万年初心者のための世界史ブックガイド

2019年1月19日

入江昭 『日本の外交  明治維新から現代まで』 (中公新書)

Filed under: 近代日本, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 02:27

1966年初版。

この著者の名はかなり以前から知ってはいたが、強い関心は無く、著作を読むのもこれが初めて。

主にアメリカで活動し、ハーヴァード大学歴史学部教授となり、アメリカ歴史学会会長も務めた程の人だが、たまにメディアでの寄稿を目にする限り、「リベラル寄り過ぎて、ありきたりのことしか言わない人」というイメージが強くて(失礼)、著作に取り組む気がしなかった。

本書は180ページほどのコンパクトな著作。

細かい史実を羅列した教科書的通史・概説ではなく、外交政策の背後にある主観的思想と客観情勢との関連を各時代に分けて考察したもの。

最初に結論を書くと、悪くはない。

そこそこ面白いし、役にも立つ。

以前、この本を書いた時期の自分は明治日本の帝国主義化を現実的と認めている節がある、今ならそうは書かない、との著者の回顧を読んだことがあるが、結果として視点が中道寄りになった感じである。

 

 

内容に入ると、まず明治前期の外交。

富国強兵・殖産興業と立憲政治確立による国内の近代化と併せて、日本の独立維持の為の外交目標として、不平等条約改正と朝鮮半島からの敵対勢力排除が常に意識されていた。

それは極めて具体的目標で、西洋諸国と並んで独立を維持する為の至上命令であり、価値観念から離れた、無思想的なもの。

帝国主義時代が開幕した、1870~80年代は、自由放任主義が衰え、国家による経済介入と交通通信技術の発達がもたらした新たな国防観念が広まり、ビスマルク時代のヨーロッパは平和を維持し、その対外進出は一先ずアフリカと太平洋に向けられ、東アジアでは小康を保っていた。

明治日本にとって、この国際情勢は比較的有利なもので、「無思想」的現実主義の下、政府は近代化に邁進したが、一方それに飽き足らない民間は理想主義的アジア主義を掲げ、以後両者が対立することになる。

 

 

1890年代。

80年代後半より、欧米列強の進出が東アジアで本格化。

中央アジア・朝鮮での英露対立、東南アジアでの英仏衝突、ドイツの中国進出、アメリカのハワイ、フィリピン併合など。

列強の勢力均衡と現状維持志向により、日清戦争後の三国干渉という大きな失敗を蒙った日本だが、以後は慎重に列強の動向を見極め、日英同盟と日露戦争で帝国主義国家の仲間入りを果たす。

大きな成功を得た政府の現実主義だが、それに反対する民間のアジア主義もまた活発であり、そして欧米諸国の「黄禍論」的風潮も不吉な高まりを見せるようになる。

 

 

20世紀初頭。

日露戦争勝利で確固たる国際的地位を確立した日本だが、日英同盟強化、日仏・日露協約締結にも関わらず、中国の国権回復運動、アメリカの日本移民排斥など孤立化への様相も見え始める。

国内では、外務省の列国協調の上での大陸進出策、陸軍の積極的大陸進出策と海軍の海洋進出策が対峙、政治指導層の分裂と民衆運動の高揚など、外交政策の統一性を保つことが難しくなる。

そして民主化の進展により、世論、それも非合理的なそれが外交に大きな影響を与える時代が来つつあった。

後世日本の無分別な対外拡張主義もその表れだが、この時期問題になったのが、明らかに人種的偏見を含む、米国の排日運動。

もちろん偏見そのものはアメリカで生じたものであり、日本側の責任ではなかったが、これにたいする日本指導者の認識には多分に甘いところがあり、両国の経済関係の密接なことやお互いの領土にたいする野心のないことなど、基本的に利害が一致している以上、移民問題というような感情的なものは遠からず消滅するだろうと判断していたようである。合理主義的な外交観念の一つの限界を示すものであろう。

加えて辛亥革命と清朝瓦解によって、安易な中国進出・支配論が定着するが、中国のナショナリズムの強さを見誤ったことが、後の日本の大いなる蹉跌を準備することになる。

米国の排日論と中国のナショナリズムに挟撃され、日本のアジア主義・東西文明融和論はその限界を呈する。

 

 

 

1910年代。

第一次大戦による西欧諸国の没落、ロシア革命によるソ連の革命外交成立、超大国となったアメリカの道義主義的外交展開、中国のナショナリズム高揚を受け、日本外交は転換期を迎える。

原敬は対米協調を第一とし、吉野作造、西園寺公望、牧野伸顕らは平和的協調外交を志向したが、一方この時期のアジア主義は排外・攻撃色を強める。

 

 

 

1920年代。

ワシントン体制と幣原外交の時期。

幣原外交は、排他的利己主義や直接的軍事支配を排した経済主義をその特色とするが、その反面、中国の関税率増加の要望に対しては極めて冷淡な態度を取ったことが注目される。

中国ナショナリズムの過激化、世界恐慌による国際的相互依存関係の崩壊、独自の国防観念を保持していた軍部の離反によって、幣原外交はその基盤を喪失し、退場する。

 

 

 

1930年代。

満州事変を引き起こした軍部だが、米中ソ三ヵ国と対峙する上で、統一的な軍事政策を打ち出せず、その時々の状況に左右され、突発的な政策決定を行う傾向が強くなる。

この時期の外相広田弘毅による「和協」「反共」外交も、軍事行動がもたらした波紋を弥縫するものでしかなく、一貫性に乏しい。

欧米とソ連が、日本との決定的対立を避けた為、一時の小康を得たが、それは決して永続するようなものではなかった。

 

 

 

1940年代。

1937年以後、日中が全面戦争に突入、それまで表面上の対日批判だけを行ってきた米国は中国を支援、太平洋戦争へと至る。

この「米中両国対日本」の国際情勢は結果として10年も続かなかったが、その間、日本の弱体化、中国の共産化、米国のアジアでの覇権確立という現在も続く情勢が規定されることになる。

1938年以後ヨーロッパ情勢が緊迫化、米国はナチス・ドイツ打倒と英仏支援をその根本政策とするが、40年にフランス降伏、ここで日本が東南アジアの英仏蘭植民地への野心を起こし、同年日独伊三国同盟締結、ヨーロッパとアジアの国際情勢を連動させてしまい、「日ソ独伊四国同盟」の構想に酔うが、41年独ソ戦が開始され破綻、そして同年米国は南部仏印進駐を機に対日経済制裁を発動、破れかぶれになった日本は対米開戦を決断、というのがこの時期の世界情勢の最も単純化された流れ。

世界を、ドイツ主導の欧州圏、ソ連圏(インド・イランを含む)、米州圏、日本主導の大東亜圏の四大勢力圏に分割するという構想は、米国の否認と独ソ関係の根本的敵対性、日本の覇権下のアジアを決して認めない中国の抵抗から、砂上の楼閣に過ぎなかった(戦前昭和期についてのメモ その7参照)。

 

 

 

日米開戦から戦後日米安保まで。

1941年以後20年間、日本には外交政策は無く、対外関係だけが存在、というか諸外国の対日政策のみが存在した、と評されている。

無条件降伏方式の敗戦によって、日本は完全に無力化、その外交選択肢は著しく狭められる。

米ソ冷戦と朝鮮戦争以後の米中対立の中で、経済中心主義で顕著な復興に成功した日本だが、ヴェトナム戦争激化の中で、現実遊離的でない理想を伴った新しい外交思想誕生の必要を述べて本書は終わる。

 

 

 

ものすごく面白いというわけでもないが、何の特色も無い教科書的著作ではないので、とりあえず読んでも無駄ではない。

刊行年代も古いし、強いて薦める程でもないが、ざっと読んで何かをつかめるかもしれません。

ただ、著者の他の作品を次々読みたいという気は起りませんでした。

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2019年1月16日

池田嘉郎 上野愼也 村上衛 森本一夫 『名著で読む世界史120』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 04:46

『もういちど読む山川世界史』および『同 日本史』と同じような装丁の本。

『ギルガメシュ叙事詩』からホメイニー『法学者の統治』まで、教科書的な章分けで、120の名著が挙げられる。

各書は、作者、内容紹介、解説の三つによって述べられている。

ざあーっと飛ばし読みしてみたが、あんまり良くない。

悪い意味で教科書的で、あまり読書意欲をかき立てるような文章ではない。

強いて買う必要もない。

2019年1月12日

R・J・クランプトン 『ブルガリアの歴史  (ケンブリッジ版世界各国史)』 (創土社)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 05:40

このシリーズも相当数出ているが、想定読者が英語圏の人なので、日本人の初学者には生硬な面も感じられて、一度も読んだことはなかった。

しかし、東欧の各国史で未読の国を潰す際、現状、日本人著者が書いた適切なブルガリア通史が見当たらず、取り組んでみる。

第一章が先史時代から建国まで、第二章が中世独立王国時代で、第三章がオスマン支配時代、第四章から第九章までが独立以後の歩みと、私が好きではない近現代史重視パターンだが、まあしょうがないか。

 

 

古代からインド・ヨーロッパ語族のトラキア人が活動。

ギリシア、マケドニアと密接な関係を持った後、ローマ支配下に入る。

ビザンツ帝国の影響下、スラヴ民族が移住。

そこに登場するのがテュルク語系のブルガール族である。

681年アスパルフ・ハンがブルガリア王国建国。

君主号がハンなのが、いかにもアジア系です。

先住スラヴ人と同化、ビザンツ帝国と対抗。

ボリス1世(位852~888年)時代、東方教会のキリスト教に改宗。

以後、コンスタンティノープルのギリシア正教総主教からの、ブルガリア教会の独立が、近現代史に至るまで、重要テーマとなる。

シメオン大帝(位893~927年)はコンスタンティノープル城壁に迫り、領土を拡大、ビザンツ帝国に「バシレウス(王・皇帝)」の称号を認めさせる(当時ビザンツ帝は神聖ローマ皇帝にしか、この君主号を認めていなかった←追記:記事を公開してから気付いたが、シメオン帝の在位期間は962年神聖ローマ帝国成立前だ。時期は前後逆になるが、文意の大要はこの通りだったと思う)。

以後、マジャール人の侵入、現世否認的な異端ボゴミル派の拡大などで衰退期に入る。

1014年「ブルガリア人殺し」との物騒な綽名を持つビザンツ皇帝バシリオス2世がブルガリア軍を撃破、捕虜のブルガリア兵100人につき99人の両目を潰し、残り1人は片目を残して仲間を案内し帰還させ、それを見たブルガリア王がショック死したという、とんでもないエピソードが残されている。

(この手の極端な話の例に漏れず、この逸話の真実性を疑う向きもあるが、本書ではそういう書き方にはなっていない。)

間もなく第一次ブルガリア王国(帝国)は滅亡。

1185年独立を回復、ペタル率いる第二次ブルガリア王国成立。

カロヤン王はコンスタンティノープルを陥落させたラテン帝国軍と戦い、これを撃破。

イヴァン・アセン2世(位1218~41年)は第二次王国最盛期を現出、ブルガリア教会の完全な独立を勝ち取った。

14世紀以降、セルビア人とオスマン帝国の圧迫を受けるようになる。

1389年オスマン軍がコソヴォの戦いでセルビアに勝利、1393年にはブルガリアの都が陥落、3年後には残存勢力の抵抗も止み、ブルガリアはオスマン帝国支配下に入り、ほぼ500年に亘り独立を喪失することになる。

ミッレト制による宗教別自治が許されたが、この自治はあくまで宗教別で、民族別ではなく、ブルガリア人は東方正教のミッレトの中で、ギリシア人の下位に位置付けられる存在となってしまい、この時代以降も国民教会の独立と文化的ギリシア化の拒否が重大テーマとなった。

1876年独立への蜂起が鎮圧されたが、1877年スラヴ民族保護を名目としてロシアが対オスマン宣戦、1878年サン・ステファノ条約で広大な周辺部を含む大ブルガリア国が生まれるかに見えた。

しかし、同年、高校世界史でも既出のベルリン会議によって、サン・ステファノ条約の37%の面積しか持たない、オスマン帝国内のブルガリア自治公国が成立。

このベルリン条約で完全独立を果たしたのはセルビア、モンテネグロ、ルーマニアでブルガリアは自治権を得たのみだが、実質的には独立に近く、本書でもこの1878年の動きを「民族解放」と表現している。

しかし、幻の「大ブルガリア」のうち、特にマケドニアは以後セルビア、ギリシアと深刻な領土紛争の原因となる。

初代公国君主には、ドイツからアレクサンダル・バッテンベルクが迎えられた。

独立の経緯から、特に外交面では親ロシア的傾向が強くなったが、内政面でのロシアの影響については当然反発もあり、その排除をめぐり政争が起こる。

この辺の内政面の話はさすがに面倒なので省略。

ベルリン条約で切り離された領土のうち、1885年主要部分の東ルメリアを併合、ロシアの不興を買い、セルビアとの戦闘に発展、しかし、ブルガリア公が東ルメリア総督を兼任するという形ではあるが、結局統一を維持。

しかし、1886年親露派将校のクーデタでアレクサンダル公は退位し、亡命。

有力政治家スタンボロフは親露派を排除しつつ、新たにサクス・コーバーグ・ゴータ家(これはヴィクトリア女王の夫アルバート公の実家かな)からフェルディナントを君主に選出。

フェルディナント公の初期の治世安定に大きな功のあったスタンボロフだが、やがて両者に不和が生じ、1894年スタンボロフは首相の座を追われ、翌年暗殺されてしまった。

以後フェルディナントが主導権を揮う君主専制的体制となる。

これまで保守党とか自由党とか民主党とかの政治党派の名は一切省略しているが、この時期に生まれた「ブルガリア農民同盟」という党派名だけは、指導者のスタンボリスキと共にチェック。

非イデオロギー的な圧力団体としてスタートしたが、後には国内最大の政治勢力となる。

1908年青年トルコ革命を機にブルガリア完全独立を宣言、フェルディナント公は国王を名乗る(同年オーストリア・ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合)。

1912年相互の領土紛争を棚上げしてブルガリア、ギリシア、セルビア、モンテネグロが対トルコ宣戦、第一次バルカン戦争勃発。

これに勝利したが、性急な同盟締結が災いして、獲得領土をめぐる対立が収拾できず、1913年第二次バルカン戦争ではブルガリアはセルビア、ギリシアに加えルーマニアも敵に回し敗北、重要な領土を失う。

1914年第一次大戦には当初中立を守ったが、15年独墺同盟国側に参戦。

16年連合国側に参戦したルーマニアに対しても優位に立つが、次第に戦況は悪化、物資不足に陥り、18年9月停戦協定締結。

フェルディナント王は退位し、息子のボリス3世が即位。

1919年ヌイイ条約で講和成立。

戦後は反戦派だった農民同盟とスタンボリスキが主導権を握る。

旧社会民主党左派が結成した、誕生間もない共産党との連立を当初視野に入れたスタンボリスキだが、その単独政権への野心を見て取ると、共産党の弾圧に転ずる。

農民同盟の目玉政策である土地改革は進展せず、汚職と腐敗が蔓延し、国民の不満が高まる中、1923年クーデタが発生、農民同盟政権は打倒され、スタンボリスキは惨殺される。

このクーデタを傍観した共産党はモスクワから批判を受け、武装蜂起を実行したが、易々と鎮圧され、政界の左翼勢力は一時壊滅する。

1920年代半ば、ようやく穏健な中道政治が行われるようになったが、30年代に入ると、御多分に漏れず急進右派が台頭。

34年クーデタで将校らの権威主義的政府が樹立されたが、この政権の性格がよく読み取れない。

急進右派の将校らが起こしたようだが、民間のより過激で親ナチス・ドイツの極右勢力の台頭を防ぐ為に決起したようにも読める。

いずれにせよ、この政権も長続きせず、35年国王は首相を交替させ、王党派が軍部を制御、国王主導の権威主義体制を樹立。

1938年ミュンヘン会談以後、親独派が勢いを増すが、ボリス王は中立維持を希望。

国王は絶望的に「我が軍はドイツ贔屓、我が妻はイタリア人、我が国民はロシア贔屓。ブルガリア贔屓なのは私だけだ」と述べたという。

フランスの敗北とドイツの圧力によるルーマニアからの一部領土返還によって、ブルガリアは枢軸陣営に傾き、日独伊三国同盟に加入、41年独ソ戦開始に当たってはブルガリア軍をバルカン外に派遣することを拒絶、真珠湾攻撃後、米英に宣戦布告。

戦時中、反ユダヤ的法律が制定されたが、ユダヤ人の国外移送は一般国民と教会、国王の一致した反対によって行われず、ブルガリアのユダヤ人は生き延びることができた。

1943年8月ヒトラーとの会見後、疲れ切った状態で帰国したボリス王は49歳で急死、後継のシメオン2世は未成年で摂政が置かれる。

戦時下、共産党、農民同盟左派などが結成した祖国戦線という反体制勢力が活動。

44年9月ソ連軍が迫り、祖国戦線の新政府を樹立した政変の後、ブルガリアは対独宣戦を行う。

ソ連の圧力下、共産党が勢力拡大、対独協力者処罰の名目で旧右派と旧中道派は政界から一掃され、左派の中でも共産党に従わないペトコフ率いる農民同盟は徹底した弾圧を受け、ペトコフは処刑されてしまう。

国民投票で王制は廃止され、47年ディミトロフを指導者とするスターリン主義的共産党独裁体制が成立。

49年ディミトロフ死去、チェルヴェンコフが首相と党指導者を兼ね後継。

スターリン死後、54年ジフコフが党書記長就任、56年スターリン批判を受けチェルヴェンコフは首相も辞任。

チェルヴェンコフの完全失脚は61年で、ライバルを排してジフコフが盤石の指導体制を固めたのはさらに数年かかったようだが、それでもジフコフ体制はそこから冷戦終結と東欧変革の年である1989年まで続き、共産圏でも異例の長期政権となる。

フルシチョフ、ブレジネフ政権下のソ連に忠実で、硬直しつつ安定した支配体制を維持。

経済不振が深刻化する中、ソ連ではゴルバチョフ政権がペレストロイカを開始、1989年ベルリンの壁崩壊の直後、ジフコフは党内クーデタで失脚。

共産党独裁体制崩壊後は、他の東欧諸国と似たり寄ったりで、旧共産党が改称した社会党、民主勢力同盟、およびトルコ系の少数民族政党が政権交代を行った。

末尾の訳注で触れられているが、本書の原著刊行後、2001年「シメオン2世国民運動連合」が第一党となり、シメオン2世が首相に就任している。

その後、2004年にはNATO加盟、2007年にはEUに加盟したようだ。

 

 

まあまあじゃないですか。

そんなに悪くもない。

類書も少ないから、貴重は貴重じゃないですかね。

2019年1月8日

栗田和明 『マラウィを知るための45章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 05:29

マラウィ。

どこにあるんだ?

アフリカなのは分かるけど・・・・。

アフリカ東南部、南北に長いマラウィ湖があり、その西と南にへばり付いている感じの小国。

北はタンザニア、西はザンビア、東と南ではモザンビークに接する。

ちょっと離れた北西方向には似たような形のタンガニーカ湖があり、その北にブルンジ、ルワンダが存在。

このシリーズはほとんど共編著だが、本書はごく一部を除いて一人で書かれている。

周囲との関係に留意し、比較としての理解を重視し、具体的事象を述べることを方針として、オーソドックスな地誌学と地域研究の形式を守っている。

内陸国なので国の形がイメージしにくいと冒頭に書かれているが、同感。

ドイツとかロシアの内陸主要都市の位置関係とか、未だに掴めない部分が多い。

キリスト教徒が約七割を占め多数派、イスラム教徒が約二割。

公用語はチェワ語と英語。

歴史的には、1500~1700年頃マラヴィ王国が存在し、モザンビークに来航していたポルトガルと象牙交易を行う。

19世紀半ばオマーンのスルタンがザンジバル島に進出、アラブ商人がマラウィに移り住み、奴隷貿易に従事。

他にマラウィ湖東岸にいたヤオ人や、南アフリカ・ナタール地方のズールー人に追われたンゴニ人がマラウィに侵入。

1861年リヴィングストンが到達。

その探検が、植民地支配の先兵としての役割を果たしたことは事実だが、同時に奴隷貿易廃止の為に行動したことを著者は評価している。

ニャサランドの名でイギリスの植民地化、後に南ローデシアの白人政権統治下に置かれる。

1964年独立。

初代大統領はバンダ。

この人名は聞いたことあるな。

アフリカ社会主義を掲げたタンザニア、マルクス・レーニン主義を標榜する勢力が主導して独立したモザンビークという隣国と異なり、親西側路線を採用、アパルトヘイト体制下の南アフリカ共和国とすら正式の外交関係を持ち援助を受ける。

社会主義政策と東側諸国との接近で、「独立の父」が無残な末路を辿るという、嫌になるほど多いパターンを思えば、親西側の「穏健派」指導者は貴重な存在ではあったのだろうが、本書で記されている政治弾圧と国富浪費を見ると、バンダ政権をセネガルのサンゴール政権やケニアのケニヤッタ政権と同等に評価することは難しい。

長期政権への抗議が広がる中、複数政党制を導入、1994年バンダを破って政権交替、ムルジが大統領に就任した。

鉱物資源には恵まれておらず、煙草と茶の栽培が主要産業。

 

 

国名と国の位置、イギリスによる植民地化、ニャサランドという名、右派権威主義のバンダ政権、チェックするのはこれだけ。

本書からそれだけ読み取れば充分だ。

2019年1月4日

對馬達雄 『ヒトラーに抵抗した人々  反ナチ市民の勇気とは何か』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 02:45

同時代の国民に圧倒的に支持されたヒトラー政権に対して、抵抗を行った市民・軍人・文民エリートについて書かれた本。

触れられているのは、ナチの均質化政策に抵抗したマルティン・ニーメラーらの「告白教会」、障害者抹殺計画(「T4作戦」)に抗議を発したカトリックのグレーバー大司教とガーレン司教、ユダヤ人救援活動を行ったグループである「ローテ・カペレ」および「エミールおじさん」、反体制ビラを撒き、逮捕・処刑されたショル兄妹ら「白バラ」グループ、元ライプチヒ市長カール・ゲルデラーを中心とした「ゲルデラー・サークル」、ヘルムート・フォン・モルトケを中心とした「クライザウ・サークル」、ベック、トレスコウ、シュタウフェンベルクら国防軍内反ヒトラー派将校、第二次大戦開始直後1939年11月に宗教的信念から単独でヒトラーを爆殺しようとして惜しくも果たせなかったゲオルク・エルザーなど。

1944年7月20日、シュタウフェンベルクが決行したヒトラー暗殺計画も失敗し、関係者には残忍な報復の嵐が吹き荒れた。

以上の抵抗グループのうち、「クライザウ・サークル」の人々が作り上げた戦後構想について述べられている。

その特徴は、ワイマール共和国の民主主義をそのままの形で復興させることを否定し、国家再建の精神的基盤としてキリスト教信仰を重視したこと、自由放任的資本主義に規制を加えて国民経済を安定化させ、さらにヨーロッパ各国の協調的経済秩序を目指すことであった。

クライザウに結集した人びとは本来ワイマル民主政の支持者であった。彼らにとって、国民主権・男女平等普通選挙・比例代表制にもとづくワイマル共和政は、擁護し育てていくべき政体であった。・・・・・だが人権と自由を放棄して熱狂的にヒトラー独裁が受け入れられた事実を目の当たりにして、彼らは深い幻滅を味わった。しかもナチ体制のもたらした同胞の精神的荒廃という事態が、追い打ちをかけた。こうしたなかで、新秩序のモデルにワイマル政を再興することは彼らには考えられなくなった。

『構想』作成には関与しなかったユリウス・レーバーは、労働者層の利益を中心に考える社民党の有力政治家であった。その彼もシュタウフェンベルクに、麻薬中毒者の治療にたとえ「独裁制を一夜にして民主主義的な状態には切り替えられない」と語っている。党利党略、党官僚制やボス支配、公然たる誹謗中傷、腐敗のはびこったワイマル政体の再興を否定する立場は《クライザウ・サークル》だけではない。《ゲルデラー・サークル》はむろんのこと、《フライブルク・サークル》など反ナチの知識人グループにほぼ共有されている。

このように述べてくると、読者は、グループの人びとはエリート的な反民主主義者に変わったのかと思うかもしれない。たしかに彼らは知的市民層だが、それだけに民主主義のプログラムをもって戦後の再建を始めても機能しないばかりか、第二のヒトラーのナチスが政権を握るという危険性を考慮せざるをえなかった。ヒトラーこそ完全比例代表制の普通選挙によって登場し、まったく形式的で強圧的だが国会選挙の絶対多数意見(一九三三年一一月一二日、独裁制支持の得票率九二%)にもとづく国民の代表者にほかならなかったから。

グループがワイマル政を否定する立場は、以下の選挙制度案にも明らかである。地方自治の原則を前提に、町村や郡のレベルまでは満二一歳以上の選挙権・満二七歳以上の被選挙権をもつ男女の直接選挙とするが、「戸主」の優先的選挙権を認める。だが州議会選挙については郡や同等の都市の代表による間接選挙(二七歳以上の被選挙権者は男子のみ、国会議員も同様)、国会議員選挙も各州議会による間接選挙とする。とくに国政にたずさわる国会議員は最大限、専門知識と経験豊かな人びとを選出するが、議院内閣制は想定されない(「一九四三年八月九日の新秩序の諸原則」)。

こうした案はもちろん議論を呼ぶ。民主主義はつねに絶対ではないが、グループがこれを放棄したと即断しないでほしい。レーバーが語るように、これは形式的な民主政を排してドイツを段階的に再建しようとした案なのである。

戦後ドイツのボン基本法(一九四九年五月制定、現ドイツ連邦共和国基本法)はワイマル憲法の修正(大統領権限の制限・ナチ党擁護の否定・比例区の阻止条項など)のうえに成立した。この憲法体制下で後半生を送ったシュテルツァー(民間シンクタンク「ドイツ外交協会」専務理事)は、段階的な再建を構想した理由が「(ヒトラーにすべてを委ねるという授権法制定の意味が理解できないような)広範な人民をただちに自分たちの政治的運命を変える議論に参加させられないと思ったからであった」と、打ち明けている。

現代史のなかでデモクラシーは、つねに大衆煽動にさらされ容易に衆愚政治に陥るか独裁制さえ引き出す危険なもの、条件付きで有効に機能するものであると、《クライザウ・サークル》の人びとは身をもって悟った。条件付きとは最終的には、外形ではなく人間である。これについて戦後西ドイツ、ケルン大学に転出した国法学者のハンス・ペータースは一言で述べている。「民主主義者なくして民主政治は存在しない」。

・・・・・

すでにみたように《クライザウ・サークル》の人びとは共通して敬虔なキリスト者であった。社会(民主)主義者だから宗教否定と決めるのは間違いである。共産主義者とそこが違う。ライヒヴァインにしろ、ハウバッハにしろ、彼らは思想的にもパウル・ティリッヒの、キリスト教の隣人愛を社会主義思想の根源とみて現実社会の諸問題に立ち向かう「宗教社会主義」に強い影響をうけていた。

もちろん彼らにとって宗教的信仰は個人にとどめておくものであり、国家にまで拡大すべきものではなかった。すでに社会全体の世俗化は避けがたく、それを押しとどめることは不可能であった。ドイツのばあい、帝政期まで教会(とくにキリスト教信徒の三分の二を占めるプロテスタント=福音派の教会)は国の教会という立場にあったが、それもワイマル憲法で廃止されるようになった。信教の自由は基本的人権の一部であり、宗教的に寛容な態度も価値とみなされた。

だがそうした時代の趨勢においても、教会にはカトリックをふくめて、公法上の団体として教会員から教会税(教会の諸活動のために教会員に課せられた税金)を徴収することが認められてきた。またドイツ人の行動や日常生活の基層の部分では、キリスト教の宗教倫理も依然として息づいてきた。宗教的な心性を次世代につなぐために、教会は学校の宗教指導「宗教科」をつうじて青少年の教育に、家庭とならんで密接に関わってきた。

ところがナチスの出現で事態は一変した。ナチ指導部にとって「キリスト教は自然の法に反するもので、自然への抗議である」と否定された。ここにいう「自然の法」とは生存のための弱肉強食、優勝劣敗という生物界の様相をさしている。彼らには「弱さへの共感」、「人間愛」とか「魂の救い」といった精神性は不可解なものであっただろう。そうした立場からすれば、キリスト教とナチ世界観とは共存できなかった。だからナチ指導部は、当面はキリスト教をナチ化して教会の存在を認めるにしても、最終的にはナチ世界観がこれに代わり教会をドイツから消滅させようとしていた。

・・・・・

こうした事態の推移を注意深く見ながら、モルトケ、ヨルクそれにメンバーの政治学者オットー・フォン・ガブレンツ(一八九八―一九七二、戦後ベルリン自由大学教授)たちは、国家のあり方について議論しはじめていた。最初は彼らも、国家を「個人の自由の庇護者」と位置づけて、信仰にしろ、宗教倫理にしろ、個人的問題という前提から出発した。だがこの前提そのものがあまりにも現実から遊離したものであることを、自覚せざるをえなかった。

ポグロムに始まり、戦時下のユダヤ人やシンティ・ロマ人の強制移送、ホロコーストの進行、民族絶滅というすさまじい戦争犯罪、ナチ犯罪を問うべき司法の崩壊、無関心をよそおう国民大衆の態度が現実を覆っている。人権の抹殺と暴虐のかぎりをつくす不法国家とそこで利己的に生きる人びとを前にしながら、これまでのように世俗的な国家を絶対視するのは、単なるフィクションではないのか。最悪の現実世界を無視して、形式的な政教分離にとどまる議論だけではすまないはずだ。宗教倫理はもはや個人レベルにとどめておくべきではなく、国家的なレベルでも、つまり世俗の権力をも絶対的なものとはしない「神の国の尺度」(キリスト教倫理)が必要とされているのではないか。こう考えるようになった。

その結果として、彼らはヨーロッパ世界に根を下ろし育まれてきた「キリスト教的精神」(「キリスト教的西欧精神」)にふたたび活力を与え、戦後ドイツ再建の理念にしようとする。こうした考えは《クライザウ・サークル》だけではなく、《フライブルク・サークル》《ケルン・サークル》などにも共通にみられる。

・・・・・

旧来の資本主義経済は失業問題や環境破壊に無力なまま、制御できない力と力のぶつかりあいとなって人間を振り回してきた。だが経済はそれ自体が目的なのではなく、本来人間の生存と生活向上に役立つ手段であるはずだ。要するに「経済の目的は人間である」。

経済のこのような位置づけには、カトリックの「社会的正義」の教説にもとづいてデルプ神父も「経済秩序は人間を人間にするために奉仕すべきもの」と主張するなど、グループに共通理解があった。だがさらに覚書はこの主張をおしすすめて、国には経済活動を統制する役割とその必要もあるという。もちろん規制によって「(利潤の追求という)経済に固有な力」を失わせてはならないし、業績の向上もはかられねばならない。

経済の基本に関する・・・主張には、一方で世界恐慌をまねいた自由放任主義を否定し、他方でスターリン共産主義の計画経済と区別する意図があったのだろう。

・・・・・

経済秩序が倫理的性格を備えることは、彼らからすれば絶対に必要であった。「秩序ある競争」にいう「秩序ある」とは、それを象徴する言葉である。むき出しの強欲な資本主義ではなく、「人間の顔をもった資本主義」とは、むしろ彼らの願ってやまない経済秩序であった。

 

板橋拓己『アデナウアー』の記事で、「戦後ドイツがやったことは『民主化の徹底』ではなく、『民主主義の制限』です」とやや挑発的に書いたのを読んで、反発を感じられた方もいたかと思いますが、以上の文章を読めば、私が何の根拠もないことを書いたわけではないということがお分かり頂けるかと思います。

 

 

ドイツ敗北後も、反ナチ市民の遺族たちは様々な苦難を舐める。

ナチとは異なる「もう一つのドイツ」の存在を不都合と感じる占領国の思惑、戦時中の抵抗運動を「裏切り」と捉える素朴な(しかしナチ政権の性格を考慮すれば間違った)ドイツの国民感情が相俟って、戦後すぐに7月20日事件が評価されたわけではない。

米ソ冷戦と東西ドイツ分断も影を落とし、7月20日事件は社会的エリート層が起こしたものとして東ドイツでは評価されず、逆に、「ローテ・カペレ」内の共産主義者の活動が過大視され、西ドイツでは無視される、といった傾向が見られた。

1951~52年、7月20事件当時ベルリン守備大隊長で戦後極右政党を創立した人物が、事件の指導者たちを誹謗中傷したことから起こされた「レーマー裁判」をきっかけに事件の再評価が進み、その後「ローテ・カペレ」が続き、そして従来思想的背景のない単なる個人的爆破犯と見なされてきたゲオルク・エルザーも正当に評価されるようになったとして、本書の幕は閉じる。

 

 

面白くて、役に立ち、そして心打たれる叙述が多い。

良書として推薦させて頂きます。

2018年12月30日

『聖書  新共同訳』 (日本聖書協会)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:29

聖書の原文は、旧約がヘブライ語、新約がギリシア語。

この新共同訳は、日本のカトリックとプロテスタントの共同事業で、1987年刊。

これを継ぐ、新しい「聖書協会共同訳」が2018年末に刊行。

カテゴリは・・・・。

キリスト教関係はローマに、仏教関係はインドに入れて、双方とも思想・哲学には入れない方針でこれまで来ていますので、今回もローマに入れますか。

旧約が1502ページ、新約が480ページ。

信じて頂けないかもしれませんが、すべて読みました。

いや、「読んだ」というのは適切ではない。

とりあえず、1ページも飛ばすことなく、目は通しました。

毎日、風呂に入ってから髪を乾かす際、卓上に本を置いて、一定のページを読むことをノルマとして自分に課しました。

できる限りサボることなく続けましたが、それでも全巻通読まで丸二年ほどかかりました。

当然無味乾燥で、砂を噛むような叙述の所は、さあーっと目を流す感じで通り抜けました。

確か、読む順番も、旧約では冒頭の「創世記」と「出エジプト記」を読んだ後は、真ん中の「ヨブ記」「詩編」「箴言」「コヘレトの言葉」「雅歌」「イザヤ書」をこなして、そこから「レビ記」に戻って、再び順番通り読む、という感じだったと思います。

旧約はユダヤ民族の歴史としても読めるわけですが、それを読んでまず感じるのは、とにかく「神への裏切り」が、何度も何度も出てくること。

一神教の厳格な神によりカナンの地へと導かれても、人々は、繰り返し神を忘れ、異教に惹かれ、現世の繁栄に心を奪われる。

その度に峻厳な罰を蒙り、悲嘆の底に沈み、再び神の恵みを嘆願するということの繰り返しである。

人間というものは本当に始末に負えない代物だ、との諦観を感じる。

よって、既存の教会や現世社会がどれほど腐敗堕落していようと、不完全な人間が作るものである以上、それはある意味当然である。

だからと言って、信仰や理想の重要性・必要性が薄れるわけではない、との二段構えの深い認識を感じる。

後は詩的記述について。

私は、文学的感性が一切無いので、特に詩は全く分からない。

だから文学書で詩集などは殆ど読んだことが無い。

しかし、旧約の「詩編」「イザヤ書」などの詩は、本当に心に残るものがある(引用文「聖書」4など)。

良心など完全に振り捨てた、悪意の塊りのような人間が思うがままにのさばり、富み栄える現世の実状が抉り出されている。

恐らく空しいであろうが、それでも、それらの悪への裁きの可能性と希望が示唆されている。

そして、聖書を読んだ上で言うと、私にはキリスト教が民主主義と親和的とは思えない。

王という支配者を戒める記述も、もちろんいくらでもあるが、それより驕り高ぶる民衆を批判する記述の方が目に付く。

私は、昔のように左派的な考えを持つ人を頭から否定するといった心境からは離れつつあります。

しかし、それでも左翼政治と殆ど変わらない用語を用いて、近代日本や天皇制を全否定したりする日本の一部キリスト教徒は、最も近付きたくないと思っている人々です。

一体、聖書のどこに君主制に反対せよと書いてあるんですか。

いや、それらしいことを書いてはいる。

「サムエル記」で、民の求めでサウルが初代国王になる際、サムエルはその求めを悪と見なし、神は民に警告せよと命じた。

だが、それは王制だけではなく、政治権力一般が否応なく持つ善悪の二面性を述べたものと思える。

権力が必然的に持つ悪にも関わらず、人間はそれ無しには社会を形成できない。

だからこそ、神は結局民に王を与えたんでしょう。

聖書は伝統と権威を破壊することの危険性とそれに走りがちな民衆への訓戒を十分述べていると思える。

 

 

全巻通読するのは、やはり厳しいでしょう。

まず、新約は全部読むと覚悟を決める。

旧約については、上記で挙げた名のうち、「レビ記」以外のものを読み、後は興味の持てそうなものを順序にこだわらず読んでいくという方針で行けば、あるいは全巻読破が見えてくるかもしれない。

カバーにある、「ここを読む」というコーナーで挙げられているのも、旧約では上述の部分が殆どですから、そこだけ読むというのでも、恣意的とは言えないでしょう。

聖書の初歩的な一般常識を知るには、やはり阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』『新約聖書を知っていますか』が、一番良い。

それから『世界の名著 聖書』に当たってみればいいんじゃないでしょうか。

無理に本書に取り組む必要は無い。

ただ、私はキリスト教に対する好意的関心が強まる一方なので読みました。

結果、読み通したことは非常に良かったと思います。

私は、ごく平均的な日本人と同じく、どの特定宗教の信者でもありません。

しかし、(特に歴史のある伝統的な)宗教とそれを信仰する人を嘲るような言説には激しい反発を感じます。

ある人が言ったように「自身が信仰に達する可能性を懐疑しつつも、信仰の必要は認める」という態度が現代においても必要であると思える。

値は張りますが、買って手元に置いておくのもいいでしょう。

 

 

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

(「コリントの信徒への手紙 一」より)

 

 

わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。

御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らの地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟だち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

(「ヤコブの手紙」より)

2018年12月26日

清水幾太郎 『本はどう読むか』 (講談社現代新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 04:56

1972年初版。

著者は戦後「進歩的文化人」的姿勢から徐々に右傾化し、1980年代には核武装を主張するまでの転変を経た、ややきな臭い人。

 

多くの本が短期間で事実上絶版になる日本の出版事情と傍線や書き込みをする必要から、著者は、本気で読む本は借りずに買うことを薦める。

面白くなければ途中で読むのを止めてよいし、本の全ページの一字一句に深遠な意味があると考えて熟読・遅読をする必要もなく、むしろ「観念の流れ」に乗ってスピードを持って読む方がよい、とする。

そして、例えば千冊以上というような数の蔵書の整理が付かなければ、本を売ることを薦める。

とにかく「ケチ」を避けると書いてある。

本の内容を身に付けるには、ノートを取ることも必要だが、書物自体に忠実な、小型の原本を作り上げることを目的としたようなノートは(著者は「客観主義的ノート法」と呼ぶ)、労多くして効用は少ない。

テーマ別のカード・システムも思考の連続性が分断されるし、同様である。

結局、自己の関心にあくまで忠実に取られた「主観主義的ノート法」を薦めている。

 

内容はまあ普通か。

古い本だが、参考になるところもあるでしょう。

2018年12月22日

森谷公俊 『アレクサンドロス大王  「世界征服者」の虚像と実像』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ギリシア — 万年初心者 @ 05:59

同じ著者の『王妃オリュンピアス』を以前から絶賛しているのだが、なぜかその他の著作は読んだことがなかった。

テーマが限られていたり、一般読者向けでないような本が多い印象があったので。

本書も、その存在には気付いていたのだが、戦史についての細かそうな記述が気に入らず、無視していた。

まあ、試しに読んでみよう。

 

 

アリアノス(『アレクサンドロス東征記』)、プルタルコス(『英雄伝』)、ディオドロス(『歴史集成』)、クルティウス(『アレクサンドロス伝』)、ユスティヌス(ポンペイウス・トログス『フィリッポスの歴史』の要約・抜粋)の五つの大王伝の叙述を比較検討しつつ、グラニコス、イッソス、ガウガメラの三大会戦と大王の東方政策の実像を描き出す。

アレクサンドロス大王の東征は、ペルシア戦争以来の「ギリシア対ペルシア」宿命の対決の延長であるとの印象を与えるし、大王自身がペルシア戦争の復讐を大義名分に掲げていたが、実際にはペルシア帝国には多数のギリシア人傭兵が雇われ、歩兵部隊では最強の存在とされていたし、マケドニア軍に参加したコリント同盟諸都市のギリシア軍は援軍であると同時に人質のような存在で、大王に対しても面従腹背の気があった。

新興軍事国家マケドニアの膨張主義的エネルギーが東征に向かい、前334年アレクサンドロスはアジアに侵攻する。

長槍を持った密集歩兵部隊と楔型隊形で疾走する騎兵を配備(当時の騎乗技術では鐙や轡も無かった為、騎兵の役割は物理的突入ではなく、敵歩兵に心理的衝撃を与えつつ槍を振るって敵の隊列を徐々に崩すことだったとされている)。

 

 

ヘレスポントス海峡を渡って、すぐ序盤戦のグラニコスの会戦が起こる。

大軍の必需物資を手に入れる為、一刻も早く沿岸地方を制圧する必要があったマケドニア軍に対し、焦土作戦という恐らく最も有効だったであろう策をを主張するペルシア側のギリシア傭兵隊長メムノンの意見は退けられ、数的にはペルシア側が劣勢のまま決戦に至る。

会戦ではマケドニア軍が少数の先発隊を突出させ、ペルシア軍の迎撃で先発隊が苦境に陥るが、それで生じた陣形の乱れをアレクサンドロスが突いてマケドニア軍が大勝。

ペルシア軍の敗因としては、同格の司令官が複数存在したことによる統一的指揮権の欠如、ペルシア騎兵を過大評価しギリシア人傭兵の歩兵部隊を実質戦闘に参加させなかったこと、騎兵を支える弓兵・投槍兵などの軽装兵がいなかったことなど。

(ギリシア人傭兵は戦闘後降伏しようとしたが、敵国ペルシアに就いた彼らに対する怒りに駆られた[その後の展開を考えると政治的配慮に欠けた]アレクサンドロスの攻撃でその多くが殺害された。)

マケドニア軍の勝因としては、先発部隊による陽動・攪乱作戦の成功、騎兵・重装歩兵・軽装兵を調整・統一して指揮したアレクサンドロスの戦術的能力が挙げられる。

 

 

前333年小アジアの付け根にあるイッソスで、アレクサンドロスとペルシア王ダレイオス3世が直接対決。

マケドニア側の偵察情報の不備から、南下する1万9千のマケドニア軍の背後に7万2千のペルシア軍が現われ、海を西に見て、ペルシア軍が北に、マケドニア軍が南に布陣する展開となる。

ペルシア騎兵の主力は西の海岸線寄りに配置され、対峙したマケドニア軍左翼を激しく圧迫したが、アレクサンドロスが事前に左翼に移動させた最強のテッサリア人騎兵がよく持ち堪え、東側でペルシア軍左翼を突破したマケドニア軍右翼がアレクサンドロスと共に中央部のダレイオス目がけて突進し、ペルシア軍は総崩れとなって大敗。

ダレイオスの母、妻、子供たちも捕らえられるが、アレクサンドロスは彼らを極めて丁重に扱った。

この行為はまさに英雄に相応しく、アレクサンドロスの生涯でも最も個人的好感を持つところだが、当然これにもこの先のアジア支配を円滑にする目的で彼らを政治的に利用しようとする目論見もあった。

ペルシア側の敗因を戦略・戦術双方の面から列挙している。

まず戦略面。

1.帝国最強のバクトリア・ソグディアナ騎兵の招集を待たずに決戦に臨んだこと。

アレクサンドロスの侵攻への急速な対応を優先した為だが、むしろ決戦を急がず、マケドニア軍にフェニキア諸都市を先に攻撃させ、彼らを疲弊させた後で、十分な騎兵部隊を揃えて戦った方が得策であった(実際にイッソス会戦の翌年に行われたテュロス攻防戦は七ヵ月もかかっている)。

不十分な騎兵戦力で戦った為、帝国の西半分を失ってしまった。

2.最初に布陣した平原を捨て、騎兵の活動が妨げられる海岸部に移動したこと。

味方の大軍に対する補給の必要に迫られてのことだが、ギリシア人傭兵を除く、寄せ集めの雑軍歩兵は実際には戦力にならず、補給を食い潰すだけの存在であり、このような烏合の衆を従軍させたことがそもそもの過ちであると考えられる。

3.マケドニア軍の背後に出ることに成功した際、直ちに関門を占領し、マケドニア軍と後方との連絡を断絶しなかったこと。

4.同じ海岸部でも、平野の幅の広い川よりも、地形が険しく防御に向くと思われた川を戦場を選ぶという消極的選択を採ったこと。

次に戦術面。

1.ペルシア騎兵をほぼ全て右翼=西側=海側に配置し、左翼=東側=山側が極めて手薄になったこと。

海側の騎兵も十分な空間が無く、数の優位を発揮できなかった。

これには、地形の死角を利用してマケドニア軍の最終的配置をペルシア軍から隠すことに成功したアレクサンドロスの策も影響している。

2.マケドニアの密集歩兵と唯一対等に戦えるギリシア人傭兵部隊を、右翼への集中配置から王自身を護衛させる為に中央に移したこと。

3.戦力に劣り、後衛予備軍に置くべきだった混合雑軍を前線に配置したこと。

特に左翼前線の部隊は、味方騎兵も少なく、マケドニア軍によって易々と突破され、戦局が不利に動く契機となってしまった。

4.両軍が東西横一線に並んでいた戦線から離れて、東側の山岳部に配置されていたペルシア軍が存在していたが、緒戦でマケドニア軍の攻撃を受けると山上に敗走、以後マケドニア軍の側面および背後から攻撃するという役割を全く果たさなくなったこと。

この軍の構成民族など詳細は不明だが、指揮系統に何らかの問題があったのではないかと推測されている。

アレクサンドロスの背後を取ったという戦略的優位性を、ダレイオスは消極的姿勢によって無にしてしまった。

マケドニア側の勝因。

1.左翼において少数のギリシア人騎兵をおとりにして、ペルシア騎兵の隊列を崩し、秘かに移動させていたテッサリア人騎兵による奇襲的攻撃を行ったこと。

2.右翼において歩兵部隊による迅速な橋頭保の確保と、歩兵・騎兵の連携と一体攻撃による敵戦力の無力化に成功したこと。

3.地形の起伏を利用して、最終的戦列配置を敵に見せず、ペルシア軍に配置変更の余裕を与えなかったこと。

偵察活動の失敗から、ペルシア軍に背後を取られたことは致命傷にも成りかねなかったが、直ちに北進し関門を占拠したこと、日頃の厳しい訓練によって効果的な戦列を展開し、ペルシア軍による包囲を阻止したことによって挽回した。

 

 

シリア、エジプトを制圧したアレクサンドロスは前331年ティグリス川上流のガウガメラで最終決戦に臨む。

ペルシア軍による包囲を警戒し、マケドニア軍は戦列を二列に並べ、第一列の左右両端部隊に斜めの角度をもたせて鉤の手状に配置、第二列には後方からの攻撃に備えるよう指示。

アレクサンドロスが戦列を右に移動させると、ペルシア軍も同方向に移動、マケドニア軍右翼が陽動作戦に動き、騎兵同士の戦闘開始、その後ペルシア軍の戦車部隊が突入するが、マケドニア軍はこれを易々とかわして制圧、ペルシア側左翼の戦列に生じた切れ目を目標にアレクサンドロス自身が指揮する楔形陣形の大部隊が突入、ダレイオスは逃走、その追撃で手薄となったマケドニア軍中央部にペルシア騎兵が突入し、第二列の歩兵陣も突破して後方の補給陣地に襲いかかったが、反転した第二列歩兵がこれを撃滅、マケドニア軍左翼は苦戦を強いられるがテッサリア騎兵の活躍で持ち堪え、ペルシア軍右翼も敗走、アレクサンドロスが左翼の苦戦を聞きダレイオス追撃を中止して戻ったところに逃走するペルシア軍中央と激突、その後アレクサンドロスは再びダレイオス追撃に移ったが、結局ダレイオスを捕らえることはできず。

十分な戦力を準備し、大平原で会戦に挑んだダレイオスだが、常に守勢に回り、主導権を相手側に譲り渡しており、強力な騎兵部隊を擁しながら、先手を打ってマケドニア軍を包囲することをせず、練度の高く統制の取れたマケドニア軍は戦車による突入に易々と対応し、戦車攻撃を効果的にしたはずの騎兵との同時連携攻撃などはペルシア軍には存在せず、一時マケドニア軍中央部を突破した部隊が敵の戦列を崩すのではなく後方の補給陣地で略奪に熱中したことは命令の不徹底としか言い様がなく、総じてダレイオスは消極的で受け身の姿勢の為、有利な諸条件を生かすことができず、戦局の推移に応じた臨機応変な対応を取ることもできずに敗れ去った。

アレクサンドロスの軍事的才能についての評価。

戦場の徹底的な調査と考察によって不利な状況を克服、常に先手を取って主導権を確保し、敵主将目がけて自ら突進する果敢さとスピードを持ち、陽動作戦などの戦術を会戦ごとに発展させた。

一方、その欠点にも触れている。

グラニコス戦後、敵部隊の追撃より彼が「裏切者」と見なしたペルシア軍内のギリシア人傭兵の壊滅を優先させたような、感情的行動と政治的配慮の欠如。

イッソスとガウガメラで見られた、会戦全体の帰趨より、ダレイオス捕獲という「英雄」としての個人的目標を優先し、深追いによって味方を危険に晒すような傾向。

イッソスでペルシア軍に背後を取られたような、情報収集の不十分さ。

 

 

東方に逃亡したダレイオス3世は部下に殺害され、アケメネス朝は滅亡。

臆病で惰弱な人物であり、低い生まれから王位に成り上がったとされるが、それはギリシア側史料による偏りがあることが記されている。

 

 

最後にアレクサンドロス大王の東方政策についての考察。

人類同胞理念に基づく東西民族融合政策と呼ばれるものには実体が無い。

集団結婚などの政策は、旧ペルシア王家の女性を独占し、マケドニアへの反乱の核になることを防ぐ目的であり、そして言葉は悪いが「現地妻」の追認に過ぎない面もある。

東方人の軍事・政治上の地位への抜擢は、自身の専制化に不満を強めるマケドニア人支配層への牽制の為で、民族混淆が目的と見ることはできない。

各地方へのアレクサンドリア市の建設も、ギリシア文化の移植というより、軍事上の必要や不平分子の強制移住先と見るのが適切である。

 

 

アレクサンドロスの事業の多くは雲散霧消したが、君主崇拝の一里塚となったことは言える。

著者は、将兵にとって自分達と辛苦を共にする「英雄」アレクサンドロスには一種異様な魅力があったのではないかとして本書を終えている。

 

 

事前に予想していたよりは良い。

戦史部分の細かすぎるところは飛ばし読みでも可。

是非にと薦めるつもりはないが、気が向いたら手に取るのもいいでしょう。

2018年12月18日

落合淳思 『殷  中国史最古の王朝』 (中公新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 04:15

『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書)と同じ著者かな。

『史記』など後代に書かれた文献史料ではなく、甲骨文字という同時代史料によって、殷王朝の実像を再構成した本。

もっとも、殷の前・中期は甲骨文字史料に乏しく、しかも文献史料を排するとのことなので、結局詳しいことはほとんど分からない。

本書でも、具体的叙述は主に後期を扱っている。

殷に先行して、前2000年頃、黄河中流域で青銅器を作成した二里頭文化に最初の王朝が出現。

これは文献史料上の「夏王朝」が想定される時代と近く、同一視されることもあるが、長江流域までを支配下に置いていたような記述が見られる夏と黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝は違いが大きく、著者は後者を夏とは呼ばず、名称不明としている。

前16世紀に殷王朝成立。

都は現在の鄭州商城に置かれ、その為「商」が殷の別名にもなっているが、厳密には商は殷代後期の都の名称であるので、本書では王朝名として殷を採用。

夏の暴君桀王を殷の湯王が滅ぼして建国したというのは後代の説話であり、事実として認められない。

北東と南東に向けて支配領域を拡大、北は黄河河口近く、南は淮水にまで達するが、西部方面では異文化勢力が強く、しばしば戦いが起こる。

前14世紀頃、殷代中期において、王統に混乱が発生、激しい継承紛争が起こったものと思われる。

殷王の軍事力は多くて数千人規模であり、『史記』が記すように数十万人を徴発したとの記述は農民からの徴兵が一般化した戦国時代以後の状況を前代に当てはめた創作である。

王が直接支配したのは都の周辺のみであり、中央集権を可能にする戸籍制度や官僚制もなく、統治領域の多くは地方領主の支配に委ねられていた。

殷代後期には地方領主を新たに封建したとの事実は見られず、王との血縁関係も観察されず、その点、次の西周とは大いに異なる。

領域を拡大した殷代前期には封建が行われた可能性はあるが、少なくとも後期には地方領主は土着化し、王が彼らに及ぼす支配権は弱いものだったと思われる。

人口密度も低く、王朝の実態は、散在する「都市間のネットワーク」に過ぎず、戦国時代以降の領域支配とは異なる。

自然神と祖先神を祀る信仰に基づいて、占卜による神権政治が敷かれた。

しかし、それは成文法も官僚制も無い時代に統治を円滑に行う為のものであり、甲骨への加工によって占卜の結果を人為的に操作した形跡もあり、当時としてはある種の合理性を持つ政治制度だった。

過剰徴税と公共事業による動員への対価支払いを組み合わせた再分配システムによって経済的支配も確立。

前13世紀後半、武丁が混乱を収拾し、長期間在位、後代殷墟と呼ばれる地(大邑・商)に遷都。

後に殷を滅ぼす周などの敵対勢力を圧伏。

「帝」という主神信仰を広めることを通じても権威を高め、カリスマ的支配を確立。

前12世紀、祖己(『史記』等文献史料では王と見なされてこなかった)王によって、後期殷の支配は安定期に入り、対外戦争は減少、祭祀では「帝」や自然神信仰を弱め、祖先神へのそれを重視、王個人の裁量権を弱めても王朝の安定した経営を志向するようになる。

ここで、甲骨文字の字体系統や父祖祭祀で現れる名の分析から、王位継承が直系血縁によって行われたのではなく、二系統の交替によるものではなかったか、との記述があるが、細かすぎてよく分からない。

前11世紀に入ると、殷の文化や技術が流出したことによる周辺勢力の強大化、気候変化による食糧生産減少などの理由からか、対外戦争が増加。

文武丁は、この危機に集権化政策で対抗、王権の強化で敵対勢力撃破に成功したが、そのひずみが次代に持ち越される。

その政策を引き継いだ最後の王、帝辛(紂)が妲己を偏愛し、酒池肉林に溺れ、炮烙の刑という残忍な刑罰を行う暴君であったというのも、すべて後代の創作と見られる。

甲骨文字から復元した帝辛のカレンダーは、祭祀と軍事訓練に明け暮れる精力的な君主というものである。

しかし集権化政策への反発から、王畿内での殷王支持勢力だった盂の首長が反乱を起こし、それは鎮圧したものの、殷の衰退は加速、前11世紀後半ついに周によって滅ぼされる。

間接統治を基本にした殷は、後代の王朝に比して王権は弱体であったものの、政治知識や軍事技術が未発達なこの時代にその分権的体制は適合しており、安定した統治を実現していたが、危機に対応する為の中央集権化政策がそれを覆した。

しかし、同時に著者は以下のようにも述べる。

もっとも、文武丁や帝辛が集権化を進めなければ、敵対勢力がさらに強力になり、その攻撃によって殷王朝が滅亡していた可能性もある。もしかしたら、伝統的な分権政策であっても、新しい集権化政策を採用したとしても、殷の滅亡は避けられない事象だったのかもしれない。

殷王朝は、歴史的位置としては、二里頭王朝と並んで、分権的で不安定な初期王朝であり、西周と春秋時代の貴族制社会、戦国時代と秦・漢王朝の君主独裁制の前段階と見なされる。

 

 

悪くはない。

ただ、甲骨文字や王統の細かな記述でややこしい部分は飛ばし読みでよい。

まあ普通の概説です。

2018年12月14日

西部邁 『中江兆民  百年の誤解』 (時事通信社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:19

2013年刊。

中江兆民については、『三酔人経綸問答』を学生時代に読んで、岩波文庫の評論集を飛ばし読みしたことがある(引用文1)。

(あと引用文(遅塚忠躬1)で言及あり。)

「東洋のルソー」にして幸徳秋水の師、自由民権運動最左派という兆民に貼り付いたレッテルを剥がし、福沢諭吉と並ぶ、明治日本の生んだ保守思想家として再評価する本。

その節度ある言論と穏当なナショナリズムは高く評価されているが、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』を誤読し、(諭吉とは逆に)アメリカを理想視するという過ちを犯していたことも指摘されている。

通俗的イメージを百八十度転換する内容であり、知的驚きは大きい。

興味のある人は一度手に取ることを薦める。

 

ルソーの『社会契約論』は、フランス革命という世俗の大事件においては(大いに誤読された上で)歓迎されたとはいえ、少なくとも我が国では、大東亜戦争の敗北までは、単に危ない書物として排斥されてきました。のみならず、初訳者の兆民自身が、これから説明しますように、民約論をフランス革命流に(ということは民主主義という名の世俗流に)読んではならぬということを当初から忠告していたのです。それなのに戦後民主主義者は、フランス革命を記念する「パリ祭」を日本でも催し、そのたびにルソーと兆民のことを喧伝して喜んでいる、という相当に恥ずかしい所業を続けてきたのでした。

私には、今からちょうど二十年前に、酒場で十回は繰り返し喋ったはずの、ちょっと面白い思い出があります。国会の裏舞台でずっと催されていたという「日欧政治家交流会議」で、私がフランス革命批判をやらかした折、フランス(社会党)の女性議員から「あなたは、我々フランス人が発見した基本的人権の観念をまで否定するのか」と質問されました。で、私は「よくぞ聞いて下さった。私が否定したいのはまさにその観念である。各国の歴史によって“基本的”とは何かということが定まるという文脈での、人民の権利ならぬ国民の権利を認めるのに吝かではない。しかし、生まれながらの人間の権利という観念くらい近代の文明を腐らせたものはない」と答えました。すると、フランスの男性議員が立ち上がり、「今質問したのはフランス社会党の者で、私ゴーリスト(ド・ゴール派)としては、汝にまったく同感である」と発言してくれたのでした。

私のいいたいのは、「基本的人権」はフランスですら今もなお議論の的だということです。ルソー→フランス革命→民主主義(人民主権主義)→兆民→戦後民主主義というふうに単線的に繋げていく思想の系譜、そんなものが地球の反対がわで、かろうじて生き長らえるのならともかく、成長しつづけていることそれ自体が一個の醜聞なのです。そのことを白日の下に曝すまでは兆民の魂も安からず、といいたくなります。

兆民・・・は「公志」(ヴォロント・ジェネラルつまり一般意志)がいわゆる「共和制」という政体とは直結しないことをしっかりと理解しておりました。・・・次のようにいっております。

 

フランス語の「レピュブリク」は、ラテン語の「レス」と「ピュブリカ」の二つが合体したもので、レスはことがら、務をさし、ピュブリカは公(公共)をさす。レスピュブリカは、すなわち公務(公共の任務)という意味であり、全員にかかわることがらというのと同じである。・・・昨今、刊行される書物では、しばしば「共和」と訳されている。けれども、「共和」という文字は、元来、この言葉と関係がない。

 

要するに、リパブリックはあくまで人々の「公共心」を重んじることをさすのであって、「共に和する」という含意から外れていると兆民は指摘しているのです。

この指摘はきわめて重要と思われます。今では政体の分類にかんする標準型は、統治主体の性格づけにもとづかせて、「君主制と貴族制と共和制」というふうな三分類になっております。あるいはそれと対応させて、統治主体の数の多寡にもとづきつつ、「独裁制と寡頭制と民衆制」というふうに三分類します。

つまり、最も単純な場合でいうと、「独裁的君主制」と「民衆的共和制」とを対比させて、どちらをとるかと迫るのが、世俗(それどころか学術)の政体論となっているのです。それから出発すると、ルソーも今ルソーも、独裁的君主制に反対して、民主共和の政体を理論的に正当化した思想家だ、というとらえ方になります。現に、そういうルソー観と兆民論が普及させられてきたのです。

『民約訳解』においてそういう世俗のルソー理解がはっきりと拒けられている以上は、彼の「君民共治の説」を明治の天皇制への政治的な妥協とみるわけにはいきません。・・・レス・ピュブリカの大切を強調する兆民にあっては、天皇と国民が公共心を共有する、という国体を土台にして政治を行うという「君民共治」は、彼の考える民約の一つの大いにありうべき政体論であったとみなければなりません。またそれがルソーの主張するところでもあったのです。「君民共治が現在行われているのはイギリスである。ああ、人民が政権を共有することイギリスのようになることができれば、文句はないのではなかろうか」(明治14年、東洋自由新聞)という兆民の言に嘘はないと思われます。

兆民の言説のどこを探しても天皇制への反対論がみつからないばかりか、それへの容認論や肯定論が随処にちらばっているといってかまいません。『東洋自由新聞』の発刊に際して、その社論を任ぜられた兆民は、「言論が過激である者や行動が軽率な者は一時の快感があるだけで長い将来の利益をはかることはできない」と構えて、たとえばフランス革命時のロベスピエールのような者は、「自分の身にわざわいし、国にわざわいし、世の人びとのせせら笑いのたねになってしまう」と喝破しております。

兆民が政治にかかわる際のこのグラデュアリズム(漸進主義)は、終生、一貫しております。パリ・コンミューン(一八七一)の暴動のあとにフランスに渡った兆民は、急進主義の無残な結末をじかに見聞していたのです。それゆえに、大井憲太郎のような過激行動派とはつねに一線を画すことができたのでした。

・・・・・

兆民は民権派の頭目であるとみなされてよいのですが、それは、明治の政体の内容とそこにおける法律の製作において、薩長政府のやり方に顕著な歪みがあると判断した、というかぎりにおいてのことなのです。そういえば、福澤諭吉も「政府は国民の公心の代表なり」と述べて、国権(正しくは政権)と民権を対立するものととらえる当時の風潮を批判しておりました。

・・・・・

兆民の発言のなかに、彼を反体制の頭目とみなすという偏見に立って、反語や皮肉を過剰に読み取ってはなりません。明治憲法が制定される頃、上院(元老院)のことに触れて、「英国の貴族は此立派なる過去を脊負ふて上院に立つものなり」とみた上で、我が国の貴族の「脊上に負ひたる過去は果して現在に迄将来に迄其光りを放つに足る乎」(明治21年、東雲新聞)と問うているのです。

たしかに、「保安条令」を「国事犯的の種痘法」と見立てた上で、その「保存を望む」(同)とまで書くのは皮肉まじりなのであろうと思われはします。と同時に、「実施するには飽くまで慎みを加へられ度思ふなり」という条件つきで「追々国家多事に際し不幸にして廃したるを悔ひて俄に再び設くるよりは存して置くこそ得策なれ」というのは、彼の死後に生じた「大逆事件」や昭和の到来とともに作られた「治安維持法」のことを思うと、保安条例保存の提案は、炯眼であったともいえます。

・・・「君民共治」の国体において最も重視されるべき至理(諭吉のいう「権理」)は「言論の自由」である、と兆民は考えていたのだからです。天皇制のことにまつわって言論の規制がどこまで必要か、ということは彼にとって揺るがせにできない問題なのでした。

「言論の自由」(明治14年、東洋自由新聞、現代語訳)で彼は次のようにいいます。「至理がえがたい」ものであるということを強調した上で、

 

当局は、至理を無用の長物としているのだろうか。または、自分ですでに至理をえているとしているのだろうか。そもそも権力にこび、自分をみせびらかし、おろかさをごまかし、迷いをかくす便利を保つために、至理が邪魔になるのであろうか。

 

ここまでは兆民が言論の自由をひたすらに擁護していたように聞こえます。しかしそれに続けて彼がいうに、

 

しかし、もしそそっかしく激発する人が深く考えないで、やたらに軽率なことばをはき、うらみの論を書くときは、政治を害することはもちろんだから、当局はこれをおさえ、懲罰すべきではあろう。考えてみれば、わが国家に新聞条例、集会条例、演説条例の三つがあるのは、とりわけうらみや激情にかられた議論をおさえるのにすぎず、至理を論ずることは問題ではないはずだ。

 

兆民は、道理に近づくのに「議論」が必要だとわきまえていたのみならず、その議論に「節度」が必要だということをも、その自由論のなかに正しく定着させているのです。その点で、「新聞紙の正誤」(明治21年、東雲新聞)は注目に値します、

 

人性は善邪悪邪吾等は知らず但譏言を信じるは誉言を信ずるより甚だし百新聞紙が譏りたとて信ぜざると云ふ朋交は実に得難し千百の面友中斯の如き真の朋交三人有れば其人は実に是れ此社会の果報者なり左れば今日新聞紙の譏誉褒貶は随分勢力有りと謂ふ可し

 

この筆致をみれば、兆民が警戒したのは、天皇についての評価にせよ新聞における報道にせよ、節度を失って暴走することにかんしてであったとみざるをえません。一般的にいって、人間における他者への感情が「友愛と競合」の二面性を有しているのですが、それら両感情の平衡をモデレーション(節度)と呼ぶなら、兆民の文筆には節度が保たれています。

・・・・・

兆民の考えた「君民共治」は、デモクラシー(民衆政治・民衆制)ではなく、その政治思想もデモクラティズム(民衆主権主義)ではありません。君民共治は、リパブリック(公衆制)と名づけられるべきものです。「公衆制」、それは我が国では用いられていない言葉ではありますが、政治形態における進歩の究極の姿だと思われます。

それは、すでに述べたように、君主制に対立するものとしての共和制と同じではないのです。君主と民衆に、さらには社会のすべての階級や階層に、潜在的にせよ共通しているパブリック・マインド(公共心)、それを基礎にして成立する(政体の枠組と方向をあらかじめ定めるものとしての)国体が公衆制なのです。

公衆制を、近現代の政体の標準をなす立憲議会制においていかに具現していくかと考えてみると、世間においてであれ新聞(その他の情報媒体)においてであれ議会においてであれ、「至理をめざす審理」をいかに「節度ある審決」に導いていくか、というやり方のほかに手立てはありません。

ここで詳述する余裕はありませんが、世間の審理・審決は「輿論」にもとづくものでなければならないでしょう。ここで輿論というのは、「歴史の流れ」のもたらした「慣習の体系」のなかにひそかに保持されているはずの、人間の心理・表現における葛藤にたいする平衡感覚としての、「伝統の精神」のことです。伝統による節度、それがなければ「世間話」はたちどころに「社会の多数派における流行の論」としての「世論」に堕ちていきます。社会が「世論の支配」に屈しているなら、少数派の(至理をめざす)見解は、兆民のがそういう扱いを受けたように、「多数派の専制」によって踏み躙られるに違いありません。

新聞(など)や議会における審理・審決とて同じことです。

「少数派の保護」は、弱者救済といったような偽善からではなく、議論における「多数派の誤謬」がむしろ一般的にみられる現象だ、という前提から始まっているのです。

民衆制といい民主主義といい、みずからのありうべき誤謬を正すという姿勢がそこでの多数派にはみられません。公衆制とは、ルソーが一般意志と名づけた国民共有の公共心に照らし合わせるまでは、そしてその照合の議論を過不足なくすますまでは、多数派の見解といえども疑念にさらしつづける、という態度を国民が共有することにほかなりません。

「多数決」に過剰に依存するのは、ルソーのいうヴォロント・トータル(全体意志)つまり「特定集団の見解を全体に押しつけること」だと兆民はよく理解していたのです。

いうまでもないことですが、ルソーのいう一般意志についてはいまだ議論が尽くされておりません。それを伝統に近づけてとらえようというのは私の見解であるにすぎない、とわかってはおります。・・・ルソーはいざ知らず兆民は、明治の時代にあっては当然のこととして、一般意志を伝統に近づけてとらえているといってよいでしょう。その意味においてなら、兆民の思想は、諭吉のと同じく、大いに保守的であった、つまり伝統保守の態度において一貫するところがあった、といえなくもないのです。

そうであればこそ、国民に共通の公共心の象徴である天皇にたいして、兆民が崇敬の念を捨てたという証拠が一つもみつからないのです。また、世論が公共心から離れたことについて、兆民は批判の言論を逞しくしつづけ、それゆえに世間から孤絶する人生を送らなければならなかった、といってよいでしょう。

民主制・民主主義が音立てて回転する日本の近代化の過程にたいして、根底からの疑念を差し向けた、それが兆民をして「明治の御代には不満足である」という遺言を残させたのだと思われてなりません。

2018年12月10日

I・アンデション J・ヴェイブル 『スウェーデンの歴史』 (文眞堂)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 01:41

『物語フィンランドの歴史』の記事で、やや詳しいスウェーデン史を読む必要を感じると書いたが、たまたま目に付いたこれを手に取る。

ハードカバーにしては薄いから楽だろうと予想したが、本を開くと、本文が80ページほどしかなく、想像以上に短かった。

とてもじゃないが、「詳しい」とは言えない。

まあ、ざっと読んでみるか。

 

 

タキトゥス『ゲルマニア』の中で、この地域のスィオーネ人に言及されている。

8世紀から11世紀までヴァイキング時代。

ヴァイキング、嫌いだなあ・・・・・。

「破壊活動」「蛮族」というイメージがこびりついて消えない。

ものすごい時代遅れの偏見なのかもしれないが、中央アジア遊牧民の征服活動と並んで、否定的印象がある。

単なる好き嫌いの話で、現在の北欧諸国やモンゴルが過去のそれらを国民的歴史の一部として誇りとするのは自由だと思うので、ご容赦下さい。

キリスト教に改宗し、王国が成立。

で、1397年から1520年の間はカルマル同盟でデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの統一時代だ。

16世紀グスタフ・ヴァーサが反乱を起こし、カルマル同盟は崩壊、スウェーデン独立。

同時に宗教改革が波及、ルター派に改宗、教会の土地を没収。

以後ヴァーサ朝の王が続き、婚姻関係の母方の血筋からポーランド王を兼ねる君主もいた。

17世紀には高校世界史の中で唯一特筆大書されているスウェーデン王グスタフ(2世)アドルフが三十年戦争に介入。

その戦死後、娘のクリスティナ女王が即位、バルト海・北海沿岸領土を確保、デカルトを招聘。

18世紀初頭、カール12世が北方戦争でロシアに敗北。

世紀後半には議会制度が発達、二党派による政権交替が行われ、リンネが動植物分類学を創始。

ここで、王朝交替があったのかな。

記述が簡略過ぎてよく分からない。

19世紀初頭、ナポレオン1世とアレクサンドル1世によるティルジット条約後の仏露和解時代にロシアがずっとスウェーデン領だったフィンランドに侵攻し占領。

王位継承者が途絶え、ナポレオン配下の将軍ベルナドットが皇太子として迎えられたが、ベルナドットはナポレオン没落時にはそれを支持せず、逆に反仏同盟に加わり、列強と協調。

結局1818年ベルナドットがスウェーデン王カール14世として即位。

以上の経緯も驚きだが、このベルナドット朝がスウェーデンの現王朝である。

フィンランドをロシアに割譲し、北ドイツに残っていたスウェーデン領ポメラニアも失ったが、デンマークからノルウェーを得る。

19世紀、自由主義的改革を推進、同世紀後半にはグリッペンシュテットやルイ・デ・イールなど有力政治家の力で実質的政治権力が国王から内閣に移行、身分制議会を廃止し、近代的二院制を創設、農民党、社会民主党、自由党、保守党など諸政党も結成され、議会主義が発展。

外交的には中立主義を確立、ノルウェーとの連合が不満と軋轢を生むと、一時軍事衝突の危機に見舞われるが、幸いにも1905年平和的分離独立という結末に至った。

第一次大戦でも中立を維持。

大恐慌襲来後、1932年にハンソン社会民主党内閣が成立、ニューディールに類似した大規模公共事業の遂行により経済回復に成功。

私のような立場の人間でも、自由放任的資本主義がもたらした最悪の危機を「大きな政府」と社会保障整備によって克服するという、この社会民主党政権の政策は全面的に支持できるものだ。

第二次世界大戦にも中立を守ったが、一時ドイツ軍の領内通過を認めさせられるという苦汁も舐める。

戦後、1946年にハンソンが死去すると、同じ社会民主党のエルランデルが首相に就任、69年まで続く長期政権下、世界に冠たる福祉国家を築くことに成功。

外交的には、近隣のデンマーク、ノルウェーが中立政策を放棄しNATOに加盟し、フィンランドがソ連寄りの中立国となったのに対し、スウェーデンは重武装中立国家として存続。

エルランデル引退後も1969~76年、82~86年パルメが首相となり社会民主党政権は続いたが、86年パルメ暗殺事件が発生。

本書は1988年刊なのでここまでだが、冷戦後1995年EUに加盟している。

 

 

ちょっと簡略過ぎるなあ。

最初、武田龍夫『物語スウェーデン史』(新評論)が視野に入ったものの、目次を見たらヴァーサ朝成立以前は全く省略していたので止めたのだが、このページ数だと、とてもじゃないが本書の方が網羅的とは言えない。

現状ではまだ有益なところもある本と評価せざるを得ないのかもしれないが、本当の骨組みしか分からない。

中々類書も見当たらないし、中公新書で『物語スウェーデンの歴史』が出ないかなあ、と何度言ったか分からないことをここでも書いてしまう。

近年の『物語~の歴史』シリーズ、安定してますからね。

近現代史偏重でがっかりするということはあっても、昔の『アメリカ』『ドイツ』『イラン』『スペイン』『スペイン人物篇』みたいに「えっ?」と思うほどのハズレは無くなってきた。

編集者の方にはこの調子を維持してもらいたいもんです。

2018年12月6日

山崎雅弘 『新版 中東戦争全史』 (朝日文庫)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 03:52

パレスチナ紛争の起源から、イスラエル独立、四次にわたる中東戦争を経て、湾岸戦争、イラク戦争、「イスラム国」の脅威までを記した通史。

よく整理された、分かりやすい叙述で、知識の獲得・確認に適切。

抑制された筆致が、偏りのない評価をもたらしてくれる。

この新版は2016年刊なので、比較的最近の出来事までカバーできるのも長所。

ここでは、1991年湾岸戦争以後の史実をメモしておきます。

 

 

1993年 オスロ合意とパレスチナ暫定自治協定締結。

1995年 イスラエル、ラビン首相暗殺。

1996年 第一次ネタニヤフ政権(右派・リクード党)。

1999年 バラク政権(労働党) アラファトPLO議長との交渉挫折。

2000年 第二次インティファーダ(抵抗運動)開始。

2001年 シャロン政権(リクード)。 9・11テロ事件。

2003年 イラク戦争。

2004年 アラファト死去。アッバスが後任に。

2005年 シャロンが強硬派から融和派に接近、リクード脱退。

2006年 PLO内部のファタハ・ハマス間紛争。シャロン倒れ、オルメルト政権成立。

2009年 第二次ネタニヤフ政権(リクード)。

2011年 「アラブの春」と言われる民主化運動、シリア内戦突入。

2013年 「イラクとシャーム(レヴァント)のイスラム国」建国宣言。

 

 

ざーっと眺めると、世紀の区切りの時点で事態が暗転してますね。

まだ、前世紀のうちは、紆余曲折はあっても、和平協議に進展はあり、長い長い中東紛争も徐々に終焉に近付いているとの期待を持つことが出来た。

しかし、2000年に当時野党党首のシャロンがイェルサレムのイスラム教聖地を挑発的に視察したことが反発を買い、大規模な抗議運動が起こったのを、報道で見て、「何か嫌な流れだなあ」と思ったのをはっきり覚えています。

それで、翌年のアルカイダ・テロですからね。

加えて2003年のイラク戦争強行で、中東と世界は滅茶苦茶になってしまいました。

 

 

なかなかよい。

類書としてこれまで挙げた、村松剛『血と砂と祈り』は古い上に非常に癖があるし、藤村信『中東現代史』はオーソドックスだがこれもやや古い、横田勇人『パレスチナ紛争史』ですら2004年刊だから相当時間が経ってしまっている。

それらと比しても、十分有益な本として使えます。

2018年12月2日

細谷広美 編著 『ペルーを知るための66章  第2版』 (明石書店)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 06:17

いつも通り、マイナー国(失礼)の歴史を一覧するためのこのシリーズだが、本書は一章が先住民の文明と国家、二章がスペイン植民地時代と独立から第二次世界大戦までの歴史、三章が戦後史と、歴史と政治の章が冒頭から固まっている。

その分量は200ページ余りで、これは結構読みでがある。

そして、2章の著者は中公新版世界史全集『ラテンアメリカ文明の興亡』の著者である高橋均氏であり、叙述が非常に巧み。

 

 

ペルーはインカ帝国の故地であることで有名。

しかし、その繁栄は15世紀後半から16世紀前半までの短期間に過ぎず、実はスペイン人到着の少し前に成立した国家であった。

それ以前のチャビン文化とか地上絵で有名なナスカ文化とかワリ文化とかチムー王国とかは面倒なので、名前を目に慣らしておくくらいで省略。

クスコを都とするインカ帝国が成立するが、1534年フランシスコ・ピサロによって征服される。

ピサロは太平洋発見者バルボアの配下として頭角を現し、バルボアが反逆罪で処刑された後に国王と交渉してペルー征服の許可を得る。

ピサロと副官役のアルマグロが対立、両者とも非業の死を遂げる。

第五代ペルー副王トレドは、インカ残存勢力を滅ぼし、ボリビア地域にあるポトシ銀山を開発。

植民地体制の拠点としてリマ市が建設。

18世紀末、先住民のトゥパク・アマルの反乱が起こるが鎮圧。

1810年以降ラテン・アメリカ独立運動が起こるが、ペルーはスペイン植民地体制の最も強固な基盤であり最後の牙城としてその後10年間存続。

アルゼンチン、チリを独立させていたサン・マルティンが20年ペルーに上陸、同年スペイン本国での自由主義革命の影響もあり、リマは陥落、21年ペルー共和国独立宣言。

この21年が現在でもペルー独立年代とされていて、それで間違いではないが、副王軍の反撃とリマ支配層の変節で、サン・マルティン軍は大敗を喫している。

ここで大コロンビア共和国を成立させていたシモン・ボリバルが北から到来、エクアドルを大コロンビアに併合、サン・マルティンはグアヤキルでシモン・ボリバルと会談するが、エクアドル帰属問題やペルー副王軍討伐への共同行動で同意に達せず、サン・マルティンはヨーロッパへ去る。

その後、ボリバルはリマに入城、その副官スクレが1824年アヤクチョの戦いで副王軍を撃破、スペイン植民地軍の組織的戦闘力は消滅し、この戦いをもって南米全体の独立が確定した、と評されている。

ペルーのラマル、ボリビアのサンタクルス両大統領がそれぞれ自国優位のペルー・ボリビア国家統合を目論んだが、両者とも失敗、ペルーとボリビアは別国家としての道を歩む。

アヤクチョの戦いに参加した最後の世代であるカスティリャが1845~67年政権担当、鳥の糞が石化したもので肥料として使われるグアノの採掘による経済ブームが起こり、ペルーは独立以来最初の安定期を迎える。

しかし、1879~83年硝石産出地帯をめぐってボリビアと同盟してチリと戦った「太平洋戦争」に敗北、領土を喪失。

戦後は文民政治による比較的順調な復興に成功、レギーアが1908~12年、1919~30年大統領となり長期政権を樹立。

しかし、世界恐慌の襲来で30年軍部の反乱が発生、レギーア政権は倒壊。

輸出経済期の経済成長は、ラテンアメリカの主要国すべてにおいて、組織労働者とホワイトカラー中間層という新しい政治勢力をはぐくんだ。かれらが伝統的支配層に挑戦してきたことから、各国の政治に変化が生じた。チリでは左翼政党として社会党と共産党が力をつけ、保守・中道と並んで全国政治の一翼を担うにいたった。ところがこういう、ヨーロッパ諸国に似ているという意味で「ノーマル」な発展が見られたのは、ラテンアメリカではチリだけであった。アルゼンチンではヨーロッパ移民を中核とする強力な労働運動が社共には見向きもせずにペロニズムを支持した。ブラジルでは軍部内に生まれた急進的な青年将校運動を背景にヴァルガス独裁が成立した。メキシコ革命から生まれたPRI(制度的革命党)が、いわば管理された急進化を梃子として一党支配を確立した。ペルーにおいてこれに対応する現象はアプラ党の発足とマリアテギの特異な社会主義思想の出現であった。しかし上に挙げた主要4カ国と違うのは、アプラもマリアテギもいかにも力不足で、国政を担当するにはいたらなかった。現状打破勢力の非力は煎じ詰めれば、ペルーの輸出経済期の経済成長が、それ以前と比べれば面目を一新したとはいえ、同時代のこれら主要国に比べるとやや見劣りがした、という事情の政治的反映だといえる。

1924年アヤが「アメリカ人民革命連合」、略してアプラを結成、社会主義的綱領を掲げ、コミンテルン大会にも出席したが、社会民主主義および民族主義勢力と共闘せず、むしろこれらを敵視する「社会ファシズム論」を取るようになったコミンテルンは、アプラを非難攻撃するようになり、アヤと訣別したマリアテギが28年結成したペルー社会党を支持、さらにマリアテギも独自色が強すぎるとしてこれを批判、マリアテギ死後、コミンテルンに盲従する社会党はペルー共産党に改称したが、ペルー急進主義陣営の主導権はアプラ党が保持。

30年のクーデタでレギーア政権が崩壊した後、既成政党は没落、軍人主導の政権樹立、アヤとアプラ党は合法手段と武装闘争両面で政権奪取を試みるが、軍部の弾圧を受け失敗、アプラは一時非合法化される。

経済恐慌からの回復、アプラと競合する共産党がコミンテルンの人民戦線路線に従い穏健化したこと、第二次世界大戦に伴う挙国一致ムードにより、アプラも穏健化し、当時成立した文民首班のプラド、ブスタマンテ両政権を支持、その代償として合法政党となり、議会で過半数を獲得。

以後戦後史では、アプラの政権奪取を軍部が阻止する為に行動する展開となる。

1948~56年東西冷戦の中、クーデタを経てオドリア将軍が大統領就任、アプラと共産党は非合法化され弾圧。

その後再度合法政党となったアプラは急進主義を放棄し、仇敵オドリアを含む軍内の一部勢力とも妥協して政権を目指すが、競合勢力である人民行動党なども台頭、結局「永遠の大統領候補」アヤは政権を担当することはなかった。

60年代、武装左翼ゲリラが活動、対米従属の実態が国民各層を不満を買う中、68年ベラスコ軍事革命政権が成立。

軍政と言ってもこの政権は右派権威主義ではなく左派民族主義の性格を持ち、この変革がペルー革命と呼ばれることもある。

産業国有化と農地改革、非同盟中立外交路線などを推進したが、石油ショック、対外債務増大、投資減退などで経済状況が悪化、75年無血クーデタを経て路線転換に踏み切り、緊縮財政と経済自由化政策を進める。

80年以降民政に移管したが、結党以来初めてアプラ党が単独で樹立したガルシア政権を含め、いずれの政権も経済運営に失敗。

センデロ・ルミノソやトゥパク・アマル革命運動などの極左武装ゲリラの活動で治安が大きく悪化、多数の犠牲者が出る。

特に前者は最悪の存在である。

中ソ対立の影響でペルー共産党から中国派が分離、さらにそこから毛沢東主義派がアビマエル・グスマンを指導者に分離、「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」を名乗る。

中国自身が改革開放路線に転ずると、グスマンはこれを修正主義と批判、狂信的な暴力革命路線を展開し、残忍極まりない無差別テロを繰り広げ、多くの犠牲者を出し、人々に恐怖を植え付け、農村部で支配領域を広げていった。

1990年日系人のアルベルト・フジモリが著名な文学者バルガス・リョサを決選投票で下して大統領に就任、経済再建に着手、92年自主クーデタによる権威主義体制を確立してグスマンなど指導者を逮捕し左翼ゲリラ鎮圧に成功、95年選挙でも元国連事務総長デクエヤルを破り再選。

96年末、トゥパク・アマル革命運動の残党部隊が日本大使館を占拠し人質と立てこもったが、翌年初頭特殊部隊が突入し、犯行グループを射殺、人質を解放。

これらの成果を挙げたフジモリ政権だが、政治腐敗と強権的手法による市民迫害に強い批判が上がるようになり、2000年フジモリは国外で辞任、日本に亡命、後にペルーで収監された。

90年以前の状況が悪すぎたし、その頃跋扈していた残忍極まるセンデロ・ルミノソを根絶したことはフジモリ政権の大きな功績として認めるべきだとは思うが、今の時代、それに伴う冤罪などによる市民殺害を看過するわけにはいかないんでしょう。

本書でもフジモリ政権後半への評価は厳しい。

2期目のフジモリ政権への日本の対応は、変質したフジモリ体制の軌道修正を促す要因とはならず、むしろ支援は体制との一体化を強める結果をもたらし、最終的には日本国籍を主張するフジモリにうまく利用されたという側面が強かったといえよう。フジモリは選挙でも勤勉や正直、「サムライ」など日本文化を受け継ぐものと評価されたが、実際には日系社会から最も遠いところにいた存在であり、何でも利用して巧みに立ち回り利得を稼ぐことをよしとするクリオリョ文化が深く染みついており、それが日本への逃亡や日本国籍の主張へとつながった。その結果、日本はドロをかぶり、国際的なイメージを汚し、ペルーとの間に「フジモリ問題」という難問を背負い込むことになったのである。

以後は、初の先住民系のトレド政権、二度目のガルシア政権、元はベネズエラのチャベス政権を信奉する反米急進左派だったが、ブラジルのルラ穏健左派政権を目標と明言して中道左派寄りに路線修正して当選したウマラ政権などが続いている。

 

 

本書の後半部分を一切無視して、冒頭から200ページまでの簡略なペルー史の本だと頭の中で変換して読みましょう。

内容はしっかりしており、信頼できる気がする。

簡略ながら、バランスの取れた充実した通史として利用できる。

2018年11月28日

渡部昇一 『知的生活の方法』 (講談社現代新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 04:15

これも、関連文献:読書論で名を出した本。

1976年初版、ベストセラーとなり、続編も出ている。

本当は分からないのに分かったふりをしない知的正直さを保ち、繰り返し読むに値する自分にとっての古典を作り、身銭を切って本を買い続けて自らのライブラリー(「図書館」であると同時に「蔵書」)を形成していくことを説く。

後は、文字通り「生活」面として、時間の使い方や睡眠、食事や飲酒、家族と結婚など雑多なことが書かれている。

まあ、一番核心の主張は、本を蔵書として手元に置いている場合と図書館から借りる場合とでは、前者の方が圧倒的に時間と手間の節約になるし、能動的知的生活のためには無理をしてでも本を買い、蔵書を増やしていくことが必要だ、というもの。

私も以前はそう思っていたが、研究者や作家でもない一般人が、ある程度以上の蔵書(それが五百冊程度かあるいは千冊以上なのかはわからないが)をさらに増やし続けるというは現実的ではないなあと今では考えている。

 

内容は普通で、それほど悪くはない。

しかし、この人は今世紀に入ってからは奇矯・劣等・醜悪な自称「右派」知識人の代表格のような存在に成り下がってしまった人物でもある。

著者の作品では、かつて『ドイツ参謀本部』を紹介したことがあり、それも本自体は別に悪くはないが、著者への好感は全く持てない。

「こんな奴の本、取り上げるんじゃなかった」というのでは、もう一人すぐ思い浮かぶ人間が、官僚崩れのゴミクズ「右派」評論家でいるのだが、今から記事を削除するのも何だし、結局後の祭りですね。

著者のような存在は、左翼という逆の極端にいる衆愚集団が健在だった時に、まだ自らをまともに見せる錯覚を与えていただけなんでしょう。

いや、以下のような福田恆存氏の言葉を読むと、昔から見える人には本質が見えていたんでしょうね。

(表記変更あり。旧字体を変更するのは、福田氏の立場からいって冒涜に当たるのかもしれないが、ご容赦下さい。)

 

 

問い質したき事ども (昭和五十六年)

 

・・・・最近の渡部氏のやつつけ仕事は目に余るものがあり、刀汚しと承知の上で、いづれその公害除去に乗出す積りだが、ここではただ一言、渡部氏に言つておく。なぜあなたは保守と革新といふ出来合ひの観念でしか物を考へられないのか、右なら身方、左なら敵といふ考へ方しか出来ないのか、その点、吾々を保守反動と見なす左翼と何処も違ひはしない。少なくとも私にとつて、さういふ左翼と、左翼とあれば頭から敵視するあなたとは、所詮は一つ穴の貉であり、同じ平面上で殴り合ひ、綱引をやつてゐる内ゲバ仲間としか思へないのである。

あなたは、カトリックを自称しながら、左右の空間を越え、過去と未来の時間を超え、その横軸に交る縦軸が全く見えないらしい。あなたには生と死が向ひ合ひ、心と物とが出遭ふ一人の人間の生き方が全く解つてゐない。さういふ人間が、国家や国防を論じ、歴史や知的生活の方法を語り、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンなどといふ夢で国粋主義者の頤をくすぐる。あなたの正体は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決出来ると一途に思詰めてゐる夜郎自大の成上り者に過ぎぬではないか。

 

福田恆存評論集 第十二巻 (麗澤大学出版会)より。

 

 

本書は新装版になって今も在庫があるようだから、相当のロングセラーと言っていいが、新刊で買うのは勧めない。

自分のカネ出して買うほどの本じゃありません。

2018年11月24日

栗生沢猛夫 『図説ロシアの歴史』 (河出書房新社ふくろうの本)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 03:16

ロシア史も、個々の皇帝や政治指導者についての本はいろいろあるが、単独の通史となると、すっと思い浮かぶものがない。

バーナード・ペアーズが書いた古典的ロシア史の(仄聞するところによると、ソヴィエト政権に宥和的となった晩年ではなく、それ以前の版の)翻訳が出ないかなと長年思っていたが、その気配が全くないので、『図説ハンガリーの歴史』に続いてこのシリーズを読むことにする。

私が読んだのは2014年刊の増補新装版。

著者は、中公新版世界史全集の傑作『ビザンツとスラヴ』も書いている人だから、期待できそうである。

 

 

まず、我々がロシア史に持つイメージについて。

東スラヴ系ロシア人の国家形成と歴史への登場は9世紀以降であり、西ヨーロッパに比してよく言われる後進性は否めず、ロシア人自身のコンプレックスにもなっている。

ただ、カトリックではなく、ビザンツ帝国から東方正教を受け入れたことを過度に強調するのは適切ではなく、ロシアがイスラム教ではなくキリスト教国家となったことが何より重要な事実であるとして、さらにロシアのキリスト教の特徴として鷹揚で柔軟で包容的で、過度の教義論争や制度的締めつけが、少なくとも当初は無かったことを挙げている。

また、君主権や国家権力が圧倒的に強力であったという点についても、ロシアが農業国でありながら、同時に、自然の防壁の無い広い平原地帯で防衛する必要から、早くから都市を発展させており、その都市においては14・15世紀に至るまで民会が大きな力を持っており、古代的な民主制の伝統がロシアに絶無だったとするのは、むしろ歴史の連続性を無視した議論だ、としている。

ただ、「後進性」克服の為に、「上からの革命」がしばしば行われたが、それは多くの場合不徹底に終わるか失敗し、急激な革命が起こるという、「極端から極端へ」走る気質があることは否めない。

過剰な防衛意識は、歴史上外部からの攻撃を繰り返し受けたことの裏返しであるし、多民族を支配する帝国でありながら、支配層には多くの非ロシア系民族が同化・混入している。

ユーラシア国家と言われることもあるが、ロシアは一貫して正教国家であり続けており、19世紀知識人の西欧派とスラヴ派の論争も、ロシアがキリスト教国家であり、ヨーロッパに属することを大前提として西ヨーロッパ的な道を歩むのが是か非かを論じたものに過ぎない。

 

 

862年ノルマン系ヴァリャーギ人のリューリクが東スラヴ諸族に招かれ、ノヴゴロドを中心に北ロシアを統治、これがロシア史の起源となる。

これをノルマン人の征服活動の結果と見ることは適切ではなく(ナチ時代のドイツの学者はスラヴ人に国家形成能力は無いとして最も極端な見方を示した)、東スラヴ人の長期にわたる政治活動を経てノルマン人が触媒的役割を果たした、と見るべき。

高校世界史レベルではあまり意識しないことだが、ロシア史においては、このリューリク朝とロマノフ朝の二つしか王朝が無い。

「リューリク朝」という言葉自体が高校世界史では出ないはずなので、ピンとこないでしょうし、前近代のロシア史は、ノヴゴロド公国、キエフ公国、モスクワ大公国と違う国が次々興亡を繰り返したイメージがあると思いますが、実はこれら諸国の君主は初代のリューリクから全部系図で繋がっている。

20ページにあるリューリク朝の系図は本文を読む際、頻繁に参照した方が良い。

この系図、高校世界史でも教科書か史料集かに載せて欲しいですよね(今は載ってるのかな)。

882年リューリクの子イーゴリを擁してオレーグが南下しキエフ公国を建国。

このオレーグも系図には入らないが、あくまでリューリク朝の一族とされている。

イーゴリの子スヴャトスラフは南方の遊牧民ペチェネグ族と戦い戦死、その子が有名なウラジーミル聖公で、キリスト教を受容、ウラジーミルの子ヤロスラフ賢公はペチェネグ族を打ち破りキエフ公国最盛期を現出。

ヤロスラフ賢公死後、孫のウラジーミル・モノマフが一時盛期を築くが、ペチェネグに代わる遊牧民ポロヴェツ人が脅威となり、キエフ公国自体も継承方式の曖昧さから分解する傾向となり、諸公国が並立する分領制期に入る。

その中で有力なのは、北東部のロストフ・スーズダリ公国(のちのウラジーミル・スーズダリ公国。「ウラジーミル」と急に人名が入ってくるのは妙だなと思ったが地図にウラジーミルという都市名が載っていた)、南西部のガーリチ・ヴォルイニ公国、北西のノヴゴロド共和国(誤記にあらず。後述)。

この26ページにあるキエフ公国分裂時の地図は有益。

ウラジーミル・スーズダリ公国内部でトヴェーリなど他の有力都市を制しモスクワが台頭。

なお、この時期のノヴゴロドは、公は雇われ軍事指揮官とも言うべき存在で、実権は民会が握っており、実質的には共和国であった。

13世紀に入ると、西からはスウェーデンとドイツ騎士団が、東からはモンゴルが押し寄せてくる。

この危機に立ち向かったのが、ノヴゴロド公でのちのウラジーミル大公であるアレクサンドル・ネフスキー。

ネヴァ河畔でスウェーデン軍を(ネフスキーの由来)、1242年チュード湖上の戦いでドイツ騎士団を撃破。

一方、モンゴルに対しては服従の態度を取り、衝突を避ける。

この態度について、屈辱的と非難する立場と、宗教的には寛容で納税だけで満足するモンゴルよりも西方のカトリック勢力の方がロシアにとって真の脅威だったとして擁護する立場が対立してきたが、著者はアレクサンドルを一方的に非難することも聖人・英雄扱いすることも共に一面的であるとして退けている。

1237年バトゥの侵入後、キプチャク・カン国が建国されるが、そのロシア支配は各公を通じた間接的なもので、ロシアがその侵入で大きな被害を受けたことは事実であるし、その後の専制政治体制をモンゴルから学んだ点も間違いなくあるが、肯定的・否定的に関わらずモンゴル支配の影響を過大視するのは誤りであり、「タタールのくびき」がロシアの後進性を決定的にしたとか、「アジア的野蛮」に転落したと主張するのは誇張であり、ロシア人は当時も以後も正教徒であり続けており、少なくとも宗教的精神的にはモンゴルの影響は決定的ではなかったとされている。

アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニールがモスクワに拠点を置き、同市は急速に発展、キプチャクのカンと緊密な関係を築き、その子のイヴァン1世カリター以後ウラジーミル大公位はほぼモスクワ公が占めることになり、モスクワ自体が大公国と呼ばれるようになる。

イヴァン1世の孫ドミトリー・ドンスコイはキプチャク・カン国への貢納を停止、侵攻してきたカン軍を1380年クリコヴォの戦いで破る。

この戦いでモスクワが完全に独立したわけではなく、以後の貢納が完全に停止されたのでもなかったが、モスクワ大公は大きく威信を高める。

子のヴァシーリー1世はカンの意向を問うことなく大公国を世襲地として受け取るが、その子ヴァシーリー2世時代に大公位継承争いが勃発、ペスト流行も重なり、大きな危機を迎えるが、ヴァシーリー2世は何とか内戦に勝利。

この間、ロシア正教会の頂点に立つ府主教がキエフからウラジーミル地方、さらにモスクワへと居を移し、滅亡直前のビザンツ帝国が西方カトリックとの教会合同を実行しようとすると、それに距離を置き、ロシア正教会は完全に独立。

ヴァシーリー2世の子がイヴァン3世である(1462~1505年在位)。

名目上独立を保っていたトヴェーリなどの諸公国を併合、ノヴゴロド共和国も滅ぼし、代官によって統治。

分裂状態のキプチャク・カン国への貢納を停止、1480年出撃してきたカン軍を領内に侵入させず、カンからの独立を達成。

最後のビザンツ皇帝の姪と再婚、クレムリンの宮殿・寺院を建設。

子のヴァシーリー3世時代にも領土を拡大、北東ロシアの統一を完了。

次いで1533年イヴァン4世(雷帝)即位、1584年まで半世紀以上在位。

公式に「ツァーリ」を名乗り、士族という新興軍人貴族を重用、中央集権化と専制体制確立を目指し諸改革を推進、カザン・カン国、アストラハン・カン国を征服(有名なイェルマークによるシベリア・カン国征服は治世晩年)。

しかし、バルト海沿岸のリヴォニア地方をめぐる、ドイツ系リヴォニア騎士団、リトアニア・ポーランド、スウェーデンとの戦いには敗北。

このリヴォニア戦争の失敗から、雷帝の統治はおかしな方向に向かう。

オプリーチニキと呼ばれる親衛隊による恐怖政治が行われ、門閥貴族層の逮捕・処刑が頻発、当時の府主教すらも殺害され、多くの都市住民・農民も犠牲になった。

オプリーチニナは暴力的であったが、国家と皇帝権の強化のためには必要な政策であったと主張する歴史家がいる。とくにスターリン時代に多かった考え方である。しかしリヴォニア戦争、凶作、飢餓、悪疫が続くなか、それが国政の混乱、国土の疲弊につながったことは否定できない。暴力と圧政を恐れた農民、都市民の逃亡が相次ぎ、廃村・棄村が常態化した。

モスクワは「大荒廃」の時代を迎えた。貴族の「横暴」を抑え、分領制の遺制を克服し、中央集権化をはかることは、別の方法でも可能であった。「選抜会議」政府は基本的にそのような目的をもっていた。その意味でオプリーチニナはツァーリのせっかちて非歴史的な思考が生んだ非現実的政策であった。それはツァーリ権力の恐ろしさを国民に叩き込んだかもしれない。皇帝権がロシアにとって不可欠の存在であるかのような幻想の始まりとなったかもしれない。しかしそれは皇帝と臣民との間の溝を大きく広げ、皇帝権の真の強化には寄与しなかった。何よりも国家を著しく弱体化させてしまった。雷帝と呼ばれるにいたったイヴァンの死後まもなく始まる「動乱」の原因は、雷帝自身にあったといわなければならない。

これを読むと、高校教科書にも載ってるんだからと、イヴァン雷帝を漠然と名君と見なしてきた考えが修正を余儀なくされる。

1584年雷帝没後、統治能力に欠けるフョードルが即位したが、后の兄ボリス・ゴドノフが実権を握り、フョードルの死によってリューリク朝は遂に断絶、ボリス・ゴドノフがツァーリに即位。

雷帝の子ですでに不慮の死を遂げていたドミートリーを名乗る「偽ドミートリー」がポーランド貴族に支持されロシアに侵入、ロシアは「動乱」時代に突入。

1605年ボリス帝が没すると、「偽ドミートリー」がモスクワに入城し即位するが、わずか一年後に殺害される。

その後、第二、第三の偽ドミートリーが出現、ポーランド軍が侵入し、モスクワを2年にわたって占領、ロシアは国家存亡の危機に立たされる。

1612年国民義勇軍がモスクワを解放、翌年イヴァン雷帝最初の后の出身家門であるミハイル・ロマノフをツァーリに選出、ロマノフ朝が成立。

当初、全国会議という身分制議会が大きな役割を果たしたが、ロマノフ朝の安定に伴い、17世紀後半には消滅する。

帝位はアレクセイ、フョードルに引き継がれ、その間農奴制が法的に完成、都市暴動も頻発、シベリア征服は続きオホーツク海にまで達しているが、ステンカ・ラージンの乱が勃発、総主教ニコンの典礼改革によって「古儀式派」が分離、ロシア正教会の分裂はその国家や社会への影響力をますます弱めた。

古儀式派は20世紀初頭で人口の15%以上を占め、社会の分裂を深めた。

17世紀末、フョードル帝死後、兄弟のイヴァン5世と幼少の異母弟のピョートル1世が共同即位、数年後宮廷クーデタでピョートル単独統治時代が始まる。

清朝とネルチンスク条約を締結し、スウェーデンとの北方戦争を遂行、門閥貴族の地位を低下させ、絶対主義国家を志向、啓蒙専制君主として君臨したが、臣民には重い負担を強いる結果となる。

ピョートル死後は妻のエカチェリーナ1世が初の女帝として即位、その後はピョートル大帝の別の后の孫ピョートル2世、イヴァン5世の娘アンナ女帝を経て、5世の曽孫のイヴァン6世が一年の在位で帝位を追われ、大帝とエカチェリーナ1世の娘エリザヴェータ女帝の治世が20年続き、その後甥のピョートル3世が即位したが、七年戦争での親プロイセン政策が反発を買い宮廷クーデタが発生、妻のエカチェリーナ2世が即位する、といった具合に18世紀のロシアは女帝の時代となった。

エカチェリーナ2世はアンハルト・ツェルプスト候という家出身で生粋のドイツ人であるが(ピョートル3世も父はドイツ人)、正教に改宗し、ロシア語を学び、ロシアを代表する啓蒙専制君主として受け入れられた。

ポーランド分割とクリミア併合を実行、ロシア帝国の対外進出が本格化。

しかし、この時期で重大な事態は、西欧では中世末から近代にかけて消滅ないし廃止された農奴制が、ロシアでは強化されたこと。

フランス文化が流入した華麗な上層社会と圧倒的多数を占める貧しい農奴という社会の亀裂と分断が深まる。

ピョートル大帝の改革は様々な無理や矛盾があったものの基本的には正しい方向であり、以後農奴制の改革とその漸進的廃止によって諸身分間に一定の平等性を確保することによって安定した国民国家建設に向かうべきだったのだが(身分制の全面否定と平板で平等な大衆社会には大きな危険が伴うが、余りに硬直した階級社会では近代国民国家に必要な活力も生まれない)、その後の歴史で貴族・領主層に妥協的になったことが問題だった、と個人的には解釈したが、それで正しいのか?

エカチェリーナ2世死後、その息子パーヴェルが即位したが、最後の宮廷革命が起こり、パーヴェルは殺害され、アレクサンドル1世が即位。

ナポレオン打倒に最大の貢献を成したが、初期の自由主義的改革姿勢は後期には「アラクチェーエフ体制」と呼ばれる専制主義的統治に変貌した。

後を継いだニコライ1世の治世冒頭にデカブリストの乱が勃発、ニコライ帝はあらゆる革命・改革思想の弾圧を自らの使命とし、国外にも反革命的干渉を行い、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」との異名を得る。

この流れがねえ・・・・・。

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』『同 7 革命の時代』での評価のように、エカチェリーナ2世、ニコライ1世の時代に(特に後者の治世で)漸進的な改革が行われなかったことが、ロシアの不幸な歴史の原因となったと見なすことはもちろん可能ではある。

しかし上記リンク先の記事で思いつつも結局書かなかったことを今書いてしまうと、プガチョフの反乱のような巨大な民衆暴力、国外で悲惨な恐怖政治を生み出したフランス革命を受けてエカチェリーナ2世が強い警戒心を抱いたのは当然と思われるし、ニコライ1世時代の過激で暴力的な革命運動が政府内の反動派の力を強めたという面も間違いなくあるだろうし、体制側だけを責めても始まらないでしょうという感想も同時に持つ。

さらに、帝政ロシアの「圧政」については、本書でも以下のように述べられている。

・・・・・ニコライ治世が「最も暗い時代」であったにせよ、それはのちの二〇世紀になって人類が経験するような徹底した全体主義的統制とはまったく次元の異なるものであった。実際この時代、作家たちはいわゆる「イソップの言葉」を用いるなどさまざまな工夫をして、検閲の網を何とかかいくぐろうと苦闘し、またある程度それに成功したのである。検閲当局もそれなりに厳格に職務を遂行したが、作家たちはむしろそれゆえに自らの思索を深化させ、永続的な価値の創造のために苦闘したのであった。

君主政による圧政など、それを打倒して成立した人民の名における全体主義的独裁による被害に比べれば、ほとんど言うに足りない。

世界の現代史上、どこでもそうだが、ロシアほどそのコントラストが明確な国も無い。

クリミア戦争の敗北が改革の必要性をロシアの各層に痛感させ、アレクサンドル2世の農奴解放令に至る。

上記『革命の時代』の記事で書いたように、まさに同時期南北戦争という凄惨極まりない暴力を経なければ黒人奴隷を解放できなかったアメリカに比べて、このロシアの改革はもっと評価されてしかるべきと思われる。

本書では農奴解放の不徹底性や問題点が指摘され、司法・軍制改革などは成功とみなされ得るにせよ、ゼムストヴォと呼ばれる地方自治体設置は議会制への移行として中途半端であり、専制体制全般を変革する志向に乏しかったと記されているが、改革が急進的でありさえすれば革命という社会の破局が避けられたというものでもない気がする。

むしろ、こうした諸改革に対し、アレクサンドル2世暗殺という暴挙で応えたインテリゲンツィア出身の狂信的革命家たちに強い嫌悪感を持つ。

その後、順調な経済発展が見られた時期もあったが、体制当局が社会の分断と混乱を適切に管理し得たとは残念ながら言えず。

帝政ロシア最後の発展期と言える、ストルイピン時代について。

ストルイピン・・・・の時代と改革事業はどのように評価されるであろうか。ソヴィエト時代には、その革命運動に対する弾圧政策が厳しく断罪され、農業改革も否定的に評価されるのが通例であった。ストルイピン改革は農村を根本的に変えることができず、むしろ地主と農民のみならず、富農と貧農の対立をも引き起こしたこと、その時代にみられた一定の工業発展と資本主義化も結局は社会を安定させることができなかったことなどが指摘された。

ソ連邦崩壊後こうした見方は後退し、彼の改革はロシアを近代国家に成長させる可能性のあったことを指摘して、これを肯定的に評価する傾向が出てきた。それは歓迎すべき傾向といえる。ただこうした立場を突きつめ、その後に起こった一七年の革命を必然的でも、合法則的でもなく、むしろ改革による自然で順調な発展を暴力的に終了させたものとして、ただちに逆の判断にいたるのも問題であろう。当時のロシア国内の深刻な矛盾、革命運動の激化、帝国主義諸国家間関係の悪化、皇帝政府内の混乱などを過小に評価することになりかねないからである。

現代史はばっさり省略だ。

第一次世界大戦という総力戦の負担に耐えかねた帝政は崩壊、革命と共産主義独裁によってロシアはこの世の地獄に転落する。

人民の名において統治者となった革命家が、どんな悪逆非道なツァーリよりもおぞましい虐待を国民に加えたことだけは指摘しておく。

独ソ戦によってナチズムの打倒に貢献したことは事実だが、あえて俗っぽく、低レベルな言い方をすれば、悪と悪が食い合っただけの話だ。

ソ連の勝利は、絶滅収容所にいたユダヤ人を例外にすれば、東欧の人々にとって「解放」ではなかったはずだ(その例外が極めて重大だったことはむろん認めるが)。

ソ連崩壊後も、その権威主義的統治は、「秩序ある自由」と正常な議会政治から遠いものと判断せざるを得ない。

19世紀文学を頂点とする豊かな文化と、恐るべき苦境に耐えて国の存続を確保する力強い生命力など、多くの尊敬すべき面を持っているものの、漸進的な改革が効果を上げず、極端から極端に走る不幸な歴史を持った国、と決めつけるのはもちろん偏見だろうが、そのような見方に全く根拠が無いわけではない、というのが読後の感想です。

 

 

面白い。

ある特定の固定観念に囚われるのを避け、まず史実を正確に辿った上で、冷静な歴史的評価を下すという手堅さを持っている。

本書くらいの厚さでそれを成し遂げているのは大したものだと思う。

特に前半の前近代史の部分は非常に貴重で役に立つ。

この「ふくろうの本」というシリーズは、写真と図版が満載で文章量が少ないので、実は少々軽く見ていたのだが、『図説ハンガリーの歴史』に続いてこれを読んで、ものによっては非常に有益であると知った。

本書もハンガリー史と並んでお勧めです。

2018年11月20日

伊藤之雄 『元老  近代日本の真の指導者たち』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 03:50

1871年廃藩置県と三院制制定で、太政大臣・左右大臣・参議が(1885年以降の近代的制度とは異なる)「内閣」とされたが、それを構成した明治政府の最高指導者たちは、「元勲」と呼ばれることが多かった。

当時「元老」という言葉は、1875年大阪会議の後、大審院・地方官会議と共に設置された「元老院」に見られるように、それより下位レベルの政治家を主に指すものだった。

それが、日清戦争後、1896年第二次松方内閣成立の頃から、後継首相の選出など最重要国務を遂行する実力者集団が「元老」と呼ばれるようになり、1898年第三次伊藤内閣成立の時期にその存在が完全に固まった。

首相という最高職務に就任する人物を議会の選出に任せず、非公式の「黒幕」的存在が左右するのは、一般的に言って好ましくないと思われがちだが、極めて厳しい国際環境の中で、様々な試行錯誤のうちに近代化を短期間で進めなければならなかった明治日本にとって、安定した議会政治と政党内閣制が確立するまで、元老のような存在は必要かつ有益であった、というのが著者の主張である。

私も全く同意見だ。

以前書いたように、自由民権運動の勝利が、収拾不可能の混乱と国内対立をもたらし、内戦と列強の介入、植民地化に直結した可能性は、小さいものではないはず。

後述のように、しばしば多数派「世論」そのものが、政治の不安定要因かつ破壊的要素になる以上、「非民主的」という一点のみで元老制度を批判するのは無意味である。

本書で挙げられている元老は、次の八人である。

伊藤博文、山県有朋、井上馨、黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望。

八人?

以前の記事の記憶があれば思い出して下さい。

元老って九人いたはず。

誰が欠けてますか?

 

ここはすぐ思い浮かんで欲しい。

 

 

 

 

そう、桂太郎がいない。

桂を元老から外しているのが、本書の大きな特徴。

なお、大山も日露戦争前後数年は、元老扱いから外され、復帰するのは大正時代に入ってからとされている。

これは、文・武官、陸・海軍のバランスを保つ観点からと、日露戦後、陸軍の過度の自己主張を抑える必要があった時期に、大山が部下を統制するより、それに同調する傾向があった為だとされている(小林道彦『児玉源太郎』にもそのような記述があった) 。

全般的に見ると、やはり圧倒的存在感を示したのは、伊藤と山県であり、西郷隆盛・大久保利通という巨人二人が去った後の薩摩閥はやや影が薄い。

例えば、大久保暗殺後、薩派第一人者のはずの黒田清隆も、どうも精彩に欠ける。

明治十四年の政変で一時政府を離れざるを得なくなり、1880年代の重要な時期に要職に就いて外交・内政・財政の専門知識を実地に学ぶ機会を逸し、1888年第二代首相に就任するが、伊藤・山県への対抗意識から、かつての仇敵大隈に条約改正交渉を任せて失敗、その後も改進党との連携を噂された為、本来保守的視点で一致するはずだが、より反政党的姿勢を一貫させた山県に対して存在感を失い、薩派指導者の地位も松方に奪われ、元老の中で最も早く、1900年に死去。

なお、法的根拠が無いと言われる元老で、天皇からの「元勲優遇の詔勅」がそれに当たるとされることがあるが、井上・西郷・大山・西園寺はこれを受けておらず、桂は二回受けているが、元老ではない。

元老はあくまで慣習的非公式制度であり、他の元老から承認され、後継首相選出などに継続的に関わることによって就任したと見なされるものである。

日露戦争後、いわゆる桂園時代には、伊藤が旧自由党を率いて結成した政友会と、桂を押し立てる山県系官僚閥との間で順調な政権授受が行われ、元老の調整はほぼ必要なく、政党内閣制に向けての貴重な訓練期間となる。

陸軍への影響力について、山県を脅かすまでになった桂だが、明治天皇が長命を保ち第二次西園寺内閣が長く続くという条件が満たされず、大正政変の政争の中で失脚し間もなく自身が死去した為、本書では桂が元老になることはなく、その可能性は失われていたと書かれている。

大正時代、元老への批判が数度に亘って巻き起こる中、その中心的存在の山県は、元老制度を攻撃する大隈を逆に抱き込んで元老に加える構想を一時持ち、一方西園寺を元老に加えて危機を乗り切る。

本格的政党内閣である原敬政権の下での首相権限の拡張もその元老制度の危機の一つだが、矯激な世論が既存の制度を突き崩す危険性を熟知していた原は山県の権力を完全に崩壊させることはせず。

この当時の、理想の走る傾向にある新聞論調や大隈重信の動向と比べると、原と西園寺は、陸軍の統制が困難になる可能性があることを考慮して動いている点で、極めて思慮深かった。・・・・一九三〇年代になると、元老西園寺や昭和天皇・首相は、陸軍の統制に苦しむようになっていく。この事実を考慮すると、山県より若い世代の陸軍の実力者で、政友会など政党勢力とも協調性のあった桂太郎や寺内正毅が山県に政治的につぶされて、すでに死去していたことが惜しまれる。彼らが生きていて、桂が元老になるなど、山県の後を継いでいたら、一九三〇年代の陸軍の様相は変わっていた可能性もある。それ以上に、この後半年も経たずに原首相が暗殺されてしまったことも、陸軍統制に関し、将来の可能性の一つを摘んだといえよう。

大正末期、山県と松方が死去し、昭和に入ると、元老は西園寺一人となる。

なお、この時期の後継首相選出方法を「元老・内大臣協議方式」と名付ける研究者もいるが、著者はこれを否定、後述の1937年宇垣内閣組閣失敗で気力を失うまで、西園寺の権限は内大臣・宮内相・枢密院議長などに比して圧倒的だったとしている。

政党内閣時代に入るが、普通選挙と有権者の拡大から必然的に激しい党争と露骨な利益誘導が生まれ、疑獄事件も頻発、それに対して左右両極の過激世論が不気味な高まりを見せるようになる。

こうした中、国政の舵取り役となった西園寺は、ただ一人の元老として悪戦苦闘する。

元老の補充に関し、西園寺は元老制度に反対だったので補充をしなかった、と主張する研究者もいる。この根拠は、第一次山本内閣が成立した時に西園寺が、将来は元老をなくし衆議院の多数党の党首が政権を担当する形にすればよい、と発言したことである・・・。しかし、これは西園寺が将来の理想を述べた発言の言葉尻をとらえた、皮相な解釈である。現実を見据えて行動する西園寺の老熟した政治家としての力量を理解できていない見解といえよう。

すでに示し、また今後も明らかにしていく西園寺の言動からいえることは、西園寺が元老を補充しなかった理由は、元老としてどうあるべきかという価値観を共有できる有力者がいなかったからである。西園寺が元老を補充しなかったのは結果であり、補充しないことを目的としていたのではない。

山本権兵衛は、第一次内閣で軍部大臣現役文官制を改訂したように政党内閣に親和的だったが、第二次内閣では薩摩派の擁立運動に距離を置かずに政権に就いており、その点で西園寺は忌避。

(本書の記述にはないが、ジーメンス事件と虎ノ門事件という在任時の不祥事が、元老に必要な権威を損ねていることも理由かと考えてしまう。これだけの経歴を持つ政治家を生かせなかったことは痛い。)

だが、それより最有力候補の二人、原敬と加藤高明(加藤については「二十一ヵ条要求」的強硬外交から脱し、幣原外交を受け入れた後)が、昭和に入る前に世を去ったことが、戦前日本の運命を狂わせた。

若く政治経験の無い昭和天皇が即位したが、牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら側近も円熟した政治家とは言えず、西園寺が健康上の問題で常時輔弼できる状態でない中、田中義一首相問責、ロンドン軍縮条約締結での加藤寛治軍令部長上奏拒否、といった問題で対応を誤り、天皇の公平な調停者イメージと権威を確立することが出来ず、軍部・右翼・政友会などの統制に失敗、彼らが国政を壟断する気配となる。

原敬や加藤高明の没後、西園寺は元老として自分と同じレベルで高度な政治判断ができる人物はいないと判断し、元老を補充することをあきらめた。内大臣を万一の保障として、健康に気をつけながら、政党政治の成熟を待った。この西園寺の判断はやむを得ないものである。しかし、西園寺がいかに妥当な判断ができるとしても、西園寺がどこに滞在しているか、その時に西園寺の健康状態がどうであるか、という個人の状況によって、元老制度の機能が制約されるのは大きな問題であった。

満州事変直後の、朝鮮軍独断越境問題では、陸軍の統制を回復する絶好のチャンスだったにも関わらず、田中首相問責・加藤軍令部長上奏拒否事件での強気の行動から起こった反動のせいで逆に弱気になり、裁可を保留してのち何らかの措置を取るべきとの西園寺の助言は間に合わず、牧野内大臣、若槻首相ともに、みすみす好機を逃してしまった。

以後、マスメディアに煽られた民衆世論は軍部の行動を熱狂的に支持、冷静な少数者は口を噤むほかない状況になる。

リットン報告書の内容は、犬養内閣が目指したものと類似しており、むしろ日本に有利なものであった。それにもかかわらず、日本の有力新聞は、報告書に対しただちにかなりの批判を行った。西園寺は、満州国を支持し報告書に批判的な新聞報道が不快であった。

すでに政府が満州国を承認し、新聞などがそれを支持している以上、西園寺は元老として何もできなかった。国際的孤立がどういう意味を持つか深く考えず、軍に影響された軽薄な世論が広がっている。そんな状況である限り、西園寺がリットン報告書を支持し満州国承認を撤回すべきとの発言をしたなら、元老としての正当性を疑われ、権力を失墜することは目に見えている。

・・・・・

西園寺は内心連盟脱退に反対であったが、日本全体が連盟脱退に動いている以上、打つ手がなかった。西園寺は連盟脱退への反対論を公言しなかった。当面は元老の権威(正当性)を守り、日本の国民が目覚め、国際的孤立は問題であると思い、軍部に対する目が厳しくなるのを待つしかなかった。

ここで典型的に見られるように、歴史においては、あまりにしばしば「多数派の民衆世論こそが悪」なのである。

「戦前日本は民主主義が未熟だった為、軍部の台頭を防げず、悲惨な敗戦に至った」という物語は大嘘である。

主流の国民世論は、明らかに軍部による対外拡張と議会政治破壊を支持したのであり、むしろ極論に走る世論こそが「主犯」であり、軍部はその手先だったと言いたいくらいだ。

近代日本の民主化は「遅すぎた」のではなく、「早すぎた」と言うべき。

急激な民主化が左右の極論と政治言説の無秩序化を生み、それに軍部が影響されて、既存支配層が破壊され、国が滅んでしまった。

そのことを認めず、戦後は左傾世論に乗って、もう少しで別の形で国を亡ぼす所だった左翼も、戦前日本にも民主主義が存在したことを主張して左翼に反論した気になり、戦前と同じように国を滅ぼしつつある現在のネット右翼も、双方、狂気と痴呆の表れに過ぎない。

西園寺は、後継首相推薦方式で、元老・内大臣の他、枢密院議長と首相の前官礼遇を受けた者からなる「重臣」を加えるなどして、重要人事の実権を保持。

二・二六事件に遭って疲労と失意から時局を主導する意志を減じたが、それでも湯浅倉平内大臣を支え、1937年陸軍を抑える為に宇垣一成内閣成立に一縷の希望を託したが、宇垣の組閣失敗で気力を喪失。

以後、即位以来苦汁を舐め、政治経験を積んだ昭和天皇が、日独伊三国同盟を避ける為、君主機関説上ギリギリの政治関与を行い、湯浅内大臣と共にかつての元老のように陸相人事に介入、1940年穏健派海軍軍人の米内光政内閣を成立させたが、それもナチス・ドイツの攻撃によるフランス降伏という激動の中で倒閣。

第二次近衛内閣成立に当たって、木戸幸一内大臣を通じた奉答を辞退、三国同盟締結を聞きつつ、西園寺は90歳で死去。

 

 

 

非常に良い。

内容は重厚で、信頼できる著作。

テーマの重要性からして、手頃な近代日本政治史の概説としても使える。

15冊で読む近代日本史にこれを加えてもいいくらい。

安心して推薦できる。

2018年11月15日

ブライアン・ウォード=パーキンズ 『ローマ帝国の崩壊  文明が終わるということ』 (白水社)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 04:40

ローマ帝国崩壊時における「蛮族」の暴力と破壊、その後の没落と衰退を強調する伝統的史観に反して、「古代末期」という時代区分を提示し、ゲルマン民族の穏やかな同化とローマ人の静かな適応、および文化的・精神的状況での新たな肯定的側面を主張する研究が多く現れてきた。

(これにはドイツ敗北後のヨーロッパ統合や多文化主義の台頭など、現代の状況が歴史研究者に影響を与えたことが見て取れる。)

それに対して、本書はそれらの研究による成果を認めつつ、ポスト・ローマ期における破壊的状況と生活水準の大幅な低下、ローマ・ゲルマン民族間の軋轢、人口激減は間違いなく事実であり、それを過小評価するのは誤りだ、と主張している。

それを、陶器の量と質、建築物の大きさ、貨幣量、家畜の骨格の大きさ、雑多な文字史料から推定される識字率などから手堅く論証している。

なお、ローマ帝国崩壊の要因そのものについても論じられており、著者によると、帝国経済全体の衰退は認められず、税制システムと財政の破綻が軍事力崩壊に直結したことが西ローマ滅亡の原因であり、西ローマと東ローマの命運を分けたのは地理的要因が大きいとしている。

私の意見では、ローマの成功あるいは失敗の鍵となる内政にかんする要素は、納税者の経済的安定であった。帝国はその防衛を職業的な軍に依存しており、軍のほうは充分な資金に依存していたからである。四世紀のローマ軍はおそらく六〇万人もの兵士たちを含んでおり、その全員に給料が支払われ、装備が与えられ、食糧が供給されねばならなかった。武装した軍の数と、それらに惜しみなく施せる軍事訓練と装備の水準は、ひとえに調達可能な現金の額によって決まった。現代国家と同様に、数千万人もの非武装の帝国民による税金という面での寄与が、常勤の兵士からなる精鋭の防衛軍の資金をまかなった。結果として、これまた現代国家と同じく、軍の強さは、その基礎をなす税基盤の健全さと密接に関連していた。さらに言えば、ローマ時代には、この関係は今日よりはるかに密接だった。軍事的支出は帝国予算のなかで飛び抜けて大きな項目であったし、「防衛」を守るために必要とあれば支出を削減可能な、「厚生」あるいは「文部」といった大きな部門は他に存在しなかった。緊急時に相当額のまとまった金銭を帝国が借り入れることが可能な貸し付けのメカニズムも、古代においては存在しなかった。軍事力は、課税可能な富への直接的なアクセスに依存していたのである。

ごく最近まで、帝国の経済全体は、人口の減少と放棄される土地の増加のために、三・四世紀のあいだ、深刻な衰退傾向にあったと信じられていた。これら二つの要因は、侵入の時代のはるか以前から、明らかにローマの税基盤を、それゆえに軍事力をも弱めてきたのであろう、というわけである。しかしながら、第二次世界大戦後の数十年間の考古学の成果は、この解釈に深刻な疑念を投げかけるようになっている。地中海東方の大部分、そして西方のいくつかの地方では、発掘と調査を通じて、田園地帯と都市の繁栄が豊富かつ幅広く確認され、後期帝国のもとでの経済的繁栄を示す決定的な証拠が発見された。

実のところ、私たちが注目する必要のある西方では、地中海東方と比べて状況はより多様で複雑である。イタリア中央部の大部分やガリアの一部を含むいくつかの属州は、三・四世紀のあいだ、帝政前期の非常に良好だった生活状態と比べて衰退傾向にあったようである。しかし、北アフリカの大部分を含むその他の属州は、侵入の直前まで明らかに非常に繁栄してていた。これは結論としてはやや弱く思われるかもしれないけれども、全体のバランスを取ると、帝国西方の経済全体、したがってその軍事的な強さは、五世紀初頭の諸問題によって打撃を受けるよりも以前から衰退していたかどうかという重要な問題について、陪審はまだ協議を続けるべきだと私は思っている。ただし、陪審の意見が割れていることは、いかなる衰退も圧倒的なものではなかったことを示唆する。そして、多くの歴史研究者と同じように私は、帝国は四世紀の末にあっても依然としてきわめて強力であったと信じている。不幸にも、一連の惨事がじきに状況を変えてしまうことになるのであるが。

四世紀西方の比較的平穏な状況は、蛮族の侵入の結果、五世紀最初の十年間でたちまち消滅した。イタリアは四〇一~二年(アラリックとゴート族)、四〇五~六年(ラダガイスス)、そして再び四〇八年から四一二年まで(アラリック、二度目)、多数の敵軍に苦しめられた。ガリアは四〇七~九年にヴァンダル族、アラン族、スエウィ族によって荒らされた。イベリア半島は四〇九年から、同じ諸民族による災難にみまわれた。帝国西方で四一〇年まで侵略によって深刻な影響を受けなかったのは、アフリカと地中海の島々だけであった(それらがヴァンダル族の手にかかる番がまわってくるのは、もう少し後のことである)。その結果、帝国西方の税基盤は、さらなる資金が急ぎ必要となったまさにそのときに激減したことになる。四一三年に帝国政府がイタリア中央部および南部の諸属州に付与せざるをえなかった五分の四の減税は、失ったものの規模についての明瞭な指標となっている。

・・・・・・

正確にはいつ西方の軍事力が衰退したのか、歴史研究者のあいだで論争になっている。私自身は、五世紀最初の十年間の混乱が、帝国の税収入における、したがって軍事費と軍事力における、突然で劇的な下落を引き起こしたと考えている。失われた領域のなかには、四二〇年代に一時的に取り戻したところもあった。しかし、多く(ブリテン島全体とガリアおよびスペインの大部分)は、二度と戻らなかった。再征服された属州でさえ、健全な財政をすっかり回復するには長い年月を要したのである。すでにみたように、四一三年にイタリアの諸属州に与えられた税の減額は、四一八年に更新されねばならなかった。この間、イタリアはいかなる侵入も受けずにいたにもかかわらず、である。さらに、帝国の回復はごく一時的なものに過ぎなかった。四二九年、ヴァンダル族がアフリカへの渡航に成功したこと、帝国西方の最後に残った無事な税基盤が荒廃したことで、決定的に終止符が打たれた。・・・・・

高度に社会的分業が進み、職業軍人を非武装の民衆からの税収で支えてきたローマ帝国は、蛮族間の不和にも乗じて軍事的優勢を長年保ってきたが、その技術的優位は近代ヨーロッパ諸国が植民地に対して誇示した程のものではなく、近世西欧諸国の財政軍事国家のような借り入れシステムもない、単純な財政制度であったことも災いし、民族大移動の危機の時代、蛮族自身が自己の安全の為に巨大な集団に固まる傾向を見せる中、5世紀冒頭にその侵入を許すと、一挙に国勢のバランスを崩し、立ち直ることが出来ず短期間で崩壊した。

しかし、東ローマ帝国は、難攻不落の首都を持ち、小アジア・シリア・エジプトという最も豊かな属州が幸運にも蛮族の襲撃を受けることがなく、生き延びることが出来た。

ローマ帝国の東半分は、この時代のゲルマン民族とフン族の攻撃を生きのび、五世紀から六世紀初頭には繁栄を迎えた。実際、ローマ帝国の東半分が終焉を迎えたのは、それから一千年後、一四五三年にコンスタンティノープル市がトルコによって陥落した折であった。帝国西方の崩壊について説明するなら、帝国東方がよく似た外圧をどのようにして耐え抜いたかを論じなければ、充分納得のいくものとはなりえない。このとき決定的であったのは、帝国東方がもともとより強力だったからというより、まずもって幸運だったからだと私は信じている。

・・・・・・

東方にとって有利に働いた決定的な要因は、軍事力で勝っていたことやその結果として戦闘でより大きな勝利を得たことではなく、たったひとつの地理的偶然であった。場所により幅七〇〇メートル未満で、アジアをヨーロッパと隔てる狭い海(ボスフォロス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡)である。五世紀のあいだに、この自然の防衛線にかなりの人的資源が投入され、防御設備が建設されたことで、コンスタンティノープル市はローマ世界で最も偉大な要塞と化した。ボスフォロス海峡のヨーロッパ側の岸に立つコンスタンティノープル市は、バルカン半島の敵に対して、それ自体が恐るべき防御用構築物すなわち「長城」によって守られた防波堤となったのである。・・・・帝国東方の生存にとって決定的だったのは、海およびローマの海上支配であった。北方からの侵入者たちは、コンスタンティノープルを迂回して帝国の内陸部に大被害を与えることが可能だったが、それは海峡とローマ海軍が乗り越えられない障害物となっていなければの話である。四一九年、東方において「それまで蛮族には知られていなかった、船を製造する技術を彼らに漏らした人びと」を死刑に処すと脅す法律が発布されたのは、驚くにはあたらない・・・。

海峡は帝国東方の税基盤の最も大きな部分を保護していた。ゴート族とフン族はバルカン半島とギリシア、さらには遠くペロポネソス半島さえも荒らすことができたが、海が存在していたために、決して小アジアへは渡れなかった。結果、コンスタンティノープル市からナイル川にいたる東方の最も豊かな諸属州は、コーカサス山脈を越え、アルメニアを通ってシリアへと侵入してきたフン族の集団による三九五年の大胆不敵な襲撃を例外として、四世紀後半および五世紀の災厄から影響を受けなかった。帝国東方の税基盤の大部分(おそらく三分の二以上)は無事であり、実際、五世紀のあいだ、かつてない繁栄を享受していた。バルカン半島の領土と安全が失われたことは深刻な問題で、五・六世紀のあいだに東方の皇帝たちが定住し首都となったコンスタンティノープル市を常に脅かした。しかし、破滅的なものではなかった。小アジア、レヴァント地域、エジプトといった平穏な諸属州から安全に物資が供給されていた帝国東方では、北方からの侵入者たちと戦うことと、彼らを金とバルカン半島の土地で買収することの、どちらがましかを議論することさえできたのである。

もちろん、他の事情によっても戦争と荒廃が帝国東方の心臓部へともたらされた可能性はあったわけで、東方が無事に生きのびるにはあと二つの要因が必要だった。ひとつは、すでに見たように、内乱が起きないこと、もうひとつはペルシアとの国境地帯の平和である。四世紀末から五世紀いっぱい、帝国とペルシアの関係は、四二一~二年と四四一~二年の短い敵対期間を除けば平和だった。これは幾分かは幸運によるものだったが(ペルシア人はしばしばよそに深刻な問題をかかえていた)、いくらかは上手な運営のおかげでもあった。三・四世紀の状況とは正反対に、五世紀のペルシア人とローマ人はともに、戦争は必ずしも得策ではなく、違いを越えて話し合った平和的な和解が可能であるし望ましいということを認識していたようである。・・・・・

帝国東方の歴史は、もし現代のヨーロッパとアジアを隔てる一帯の海がなかったら、まったく異なるものになっていたかもしれない。実際、もしゴート族が、三七八年のハドリアノポリスにおけるめざましい勝利の余勢を駆って、小アジアとシリアの奥深くまで遠征し略奪することができていたら、東方は西方よりもはるか以前に崩壊していたかもしれない。地理と、人間による少しばかりの力添えが、東方を救ったのだった。

似たような利点は、帝国西方においても作用した。しかし、不幸にもその効果は少なく、しかもはるかに短期間だった。海とローマの海上支配のおかげで、アフリカと地中海の島々(豊かなシチリアを含む)は、初期の荒廃を免れた。四一〇年のローマ市劫略後、ゴート族はシチリアに到達しようと試みたが、イタリアのちょうど爪先まで行軍した末、退却を余儀なくされた。メッシーナ海峡を渡れなかったのである。五年後、彼らはアフリカへ渡ろうとスペインの最南端まで行軍したが、ジブラルタル海峡で再び退却を強いられた。西方のローマの海軍力は、東方の海軍がボスフォロス海峡とダーダネルス海峡を効率的に掌握していたのと同じくらい、これらの海峡を掌握することができた。しかし不運だったのは、西方の安全地帯(アフリカ、シチリア、その他の島々)が、同様に安全だった東方諸属州よりもはるかに小さかったことであり、そこからはおそらくずっと少額の収入しか生まれなかったであろう。東方の税基盤のうち三分の二以上が安全だったのに対し、西方ではおそらく三分の一を下回った。しかもさらに不幸なことに、この三分の一以下の税基盤もまた、四二九年のヴァンダル族によるジブラルタル海峡の渡航成功に引き続く数年間に失われた。四三九年までに、ヴァンダル族はカルタゴやアフリカのなかでも最も豊かな諸属州を征服すると、すぐさま海からの攻撃をするようになり、シチリアやその他の地中海西方の島々に大混乱をもたらした。

五世紀末に、帝国東方が以前よりもずっと豊かに、強力になったのに対し、帝国西方は完全に消滅したという(ほんの百年前には想像だにしなかった)驚くべき状況を説明するうえで、地理的な違いという偶然こそが中心的なものだったと信じるのは、まことに不本意である。というのは、それが人間の努力を嘲笑っているかのように見えるからである(過去を秩序づけようとする歴史研究者の努力さえも)。しかしながら、海軍力によって強化され他の前線の平和に支えられた海峡が、帝国東方の最大の防御であったという証拠は、きわめて強力である。それに対し、この利点がない帝国西方は、五世紀初頭の一連の侵入によって、荒廃、税収の喪失、共倒れとなる苦しい内紛の悪循環のなかへ投げ込まれた。そして二度と立ち直れなかった。

 

 

非常に良い。

論旨が明確で、それを初学者にも理解できる形で述べてくれている。

最新の歴史研究の成果を分かり易くかみ砕いて説明してくれているのは貴重。

訳文も平明、流暢で読み易い。

著者の主張にも全く違和感なし。

良質な歴史読物として推奨します。

2018年11月11日

福田和也 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 (PHP研究所)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 02:07

読書論のカテゴリを充実させるために、関連文献:読書論の記事で名前を挙げた9冊の本のうち、小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書)以外の本も、単独の記事にするか。

まず、これ。

2001年初版。

小谷野氏著と並んで、自分の中で実にしっくりくる読書論だった。

 

 

ネット書店の黎明期に出た著作だが、その利便性は認めつつ、読むべき本の効率的選択のためには、リアル書店の店頭で立ち読みして「あたり」をつける必要性を指摘する。

そして、新刊書店および古書店の実店舗が集中する東京・神保町に行くことの効用を説いているが、この辺は全く同感です(出版界の現状ではそれもいつまで続くかという懸念もあるが)。

書物の内容把握と記憶のためにはメモが必要となるが、読書途中でのメモは集中力を途切れさせるので、これを避け、ひとまずページの端を折り、後で見返すことを薦めている。

本書の実践的提案で最も有益だったのはこれだな。

自室以外での読書では、ノートを取るのはもちろん、線を引くのもあまり現実的ではない。

通勤電車内でも、ページを折ることだけは出来る。

あんまり折る部分が多いと話は別だが、何の印も無い場合に比べれば、重要箇所の端が折られているだけで、後でポイントを再確認する際、効率性が全然違ってくる。

(言うまでもなく、これをやるのは自分で所有している本に限られる。傍線引きはもちろん、折り目を付けるのも図書館で借りた本では絶対やらないように。私は、借りた本をどんな小さな傷みも付けないように細心の注意を払って扱うという感じではないが、意図的に傷つけたことも一度も無い。)

で、著者はその後でテキストを抜き書きすることを薦めている。

しかも、手書きで。

原稿はキーボードで書いても、抜き書きは生理的に違う部分があるので、文章の理解と記憶のためには手書きの方が良いとしている。

「面倒だな」という気持ちを利用して、抜き書きする箇所を徹底的に厳選し、何が自分にとって最も重要なのかを確認することが必要だとする。

ここは、ちょっとなあ・・・・・。

分からないではないが、私はかなり前から読書ノートもパソコンで書いています。

このブログを書いているから、紙のノートをさらにパソコンで入力するという二度手間に耐えられなくなってきたので。

蔵書管理については、その極大化と極小化にそれぞれ利点があることを認める。

しかし当然、前者は置き場所と費用の問題で壁に突き当たるし、後者も蔵書を何気なく眺め、手に取ることから得る効用を手放すことになる。

蔵書は精神なり感受性のバックボーンであるという性格を持つので。

結局、書物を「資料的な本」と「本質的蔵書」に分け、前者を定期的に処分するという結論になる。

これにも同感。

蔵書の極大化は誰もが一度は憧れるものだとは思う。

しかし、作家や研究者でもそれが完全に満足させられることは決してない。

まして我々のような一般読者が、年々経済状況が厳しくなる中、蔵書をハイペースで増やし続けられる訳がない。

書籍代の問題はもちろん、置き場所の問題は絶対に解決不可能だ。

このブログだって、私の自宅からさしたる交通費も使わずに通える距離に、蔵書の極めて多い県立図書館がなければここまで続けることは出来なかったでしょう。

だから「読む本はすべて買う」という方針は早晩放棄せざるを得ない。

しかし、だからと言って、図書館に通えば蔵書なんて不要だと断言する、逆の極端を薦める訳ではない。

本書の「本質的蔵書」という考えは重要である。

単行本ではなく、文庫と新書中心でいいから、300~400冊程度を所蔵できる本棚を準備し(これなら狭い一室にも収納できるはず)、そこに自分にとって特に重要な書籍をいつでも手に取れる形で保管し、後は公共図書館で借りるという方法で読書生活を続けるのが最も現実的だと思われる。

ここまでが本書の前半部の内容、以後は書き手としての方法を述べる部分なので、一般読者が直接参考にする内容ではない(それなりに興味深いが)。

 

 

「ページを折る」という実践と「本質的蔵書」という考え。

この二つを主に本書から得て、有益だった。

刊行からかなり経つが、今も価値ある読書論だとは思う。

ただ、ここ数年、著者の言論活動が低調になっている気がするのは、偏見あるいは私の目に入らないだけなのだろうか。

2018年11月7日

眞鍋周三 編著 『ボリビアを知るための68章』 (明石書店)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 02:45

この国も当シリーズで済ませていいか。

南米諸国で初心者が単独の一国通史を読む必要があるのは、ブラジルはまあ別格にしても、あとはアルゼンチンと、あえて付け加えてもチリまでのような気がする。

本書では、第5章が歴史で、第3章が政治・外交なので、5章から3章に戻る読み方をして、他の章はほぼ無視することにする。

 

 

ボリビアは、ブラジル、ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイに囲まれた内陸国。

当初は太平洋岸の領土も持っていたが、後述の事情で海への出口を失った。

西部、ペルーとの国境沿いに太湖ティティカカ湖が存在。

人口は800万人ほど、首都は西部にあるラパス、南西部に銀山で有名なポトシがある。

銀、錫という鉱物資源の他に、現在では天然ガスを産出し、天然資源には恵まれている。

スペイン語の他、先住民語であるケチュア語、アイマラ語が常用語として使用されている。

 

現在のボリビア西部はインカ帝国の版図内にあった。

インカ帝国滅亡後、後のボリビア地域も征服され、ラパス市など支配拠点が建設、アルト・ペルーと呼ばれるようになる。

1545年ポトシ銀山が発見され、スペインに莫大な富をもたらす。

サン・マルティンとシモン・ボリバルによるペルー占領に続いて、ボリバルの副官スクレがアルト・ペルーに進撃、スペイン軍を撃破。

1825年アルト・ペルーは独立を宣言、「ボリバル共和国」を名乗る(後にボリビア共和国に変更)。

大統領にはスクレが就任したが、27年には国外に追放され、後任にサンタ・クルス将軍が就任(1829~39年)、保護関税と鉱業復興、政府機能拡充と法整備、教育・厚生の充実と、独立国家の基礎を築く。

サンタ・クルスはペルーに干渉して、ペルー・ボリビア連合国を樹立、自らが終身護民官として最高統治者に君臨したが、それを警戒したチリとの戦争となり、連合国は崩壊、サンタ・クルスは欧州に亡命。

太平洋沿岸の硝石・銀を産出する領土をめぐる紛争から、1879~83年「太平洋戦争」が、再びボリビア・ペルー対チリで戦われ、またもチリが勝利、ボリビアは太平洋に面する領土を割譲し、海への出口を喪失、内陸国に転落した。

敗戦により軍人カウディーリョの時代は終焉し、政党政治時代に突入。

当初は銀鉱山所有者を基盤とする保守党が長期支配。

1899年新興錫財閥に支持された自由党が政権を奪取するが、寡頭的支配は継続。

1903年分離運動が起こっていた広大なアクレ地方をブラジルに割譲。

パラグアイとのチャコ戦争(1932~35年)にも敗れ、ボリビアは天然資源が原因となった領土紛争にことごとく敗北し、独立以後領土を奪われっぱなしとなっている。

だが、この敗北の中から「国民革命運動」という組織が生まれ、1952年市街戦蜂起を経て保守体制を倒し政権獲得、これがボリビア革命と呼ばれる。

パスらが大統領となり、鉱山国有化、農地改革、インディオへの差別撤廃を実行したが、国家組織の肥大化、経営の非効率化、急激なインフレが進行、中間層が離反。

この間、アメリカは、革命政権が民族主義の枠内に収まり、共産主義に向かわないよう、圧力をかけるのではなくむしろ手厚い援助を与えていた。

64年パスが三度目の大統領に就任するが、革命運動は完全に分裂、同年軍事クーデタが勃発、革命政権は崩壊し、以後82年まで続く長い軍政時代に入る。

しかし、この軍事政権内部でも右派と左派の抗争があり、左派が実権を握った時期には石油企業国有化が実行されている。

その後、右派の経済開放政策に転じ、外資導入と外国借款による開発、天然ガス輸出振興により一時的に好況がもたらされたが、累積債務が問題化、経済情勢は暗転する。

なお、軍政時代の1967年キューバを離れてゲリラ活動を行っていたチェ・ゲバラがボリビア政府軍によって捕らわれて銃殺されている。

ゲバラに何かロマンティックな思い入れを持つ人には悪いが、ゲバラが日記で農民大衆の支持を得られず、むしろ彼らが政府への密告者となっていることを嘆いている、という記述を読むと、私はむしろほっとする感情を持つ。

米国カーター政権の「人権外交」の圧力で徐々に民政移管が進み、1982年にそれを実現。

以後、パスの「国民革命運動」、左派のシレスの「左翼革命運動」、軍政時代の元大統領で右派バンセルの「民族民主行動党」の三勢力に政治地図は収斂し、政党間協定によって政治は安定化したものの、結局経済危機克服の為、左派を含めて緊縮財政的な構造改革を進めざるを得なくなり、露骨な猟官運動が相俟って、国民の不満が高まる。

2003年大規模な抗議運動で大統領が国外に逃亡、2006年には新興左派勢力の「社会主義運動」に支持されて、初の先住民系としてモラレスが大統領に就任、既成政党はいずれも没落。

モラレス政権は、ベネズエラのチャベス政権と同じく、ラテン・アメリカにおける21世紀初頭からの急進反米左派路線の代表格と言える存在になったが、これはどうなんですかねえ。

アメリカの覇権主義に抵抗すること自体はもちろん正当でしょうし、市場主義を金科玉条にする構造改革路線の経済政策は国民を貧しくかつ不幸にするだけだというのにも完全に同意しますが、逆の極端に走ればいいというものではない。

チャベス死後のベネズエラも、報道で見る限り、何だか悲惨なことになりそうです。

対米従属的で無制限の資本主義と市場原理主義がもたらす害悪を無視する「右派」と、硬直した教条左派の二者択一以外の政治的選択肢を、この地域の人々が持つことを願います、とやや偉そうに書くところだったが、まず日本がそれを持てるようになれよ、という話ですね。

 

 

もう、これでいいや。

ボリビア史については、以上のようなことが、細かな人名を除いて、わかっていれは十分だ。

終わり、終わり。

ハーバート・クライン『ボリビアの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)』(創土社)とか、さして強い興味も無いのに読まなくていい。

2018年11月3日

トーマス・マン 『魔の山 上・下』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:13

言わずと知れたトーマス・マンの代表作。

20世紀を代表する長篇思想小説でもある。

あのですねえ・・・・・わからないです。

造船技師見習いの青年ハンス・カストルプが、肺病に罹った従兄弟のヨアヒムをスイス・ダヴォスのサナトリウム(療養施設)に見舞って、自身も病と診断され入院してからの、その長い療養生活と特異な患者たちとの議論や生活を描いた教養小説。

19世紀以来の合理主義と進歩的自由主義を奉じるセテムブリーニ、ブルジョワ社会の現状を唾棄し宗教的独裁によりその矯正を目指すイエズス会士ナフタの二人が主要な脇役。

一番簡単で表面的な解釈を言えば、保守的価値観を持つ祖父が死去した後、確たる思想的背景を持たない技術者としての道を辿りつつあったハンス・カストルプがドイツ国民の平均的精神を暗示し、その心を、セテムブリーニが象徴する理性・進歩とナフタが象徴する虚無・反動が奪い合う状況を寓意している、ということでしょう。

中盤、二人が議論する場面がある。

セテムブリーニが教会の束縛を脱した世俗的な人間中心主義と啓蒙思想の発展による進歩を礼賛し、世界共和国への展望を語れば、ナフタはそれらがもたらしたものは国家の物神化とエゴイズムの蔓延、金銭の支配、民衆の窮乏だ、宗教を否定することによってそれらを矯正する手段そのものが失われてしまった、と反論する。

これ、どちらが正しいと思いますか?

どちらが現実のドイツを破滅に導いたナチズムのような大衆運動の起源に近いと思いますか?

私には前者がそうだとしか思えない。

しかし、本書での議論はここから迷走する。

ナフタが、現在のプロレタリアートの共産主義運動はブルジョワ的進歩主義を打ち壊す意味で実は善きキリスト教的反動運動だ、と言い出すのである。

これには、うん?となった。

この作品が完成したのは戦間期で、『非政治的人間の考察』を書いた頃とは打って変わって、すでに作者のマンは民主主義者に「転向」していたはずである。

左右の大衆運動を過去の遺物が生み出した悪しき反動と片付け、進歩的デモクラシーを擁護するのは、はっきり言って欺瞞としか思えない。

そう単純に読み取ること自体がとんでもない誤読なのかもしれないが、本書で最も興味深く読んだ部分すら、何とも言えない違和感が残ったのは事実である。

その他、作品の大半を占める時間論をはじめとする思想的議論など、私の頭で理解できるはずも無い。

もう、とにかくキツかった。

2週間かけて何とか読み通したが、相当苦しい。

先程挙げた部分があるので、全く心に残るところが無かったわけでも無いが、評価は間違いなく「1」だ。

それしか付けようがない。

疲れた・・・・・。

やはり20世紀以降の小説は、私には向いていない。

いや、それどころか、文学自体向いていない。

文学カテゴリも冊数だけはそこそこになったが、著名作をとりあえず読了したという知的見栄を張る以外に、本当に感動した作品というのは寥々たるものである。

できるだけ幅広い作品に触れてきたつもりではあるが、それでも読んでいない古典はそれこそ星の数ほどある。

だが、自分の関心の中心はやはり文学ではなく歴史である。

そのことは変えようが無い。

私がやっているのは、基礎的教養の為の文学読書、という位置づけである。

文学カテゴリを眺めれば、詩と20世紀小説以外で高校教科書に載っているような作品は大体読んだような・・・・・。

(誰に対して言っているのか自分でもわからないが)この辺で勘弁してもらって、文学はひとまず打ち止めということにさせてもらえませんか。

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