきりと自覚していました。またフランスの国民もルイー四世を「絶対君主」だとは思っていましたが、「専制君主」であるとはまったく考えていなかったのです。

一方、イギリスでは、すでにのべたように議会のコントロール下におかれた立憲君主政が誕生しつつありました。たしかにイギリスの君主政とフランスの君主政では、その方向性はまったくちがっていたかもしれません。しかし、どちらの国王もロシアのツァーリとくらべれば、はるかに多くの制約を受け入れていたことは事実なのです。

・・・・・・

ロシアの社会構造もまた、他国との違いがきわだっていました。ロシアはヨーロッパのなかでも、農奴制を最後まで廃止しなかった国です。ほとんどのキリス卜教国では一八世紀に奴隷的な強制労働が衰退していたにもかかわらず(アメリカ合衆国とエチオピアは例外ですが)、ロシアでは逆に農奴制が広がりを見せていたのです。その理由はおもに、広大な土地に対して労働力がつねに不足していたところにありました。驚くべきことにロシアでは、土地の価値は広さではなく、「魂」の数、つまりその土地に属する農奴の数で決められていたのです。

このようにロシアの専制帝政を批判的な筆致で記す著者ではあるが、その成立にはそれなりの歴史的経緯があったことも記し、一方的な見方には陥っていない。

もっとも歴史をふり返ってみれば、ロシアにはこのロシア型の専制政治が実に適していたといえるでしょう。一八世紀の学者たちは、「広くて平らな国には専制政治が似合う」という言葉をのこしています。これはいささか単純すぎる意見かもしれませんが、ロシアのようにあまりにも多様な地域と人びとをかかえる大国には、つねに分裂へとむかう政治的なベクトルがはたらきます。「ツァーリ」を中心としたロシア型の専制政治には、強大な力で国をひとつにまとめあげるという大きな役割があったのです。

著者は、ロシアの近代化の端緒となったピョートル1世の治世をやや肯定的に評価するものの、もう一人の代表的君主エカチェリーナ2世への視線は厳しい。

エカテリーナ二世の統治はピョートル一世よりも華々しいものとなりましたが、改革の推進という点では見劣りがします。たしかにエカテリーナも学校を設立し、芸術や科学を庇護したことは事実です。けれどもピョートルが実質的な改革を進めたのに対し、エカテリーナは啓蒙君主としての名声を、政権の運営に利用しただけだったという見方もできます。見た目は進歩的でしたが、実際には保守的だったといってよいでしょう。

・・・・・・

長い目で見ると、貴族たちと専制政治が手を結んだことは、ロシアにとって大きな弊害となりました。エカテリーナ二世のもとで、ロシアが社会のだかをきつくしめ始めたとき、ほかのヨーロッパ諸国はすでにそれをゆるめ始めていました。そのためロシアはつぎの半世紀に連続して起きた危機と変化に、ほかの国のように柔軟に対応することができなくなってしまったのです。

経済的および宗教的な「強い動機」を持つヨーロッパ人が、他の文明に抜きん出て海外進出を達成。

その初期に最大の植民地を誇ったスペインだが、広大な新大陸領は銀の産出以外には目立った利益を生まず、面積的にははるかに小さいカリブ海の島々の方が強い重要性を持っていた。

一方、イギリスの北米植民は、後発の存在にも関わらず、成人男性だけでない家族での移住とタバコ栽培の成功により、自立的な農業植民地としての成功を収める。

文明史的に、大きな視野に立てば、西半球新大陸は完全に「ヨーロッパ化」「キリスト教化」される道を歩むことになり、イスラムなど他の宗教・文明が影響を与えることはほぼ無くなることになる。

 

 

終わり。

一巻まるごとヨーロッパ史だが、一見単調に見えて、ついつい読み飛ばしてしまうところに、実は重要で興味深い視点や評価が含まれていることが多いので、注意が必要。

この巻もそこそこ面白いです。

2017年1月22日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』 (創元社)

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中国、日本、インドなど非イスラム圏のアジアと中世ヨーロッパの巻。

 

 

まず、古代から近代の入り口に至るまでの中国史がざっと片付けられる。

中国文明が、世界史上まれに見るほどの継続性と独立性をもちえた理由は、実はそれほど複雑なものではありません。中国の地理的な位置を思い浮かべてみてください。東側の海岸は太平洋にむけて大きく開けていますが、近代以前に西方世界からそこに海路で到達することは、ほとんど不可能でした。一方、西側の国境は、数々の山脈や砂漠によって守られており、ごく最近になるまで、わずかな隊商が荷物を運んで行き来することしかできなかったのです。

つまり中国は、オリエントや地中海、西アジアといった古代文明の先進地から完全に孤立した場所にあり、ほかの大文明から政治的安定を乱されることが、ほとんどなかったというわけです。そのよい例がイスラーム文明の影響です。七世紀以降、いくつも誕生したイスラーム国家の盛衰は、インドの歴史には大きな変化をもたらしましたが、中国の王朝の興亡にはほとんど影響をあたえませんでした。

インドではバラモン教からヒンドゥー教へといたる強固な宗教的伝統と、その過程で誕生したカースト制度が、文明の強力な安定要因として働いていました。一方、中国文明に安定をもたらしていたのは、儒教にもとづく高度な官僚制度です。統一王朝の出現後、かなり早い段階で誕生したこの統治システムが、たび重なる王朝の交代をくぐりぬけ、中国文明に強い継続性をもたらしつづけていたのです。

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中国の官僚たちは、社会全体をおおう儒教の影響力のもとで、政治と社会におけるさまざまな役割を一手に引きうけていました。彼らは役人であると同時に、儒教の教えをもっともよく知る「学者」であり、また芸術においても指導的な役割をはたす「文化人」でもあったからです。

中国では、おそらくほかの世界(イスラーム世界をのぞきます)とはくらべものにならないほど、特定の教義(儒教)が深く国家運営の中枢に組みこまれていました。そして中国の官僚たちは、ヨーロッパのキリスト教の聖職者にも似た倫理的な行動をとることを求められていたのです。

官僚制度の基盤である儒教は、きわめて保守性の強い教えであり、行政のおもな目的は既成の秩序を維持することと考えられていました。中国で、統治に際して何より優先されたのは、多様性に富んだ広大な帝国――多くの地方行政官は担当地域に言語の異なる人民をかかえていました――に一定の基準を普及させて、帝国全土に秩序をもたらすことでした。こうした実に保守的な目標を達成するにあたって、中国の官僚制度は驚くほどの成功を収め、その基本的な性格はあらゆる王朝の危機を乗りこえ、無傷のまま生きのびていったのです。

以上の通り保守的・静的な中国史上で、例外的に最も劇的な経済成長を遂げたのは、宋代。

宋王朝が存続した紀元一〇世紀から一三世紀にかけて、中国では人口が増えつづけたにもかかわらず、ほとんどの中国人の実質所得は増加していたものと思われます。つまり、かなりの長期にわたって、経済成長が人口の増加を大きく上まわっていたようなのです。それを可能にした理由の一つが、新しい稲の品種の発見だったことはまちがいないでしょう。

この新しい稲の導入により、じゅうぶんに灌漑された土地からは年に二度の収穫が、春だけ灌漑する丘陵地からも年に一度の収穫が見こめるようになりました。農業以外の産業の生産性も飛躍的に向上しました。ある学者は、中国は一一世紀の段階ですでに、六〇〇年後の全ヨーロッパの生産量に匹敵するほどの鉄を生産していたと推測しています。また繊維製品の生産能力も、水力による紡績機械が導入された結果、飛躍的な発展をとげていました。

宋王朝の時代になぜこのようなめざましい経済成長が起こったかを説明することは、実は容易ではありません。さまざまな史実の評価について、まだ意見が分かれているからです。公共事業、なかでも大運河の修復など、交通網に対する政府の積極的な投資が経済を活性化させたことは、おそらくまちがいないでしょう。また、長いあいだ他国からの侵略や内乱が起こらなかったことが、経済成長をうながす大きな要因になったこともたしかです。

しかし、たとえば内乱についていえば、逆に経済が成長したおかげで内乱が起きなかったと説明することもできます。結局、もっとも大きな理由は、市場の拡大とさまざまな要因によって、貨幣経済が盛んになったことだと思われますが、その根底にあったのは農業生産力の飛躍的な向上でした。農業生産力の向上が人口の増加を上まわっているかぎり、つまり民衆がじゅうぶんな食料を手に入れているかぎり、王朝から「天命」が去ることもなく、社会が混乱におちいることもありませんでした。こうした社会的な安定のなかで蓄積された資本が、さらなる労働力の活用をうながし、設備投資にもまわって新しい技術の開発も行なわれるようになりました。その結果として、人びとの実質所得もふくれあがっていったというわけです。

しかし、その成長には一定の限界があり、それを超えて文明が質的変化を遂げることは無かった。

宋王朝の時代に起こった急激な経済成長が、その後、停滞してしまった理由についてはよくわかっていません。それから五世紀近くのあいだ、中国人の平均実収は上昇することがなく、生産高は人口の増加に見あう水準をたもつのがやっとでした(農民の収入は、低下の一途をたどりました)。

しかし宋王朝の時代以降に起きた経済停滞は、ヨーロッパ人がいうところのいわゆる「アジア的停滞」を中国にもたらした真の理由ではありません。たとえば印刷術の進歩にもかかわらず、中国の民衆は二〇世紀にいたるまで、ほとんど読み書きができませんでした。また中国の大都市は経済成長をとげ、活発な商業活動を展開していたにもかかわらず、ヨーロッパのように民主的または自由主義的な市民社会を生みだすこともありませんでした。紀元前の戦国時代には、すでに諸子百家とよばれるさまざまな新しい思想が開化していたのですが、その後の中国文明は、ヨーロッパのような啓蒙思想を生みだすこともなかったのです。技術分野でも大きな進歩が起こっていたものの、それらが社会に革命的な進歩をもたらすこともありませんでした。

宋王朝の時代の船乗りたちは、すでに羅針盤を使用していました。しかし、一五世紀に明王朝の武将である鄭和が七度の大航海を行なって、インド、タイ、インドネシア、ペルシア湾、東アフリカなどに艦隊を派遣したとき、その目的はあくまでも明王朝の権威を誇示するところにあり、さらなる遠洋航海そなえて情報を集めることはありませんでした。

中国では紀元前二千年紀(紀元前二〇〇〇~一〇〇一年)にはすでに青銅器の傑作が生みだされ、またヨーロッパより一五〇〇年も早く鉄の鋳造が行なわれていました。しかし、こうしたすぐれた冶金術の伝統は、鉄の製造量がめざましく増大したにもかかわらず、新たな技術の開発にむかうことはありませんでした。さらにいえば、一三世紀に元王朝をおとずれたマルコ・ポーロは、「黒い石のようなもの」が燃えていたのを見たと書いています。実はそれは石炭だったのですが、鉄も石炭も大量に産出していた中国に、蒸気機関が誕生することはついにありませんでした。

このような例をあげていくと、きりがありません。おそらく中国文明は進歩ではなく、何か別の目標を達成しようとしていたのでしょう。ひとことでいうと継続性、つまり社会の安定の維持こそが、中国文明がめざした最大の価値だったのです。

儒教の思想を中心として、早い時代に確立された官僚制度も社会体制も、社会に変革を起こさないことをもっとも大きな目的として生みだされたものでした。第二巻のなかでも少しふれましたが、非常に早い段階で高度な文明を成立させたことと、地形的な孤立、文明圏の内部だけで経済的繁栄が可能だったことなどがあいまって、彼らは外の世界から何かを学ぶ必要を感じなかったのでしょう。

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中国文明がかかえていた矛盾点は、ヨーロッパ世界との接触が本格化する一九世紀までには、すでに誰の目にもあきらかになっていました。つまり中国人は多くの分野で、ヨーロッパ人よりも数百年、ときには一〇〇〇年以上も早くさまざまな技術を開発していたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国の介入を阻止できるだけの科学的発展にいたることは、ついになかったのです。

火薬がそのよい例です。中国人は世界に先がけて火薬を発明したにもかかわらず、ヨーロッパの大砲に匹敵するような武器を生みだすことはできませんでした。それだけでなく、ヨーロッパの職人が製造した大砲を有効に使うことさえできなかったのです。すでにのべたとおり、有効に活用されなかった中国の知的財産をあげていくときりがないのです。

その問題点は、実にはっきりしています。中国人が発明を実用化することに関心がなかった理由は、儒教を基盤とした官僚中心の社会体制にありました。中国の社会体制においては、ヨーロッパのように社会的地位の高い人びとと職人(技術者)たちのあいだに知的交流が生まれることがなく、そのため各分野での技術の発展が、文明全体を前進させる結果をもたらさなかったのです。

偉大な伝統文化に対する自負心のため、中国人はなかなか自国の文化が内包する欠陥を認めることができませんでした。おそらくそのせいで、彼らは外国人(中国人にとってはそのすべてが「野蛮人」でした)から何かを学ぶということが非常にむずかしかったのでしょう。さらに事態を悪化させたのは、儒教の伝統のため、中国文明が軍人や軍事技術者を軽視する傾向にあったことです。その結果、中国は外の世界からの脅威が増大した時代に、対応を大きくまちがえてしまうことになるのです。

 

 

そして、日本がこのシリーズで初めて登場。

まず、その全歴史の前提となった、地理的条件を述べる。

イギリスでは一時期、日本をアジアにおける大英帝国にたとえる議論が盛んだったことがあります。さまざまな観点から共通点が論じられ、なかにはあまり説得力のない説もありましたが、そこにはひとつだけ、反論の余地のないあきらかな事実がありました。それはこの両国が、いずれも海にかこまれた島国であり、国家の運命がその島国という条件によって大きく左右されてきたという事実です。

イギリスの歴史も日本の歴史も、海峡をへだてた大陸とは別の道を歩むことが可能だった一方で、やはり大陸からの影響を強く受けざるをえませんでした。もっとも日本と朝鮮半島のあいだに横たわる対馬海峡は、その距離がドーバー海峡のほぼ五倍あるため、日本はイギリス以上に大陸からの影響を受けずにすんだといえるでしょう。けれどもイギリスがそうであったように、日本もまた対岸、つまり朝鮮半島に強大な政治勢力が出現すると、時の政権は動揺することになりました。そうした状況は、イギリスが対岸のオランダなどへの敵対勢力の侵入を何よりも警戒していたことと、たしかに似ているように見えるのです。

そして、天皇の存在によって権威と権力の分立が成り立ったこと、戦乱期にも順調な発展が見られたことを述べ、前近代の日本が最終的に到達した江戸時代の幕藩体制を、以下のように高く評価する。

江戸幕府とは、ちょうど前章でご紹介した中国の儒教体制と同じく、それぞれの身分に応じた義務を徹底させ、階級にしばりつけることを最大の目標とした政権でした(事実、儒教の影響を受けていました)。それがどれくらい抑圧的なものであったかは、いまとなってはよくわかりませんが、社会に安定をもたらすという点では非常に有効な体制だったといえます。そして長い戦乱の時代のあとで、日本が安定を必要としていたこともたしかだったのです。江戸時代は、人びとがみずからの分(立場や義務)をわきまえることと、規律、勤勉、禁欲が強く求められた時代であり、この政権がうまく機能していたとき、たしかにそれは人類社会におけるもっともすぐれた社会体制のひとつだったといえるでしょう。

「前近代においては」という前提付きの話だろうが、それにしても驚くほどの高評価である。

江戸時代の二六五年間で、農業の生産高は約二倍になりました。一方、人口の伸びはその半分以下にとどまっています。江戸幕府はいわゆる「小さな政府」であり、新たに生まれた富を搾取しつくすような政権ではなかったため、その富は社会にとどまり、投資にまわったり、国民の生活水準を引き上げる役割をはたしたりしたのです。

同時代においてこのような自律的経済成長をとげた社会は、日本のほかにはヨーロッパしかありません。アジアのなかでなぜ日本だけがこうした経済的繁栄をとげたかという問題については、いまだに論争がつづいています。冒頭にお話ししたように、地形的な条件もたしかに大きかったことでしょう。アジア大陸の豊かな国々が、草原の遊牧民たちからたび重なる略奪を受けていたのに対して、日本は海にかこまれているためにそうした略奪を受けずにすみました。さらに江戸幕府が戦乱を終結させて、長い「天下泰平」の時代をもたらしたことは、もうひとつの大きな原因だったといえます。農業分野でも大きな進歩が見られました。耕地の開墾が強力に進められ、灌漑設備に資金が投じられ、ポルトガル人が伝えたアメリカ原産の作物がとり入れられたことも、人びとの生活水準を高めるうえで大きな役割をはたしました。

さらにそうした個々の要素が、相互にあたえた影響についても見ておく必要があります。すでにお話ししたように、江戸幕府が江戸に大名とその家族(さらに家臣たち)を強制的に住まわせたのは、政権の安定のためでした。しかしその結果、大名たちは米を市場に出して現金を手に入れねばならず、資本の流通が刺激されることになりました。また、そうして日本中から集められた資本(貨幣)が江戸で集中的に消費されることで、巨大な消費市場が成立することになったのです(江戸時代の武士とは経済的に見れば、いっさいの生産を行なわず、消費のみを行なう人びとということになります)。

さらに日本が二七〇もの地方政権(大名)によって分割されていたこともあり、各地で特色のある産業が発展していきました。産業革命初期のヨーロッパと同じように、日本の産業やさまざまな製品の製造も、最初は地方から始まったものなのです。幕府もそれを奨励していました。江戸時代のはじめには幕府主導で灌漑事業が進められ、度量衡と貨幣の統一も実施されています。

そして江戸幕府には、社会を統制しようという強い熱意はありましたが、実際の支配力はそれほどではなかったため、経済成長が妨げられることがなかったものと思われます。江戸幕府は、その最盛期にはあたかも絶対君主のように見えたときもありましたが、本質的には各地の地方政権の勢力均衡の上に位置する、大名連合の盟主ともいうべき存在だったからです。

一九世紀後半にヨーロッパからの脅威を受けるまでは、この体制は実にうまく機能していたといってよいでしょう。華やかな都市文化が開花し、のちにヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響をあたえる浮世絵や、歌舞伎などの大衆芸術が庶民たちの大きな人気を集めるようになっていきました。一八〇〇年当時の日本人の平均所得と平均寿命は、イギリス人とほぼ同じ水準にあったと考えられています。

やがて一九世紀の後半に、日本は欧米諸国から開国をせまられ、明治維新を成立させて近代国家への道のりを歩み始めることになります。この巻ではそこまでふれませんが、それはほかの国には例を見ないような、急激で痛みをともなう自己改革の道だったといえるでしょう。

もっとも、すでに見てきたような経済成長を考えると、たとえ欧米諸国からの圧力がなくとも、幕藩体制が生き長らえることはなかったように思えます。日本では、江戸時代の末期にかけて、すでにさまざまな問題が噴出していました。また幕府の家臣や地方の有力大名のなかには、中国や朝鮮まで視野に入れて、東アジア全体の防衛構想を模索する人びとも出現し始めていました。そしてほかのアジアの民族と同じく強大なヨーロッパ文明の脅威にさらされたとき、日本が選択した道は、同時代の中国の清王朝やインドのムガル帝国とは、まったく異なった道だったのです。

 

 

続いて、インド。

インド史において、マウリヤ朝をはじめとする政治的統一が長期間存続しない理由を以下のように説明。

マウリヤ朝があっけなく衰退してしまった最大の原因は、おそらくインドの長い歴史を通じてつねに存在する、非常に根本的な問題にあったものと思われます。つまりインド社会は家族とカースト制度を基盤として成立しているため、インド人は王朝や国家といった抽象的な存在に忠誠心をもつことは、その後も現在にいたるまで、ほとんどなかったようなのです。そのため民衆がたとえば食料の問題などで不満をもつようになると、帝国の崩壊を食いとめようとする力は、どこにも存在しなかったということなのでしょう。

アショーカ王が帝国全域に「ダルマ」という新しいイデオロギーを広めようとしたとき、成功を収められなかった背景にも、おそらく同じ問題があったのでしょう。さらにいえば、こうしたインドの社会制度、とくにカースト制度は、その後も長くインドの経済発展を妨げつづけることになります。生まれによってすべての社会的行動が規定されるカースト制度のもとでは、経済が停滞し、人びとの活動の意欲がそがれてしまうことは、まったく当然のことだからです。

宗教を中心とする基盤としての文明の強靭性と、その上に立つ王朝・国家の脆弱性というコントラストは、インド文明とイスラム文明に共通するように思われる。

そして、その文明が持つ、強い独自性について。

ここまで見てきたように、ダルマの思想も、また『カーマスートラ』における性愛の肯定も、キリスト教世界やイスラーム教世界のもつ戦闘的でかつ禁欲的な文明の伝統とは、まったくかけ離れたものでした。インド文明はおそらく中国文明などよりももっと、西方の文明とは異なった系譜に属する文明だといえるでしょう。またそこにこそ、インド文明のもつ活力と、外来文化に対する抵抗力の秘密があったのです。

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ヒンドゥー教と仏教はこうした変化を刺激として、最盛期をむかえることになりました。ふたつの宗教が成熟したのは、イスラーム教徒がインド北部を支配するようになる少し前のことでしたが、それ以後もインド文明の根幹をなす基本原理は、異なった文明にいささかも屈することなく、驚くほど強固に受けつがれていきました。インド哲学の中心にあるのは、きわめて大まかにいってしまえば、輪廻転生と梵我一如の思想でした。そこから生まれる世界観は、ヨーロッパ人のような高みをめざして上昇していく直線的な歴史観ではなく、時の流れを超え、無限に循環運動をつづける宇宙観です。

このような基本思想がインドの現在までの歴史にどのような影響をおよぼしたかという問題については、あまりにも大きすぎて、把握するのはほとんど不可能かもしれません。しかし、インド哲学の高い思想性は認めるにしても、その世界観が現実世界に反映されたとき、それは人間の行動の可能性ではなく、限界を強調する方向に作用したという点は指摘せざるをえないのです。

この強靭な独自性を持つインド文明の地に、強力な伝播力を持つイスラム教が侵入し、最終的にはムガル帝国成立に至る。

すでにイスラーム教はインド亜大陸にしっかりと根をおろしており、その後もイスラーム教徒による数多くの地方政権が誕生していったのです。おそらくイスラーム教は、インド文明の長い歴史を通じても、その巨大な同化吸収能力にとって最大の脅威だったといえるかもしれません。

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ムガル帝国の帝位は、一八五八年の滅亡までバーブル帝の子孫に継承されていきました。しかし、第三代皇帝だったアクバル帝のあと、重要な皇帝はほとんどつぎの三人だけといえます。というのも、第四代皇帝のジャハーンギール帝と第五代のシャー・ジャハーン帝のもとでムガル帝国は最大の領土を支配するようになり、第六代のアウラングゼーブ帝の治世に一気に衰退へとむかい始めたからです。

アクバル帝の宗教宥和政策によって、ムガル帝国の統治はようやく安定、続くジャハンギール、シャー・ジャハーン両帝治下で、重税化など衰退の予兆が見られても、その宥和策が何とか維持されていた限り、帝国が根底から揺らぐことは無かった。

だが、次代アウラングゼーブ帝の愚行が全てを暗転させる。

しかし、そうしたシャー・ジャハーン帝による過酷な徴税も、第六代皇帝となったアウラングゼーブ帝(在位:一六五八~一七〇七年)の偏狭な宗教政策にくらべると、はるかに弊害は少なかったといえるでしょう。

この皇帝は、ムガル朝の最大版図を実現したこともあり、高校世界史レベルでは最盛期の君主と見なされがちだが、本書での評価は全く違う。

当ブログでも以前に書きましたが、実際、アウラングゼーブ死後のムガル朝の急激な衰退は世界史的に見ても異常に思える。

結局それは、それぞれ同化力が極めて強い、インド文明とイスラム文明が衝突し、アクバル帝の宗教宥和策があった間は微妙な均衡が保たれ、何とか小康状態を維持していたが、それが放棄されるや、元々極度の社会的緊張状態の上に立っていたムガル帝国は崩壊の道をたどった、ということなんでしょう。

そして、インド、イスラム両文明の衝突が再激化しつつあった時期に、ヨーロッパ人が来航しており、漁夫の利を占めたイギリス人の手によって、オスマン朝・サファヴィー朝・清朝・ムガル朝の近世アジア四大帝国の内、インドだけが完全に植民地化されるという憂き目に遭うことになる。

ところで、ヨーロッパ人がインドで成功を収めることになった責任の一端は、おそらくアクバル帝にもあったといえるでしょう。アクバル帝の時代にヨーロッパ人との本格的な接触が始まったにもかかわらず、彼は早い段階で危険の芽を摘みとることをしなかったからです。驚いたことにムガル帝国は、海軍の創設を考えたこともなかったようです。その結果、アウラングゼーブ帝の治世には、早くもヨーロッパ人のせいで、沿岸での船積みやメッカへの巡礼交易までが危険にさらされることになったのです。

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こうしてインドはみずからの歴史を歩むのではなく、世界の歴史のなかで翻弄される時代をむかえようとしていました。この時期までに起きたさまざまな出来事が、そのことを示していたのです。

しかし実際のところ、ムガル帝国に終焉をもたらした原因は、ヨーロッパ人の到来ではありませんでした。ムガル帝国はみずからの内部要因によって崩壊へとむかい、ヨーロッパ人はただその場に居合わせたにすぎなかったのです。けれどもそのことが、のちに非常に重大な意味をもつことになるのです。

 

 

この後、「孤立した世界」と題して、アフリカ大陸とアメリカ大陸を扱った章がある。

アフリカ大陸とアメリカ大陸は、ほかの地域とはまったく異なるリズムで文明化への道をたどることになりました。もちろんアフリカとアメリカでは、事情は大きく違います。南北両アメリカ大陸は、氷河期以降、ほかの大陸とは海で完全にへだてられており、長いあいだまったくの孤立状態にありました。

一方、アフリカ大陸はその北岸部、つまり地中海沿岸部は古くから文明の先進地でした。それ以外の地域も、かなり孤立した状態だったとはいえ、七世紀以降はイスラーム勢力など外部との接触が始まっています。ほとんど沿岸部に限られていたものの、最初はアラブ商人、つづいてヨーロッパの商人たちとの交易関係も、わずかながら行なわれるようになっていたのです。

けれども大きな視点からいえば、アフリカ大陸の大部分は一九世紀後半まで、世界史の本流に組みこまれることはありませんでした。そうした孤立状態のため、アフリカ大陸とアメリカ大陸の歴史には、いまなお解明されない部分が数多くのこされているのです。

アフリカについては、それが持っていた地理的自然的条件が文明化への大きな障害になったことを指摘。

農業の歴史を見てみると、アフリカ大陸がその過酷な自然環境のために、文化的な発展を阻害されていたことがよくわかります。とくにサハラ以南のアフリカは、地形や気候、疫病などが重い足かせとなって、大きな発展を望むことはむずかしかったようです。アフリカの歴史において、鉄器の製造法や新しい農作物は、つねにオリエントやアジア、インドネシア、アメリカなどからもたらされたものでした。また蒸気機関や医薬品は、一九世紀にヨーロッパから伝えられたものです。そうした外来の技術がなければ、アフリカの過酷な自然に対処するのは非常に困難なことだったでしょう。

アフリカ最初の国家がクシュ王国、それを滅ぼしたアクスム王国があったエチオピアは北部以外のアフリカで唯一のキリスト教国となり、その後イスラム教が伝わり、多くの王国で信仰されるが、それには一定の限界もあった。

いくつか確実なこともあります。たとえばネグロイド(黒色人種)系の国においては、王や支配階級がイスラーム教を信仰していたときも、一般の民衆は土着の宗教を信じつづけていたということです。社会慣習も、すべてがイスラーム化したわけではありませんでした。アラブの旅行者や商人たちは、マリ王国の少女たちが衣服をつけず、裸で人前に出ていることに非常にショックを受けていたようです。

著名なガーナ、マリ、ソンガイなどの他、サハラ以南の諸王国の名が知られているが、そのどれもがある段階以上の発展を遂げることは無かった。

こうした王国の痕跡は、いまではほとんどのこされていません。またそうしたアフリカの諸王国には、長いあいだ、役人や常備軍も存在しませんでした。王たちは伝統や習慣に沿って国を治めており、その権力はあまり大きなものではなかったようです。そうした理由から、アフリカで興った多くの「国家」が短命に終わったことは、ほぼまちがいありません。長い歴史をもつクシュ王国は、エジプト以外のアフリカの国としては、まったく例外的な存在だったのです。

 

 

続いて、アメリカ文明。

ヨーロッパ人到達以前の北米については、アフリカ史に関しての黒色人種と同様、先住民族への偏見・差別に繋がらないよう、細心の注意を払った上で、客観的に全世界史を叙述すれば、文明的にはほぼ白紙と見なさざるをえない。

北アメリカの先住民の文化には、たしかに尊敬に値するところもあるのですが、それが文明とよべるほどのものでなかったことも事実です。アメリカ大陸でそのような段階にまで達していたのは、つぎの三つの文化だけでした。つまり、中央アメリカのユカタン半島周辺に生まれたマヤ文明、同じく中央アメリカのメキシコ盆地に生まれたアステカ文化、もうひとつは南アメリカのペルー(中央アンデス地方)に生まれたインカ文明です。

そのうち、アステカ文化に対する著者の評価は鮮明である。

アステカの宗教は、その身の毛もよだつ儀式――犠牲から生きたまま心臓をとりだしたり、首を切り落としたりしていました――によって、ヨーロッパ人に大きな衝撃をあたえました。

アステカ人は祭儀に必要な犠牲には、戦争捕虜をあてていました。またアステカの戦士たちは戦闘で死ぬと、太陽神がつかさどる楽園に行けると信じていました。そのため、アステカ王国にとって平和とは、長くつづいてはならないものだったのです。アステカ人は従属国の統治をなおざりにし、反乱が起きればこれ幸いと攻撃をかけ、犠牲のための捕虜を手に入れていました。これでは従属国からの忠誠心など、得られるはずもありません。アステカがヨーロッパ人に滅ぼされたとき、従属国の人びとはさぞかし喜んだことでしょう。

アステカ人の信仰はまた、ヨーロッパ人との最初の接触において、皮肉な役回りを演じることになりました。というのも、彼らは偉大なる神ケツァルコアトルが、東方からもどってくるという信仰をもっていたのです。白い肌をもち、ひげを生やしたケツァルコアトル神は、アステカ人に文化を教えたあと、東方の海岸で姿を消したと伝えられていました。そのため、コルテスひきいるスペイン軍を見たアステカ人は、彼らをケツァルコアトル神の再来と考え、戦うことをためらったのです。

アステカ文化を全体として見ると、すぐれた美術品をのこし、高度な社会を営んでいたにもかかわらず、野蛮で魅力に乏しい文化だったといわざるをえません。民衆にあれほど大きな負担を強いた文化は、ほかにはほとんど存在しないからです。

これをアメリカ先住民を侵略したヨーロッパ人の側に立つ暴論と言えるだろうか?

私にはそうは思えない。

著者が言及しているのは、あくまでアステカ文化に関してだけであり、インカ文明については何も言っておらず、そのアステカ文化への評価に違和感は感じない。

西洋文明を絶対視し、それ以外の全ての文化を野蛮視するのはもちろん間違いだが、極端な文化相対主義に立って、文明間のあらゆる価値判断を放棄するのも間違いだ。

人身御供や拷問、奴隷制、女性と子供への虐待が広範に見られる文化とそうでない文化の優劣は間違いなくある。

その際、表面的なイメージに動かされないよう、慎重に判断する必要があることは言うまでもないが、基本はそう考えるしかない。

著者の章末尾の文章にも同意せざるを得ない。

このように、すべてのアメリカ文明は基本的な部分で、アジアやヨーロッパで成立した文明とは大きな違いをもっていました。インカ人は独自の記録法をもちいて複雑な行政機構を維持していましたが、高度な読み書きの能力を身につけることはありませんでした。技術についても、特定分野の技能は高い水準にあったものの、ほかの文明に影響をあたえるほどの技術を生みだすことはありませんでした。そのため、アメリカの諸文明は独自の文明を形成することはできましたが、彼らがその文明を通じて世界の歴史に貢献することは、それほど多くはなかったのです。

もっとも、文明が出現する以前になしとげられていた、世界に対するアメリカ大陸の貢献は、非常に大きなものでした。はるか昔にアメリカ大陸の人びとは、トマトやトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャを栽培する方法を発見し、人類の食料資源を大いに増やしてくれていたのです。アメリカ大陸ではそれらの食料資源をもとに、マヤ、アステカ、インカなど、きわめて興味深いいくつかの文明が築かれていきました。しかし、それらの文明は、最終的には世界史の辺境に、美しくめずらしい遺跡をのこすだけで終わる運命にあったのです。

 

 

続いて、中世ヨーロッパ。

「中世」という言葉は、ヨーロッパ以外の文化圏でもごく一般的に使われているようですが、もともとこれはヨーロッパ独自の歴史観にもとづく、かなり否定的な意味をもった言葉でした。つまり、「現代(近代)」と「古代」の中間に位置する、ほとんど重要性のない時代という意味を含んでいたのです。

最初にこの「中世」という言葉を考えだしたのは、一五~一六世紀のヨーロッパ人でした。当時彼らは、長く忘れ去られていた古代ギリシア・ローマ文明を「再発見」し、はるか昔に存在したその偉大な文化にすっかり魅了されていたのです。その一方で彼らはまた、自分たちの暮らす社会にも新しい変化が起こりつつあることを感じ始めていました。その結果、当時のヨーロッパ人のあいだに、自分たちの生きる時代は、かつての偉大なる古代の「再生」であり、そのあいだに横たわる期間はたんなる空白期間にすぎないという考えが生まれることになったのです。

けれどもヨーロッパの歴史において、約一〇〇〇年もの時間をしめるこの中世という時代・・・・がたんなる空白期間ではなかったという認識が、やがて少しずつ広まっていきます。そしてあるとき大転換が起こり、まるでそれまで無視してきた埋めあわせをするかのように、ヨーロッパ人はこの「失われた一〇〇〇年」を賛美し、理想化するようになったのです。

騎士道を題材にした歴史小説が人気をよび、地方には中世貴族の城をまねた新興富裕層の大邸宅が建ち並ぶようになりました。さらに重要だったのは、中世の文献研究が盛んになったことです。しかし、そうした多くの進歩が見られる一方で、本質的な理解を妨げるような弊害ものこることになりました。その一部は、現在でも依然としてのこされています。つまり中世キリスト教社会に存在した宗教的統一性や表面的な安定性を理想化するあまり、その奥に隠された多様性が見えにくくなってしまったのです。

とは言え、中世という時代は、何よりもキリスト教の時代であり、その影響が18世紀末に至っても残っていたことを著者は認める。

この巻では11世紀中世盛期から15世紀末までを、近世への変化を生み出した「ヨーロッパ世界の第二の形成期」「最初の革命の時代」として捉える。

その主題はもちろん国際的勢力としてのローマ教会の衰退と近世的国民国家の形成。

個々の教皇の無能・腐敗よりも、教皇制度そのものがイタリア以外の国から民族的反発を買うようになったことが、ローマ教会の衰退を招いたが、キリスト教信仰そのものは近世に入っても社会の中で大きな役割を果たしていたことも、本書では強調される(だからこそ宗教改革が起こったわけだから)。

少し話は変わりますが、私たち現代人は、もちろん国家という概念になじみをもっています。世界は固有の領土をもつ国家によって分割されており、各国にはそれぞれ外部から干渉されることのない「主権」が存在するという合意が広く認められています。また国家はある程度、民族的なまとまりにもとづいて構成されているという一般的な認識も存在しているといってよいでしょう。

このような考えは、実は紀元一〇〇〇年ごろのヨーロッパ人には、まったく理解できないものでした。ところが一五〇〇年ごろになると、かなりの数の人びとがそのことを理解するようになっていたのです。おそらく近代という時代の幕開けを示すもっとも重要な指標のひとつが、この国民国家という概念の成立だといえるでしょう。

そしてヨーロッパ史が持つ特殊性として、自立的なブルジョワ階級の存在を挙げる。

中産階級の出現をもたらした歴史的経緯は、よくわかっていません。・・・・・おそらく都市文化が開花した背景には、ヨーロッパ特有の要因が数多く存在していたのでしょう。どんな古代文明(古代ギリシア文明は例外とします)においても、またアジアやアメリカの社会でも、ヨーロッパのように都市生活のなかから新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起こりませんでした。その理由のひとつとしては、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象となることが非常にまれだったという点が指摘できるかもしれません。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたため、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切にするようになったのです。一方、たとえばアジアの大半の地域では、戦闘があるたびに都市がくり返し略奪されていました。

もちろん、それだけですべてが説明できるわけではありません。階級こそあったものの、ヨーロッパにはインドのようなカースト制度もなければ、中国の儒教のような人間の進歩を妨げるような思想もなかったことは、おそらく重大な意味をもっていました。さらには、ほかの文明圏では都市の住民たちは、たとえ裕福な人びとであっても社会的に低い地位に甘んじていたようです。ところがヨーロッパでは、商人や職人、弁護士、医師たちがそれぞれの仕事に誇りをもち、土地を所有する貴族たちからただ支配されるだけの存在ではなくなっていました。ヨーロッパの社会は変化や進歩に対して扉を閉ざしておらず、軍人や宮廷の官僚以外にも出世の道を開いていたというわけです。

知的側面でも、著者は中世ヨーロッパがイスラム文明から多くの影響を受けたことを通説どおり認めつつ、中国とインドの両文明がヨーロッパに影響を与えることが無かったことを指摘。

イスラーム文明のもつ文化的な受容能力と伝達能力を考えると、その存在がヨーロッパと東アジアのあいだに障壁をつくっていたとは考えられません。それよりも中国やインドの文明が、そうした距離を乗りこえてまでヨーロッパに影響をおよぼすだけの力がなかったというほうが事実に近いのでしょう。結局のところ、交流がさほどむすかしくなかった紀元前のヘレニズム時代でさえ、中国やインドの文明がヨーロッパに大きな影響をおよぼすことはほとんどなかったのです。

そしてルネサンスというヨーロッパ文明の自己革新について、少なくともその初期・中期においては中世との断絶との見方に強く釘を刺し、以下のように記す。

ルネサンスについて語る場合、この用語を使える文脈には限界があることをよく認識しておいたほうがよいでしょう。もしもルネサンスを、中世のキリスト教文明と一線を画す新しい伝統という意味で使ってしまうと、それは歴史をゆがめる行為となります。ルネサンスは有効な神話でしたし、現在でも有効な神話です。人間が自己を正しく認識し、行動するうえで非常に有効な考え方のひとつです。しかし、いかなる形であれヨーロッパの歴史において、ルネサンスと中世のあいだに線を引くことはできません。

なお、中世末から近世にかけての技術の中で、「たったひとつの技術上の革新がこれほど大きな変化をもたらした例は、人類の長い歴史のなかでも印刷術のほかにはなかったといえるでしょう。」と述べ、その意義を強調している(長期的に見て、以後の情報技術の発達が全てそうであるように、その弊害も桁違いだと私には思えるが)。

こうして中世を潜り抜け、近世に達したヨーロッパ文明の力量の総括。

逆境にくじけずに耐え、過去の文明の残骸や異民族から伝わった文化を集めてキリスト教世界を築いたヨーロッパ人は、知らぬまに巨大な文明の基盤を構築することに成功していました。しかし、それがさらなる発展をとげるためには、まだまだ時間が必要でした。一五〇〇年の時点では、未来がヨーロッパ人のものになるという兆候はほとんど見えていませんでした。ほかの民族の文明に対して、ヨーロッパの文明があきらかに優位にあるという証拠はどこにも存在しなかったからです。たとえば先陣を切って海外へ進出したポルトガル人は、西アフリカで現地の住民から砂金や奴隷を略奪していましたが、その一方ではペルシアやインドで遭遇した大帝国に圧倒されていたのです。

16世紀時点では、サハラ以南のアフリカと新大陸アメリカの先住民文明に対しては圧倒的優位に立てたヨーロッパ文明だが、アジアの諸帝国に対しては正面から戦えるような状態ですらない。

それが可能になるのは、19世紀、産業革命以後である。

日本を考えても、16・17世紀に帆船で来た「南蛮人」は簡単に追い払い、鎖国できたが、19世紀に「黒船」という蒸気船で来た欧米人に対しては開国せざるを得なかった。

最後にキリスト教思想の影響について。

この時代を理解するためには、それほどまでに変化にとぼしかった巨大な時の流れをよく認識しておく必要があります。おそらくそうしたヨーロッパの中世社会と、その奥深くに埋もれていた近代社会との関係を解く鍵は、キリスト教が本質的にもっている二元論のなかに見いだすことができるのでしょう。つまり魂とその牢獄である肉体、苦難に満ちた現世と幸福な来世、汚れた地上の国と輝ける天上の国という対立です。この二元論はやがて宗教的な思想を離れ、過去から進歩した現在、現在から進歩した未来という歴史観を生み、無限の進歩をめざすヨーロッパ文明の大きな武器となっていくのです。

このくらいの話になると、私の頭ではもう理解できないし、その是非も判断できない。

 

半分終わりました。

以後も続けます。

2017年1月16日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』 (創元社)

Filed under: イスラム・中東, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:03

本巻の監修者あとがきを書いた、後藤明氏によると、本巻原書の表題の直訳は「伝統の分岐」だと言う。

古代オリエントに始まる「文明の伝統」がギリシア・ローマに繋がり、ローマ帝国滅亡後、その流れがイスラム・ビザンツ・西欧の三つに分岐したと著者は捉えている。

また本書の中の一章は「対立する文明」と題されている。

これまでの巻で叙述されたように、前3000年に文明が誕生し、前500年頃までに各地で独自の主要文明が成立、それが変容・分岐を経つつ、1500年前後のヨーロッパの世界進出開始まで、均衡・並立状態を続ける。

その紀元前500年~1500年までの二千年間、諸文明は様々な接触・交流を持ちつつも、基本的にはその独自性を守ることになった。

しかし、時には文明同士が衝突し、大きな影響を与え合うこともあった。

その大きな要因は、著者によれば、二つある。

遊牧民族の活動、およびイスラム文明の膨張である。

先史時代から存在した地域ごとの文化の違いも、しだいに大きくなっていました。ユーラシア大陸とアフリカ大陸では、紀元前三〇〇~二〇〇年ごろからさまざまな地域に文明が生まれ、それぞれ独自の発展をとげていたのです。各文明のあいだには、ときにひかえめな接触はありましたが、基本的にそれは貿易商や学者、外交官、伝道師など、個人の力に頼った交流にすぎませんでした。そうした接触だけでは、もちろん文明全体に影響をあたえるのは難しかったことでしょう。

世界に点在するそのような文明は、様式や細かな点では多くの違いをもっていましたが、その一方、基本的な部分ではかなり似通っていたということもできます。たとえばごく最近まで、すべての文明は農業によって支えられていましたし、利用できるエネルギーも人間や動物の力のほかは、風力や水力に頼るしかなかったのです。また、どの文明も長いあいだ、ほかの文明に対して決定的に優位に立てるほどの強みをもつことはできませんでした。特定の文明が遠く離れた別の文明を完全に圧倒するようになるのは、ずっと先の時代の話なのです。

多くの場合、文明と文明が大きな影響をおよぼしあうのは、民族の移動によって異なった民族どうしが直接接触するようになったときや、遊牧民族が定住型社会へ侵入したときなどに限られていました。そして、最初は衝突をくり返し、やがて共存するようになっていったのです。そうした文明どうしの接触が人類の歴史に大きな進歩をもたらしてきたことは、これまですでにお話ししてきた第三巻までの物語のなかでも見てきたとおりです。

けれどもその一方で、異民族の侵入が文明に破滅をもたらしたり、悪影響をおよぼすケースがあったことも事実です。その代表的な例として、中央アジアから中東や東欧に何度も侵入し、多くの破壊を行なったモンゴル人の影響をあげることができます。

逆に異民族の侵入が、息の長い建設的な結果を生みだしたケースもあります。アジアの奥地から小アジアに進出し、やがてビザンツ帝国を滅亡させて一大帝国を築いたトルコ民族がそのよい例といえるでしょう。

そうしたさまざまな文明の衝突のなかでも、この第四巻でとりあげるイスラーム文明をめぐる衝突こそは、世界の歴史のなかでも、もっとも重要な文明の衝突のひとつだといえます。

その結果、スペインからインドネシア、また北アフリカから中国にいたる広大な地域の民族が影響を受けることになります。しかしその一方でこの衝突は、異なった文明の相互作用が豊かな文化を醸成することを示す、大きな例にもなったのです。

再び、監修者の後藤氏によれば、遊牧民族とイスラム文明に関する本書の叙述には、(特に前者についての)日本の学界を含む最新の研究成果が反映されているとは言えず、著者の力量は十分認めつつも、監修者としてやや不満が残る、という感じだそうです。

しかし、イスラムのことは後で述べるとして、本書での遊牧民族についての記述に大きな「偏見」を感じることは、個人的には無かった。

そもそも私は、司馬遼太郎氏を始めとして、杉山正明氏などの、モンゴルを含めた遊牧騎馬民族に対して、何かロマンティックな思い入れをする人の気持ちが全然わからない。

もちろん、世界史上で、農耕民は粛々と生産と建設に従事する「文明人」だが、遊牧民は略奪を生業にして定住社会に常に侵略者として現れる「野蛮人」だ、なんてとんでもない偏見が今通用するはずもない。

昔、司馬遼太郎氏が、遊牧民族を農耕社会への一方的侵入者として描くのは間違っている、農耕民による草原の農地化こそ、遊牧民にとっては自らの死活問題になる「侵略」だ、と喝破したことに対して、深く得心したことがあります。

ですから遊牧民族の活動を頭から有害視するのは間違いでしょう。

しかし、「モンゴルによる世界制覇のおかげで安全が保障され、ユーラシアの交易が一大盛況を迎えた、モンゴルによる破壊行為を強調するのは誇張に基づく偏見だ」というような、最近よく聞く見解には、どうしても眉に唾を付けて聞いてしまう。

そんなふうに思えるのは、我々の祖先が曲がりなりにも元寇を撃退できたからでしょう。

もしユーラシア大陸の他地域のように、あの時点で日本がモンゴルの支配下に入っていたことを想像すると、全くゾッとする。

現在の遊牧民に対して偏見を煽ったりすることは決してあってはならないし、今のモンゴル国民がチンギス・ハンを英雄視する自由はもちろんあると思うが、歴史上遊牧騎馬民族の活動が文明に対してしばしば破壊的作用をもたらした、とする評価自体は暴論とは思えない。

その遊牧民について本書の記述。

ここで少し遊牧民についてご説明しておきましょう。遊牧民の歴史は、その全容を知ることも個々の事実を知ることもともに難しいのですが、そのなかでひとつだけあきらかな事実があります。それは中央アジアの遊牧民が一五〇〇年もの長期にわたって、世界の歴史を大きく動かす要因でありつづけたということです。彼らは何度も世界を大混乱におとしいれ、その結果、西方でのゲルマン民族の大移動や、東アジアにおける中国王朝の交代といった巨大な歴史的変化をひき起こすことになりました。

遊牧民について語る場合には、まず地理的な話から始めたほうがよいでしょう。

遊牧民誕生の地とされる「中央アジア」という地名は、実はあまりよい名称とはいえず、「内陸アジア」とよんだほうがその実情をよくあらわしています。というのも「海岸線から遠く離れている」ことこそが、この地域を規定するもっとも重要な要素だからです。

海岸から遠く離れた内陸部だからこそ、特有の乾燥した気候が生まれ、近代にいたるまでその土地で暮らす人びとが、外部からの政治的な圧力にさらされることもほとんどありませんでした。その一方、仏教やキリスト教、イスラームなどがこの地域にも伝わっていることから、外部からの文化的な影響には開放的な地域だったこともわかっています。

・・・・・・

モンゴル人の歴史を年代や領土によって区分するのはあまり意味がありません。この遊牧民族は驚くほど短期間に、中国、インド、中東、ヨーロッパへと勢力を拡大し、世界中に大きな爪跡をのこしたからです。また、ゲル(移動型家屋)に張られたフェルト製の天幕のほかには、特筆すべき文化ものこしていません。巨大な嵐のように荒れ狂い、地球上のほとんどの文明に脅威をあたえ、人類の歴史のなかで二〇世紀だけが匹敵しうる大規模な殺戮と破壊をひき起こしたあと、彼らは現れたときと同じように、短期間で消え去ってしまったのです。こうしてモンゴル人は、もっとも恐ろしい最後の遊牧民征服者として、長く記憶されることになりました。

そして、諸文明の衝突・変容のもう一つの主因となったイスラム文明の誕生と拡大について。

この時代の征服は、イスラームが世界にあたえた衝撃の始まりにすぎませんでした。イスラーム勢力圏の広がりと多様性は、その後、人類の歴史のなかでも特筆すべきものとなります。

世界中のあらゆる地域でイスラーム化が避けて通れないように思われた時期さえありました(実際はそうなりませんでしたが)。

そしてこの偉大な文明の伝統は、その後もまた、新たなる征服のうえに築かれていくことになったのです。

世界の三大宗教の中で最後に登場したこの宗教は確かに、その拡大の速度と広がりは正に爆発的と言ってよいほどだし、一度改宗した地域での持続性も圧倒的なものがある。

(一度政治的支配下に入ったものの、その後イスラム化が後退した地域と見られるイベリア半島やバルカン、インドなどは多数派住民が改宗したとは言えないでしょうし、インドではパキスタン・バングラデシュ地域は今も完全にイスラム圏として残っている。)

しかし、宗教的・文明的には強靭性を持ち、社会にしっかりと根付いたイスラム文明だが、その基礎の上に立つ王朝という政治構造は脆弱であるという面も持っていた。

(このブログでも以前イスラム王朝の短命性について書きましたが、本書でもそれに近い記述があって、自分の感想もそれほど的外れでもないかと思えました。)

こうしてイスラーム文明が繁栄を謳歌していたとき、その政治体制はすでに衰えを見せ始めていました(崩壊が始まっていたといってもいいでしょう)。カリフ政権の要職に、しだいに非アラブ人の改宗者がつくようになったこともその原因のひとつでした。そしてアッバース朝は最初は帝国周辺の州で支配力を失い、それから帝国の中心だったイラク(メソポタミア)で支配力を失いました。

七世紀の中ごろ世界の歴史に突如登場したアラブ帝国は、こうしてきわめて早い時点でピークをむかえ、八世紀の末にはすでに衰退にむかい始めたのです。

・・・・・・

アッバース朝は、九四六年にペルシア人の将軍であるブワイフ家のアフマドがカリフを廃し、新しいカリフを擁立したときに実権を失ってしまいました。形式的には王朝は存続していましたが、実質的にはブワイフ家がときのカリフから「大アミール」に任命されて新しい政権を樹立した段階で、アッバース朝は滅亡したといってよいでしょう。こうしてアラブ・イスラーム世界は分裂し、約三〇〇年にわたって維持された中東地方の統一も、ふたたび崩壊することになりました。

・・・・・・

イスラーム国家の特徴として、宗教的な権威と政治的な権力が分離した状態は、長くつづかないということがあります。だからこそシーア派の軍事政権であるブワイフ朝も、スンナ派アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号を受ける必要があったのです。

・・・・・・

こうしたイスラームによる「社会革命」は、もちろん宗教を中心として行なわれたものでした。しかしイスラームはユダヤ教のように生活から切り離された宗教ではなく、生活のあらゆる側面をつつみこむ教えだったのです。イスラームにはキリスト教では当然と見なされている聖と俗の区別や、精神世界と現実世界の区別を表現する言葉がありません。イスラーム教徒にとって宗教とは、社会そのものだったからです。だからこそその教えは、さまざまな政権が乱立する時代を超えて生きのびていったのでしょう。イスラームは「奇跡」を重視する宗教ではなく(いくつか奇跡的事件を伝える伝承はありますが)、人びとの暮らしにたしかな生活の規範をもたらしてくれる現実的な教えだったのです。

・・・・・・

こうして、ごく少数のアラブ人の信仰から始まったイスラーム勢力の拡大は、世界の歴史に驚くべき結果をもたらすことになりました。しかし、その偉大なる歴史にもかかわらず、アラブ国家は一〇世紀以降、イスラーム世界の統一を実現することはできませんでした。アラブ人が悲願とするアラブ世界の統一でさえ、現在はまだ夢でしかないのです。

・・・・・・

すでにお話ししたとおり、ビザンツ帝国は中東に侵入したさまざまな民族の標的となりましたが、それをなんとか乗りこえ、宿敵であるアラブのアッバース朝より長く生きのびることになりました。アッバース朝もまた、異民族からの攻撃を受け、衰退と分裂の道をたどり始めていたのです。

こうして一〇世紀以降の中東は混乱の時代に突入していくわけですが、その時代のアッバース朝に何が起きたかを簡単に説明するのはとうてい無理な話です。ひとついえるとすれば、たしかに商業が栄え、支配者階級に属さない裕福な人びとが出現するようになりましたが、その結果としてもたらされるべき持続的な経済成長は起こりませんでした。その根本的理由は、気まぐれなアッバース朝政府の方針とその搾取にあったといえるでしょう。

しかし、支配者や侵略者が現れては消えていったにもかかわらず、結局のところイスラーム社会の土台が揺らぐことはありませんでした。その結果、地中海東岸からヒンドゥークシュ山脈にいたる広大な地域が、歴史上はじめてイスラームというひとつの文化圏にのみこまれ、その文化は長く引きつがれていくことになったのです。この地域でキリスト教文化が大きな勢力をたもっていたのは一一世紀までで、その後は小アジアのタウルス山脈の西側に封じこめられてしまいました。それ以降、中東ではイスラーム勢力から存在を許された小さなキリスト教徒の社会だけが、かろうじて生きのこることになったのです。

イスラームが社会や文化に深く根をおろし、安定した制度を生みだしたことは、世界史的に見ても非常に重要な事件でした。カリフの権威の衰退期には、形式的にはカリフを主権者としながらも、半独立の王朝が実権を握るようになっていきます。しかし、イスラームがもつ強力な秩序は、これらの半独立王朝がかかえていた弱み(おもに政治や行政面での)を補ってあまりあるものだったのです。一〇世紀以降のそうした王朝については、あまりくわしくとりあげる必要はないでしょう。ただしそれらの諸王朝が、時代の転換点を象徴する存在だったことはたしかです。

引用末尾の諸王朝のうちで注目すべきものを、本書の記述の中から挙げると、まず、十字軍とモンゴルという二つの脅威を撃退し、イスラム世界の中心を一時エジプトに移す偉業を成し遂げたマムルーク朝。

次に、キリスト教文化圏に脅威を与え、その輪郭形成を促し、ヨーロッパの東西を分かちつつ、バルカンでのキリスト教徒を比較的寛容に扱ったことによってビザンツ帝国の遺産をスラヴ人が受け継ぐことを可能にしたオスマン朝。

そして、シーア派を国教とすることで、中東地域でのセム系アラブ人の大海の中で、印欧語族系ペルシアの独自性を、民族・言語だけでなく宗教においても守ることになったサファヴィー朝。

宗教自体の爆発的膨張にも関わらず、政治的統一は正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の三代を合わせても約300年弱しか続かず、遥か後年、トルコ系遊牧民の力を借りて、オスマン朝による中東地域統一はほぼ達成されたものの、それにもシーア派のサファヴィー朝ペルシアという重大な例外が存在していた。

これらの王朝に比して、モンゴルによる征服活動の余喘とも言えるティムール朝への著者の評価は低く、ネストリウス派とヤコブ派というアジアのキリスト教徒をほぼ絶滅させたことと、オスマン朝を破ることによって、ビザンツ帝国の滅亡を半世紀ほど遅らせたことだけだ、としている。

そして、イスラム文明の知的側面について。

著者はもちろんその全般的レベルの高さを認めている。

各地のモスクや宗教指導者を育成する学院で、高度な学術研究も行なわれていたようですが、それらはすべて宗教と密接な関係をもっていたため、その評価は非常に難しくなります。当時のイスラーム文明が客観的にどのようなレベルに達していたかについては、はっきりとしたことはいえません。ただ八世紀以降、好奇心にあふれた、自己に対する批判的な視点をもつ文化の種がイスラーム世界にまかれたことは事実です。

だが、本書では以上の文章に続けて、以下の一文をさりげなく記している。

その種が大きな花を咲かせることは、あるいはなかったのかもしれませんが。

これもイスラム教へのありきたりな「偏見」と片付けることはできない気がする。

イスラム文明の大拡張と(西)ヨーロッパ文明の成長の陰で、もう一つの「分岐した伝統」であるビザンツ文明は、政治的には衰退の一途をたどる。

だが、その衰亡の過程である民族集団が後継者として姿を現わしてくる。

こうしてビザンツ帝国は約一〇〇〇年の歴史に幕を閉じようとしていたわけですが、その遺産の大半は将来にむけて、すでに別の場所に「保存」されていました(ビザンツ帝国の人びとが誇りを感じられる形ではなかったかもしれませんが)。正教会がスラヴ人のあいだに根をおろす過程で、ビザンツ文明の遺産は彼らのなかに確実に受けつがれていたのです。この事実は現在にいたるまでのヨーロッパの歴史を、大きく左右することになりました。現在のロシアをはじめとするスラヴ系国家は、そもそもスラヴ人がキリスト教に改宗していなければ、今日ヨーロッパの一部と見なされることもなかったでしょう。

・・・・・・

初期のスラヴ芸術を見ると、スラヴ人が異民族の文化や技術を進んで吸収した人びとだったことがわかります。しかもスラヴ人は、その文化や技術を教えてくれた人びとが滅んだあとも生きのびていく、強い生存能力に恵まれていました。

そうした点を考えると、七世紀にスラヴ人と強大なイスラーム勢力の交流が、そのあいだにいたハザール族とブルガール族によってはばまれていたことは、世界の歴史において決定的に重要だったといえるでしょう。

・・・・・・

歴史的に見れば、このころロシアの歴史は決定的な分岐点にさしかかっていたといえるでしょう。いまだに北欧のヴァイキングの神々を信奉するロシアは、東方の正教会と西方のカトリック教会のはざまで、とちらについてもおかしくない状態にあったからです(イスラームはこの重大な時期に、ユダヤ教国家のハザールによって勢いをそがれていました)。

同じスラヴ人が建国したポーランドは、すでにカトリックを国教としていました。また、ドイツのカトリック教会も東方への布教を行ない、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。すでに分裂があきらかになっていた東西いずれのキリスト教会にとっても、ロシアはのどから手がでるほど手に入れたい存在だったのです。

・・・・・・

ビザンツ帝国やスラヴのキリスト教国は、文化的に分断されていたため、ヨーロッパの西部まで影響をおよぼすことはほとんどありませんでした。ただしこの両者は、ヨーロッパの西部が遊牧民やイスラームからの影響を受けずにすむ緩衝地帯の役割をはたしたといえるでしょう。もしもこのころロシアがイスラーム化されていたら、ヨーロッパの歴史はおそらく大きく変わっていたにちがいありません。

著者は、「ロシアのカトリック化」、あるいはもっと極端なケースである「ロシアのイスラム化」の可能性を示唆し、読者の想像力をかき立てる。

結局、キエフ公国のウラジーミル大公がギリシア正教に改宗、後にロシアは東方キリスト教会の最重要構成国家となる。

ハザールと共にイスラムとの接触からロシアを遮断したブルガール人もスラヴ化して正教会に改宗。

一方、上述の通り、スラヴ人の中で、ロシアと並んで早期に国家を形成する能力を持っていたもう一つの重要民族ポーランド人は西方カトリック教会に改宗。

ただし、ポーランドはこのことによって、東方に向かっては正教会に対するカトリックの前線基地、西方に向かってはドイツ人の植民に対するスラヴ民族の防波堤という二つの過剰な負担を背負うことになり、歴史上しばしば大きな悲劇に見舞われることになってしまった。

そして著者は、ポーランドだけでなく、スラヴ民族全体に付きまとう、「西方のラテン系・ゲルマン系諸民族に対する後進性と、東方のアジア系遊牧民に対する脆弱性」という二つの要因がもたらす「不幸な民族」という漠然としたイメージを肯定するかのように、以下の文章を記す。

思えばスラヴ人のなかで最大勢力となったキエフ公国にしても、その能力に見あうだけの発展をとげたとはいえません。

一一世紀以降の内紛と分裂によって国力をそがれ、その後はクマン人(ポロベッツ人)の攻撃に苦しめられることになったからです。さらにキエフ公国は一二〇〇年までに黒海の交易ルートの支配権を失い、北方に後退して、やがてロシアの歴史の中心はモスクワ大公国へと移っていくことになります。

そして、大きな苦難の時代がスラヴ人を待ちうけていました。ヨーロッパのスラヴ世界に、かつてない巨大な悲劇が襲いかかろうとしていたのです。同じころ、すでにお話ししたように、ビザンツ帝国にも悲劇がおとずれていました。一二〇四年に十字軍兵士がコンスタンティノープルを攻略し、正教を奉じてきた世界帝国が崩壊したのです。ところが、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。それから三六年後には、同じく正教を奉じるキエフ大公国もまた、恐るべきモンゴル人の襲撃を受けることになったのです。

初期の西ヨーロッパ世界も外部から深刻な脅威を受けた脆弱な文明に過ぎなかった。

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパはビザンツ帝国やイスラーム諸国の勢力圏にくらべて、すっかり後進地域になってしまいました。その勢力圏もすぐに、かつての西方キリスト教世界より、はるかに狭められたものとなります。

当時、西ヨーロッパに住むキリスト教徒は、自分たちが「敵の真っただ中にとりのこされた」と感じていたようですが、事実そのとおりだったといえるでしょう。中東やアジアへつづく道はイスラーム勢力によって分断され、南部の地中海沿岸もアラブ人の攻撃によって防戦一方となっていました。八世紀以降は、ヴァイキングとよばれるスカンディナヴィア人の襲撃に悩まされ、さらに九世紀になると、東部の境界が異教徒のマジャール人に脅かされるようになりました。このように初期のヨーロッパ世界は、さまざまな異民族の敵意にとりかこまれるかたちで形成されていったのです。

ローマ滅亡後のヨーロッパ世界については、ゲルマン民族の侵入だけでなく、その後もイスラム、ノルマン(ヴァイキング)、マジャールという数波の侵入があったことを常に意識する必要がある。

中世封建社会はゲルマン侵入直後ではなく、むしろその後の侵入者への自衛の為に、ゲルマン系の支配層が形成したもの、というイメージを持った方がよい。

11世紀の中世盛期までに起こった三つの変化を本書は指摘。

1.地中海地域からライン川とその支流流域への中心地帯の変化。

2.過去のローマ帝国の領域をも遥かに超えた、ヨーロッパ東部へのキリスト教の拡大。

3.マジャール、ヴァイキングの改宗を含む、異民族からの脅威減退。

そして著者は、当時の西ヨーロッパのキリスト教世界を三つに分類。

1.ライン川を中心とする仏独。

2.イタリア、南仏など地中海沿岸。

3.北部スペイン、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランド、スカンディナヴィア諸国など、西部から北部にかけての新しいキリスト教国。

考えればこの区分は常識的ではあるが、北スペインを新興キリスト教国ということで、英国と北欧グループに入れているのが、何か違和感がある。

もっとも、以後の叙述でこの区分を意識することはほとんど無いのだが。

ヨーロッパ世界がキリスト教を中心に形成されたことは言うまでもないし、結果として西欧のカトリック教会の歴史は「数ある宗教史のなかでもとびぬけて華々しい成功の歴史ではあります」と著者も述べているが、それでも外部の異民族、内部の異教的風習、配下の聖職者の無知・腐敗、世俗権力者の圧迫など、複雑で多くの困難に満ちたものだったとされている。

なお、本巻では、9世紀後半に一時的に教皇権を強化した教皇として、ニコラウス1世を挙げており、高校世界史レベルの有名教皇に加えて、この人名を記憶しておきますか。

その教皇と協調と対抗を繰り返した国王の地位について、国民国家の統治者と違い、中世の王は諸侯の中の第一人者に過ぎず、様々な制約を課せられ、その権力は限られたものだった、とよく世界史では教えられる。

「前近代の支配者なら、何ものにも制約されない専制君主だったはず」という偏見を一度頭の中から振り払うには、その事実も重要だが、だがそのイメージが行き過ぎることも間違いの元である。

とはいえ、抜け目のない王であれば、多少力が弱くとも、貴族からの圧力に容易に屈するわけはありませんでした。特定の貴族に離反されても、まだほかに多くの封臣をかかえていたのですから。賢明であれば一度にすべての封臣と対立するような愚かなことはしないでしょうし、そのうえ王の地位はやはり特別なものでした。即位時に聖職者から塗油を受けることによって、王権は神聖でカリスマ性を帯びたものとなっていたからです。華やかでかつ重厚なその儀式によって、王はあきらかに一般の人びとからは、かけ離れた強力な存在となっていました。中世の政治において、儀式というのは現代でいう条約の締結と同じような重大な意味をもっていたのです。それに加えて広大な領土を所有していたのですから、やはり王の権力はとびぬけて高いものだったにちがいありません。

君主政の伝統がどの国よりも深く根付いていた、と著者が指摘するイングランドが他のどの国よりも早く中央集権的国民国家への道を歩み始め、強大な王権が在ったがゆえにその制限に向かう道も開ける、という逆説が以後の歴史で生じることになる。

 

 

終わりです。

イスラム文明の誕生、およびそれとのビザンツ、ロシア、モンゴル、ヨーロッパの相互関係が主題であり、なかなか興味をそそる巻でした。

通読は全然余裕。

この先も、まず挫折しないでしょう。

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