万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年5月24日

室山義正 『松方正義  我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』 (ミネルヴァ日本評伝選)

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明治国家を支えた元老ではあるものの、圧倒的存在感を示した伊藤・山県に比して「軽量級」で、二度の首相就任時の業績も芳しくないと見られがちな松方正義の伝記。

華々しさには欠けるが、机上論に流されず、慎重な調査と準備を経て必要な政策を万難を排して実行する一方、非常の危機の際には積極果断の処置を主張できる人物、と著者は捉えている。

 

1835(天保六)年鹿児島城下に生まれる。

父が親族の借金を保証したため、困窮の中で育つ。

そこから松方は、生涯「実業」に基づかない投機的経済活動に対する強い不信を持つようになったという。

当時の多くの藩士と同じく、尊王思想を抱きつつ成長。

島津久光側近の藩官僚として昇進するが、西郷隆盛、大久保利通らとも密接に連絡。

維新の際、一時長崎に滞在、そこで大隈重信と知り合う。

松方は、日本の実際から出発する。実際を生み出した歴史的経緯を分析する。そして、実際から抽出された実務的知識と実務的創意に基づいて基本方針を導き出した。その後、行政的経験と欧米の知識や理論的研鑚を積むなかで、次第にその政策センスは洗練され補強されていく。こうして、松方の政策論は、論理的に首尾一貫した「実際に適応する」政策論として凝固していった。

これに対して大隈の政策論は、外国から輸人した「知識」や「理論」をもとにして、日本の「あるべき姿」を論じる傾向が強い。したがって、現実とは遊離した一種の机上論に陥りがちであった。大隈の博学は、欧米の「常識」と日本の「現実」との落差から生じる外交上のトラブルを解決する外交交渉の場では、遺憾なくその強みを発揮した。しかし内政面では、日本の現実と遊離した財政経済構想を強引に進めようとしたり、また日本の現実に引き戻されて方針を逆転したりして、一貫性を欠くという欠陥をあわせ持っていた。

才気煥発で西欧の知識を縦横に駆使して、新たな構想を次々に政策化しようとする華麗な「国際派」の大隈。国内社会経済の実際から発想し、実践的な政策路線を追究しようとする地味な「民族派」の松方と言ってよいだろう。

大隈がごく初期に新政府内で最高指導者の一員となる一方、松方は九州日田県知事に任命。

1870年中央政界に進出、71年廃藩置県後、大久保利通の下、大蔵省入り。

73年の地租改正条例制定では、実務官僚としての能力を遺憾なく発揮。

征韓論政変後、大久保中心の体制が確立。

大久保の富国強兵構想は、イギリスを外形的目標とし、ドイツを実質的目標としたため、自由主義的色彩の強い大隈や、開明的な考え方を持つ伊藤、天皇中心の国家主義を信奉する岩倉・松方など、政府部内の革新派から保守派にいたる幅広い有力者を包含しうる、政治的求心力を持っていた。この内治優先の連合勢力は、西郷隆盛や板垣退助・江藤新平を中心とする征韓論と対抗することで、一層強固なものとなり、凝集力を生み出していった。

そして、政局の焦点は、征韓論に敗れた不平士族の不満を抑えて、早期に近代国家としての制度と内実を整備することに置かれる。不満士族の武力討伐を実施し(佐賀の乱)、政府内部の結束を維持するために「征韓論」の代替策である「台湾征討」を実施して士族の不満を対外的にそらし、他方で一挙に秩禄処分を断行して旧武士階級を解体する。これと並行して、漸進的な立憲制度の採用を公約して政治的安定に配慮しながら、殖産興業政策を進め、内治優先政策のもとで国力充実を実現する、という構想が出来上がっていく。大久保独裁体制が着々と整えられていった。

大久保・大隈による国家主導の「殖産興業」・積極政策に対する批判を持ちつつ、西南戦争後の松方は渡欧。

松方は、凡庸であり、大久保という後ろ盾を持ち、薩摩閥という出身母体がなかったならば、政府で立身出世は不可能であった、というイメージで捉えられることが多い。しかし、松方が無能であったというイメージは、後に議会開設後の「首相としての」適格性欠如や優柔不断という評価から、類推されたものである。実際には、松方は、大久保に昇進を強力に抑制されていた。そして、松方が昇進を重ね、自らの政策論を開花させ、政府部内で揺るぎない地位と業績を上げるのは、大久保の死後のことであった。さらに、松方の財政経済政策論は、薩摩閥の積極論とは、全く対照的なものであった。西南戦争後に実行された「松方財政」は、大久保の引き立てや、薩摩閥の政策論的後援を一切受けなかったことが、特徴であった。

西南戦争の戦費調達と殖産興業政策の実施による不換紙幣増発がインフレを引き起こし、さらに大久保が暗殺されると、政府内での対立が深まる。

大久保の死が西南戦後の政局に与えた影響は大きかった。薩摩閥の政府部内での影響力低下が生じることは、避けられなかった。大久保の後任内務卿に伊藤博文が据わり、井上馨がイギリスから帰国して外務卿に就任したことによって、政府部内における長州勢力がその影響力を高めた。大隈は、筆頭参議兼大蔵卿として、大久保の衣鉢を継ぐ者としてのスタンスを強調し、主導権を確立する必要があった。したがって自らが率先して積極政策を推進していく主役とならなければならなかった。

一方、伊藤は、大久保独裁体制の下で、大隈と並ぶ二大支柱として協調行動をとってきた。しかし大久保の死後、伊藤は、薩摩閥や大隈派から一定の距離をとりながら、影響力の増した長州閥の中心に据わって、政治の主導権を掌握しようとする動きを見せる。こうして、大隈と伊藤との主導権をめぐる対立の動きが徐々に顕在化する。

ところで、松方は、大きな重石であった大久保の束縛から解放された。政治的には薩摩保守派の中心に位置しながら、経済政策では独自の「勧業政策」を主張し始める。松方は、インフレが顕在化する中で、財政経済政策での発言権を次第に強化していった。松方は、政治路線においても、経済財政路線でも、ほぼ大隈の対極に位置していた。経済的には財政主導の積極路線に疑問を呈し、政治的には保守主義・漸進論を唱えていたからである。後の展開から考えると、松方は、この時点で、大隈路線に対する批判者として、首尾一貫した政治・経済スタンスに立っていたことになる。

大隈は、経済財政政策で薩摩閥と共同歩調をとり、国会・憲法論では進歩派の伊藤・井上と協調して、主導権を握ろうとしていた。政府部内で孤立を避けるためには、政治的急進論をカモフラージュしつつ、大久保路線を走るスタンスをとらざるをえない。伊藤は、経済財政論では、大久保体制の積極政策の一翼を担ってきたが確たる定見はもたず、その意味で中間派であったといえよう。伊藤が政府部内で主導権をとるためには、経済財政政策では主流派の積極路線に同調しながら、政治面で主導権を確立することが必要であった。政府部内の保守派に対抗するために「進歩派」として大隈と協調路線をとりながら、他面で大隈の政治権力の削減を目指した。大隈の政治権力削減を実行しながら、同時に政府部内で国会・憲法論で主導権を確立することが目標となる。

・・・・・・

国家の政策進路は、「外資導入」を梃子として積極的政策を推進するという多数派の財政経済論を共通の前提として、大隈型の英国流の議員内閣制を急速に導入するか、伊藤流のプロシャ型の立憲君主制を漸進的に導入するかを巡る対立に集約されようとしていた。

このような流れを一挙に覆す事件が勃発した。北海道開拓使払下げ問題である。この問題を契機に、「大隈一派」対「薩長藩閥」という対立図式が出来上がり、一四年政変で大隈の「急進的国会論」が葬られ、次いで政変を契機とする人事異動の結果、「外資導入による積極政策」路線までもが、放棄への道を進んでいくことになる。

結果として、漸進的な立憲君主制度と「自力の」紙幣整理路線の組み合わせが、日本の政策進路として選択されることになる。政府部内の有力者で、このような政策論の組み合わせを主張していたのは、実は松方唯一人であった。そして急進的な議院内閣制と積極政策の組み合わせを主張した「大隈派」の政策論は、完全に崩壊した。他方、漸進的・保守的立憲制度と積極政策の組み合わせを主張した「薩長」連合の主流派も、財政経済論では挫折する。日本は、政変を契機として、松方が主張した経済政策進路へと大転換することになる。財政経済政策に果した松方の大きな役割がここに暗示されているといってよいであろう。

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松方は、大久保利通を中心とする薩摩閥の共通の政策であった「積極政策」に、薩摩閥の中で反対の立場をとった唯一の人物であった。しかも、薩摩きっての財政経済通であり、長く大蔵省高官の地位にあった。その松方の「反薩摩閥的な」財政経済論が、政変において、薩長藩閥勢力を強力に支援する役割を演じることになったのである。松方は、自己の財政経済論を放棄することなく、政治的に願ってもない「台頭の」幸運を掴んだということができよう。松方は、政府部内で孤立無援であった自己の「紙幣整理」論を、反大隈の文脈を明確にしながら、政治的リスクなく主張することができた。

当時、政府部内で財政経済に見識を備えた人物としては、大隈や現職の佐野大蔵卿を除けば、伊藤、井上両参議があった。しかし、伊藤・井上は、財政問題ではほぼ大隈と共同歩調を採ってきたため、正面からの大隈批判を行うことはできなかった。大隈の財政経済政策を正面から批判できる人物は、松方正義を措いて他にはいなかった。

・・・・・・

まさに、天の配剤の妙ともいえる、絶妙のタイミングで、松方の藩閥政治家としての、また財政家としての登場が促されたのであった。薩摩閥の中で、長く政治的に「第二流」の地位にとどまっていた松方は、政変を契機として、最高権力者の「参議」の一人へと昇進する。松方正義、四七歳のことであった。

1881年大蔵卿に就任した松方は、翌82年日本銀行設立、いよいよ「松方財政」と呼ばれる、日本経済史上、「高橋(是清)財政」「井上(準之助)財政」と並んで(松方財政と前者は大成功で、後者は大失敗で)著名な財政経済政策を実行。

だが、その実像は「松方デフレ」という名称とは大きく異なったものであることが本書では述べられる。

確かに紙幣整理のためのデフレは農民に大きな困難をもたらし、農村の階層分化が進んだ。

しかし、以下の三つの「追い風」を、松方財政は得ていた。

(1)主に米国の景気回復による輸出拡大効果

(2)紙幣価値回復と壬午・甲申事変の朝鮮問題緊迫の為の軍事費拡大による、財政支出の「実質」増大

(3)これも紙幣価値回復がもたらした、実質通貨残高の増大と強力な金融緩和効果

明治一〇年代の日本経済は、「一四年政変」に至る前半では、通貨増発を背景として公債が発行され、積極的な政府事業が実施された。激しいインフレが発生し、貿易収支は大幅な赤字に陥った。財政は危機的状況に陥り、政府機能は著しく劣化した。結果として「小さな政府」が実現された。「積極政策」が実行された時期としては、極めて特殊な性格をもっていた。これに対して政変以後に実施された松方財政は、明らかなデフレ政策であり、財政も緊縮方針が堅持された。

しかし松方財政は、通常の緊縮財政とは性格が全く異なっていた。松方の不退転の姿勢は、インフレ期待を早期にくじき、不況局面を比較的短期に終結させた。また財政および金融部門の両面で強力な総需要拡大効果を伴っていたという点で、一般の「緊縮政策」とは決定的に異なっていた。国民経済に対するダメージは、通常イメージされるほどには破壊的ではなかった。

松方財政は、一般には、財政・金融両面の厳しい引き締め政策であったと理解されている。物価水準は急落し、経済は不況のどん底に沈み、農業経営は苦境に陥り、賃労働者と小作人を大量に排出した。緊縮財政の中で、経済は厳しい縮小均衡を強いられた。その結果金利が低下して、経済は均衡に向かい、為替相場が下落して外需が拡大するという条件の下に企業勃興を迎え、景気が回復したとイメージされてきたといえよう。

しかし経済統計データは、このような調整を支持する動きを示していない。松方デフレ期を紙幣価格変動の影響を取り去った「銀貨ベース(銀価格)」で見ると、賃金は継続的に上昇を遂げ、一般物価水準も顕著に上昇している。デフレ過程で賃金が上昇を示したとすれば、古典的な価格調整による景気回復は不可能になるはずである。不況は深刻化するであろう。しかし実際には「松方デフレ」期の極めて早い時期に、急速な国民生産の上昇が生じている。デフレが進行し不況が深刻化したとイメージされてきた「松方デフレ」期に、継続的な実質賃金上昇が生じ、物価水準上昇と国民生産拡大が同時に進行していたのである。同期の経済成長率は相当高かった。このような事態は、一般には、総需要が増大すると同時に、生産方法改善や新技術採用が進み生産性が上昇したときに生じる経済パフォーマンスに他ならない。

松方のデフレ政策は、一般にイメージされているような大きな生産低下をもたらさなかった。比較的軽微な生産低下を経験した後、速やかに景気回復軌道へと乗った。その主要な経済要因は、「インフレ期待の急速な解消」、「輸出環境の好転」、「実質財政支出の拡大」「実質貨幣供給の増大」にまとめることができよう。

この文章は本書で最も重要な部分かもしれない。

通常デフレというものは決してあってはならないものであり(中野剛志『レジーム・チェンジ』)、成功と見なされ得る松方財政は決して単純な緊縮財政・デフレ政策ではなかったということがよく理解できた。

(逆に井上財政は悪しきデフレ政策であったと言う他無い。)

内閣制度導入で初代大蔵大臣に就任、以後何度もその職を務めることになる。

1891年第一次松方内閣が成立。

普通この内閣は、大津事件と品川弥二郎内相による大選挙干渉という二つの芳しくない史実によって記憶されているだけである。

品川内相の責任を追及して、伊藤が倒閣に動くが、著者がこの動機を伊藤の松方に対する嫉妬と言わんばかりの記述にしているのには首を傾げる。

続いて第二次内閣を組織した伊藤が、結局議会運営に行き詰まり、明治帝の「和協の詔勅」に頼ったことにも著者は批判的である。

この辺の記述にはあまり同意できない感がある。

逆に、私の方で、伊藤が近代日本の最有力・最優秀の政治家だ、だからほぼ常に最善の政策をその都度採り続けていたはずだ、という思い込みが強すぎるのかもしれないが・・・・・。

日清戦争での戦費調達に貢献、内国債を中心として確保。

1896年第二次松方内閣成立。

二度の松方政権は、日清戦争を遂行した第二次伊藤内閣を挟み込む形になっていることは記憶しておく。

第二次伊藤内閣が自由党と事実上連立したのに対し、松方はかつてのライバル大隈率いる進歩党と連携、「松隈内閣」と呼ばれる。

この内閣では97年金本位制導入という大きな仕事をした後、98年辞職。

日露戦争に向かう過程では、伊藤・井上馨らが満韓交換論と日露協調を唱えたのに対し、日英同盟と対露強硬論を唱える桂太郎・小村寿太郎を松方は支持。

大正時代には元老として国政に関与、中国大陸での排他的勢力圏を拡大しようとする動きを警戒し、二十一ヵ条要求を行った大隈内閣の加藤高明外相を強く批判。

日本が植民地に転落する危機を身をもってしっている元老の意見はやはり常識的で危な気が無い。

1922年高橋是清内閣辞任後と23年加藤友三郎首相死去後の後任選定で、西園寺公望と共に、外交姿勢の根本的変更が無い限り、加藤高明を推薦しない方針を貫く(24年護憲三派内閣を組織した加藤は幣原外交を採用、過去の自身の政策を根本的に変更した)。

しかし、元老の影響力は決定的に後退し、左右の極論に煽動される「世論」が絶対の支配者となる時代が訪れていた。

1924(大正13)年、90歳で死去。

 

積極財政としての「大隈財政」と「高橋財政」、緊縮財政としての「井上財政」と「松方財政」のうち、それぞれ後者のみが成功と後世から認められることになった。

人間的には、明治天皇から子供の数を問われて、「いずれ取り調べてお答えいたします」と答えたのが、最も印象的でユーモラスな逸話か(妾腹含め19人いたそうです)。

 

 

人物の経歴と業績からして、当然経済史の話が多いが、私の苦手分野にも関わらず、全く理解できないという部分はほぼ無かった。

非常に読みやすく、良質な伝記。

伊藤・山県以外の元老についても、これくらいの本が出て欲しいものです。

 

2017年5月20日

ジャン・ジャック・ルソー 『社会契約論  ジュネーヴ草稿』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:23

これも岩波文庫版は読了済み。

「ジュネーヴ草稿」の方は完全に無視。

感想はロック『市民政府論』と全く同じ。

多少興味深い点もないではないが、特にこだわりをもって言うこともない。

初読の際よりは、ひとまず内容をつかみながら読めた。

これだけ著名な作品なので、一読しておくのはもちろん悪くない。

普通に読める難易度だし、300ページ弱だから時間もさしてかからない。

「間違いなく最後まで読みました」、ただそれだけです。

2017年5月14日

セルバンテス 『ドン・キホーテ 後篇 全3巻』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 00:26

前篇の読後感が非常に良かったので、この後篇にも取り組んだ。

同様に大変素晴らしい。

ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの軽妙なやり取りが実に面白い。

妄想に駆られて始終滑稽な振る舞いをするドン・キホーテが、しばしば機知と良識に満ちた言動も見せる。

なお、この後篇の中では、出版された前篇が読まれているというメタフィクション的設定になっており、当時実際に出回った贋作まで登場している。

物語自体も実に楽しい。

前篇を読んでドン・キホーテを知った、いたずら好きの公爵夫妻が、ドン・キホーテ主従を招き、「ドゥルシネーア姫」(実際には粗野な田舎娘)にかけられた魔法を解くためサンチョに鞭打ちを加えないといけないと思い込ませる話や、公爵に言い含められた侍女の一人がドン・キホーテに恋焦がれた振りをするが、ドン・キホーテがどこまでもそれを真に受けて「ドゥルシネーア姫」への操を立てていい気になるのに腹を立てて、しまいに侍女が罵倒の限りを尽くすところなどは、思わず吹き出してしまう。

最後のやや哀感に満ちた場面を読み終えると、欲得ずくの世の中で、滑稽ではあってもある種のすでに失われた理想を貫こうとした主人公の生き方が尊いものに思えてくる。

翻訳が流暢なこともあって、驚くほど容易に通読できる。

知名度と文学的価値、面白さと読みやすさの四者をすべて兼ね備えた稀有な古典。

真の傑作だ。

前後篇合わせて全6巻と相当の長さだが、この作品に関しては苦にならない。

是非とも薦める。

2017年5月2日

アレクシス・ド・トクヴィル 『アメリカのデモクラシー  全4巻』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:55

この作品については、以前、中央公論「世界の名著」シリーズ中の『フランクリン ジェファソン マディソン他 トクヴィル』に収録されている抄訳を読了済み。

(現在では、中公クラシックスから単独で『アメリカにおけるデモクラシーについて』として出ている。)

デモクラシーの到来を必然としながら、その弊害を予見、予防することを目指し、20世紀大衆社会の出現を予言した名著であることは、以前から知っており、やはり全訳を読むべきなのかなあ、でも長いなあと思っていた。

講談社学術文庫に全訳があったのだが、相当古い訳で読みにくそうだったので敬遠していたところ、2005年からこの新訳が出た。

原著の第一巻と第二巻をそれぞれ上・下に分けて、計4冊にしている。

いい機会だと考え、気合を入れて全巻を通読しました。

独立後、半世紀を経て、建国の父たちの精神を失い、「多数の専制」の弊に陥りつつあった、ジャクソニアン・デモクラシー時代のアメリカを活写した政治・社会論。

よって、民主主義批判が盛大に繰り広げられているのかと思ったが、確かにそうした記述が節々に見られるものの、多くの場合、それへの留保や例外が同時に述べられ、何やら隔靴掻痒の感が拭えない。

本書については、以下のような評価があるようだ。

『アメリカにおけるデモクラシー』に即していうと、その「前半」が民主主義を擁護しているのにたいし、その「後半」が民主主義を批判している、というトックヴィル理解が今も罷り通っている。私は、ここにすでに、トックヴィル研究者たちの及び腰が示されているとみる。・・・・・

トックヴィルは「地位の平等」が、一方における権利の完全分与としての人民主権と、他方における権利の完全剥奪としての専制権力とをもたらしうるとわかっていた

「前半」において彼がアメリカを支持しているようにみえるのは、そこにおいては、後者の(全体主義的な)専制権力ではなく前者の(自由主義的な)人民主権が採用されているからであり、そしてその比較のかぎりにおいてである。人民主権は、専制権力との相対でいえば首肯しうるものであろうが、それ自体のうちに何かしら良き事態をもたらすポテンシャルがあるというわけではない、これがトックヴィルの基本的視点なのであった。

・・・・・

あとでもふれるように、「後半」はアメリカ批判を盛大に展開していると受けとられているが、それについてもトックヴィルは注意深く留保をつけている。まとめていうと、公平な「法学者精神」が堅持されているなら、健全な「宗教心」が保守されているなら、そして質朴な「家庭」が維持されているなら、アメリカン・デモクラシーにも望みがあるということだ。逆にいうと、これらのモーレス(風習)が融解の過程に入るならば、人民主権もまた堕落の途へ入るほかないとトックヴィルは見抜いていた。その炯眼は「前半」と「後半」をつらぬいているのであり、だから、両者の違いをことさらに強調するようなトックヴィル研究の眼は曇っているのだといってさしつかえない。その曇りは、おそらく、人民主権と聞いただけでそのドグマに拝跪する、という長きにわたる知識人のモーレスから漂ってくるものなのであろう。

西部邁『思想の英雄たち』より)

本書を読む上では、著者が、社会的平等と自由民主主義の弊害を抑止していると見た健全性が、その後のアメリカ(および日本を含む全ての民主主義国)で雲散霧消する一方だった、ということを常に頭に入れておく必要があるでしょう。

その「健全性」としては、まず、独立革命という形で建国したアメリカ合衆国の建国の父たちが、急進的熱狂的民衆運動の危険性を熟知していたこと。

合衆国の革命は、自由に対する成熟した、思慮深い好みが生み出したものであり、漠然として無限定な独立衝動が生んだものではない。騒乱の熱に支えられることは少しもなかった。それどころか、革命は秩序と合法性を愛する気持ちとともに歩んだ。

それゆえ合衆国では、自由な国では人は何事をもなしうると主張する者はなかった。それどころか、ここでは他の国以上に種々雑多な社会的諸義務が人に課された。社会の力を原理において攻撃し、社会の権利に異を唱える発想はなく、執行において権力を分割するにとどめられた。

・・・・・

すでに示したように、連邦の立法者はほとんどすべて学識に秀で、それ以上に愛国心において目立っていた。

彼らはみな、自由の精神が支配者の強権と不断に戦い続けた社会的危機の中で成長した。戦いが終わったとき、よくあるように、情念をかきたてられた民衆がとっくになくなった危険となお執拗に闘おうとしたのに対して、彼らは立ち止った。祖国をより静かなもっと鋭い目で眺め、決定的な革命はすでに終わり、人民を脅かす今後の危険は自由の乱用からしか生じえないことを認めたのである。彼らはその考えを口に出す勇気をもっていた。彼らこそ、この自由を心底から真摯かつ熱烈に愛していたからである。自由を破壊しようとは思っていもいないことに確信があったからこそ、その制限をもあえて口にした。

違憲立法審査権という特筆すべき武器をもって、法律家集団が疑似貴族階層として君臨し、民衆の衝動的動きを制約した。

法曹身分こそ、民主主義本来の要素と無理なく混じり合い、首尾よく、また持続的にこれと結びつくことのできる唯一の貴族的要素である。法律家の精神に固有の欠陥を知らぬわけではない。にもかかわらず私は、法律家精神と民主的精神のこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わないし、人民の権力の増大に比例して法律家の政治への影響力が増さないとすれば、今日、共和政体がその存続を期待しうるとは信じられない。

加えて、地方自治の発達が、専制君主に対する貴族階層のように、中央集権政府の専横に対する防壁となっていることも指摘する。

宗教がもたらしていた人心の安定も重要な要素であり、それが失われた場合の危険性を以下のように述べる。

ある国民の宗教が破壊されると、国民のもっとも知的な部分が懐疑にとりつかれ、その他の部分も懐疑のために心が半分麻痺してしまう。誰もが同胞と自分自身の最重要の関心事について混乱した移ろいやすい考えしかもたぬ状態に慣れ、自分の意見をうまく擁護できず、簡単にこれを捨て去る。人間の運命が提示するもっとも重要な諸問題を自分の力だけで解くことはできないと絶望し、無気力にもそうしたことがらを考えなくなる。

このような状態は間違いなく魂を柔弱にする。意志の活力を弛緩させ、市民に隷従を受け容れる用意をさせる。

このとき、市民は手を拱いて自由を奪われるに任せるだけではない。しばしば自ら進んでこれを譲り渡す。

政治におけると同じように宗教に関しても権威が存在しなければ、人々はやがて際限のない独立の様相に怖じ気づく。あらゆる事物のこうした動揺は彼らの心を不安にし、疲労させる。精神の世界ではすべてが揺れ動いているので、せめて物質世界は堅固で安定して欲しいと願い、かつての信仰を取り戻しえないので、自ら主人を戴く。

私としては、人が果たして宗教におけるまったき独立と政治における完全な自由とを同時に保持しうるものか疑わしく思う。人間は信仰をもたないならば隷属を免れず、自由であるならば、宗教を信じる必要があるとする考えに傾くのである。

・・・信仰の光が暗くなるにつれて、人間の視野は狭まり、人間行動の目的は毎日すぐにも実現できるように見えてくる。

死後の運命への無関心にひとたび慣れてしまうと、人間は容易に獣とかわらぬ未来に対する完全な無関心に陥るが、この無関心がまた人類のある種の本能とぴたりと適合的なのである。遠い将来に大きな希望をいだく習慣を失うと、人はやがて当然のように矮小極まりない欲求を瞬時に実現したくなり、永遠を生きることに絶望したその瞬間から、一日しか生きられないと決まっているかのような行動に傾く。

不信仰の広がる世紀には、だから、人々が日ごとに変わる欲求に流されるのを常に怖れるべきである。長期の努力なしに達成し得ないものの獲得をまったく諦めて、偉大で安定し持続するものは何一つ築けなくなることをいつも憂慮しなければならない。

このような傾向にある国民のもとで、社会状態が民主的になると、私の指摘する危険はさらに増大する。

誰もが絶えず居所を変えようとし、万人が巨大な競争に巻き込まれ、富がデモクラシーの喧騒の中で瞬時に蓄積されては消失していく、このようなときには、幸運は突然簡単に舞い込み、一財産つくるのも容易だがこれを失うのも早いという考え、つまり偶然のイメージがあらゆる形で人間精神に現われる。社会状態の不安定性が欲求の本来の不安定性を増幅する。境遇がこのように永遠に浮き沈みを繰り返すうちに、現在が拡大する。将来は現在に隠されて姿が見えず、人は明日のことしか考えようとしない。

当時の上院と下院の質的差異について。

ワシントンの下院議場に入ってみれば、この大会議場の俗っぽさに驚愕の思いがするであろう。往々にして、どんなに目を凝らしてもそこには一人の著名人も見出せない。ほとんどすべての議員は無名の人物で、名前を聞いてもどこの誰とも分からない。大半は田舎弁護士や小売商人で、最下層の階級に属する人々さえいる。教育がほとんどあまねく行き渡っている国で、人民の代表がつねに正しく字を書けるとは限らないという。

この議場のすぐそばに上院の扉が開いており、その狭い議場の中にアメリカの著名人の大多数がいる。そこにいるどの一人をとってみても、名声が記憶に新しい人がほとんどである。雄弁な弁護士、すぐれた将軍、有能な法律家、またよく知られた政治家が議員となっている。この議場から発せられる弁舌は悉く、ヨーロッパの最高の議会論争に劣るまい。

この奇妙な対照は何に由来するのか。なぜ国民中のエリートはこの議場にだけいて、もう一つの議場には見られないのだろう。第二院が才能と学識を独占するように思われる一方、第一院にはどうしてこうも低劣な要素がたくさん集まるのか。にもかかわらずどちらも人民に淵源し、普通選挙の産物であって、これまでのところ、上院が人民の利益の敵であると主張する声はアメリカであがったことがない。では、この巨大な相違はどこから来るのか。その説明として私には、ただ一つの事実しか見当たらない。下院の構成を決める選挙は直接選挙であるのに、上院を生み出すそれは二段階の手続きを踏むようになっている。市民全員が各州の立法議会を選出するが、連邦憲法の規定によって、今度はこれら各州の議会が選挙母体となって、その投票によって上院議員が選ばれる。つまり上院議員は、間接的にではあれ、普通選挙の結果を表現しているのである。なぜなら、上院議員を任命する立法議会は、その存在自身によって選挙権を有する貴族集団や特権団体では決してなく、本質的に市民全体の意志に依存するものだからである。州議会は一般に毎年改選されるから、市民はそのたびに新しいメンバーをその中に入れて、選択の方向をいつでも示すことができる。ただ人民の意志は、この選出された合議体を通過するだけでいわば練りあげられ、より気高くより美しい形をとって出てくるのである。それゆえこのようにして選ばれた人々は、支配者である国民の多数の意志をつねに正しく代表している。ただしそれが現しているのは、国内に流通する高邁な思想、国民を動かす高潔な本能だけであり、時として国民を騒がす矮小な情念、その面汚しとなる悪徳ではない。

(なお、上院議員も1913年直接選挙に改められ、現在に至る。)

アメリカが、独立以来、その250年弱の歴史の中で、最初の半世紀間のみ、まともな民主主義国でいられたのは、何のことは無い、これら非民主的要素が多く残存していたからに過ぎない。

現代の社会で、選挙権の制限が現実的では無い以上、まともで公正な議論による政治を取り戻すには、多段階の間接選挙に拠るしか方法が無いでしょうが、「左翼」を口汚く罵っても民主主義と自己への懐疑は持とうとしない馬鹿右翼は聞く耳を持たないでしょうし、右派的ポピュリズムがこれほど蔓延していても非民主的制度には条件反射で反対する馬鹿左翼も同様でしょう。

メディアを制御する大資本とその手先の情報技術屋は、そうした間接選挙すら巧みに操ろうと匿名の闇の中でうごめくのは間違いない。

どう考えても、現代の自由民主主義は袋小路だし、このまま成り行き任せに滅びるしかない。

健全と思われていた時代のアメリカですら、以下のような醜悪な一面が見られたことを、トクヴィルは原注で記している。

1812年の戦争に際し、多数の専制から生じうる行き過ぎの著しい例がボルティモアで見られた。当時ボルティモアには好戦的気分が高まっていた。戦争に強く反対したある新聞がそのために住民の怒りを買った。民衆は集団で印刷機を破壊し、記者の家々を襲撃した。当局は民兵を招集しようとしたが、民兵はこれに応じなかった。そこで、世論の憤激にされされた不幸な被害者を救うために、彼らをまるで犯罪者のように留置場に収監する措置がとられた。この予防措置も無駄であった。夜のうちに民衆が新たに集結し、民兵の招集には失敗し、留置場は襲撃され、その場で記者の一人は殺され、生き残った記者も後に死んだ。しかも告発された加害者は、裁判で無罪放免となったのである。

私はまたある日、ペンシルベニアの一住民と次のような問答をしたことがある。「クェーカー教徒によって建設され、寛容で名高い州で、どうして解放黒人に公民権の行使が許されないのか、説明していただけませんか。彼らは税金を払っているのでしょう。投票権があって当然ではありませんか。」「われわれの立法者が不正で不寛容なそういう仕打ちをしたとお考えになるとは、私たちへの侮辱です」と彼は答えた。「では、お国では黒人も投票権をもっているのですか。」「もちろんですとも。」「では、今朝の選挙人会で黒人を一人も見かけなかったのはどうしてでしょう。」これに対してアメリカ人は次のように答える。「それは法律のせいではありません。黒人にもたしかに選挙に行く権利はあるのですが、彼らは投票を自発的に控えるのです。」「黒人はずいぶん遠慮深いのですね。」「いや、彼らは投票に行くのを嫌がるのではなく、投票所でひどい目にあうのを恐れているのです。私たちの国では、多数者が支持しない法律は効力を失うことが間々あります。そして多数者は黒人に対してこのうえない偏見に囚われており、これに対して当局者は、立法者が黒人に与えた権利を実際に保障するだけの力がないと思い込んでいるのです。」「それでは法を制定する権利をもつ多数者は、また法に違反する特権をももとうとするわけですか。」

その後、黒人への待遇は大いに改善されたと言っても、多数者の偏狭な激情が赴くまま、ありとあらゆる問題で理不尽な抑圧が渦巻く大衆民主主義社会の実状は、現在でも何も変わっていない。

アメリカ人はほとんどいつも落ち着き払って冷静な様子を崩さないが、しばしば唐突な情熱に駆られ、あるいは軽率な意見に引きずられて、理性の限界をはるかに超えてしまうことがある。驚くほどの軽はずみを本気でしでかすところが彼らにはある。

この対照に驚くべきではない。

情報の過剰から生まれる無知というものがある。専制国家では、誰も何もいわないので、人は行動の術を知らない。民主国では、ありとあらゆることを言われるので、人はでたらめに行動する。前者は何も知らず、後者は言われたことを忘れる。

一つ一つの絵の輪郭が無数の細部の中に埋もれて見えないのである。

自由な国家、とりわけ民主的な国家で、公的な立場にある人物は時に暴言の限りを尽くして何の非難も受けない。これには驚かされる。絶対王政にあっては不用意に二言三言洩らしただけで、徹底的に追及され、身の破滅を招いても手の施しようがない。

この事実は先に述べたことで説明できる。大勢の人間で喋るときには、たいていの話は聞き取れず、聞こえても記憶からすぐ消えてしまう。だが口をつぐんでじっと沈黙を守る人々の中では、ほんのかすかな囁きでも耳に入る。

デモクラシーにおいては、人は決して同じ場所にいない。無数の偶発事が絶えず人々の居所を変えさせ、なんとも思いがけず、いわば突発的な出来事がほとんどいつも生活を支配している。そのため、彼らはしばしば、よく分からぬことを行い、何も理解していないことを喋り、長い訓練を受けて準備した経験のない仕事に就くことを余儀なくされる。

・・・・・

好奇心は飽きることがないが、またわけなく満たされる。深く知るより早く知りたがるからである。

時間がないので、やがて深く追求する気持ちを失う。

・・・・・

持続的に注意を払わない習慣は民主的精神の最大の欠陥と考えるべきである。

以下の文章を読んで、傲岸不遜で夜郎自大の自民族中心主義と痴呆的な一方的自国賛美という大衆社会特有の精神的病理に罹っている日本の現状を省みると、本当に何も言う気が無くなります。

あらゆる自由な人民は自分たちに誇りをもっている。だがお国自慢がどこでも同じように現れるわけではない。

アメリカ人は、外国人と接すると、どんな些細な非難も我慢できず、何が何でも褒めちぎられたがっているように見える。取るに足らぬお世辞に相好を崩し、褒めちぎっても滅多に満足しない。人に褒めてもらうために質問攻めにし、こちらが話題に抵抗すると、自分で自分を褒める。まるで、自分自身の価値に疑いをもっていて、だからこそ、始終自分の姿を目に浮かべたいのではないかというふうに見える。彼らの虚栄心は欲張りなばかりか、落着きがなく妬み深い。彼らの虚栄心は要求するばかりで、与えるものがない。物欲しげでかつ争い好きである。

アメリカ人に向かって、お住みになっているこの国は美しいですねと言うと、返事はこうである。「そうですとも、こんな国は世界中にありません。」そこに住む人々の享受する自由を賛嘆すると、こう答える。「自由こそは天の貴重な贈り物です。でも、これを享受するに相応しい国民はとても少ないのです。」私が合衆国の醇風美俗を指摘すると、「他のあらゆる国々に見られる頽廃に衝撃を受けられた外国の方が、この有様に驚かれるのは分かります」と答える。私も最後は突き放して、彼が自分の考えに沈むのに任せる。ところが、またやってきて、言ったばかりのことを私にもう一度繰り返させるまで放してくれない。これほど不愉快でうるさい愛国心は想像がつかない。これを称賛するものをさえうんざりさせる。

イギリス人はまったく違う。イギリス人はその国の有する実際の、また想像上の長所を自分の目で確かめ、静かにこれを味わう。他の国民に長所を認めないとしても、自国の長所を外国人に認めさせようとはしない。外国人の批判に心を騒がせず、御世辞に舞い上がるところは少しもない。外の世界全体に対して侮蔑と無知に満ちた無関心なままである。イギリス人の高慢は養分を必要とせず、独りで育つ。

 

 

 

分量が多い分、以上で引用した以外の部分にも、注目すべき文章は多い。

だが、「多数の暴政」という本書の主張の肝は、中公版の抄訳でも読み取ることが出来るかもしれない。

これだけ重要な名著なのだから、全訳を読んだ方がいいのは間違いないだろうが、初心者にとってそれが必須か、といえばかなり迷う。

余裕のある方は取り組んでみて下さい。

2017年4月28日

ゴーゴリ 『死せる魂 上・中』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:18

タイトルに下巻が無いのは間違いじゃありません。

上・中巻が第一部で、下巻が第二部。

第二部は未完で、草稿状態に近いものらしいので、今回読んでいません。

死んだ農奴の戸籍を買い集め、金を騙し取ろうとする詐欺漢チチコフを主人公に、帝政ロシアの腐敗を暴いた作品、ということになるんでしょうが、文章に何とも言えないユーモアがある。

読みやすくて、十分面白い。

名作と言われる理由がわかる。

初心者でも十分通読できる古典として、推奨します。

2017年4月20日

板橋拓己 『アデナウアー  現代ドイツを創った政治家』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:02

第二次大戦後、ドイツの「西欧化」を決定付けた政治家を描いた評伝。

内政面では自由民主主義を定着させた。

ヴァイマル共和国の人民投票的民主主義と価値相対主義を排し、代表制を徹底させ、民主主義を破壊する勢力には寛容を適用せず闘う姿勢を取り、首相権力を強化した宰相民主主義を確立。

外交面では「西側結合」路線を選択。

それまでのドイツ外交は、東西を股に架ける「ブランコ外交」や、東方ロシアと結ぶ「ラパロ外交」、中東欧を自己の勢力下に収める「中欧政策」が主流だった。

 

 

コンラート・アデナウアーは1876年ケルンの中級官吏の子として生まれる。

敬虔なカトリック信仰を持つ環境で育つ。

ケルンのカトリック教徒は比較的リベラルで社会改良的。

ウィーン会議後、ケルンを含むラインラントがプロイセン領になったことは、高校世界史の範囲内で既知のことでしょう。

アデナウアーが成長した頃には文化闘争も終息しており、自治権も強く、反プロイセン感情は強くなかったという。

ケルン名門一族の娘との結婚を機に出世、中央党の支持を得て、1909年ケルン副市長となり、第一次大戦中1917年に市長就任。

翌1918年ドイツ革命勃発、当初レーテ勢力抑圧を試みるが、情勢を見て、革命勢力と決定的に対立せず、かつ主導権を奪われないよう巧みに実務能力を発揮し、革命の統御と急進化阻止に成功。

戦後イギリス占領軍と良好な関係を築く。

ここでラインラント分離構想問題が出てくる。

この問題について、戦後の混乱期に、四つの立場が現れた。

(1)「併合」路線=フランスへの併合

(2)「分離」路線=中立の「ライン共和国」独立

(3)「自律」路線=ラインラントをドイツ国家内の一州としてプロイセンから分離

(4)現状維持=これまで通りプロイセンの一部に留まる

アデナウアーは(3)の立場だったが、(2)の勢力とも一時連携を図ったことがあるため、「分離主義者、売国奴、戦勝国の手先」との非難を受ける。

しかし、アデナウアーはラインラントのドイツからの分離ではなく、プロイセンからの分離を主張しただけであり、これによってフランスの対独恐怖に配慮し、それを和らげることができると考えた。

(2)の勢力との接触も、単に政治的考慮からで、自己の信念とは関係が無いとされている。

ちなみにアデナウアーの構想は、第二次大戦後、ノルトライン・ヴェストファーレン州成立で実現されている。

ヴァイマル共和国時代も継続してケルン市長。

市のインフラ整備、大学再建に努める。

ナチ政権よりも前に、ケルン・ボン間のアウトバーンを建設して成果を上げるが、やや放漫財政の傾向もあった。

政党では中央党に所属していたものの、党人色は強くない。

1921年賠償問題での組閣難で、アデナウアーに首相就任の打診が来る。

「相対的安定期」の1926年にも社会民主党から人民党までの大連立内閣での首班となる打診があった。

双方とも、アデナウアーが首相の絶対的人事権を主張したため、流れる。

1933年ナチ政権成立、首相就任1ヵ月にもならないヒトラーのケルン訪問時に出迎えをせず、市道のナチ旗を撤去したことを切っ掛けに市長を罷免。

ナチに迎合する一部カトリックや中央党を冷ややかに眺める。

翌34年レーム事件時に逮捕され、一時拘留される。

以後引退し、年金生活へ。

44年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件で逮捕され、収容所送りとなる。

生き延びたものの、終戦時にはすでに69歳であった。

米軍によって再度ケルン市長に任命される。

しかし45年6月占領軍がイギリス軍に替わると、それと衝突し10月に罷免。

結果的にはケルン市長の業務に没頭することを避けることができ、個人的キャリアにはプラスとなった。

政治信条としては、国家の神格化、物質主義、ナショナリズムへの傾倒を批判、政治におけるキリスト教倫理的基盤の回復を主張。

工業化・都市化による個人の「根無し草化」が物質主義を通じて国家と権力への崇拝を生んだ、マルクス主義もその一種であり、ナチズムとスターリニズムは同一の範疇に属するとする。

個人主義(というより人格主義の言葉を用いた方が適切かもしれないと著者は記す)を擁護し、徹底した反共主義を貫く。

ただ、ソ連を批判して「アジア的」と表現するのは、ドイツ人の悪い癖だなあと個人的には感じる。

戦後、カトリック・プロテスタントの枠を超えた超宗派的政党結成の機運が盛り上がり、45年7月ベルリン、ケルン、フランクフルトなどでキリスト教民主党(CDP)が結成される。

この地方レベルでの自生的な動きを全国レベルで組織化することが目指されるが、その過程でベルリン・グループ指導者ヤーコプ・カイザーらとアデナウアーの主導権争いが生じる。

45年12月キリスト教民主同盟(CDU)結成、アデナウアーは、綱領でキリスト教社会主義色を排除し、外交面でも東西間の架け橋を目指すとするカイザーらに反対。

ソ連占領地域において、共産党が社会民主党を吸収合併して成立した独裁政党、社会主義統一党(SED)の圧力でカイザーがCDU議長を解任され、ベルリン党の影響力が減退。

CDUとキリスト教社会同盟(CSU バイエルン州のみを基盤とする、より保守的な党派)が共同議員団を結成。

自由民主党(FDP)と北ドイツの保守政党ドイツ党(DP)と連携し、社会民主党(SPD)を排除することをアデナウアーは目指す。

1947年冷戦が進行し、トルーマン宣言とマーシャル・プランが発せられる。

48年2月チェコが事実上のクーデタで共産化、3月ドイツの西側占領区統合と西ドイツ国家創立決定。

同48年通貨改革とベルリン封鎖。

(憲法ではなく)暫定的性格の「基本法」制定会議議長にアデナウアーが就任。

占領軍との「特権的対話者」の位置を占め、ドイツ国内での調停者的立場の有利さも享受する。

1949年5月基本法採択。

首都はフランクフルト・アム・マインではなく、ボンと定められる。

ボン基本法にはヴァイマル憲法の反省が盛り込まれる。

ヴァイマル共和国時代、まず民意を正確に反映するとされた比例代表制が小党分立による政治の不安定化を招いた。

ナチ、共産党ら反議会主義勢力が過半数を占めると議会政治が麻痺し、人民投票に基づく強大な大統領権力に依拠した政権運営が行われた。

ボン基本法では、大統領は名誉職化し儀礼的存在とされ、さらに国民の直接投票ではなく議会による選出とされる。

「建設的不信任」制度を採用し、内閣不信任案の成立には、議会で後任内閣を支持する勢力を準備する必要を課し、議会解散も厳重に制限。

国民発案(イニシアティヴ)、国民票決(レファレンダム)など、直接民主主義制度を廃止。

「闘う民主主義」の立場から、「憲法敵対的」政党を禁止、共産党とネオナチ政党が実際に禁止判決を受けている。

首相の「基本方針決定権限」(65条)を制定、首相権限を強化。

基本法条項ではないが、選挙法において「5%条項」を定め、5%以下の得票率の政党には議席を与えず、小党分立による混乱を回避。

 

 

こういう施策を見て、どう思います?

「ドイツはナチスを生んだ反省から、第二次大戦後、より民主化した政治制度を採用した」と思いますか?

逆ですよね。

国民投票など直接民主主義的制度を退け、国家元首を人民の直接投票で決めることも止め、政治の安定化のため実質的権力者である首相の地位と権限を強化し、死票が増えることも厭わず完全比例代表制を捨て、結社・言論の自由を(たとえ一部たりとも)制限する。

戦後ドイツがやったことは「民主化の徹底」ではなく、「民主主義の制限」です。

そうとしか言い様がない。

狂信的な大衆運動がナチズムを生んだことへの反省から、そうした衆愚が政治に与える影響を少しでも抑止しようと、民主主義を、特に直接民主主義を制限したんです。

(政治的立場の左右を問わず、だが、最近では特に右寄りの)多数派民意を絶対視し、それをありとあらゆる問題に反映すれば、すべては解決すると考え、重要課題はすべてネットの国民投票で決めろと言う(残念ながら現在の世界、特に日本では圧倒的多数を占める)人間は、近現代の世界史と日本史から何一つ学ぶことができない、本来なら政治について何の発言権も持つべきではない愚か者です。

「いや、そんなことはない、戦後、我々は過去への反省から、民衆の意志を権力の正当性を保障する唯一の源泉と考え、民主主義を選んだんだ」というドイツ人がいたら、「今のご発言は、“我々は国民の51%が望めば、再び、断固として、ヒトラーに権力を与える”と私は解釈しますが、それでよろしいですか?」と問い詰めたいです。

 

 

1949年8月第一回連邦議会選挙が行われ、CDUは「社会的市場経済」を掲げ、SPD党首シューマッハーと対決し、勝利。

9月大統領にFDP出身のホイス就任、アデナウアーを首相として、CDU、CSU、FDP、DP政権樹立。

何より注意すべきなのは、この時点でのドイツ連邦共和国(西ドイツ)は主権国家ではないこと。

米英仏の高等弁務官が軍事・外交・最終警察権を留保し、外務省も建国時にはなく、軍隊もなし。

49年10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、大統領はピーク、首相はグローテヴォールだが、実質的最高指導者はウルブリヒトか。

首相となったアデナウアーは「西側結合」外交を最重視し、西ドイツ主権回復とヨーロッパ統合を同時に追求。

本書ではここで『ドイツ再軍備』が薦められている。

50年5月仏外相シューマンと計画庁長官ジャン・モネが立案したシューマン・プランが提出され、同年6月勃発の朝鮮戦争がもたらした危機感の中、51年欧州石炭鉄鋼共同体条約調印、欧州統合の第一歩が踏み出される。

安全保障面では、50年10月仏首相の発案によるプレヴァン・プラン発表。

「欧州防衛共同体(EDC)」を設立し、その統制下で西ドイツの再軍備を行うというもの。

このEDCは、「失敗し、成立しなかったことが重要史実である」という珍しい例。

高校レベルでは出てこないが、初歩的な国際政治史では必ず出てくる。

西ドイツ内での再軍備議論が激しくなり、内相ハイネマンは再軍備に反対し辞任(のちにSPD入りし、1969年には大統領となる)。

「ブランク機関」が設けられて再軍備の研究・準備が進行、それが国防省となる。

51年外交権回復、外相はアデナウアーが兼任。

ドイツの復興と西側陣営の結束を見たソ連は52年スターリン・ノートを提示。

東独の共産主義政権を事実上放棄し、ドイツの再統一を容認する代償に、中立化を要求。

自由選挙と国防に必要な軍事力を容認するもの。

これは西側への揺さぶりや「平和攻勢」ではなく、真剣な取引の可能性があった。

空想的平和主義者や親共主義者ではない、現実主義者からも交渉を主張する人々がいた。

与党内のカイザー、ブレンターノらもそれを支持。

だが、ソ連崩壊後の最近の研究では、「西側同盟内で再軍備した西ドイツよりは、東ドイツを犠牲にしてでも、再軍備した中立・統一ドイツをソ連は好んだ」という主張は支持されず、この時点でドイツ再統一の好機を逸したとは考えられていない、と書かれている。

ただ、アデナウアーの方針が正しく、ソ連の意図を見抜いたのではなく、自身の見解に固執しただけ、との評も記されている。

53年訪米、アイゼンハワー政権の国務長官ダレスと意見一致。

同年スターリン死去、東ベルリン暴動が起こり、対共産圏強硬姿勢への支持が高まり、第二回議会選挙で圧勝。

基本法の連邦権限に国防義務を補充。

54年仏議会が上記EDC批准を拒否、英外相イーデン(第二次チャーチル政権)の主導で、48年調印のブリュッセル(西欧連合)条約に独伊を加入さた上で、パリ協定を締結、西ドイツのNATO加盟と主権回復を達成(ただし統一とベルリンについての権利と責任は留保)。

西独は核・生物・化学兵器を条件付きで放棄。

55年国防省設立、外相にブレンターノ就任。

同年東側ではワルシャワ条約機構設立。

フルシチョフ政権はドイツ統一と中立化よりも、ドイツ分断固定化と東ドイツの維持・安定化を目標とするようになる。

55年アデナウアーはソ連を訪問、国交を樹立。

外務次官の名を取ったハルシュタイン・ドクトリンを採用、(ソ連を例外として)東ドイツと外交関係を持つ国とは断交するとの方針。

57年対ソ和解したユーゴスラヴィアが東独を承認すると、断交を実施。

同年ザールラントが復帰し、独仏間の懸案が取り除かれる。

ベルギー外相スパークの提案でさらなる欧州統合が計られ、原子力問題での自立性や米英協調志向の経済相エアハルトらの反対を押し切り、アデナウアーは57年欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(ユーラトム)条約調印(翌年発効)。

イスラエルとの和解の一歩へも踏み出し、52年ルクセンブルク補償協定に調印、イスラエルとユダヤ人団体への補償を行い、イスラエル首相ベン・グリオンと協力、56年スエズ戦争時、ダレスの要請にも関わらず支払いを停止せず(それぞれの後任、エアハルトとエシュコル間は関係が険悪であった)。

ただ、ドイツ人の集団的罪責は否定し、ドイツ人もナチの被害者と位置付ける傾向があったとの批判も受けた。

外交面での華々しい活動に比して、内政面では閣僚・議会任せの感もあり。

宰相民主主義と呼ばれる、首相権力の安定化・強化に努力。

それに協力した首相府次官グロプケは、実は悪名高きニュルンベルク法の注釈を書いた人物であり、一部で非難を浴びた。

これはやや暗い名だ。

CDU組織の脆弱さを逆に利用、調停者として自己の権威を高めることに成功。

DPなど右派小政党を吸収。

反共の立場のSPDを、やや不当にも反マルクス主義宣伝で批判。

50年代奇跡的経済成長を達成、社会保障制度を整備。

57年第三回選挙でも圧勝。

後継者として台頭した経済相エアハルト(より自由主義経済の原則に忠実な専門化タイプ)と対立。

59年大統領ホイスが任期満了、ホイス三選を目論むが失敗、次にエアハルトを大統領職に祭り上げようとして失敗、さらにはアデナウアー自身が立って閣議への参加権などを定め、大統領が実質的権力を持つという、かつて自身が禁じていた方針を目指し、さらに失敗、権威を失墜させる。

結局農相リュプケが大統領就任。

58年ド・ゴール政権成立、第二次ベルリン危機、米英ソの頭越しの妥協を恐れ、それを牽制するため独仏枢軸路線を採用。

61年ケネディ政権誕生、ベルリンの壁構築、第四回選挙で辛勝。

米国との懸隔が生じ、独仏枢軸による一定の対米自立を目指す「ゴーリズム」と対米協調を最重視する「大西洋主義」のうち、前者を選択。

SPDは59年バート・ゴーデスベルク綱領を採択、マルクス主義と絶縁、国民政党として政権担当能力を示す。

62年NATO機密報道をめぐって雑誌『シュピーゲル』編集長らを逮捕、この事件で一時FDPが連立離脱。

63年エリゼ条約(独仏友好協力条約)調印。

同年ド・ゴールはナッソー協定(米潜水艦ミサイルの対英供与)を批判し、英のEEC加盟を拒否。

しかしエリゼ条約も一部修正され、結局「EEC=NATO体制」を大枠で確認するものに留まる。

同63年アデナウアーは首相を辞任、67年に死去。

 

 

最後にアデナウアーの西側結合の永続性についての評言。

ブラント政権の東方政策は「中欧路線」という伝統と「西側結合」との統合と言えるが、ドイツにとって西側との協力はもはや「国益」を超えた「国家理性」となった。

内政で、国民をあまり信用しなかったアデナウアーが権威主義的とも言える指導によって基本法秩序を安定させ自由民主主義を定着させた。

ドイツの歴史問題について、内心ではナチへの集団的罪責を認めていた面もあるが、それへのナショナリズムの反動を恐れ公にはせず。

しかしそれでも「過去の克服」の出発点を築いた、と著者は評価する。

そして著者は、本書末尾で、自国民のナショナリズムを煽り、迎合する「保守」政治家がのさばる日本へのやり切れなさを記している。

これは、政治史研究者としては失格の、時代も国際環境も無視した稚拙な所感だが、そう思ってしまったのだから仕方ない。

昔の私なら反発していたであろう記述だが、今の余りに酷い世論状況を見ると、そんな気持ちも無くなります。

 

 

非常に良い。

コンパクトながら、内容は極めて充実している。

初心者にとって有益な知識が吸収しやすい形で配されている。

『アデナウアー回顧録 1』『同 2』を以前紹介しているが、入手も通読も困難なので、本書を読んだ方がいいでしょう。

効用の高い入門書として十分お勧めできます。

2017年4月18日

マーク・トウェイン 『アダムとイヴの日記』 (福武文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:48

神に造られた最初の人類、アダムとイヴの象形文字で書かれた日記を、著者が解読して記した、という設定の短編。

他愛もないユーモア、パロディ小説と言えばそれまでだが、最後は哀感を誘う。

挿絵が毎ページ入っているので、あっという間に読める。

『王子と乞食』と同じく、大いに薦めます。

2017年4月14日

南川高志 『ユリアヌス  逸脱のローマ皇帝』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 02:14

この薄いシリーズは、書店や図書館でよく見かけてはいた。

巻末のリストを見ると、全100巻で世界史上の有名人をカバーしている。

内容的には特にどうと言うこともない。

大体知ってることが多いので。

この皇帝は、中世キリスト教時代には当然悪罵の限りを尽くされたが、近世以降は、同時代人でタキトゥスに次ぐラテン語史家とされるアンミアヌス・マルケリヌスの同情的叙述が見直され、好意的に語られるようにもなった。

その代表が、ギボン『ローマ帝国衰亡史』であり、日本では辻邦生『背教者ユリアヌス』がある。

一方現代アメリカの歴史家バワーソックのように、批判的な評価を示す研究者もいる。

私自身は初めてギボン『衰亡史』を読んだ時の印象が余りに強烈で、この皇帝には強い好意を持つようになった。

とは言え、異教復興という政策には無理があったと思われるのも事実である。

ローマとヨーロッパ文明はキリスト教受容による発展が歴史の正道だったとしか考えられない(引用文チェスタトン1)。

その流れに逆らったユリアヌスは、巨視的に見れば、やはり「背教者」の名に値する。

しかし、非常に魅力的で興味深い人物であることには変わりないと今でも思ってはいます。

 

 

紙数が少な過ぎる。

ほぼ100ページですからね。

よっぽどマイナーな歴史的人物でない限り、物足りなさが残ってしまう。

初学者の小手調べとして利用するのならいいのかも。

興味のある人物の巻なら、手に取ってもいいでしょう。

2017年4月10日

ロマン・ロラン 『ピエールとリュース』 (みすず書房)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:13

『ジャン・クリストフ』を読む気がどうしてもしない。

一度決心はしたんですが、やはり岩波文庫の分厚い分冊を見ると、手に取る気が失せました。

『戦争と平和』だって読んだんだろ、サボるんじゃないよ」という声が心の中から聞こえてきますが、いややっぱり19世紀の大長編小説と20世紀のそれとは違うんですよ。

文学全集でも『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』が、『戦争と平和』と同じ巻数を費やして収録されているのを見ると、「何かアンバランスだなあ」という気持ちを禁じ得ない。

しかしロランの作品が『愛と死との戯れ』だけなのも格好付かないと思ったので、短編のこれを選びました。

第一次世界大戦末期のパリを舞台に、偶然出会った若い男女の悲恋を描く。

ほんの小品だが、いかなる特権階級も存在しないはずの民主的共和国において、世論が絶対的な専制者となり、無力な個人が戦争の地獄に放り込まれていくメカニズムが読み取れる。

 

著名文学者の穴埋めのつもりで読んだが、悪くは無かったです。

私の感性では、それ以上の感想は持てません。

2017年4月6日

ジョン・ロック 『市民政府論』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:58

はるか昔、学生時代に岩波文庫版を通読済み。

もう記憶も完全に薄れているので、この新訳で再読。

他に中公クラシックスにも収録されているが、訳は「世界の名著」シリーズからのもので、新しくはない。

あと、現在の岩波文庫には第一篇も含めた新しい全訳が収録されています。

最近の邦題は『統治論二篇』としている場合が多いが、この訳書は昔ながらのタイトルを採用している。

読んでみましたが・・・・・予想通り全然面白くない。

難解で何を書いてあるのか分からない、ということはない。

初心者でも多少の忍耐を持ってすれば、普通に読める。

だが内容的には感心したり、心に残るところはほとんど無い。

家父長権からの類推を根拠に絶対君主制を擁護するフィルマーら王権神授説論者への批判に説得力を感じないでもないが、歴史上実際の「絶対王政」は諸身分の様々な特権によって制約され、恣意的な独裁権力には程遠かったわけですから。

「自然状態」と「社会契約」という仮構に基づき、平等な原子的個人からのみなる社会を目指した近代の果てに何があったか。

ロックの叙述から「多数の専制」への懸念がほとんど感じられないことに改めて驚く。

自由で平等な個人の多数派が易々と低劣・野蛮な狂信に囚われ、いかなる世襲君主も及びもつかないほどの圧政を敷く独裁者を生み出すことになるとは、ロックには想像だに出来ないことだったんでしょうか。

「自由民主主義の標準的テキストブック」という以上の印象を持つことは難しい。

高校・大学で学んだ内容を原典に当たって確認することに多少の意味はあるでしょうが、まあそれだけですね。

訳文は流暢で読みやすいが、解説は特にどうと言うこともない。

むしろ、ロックを現在のリバタリアニズムの祖として評価するかのような記述は、正直ちょっと気持ち悪いです。

まあ、これだけ有名な著作ですから、知的見栄の為に一読しておくのも決して悪くないでしょう。

2017年4月2日

ブレヒト 『三文オペラ』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 00:58

ロンドンを舞台にした、職業的物乞い団の「社長」の娘と窃盗団の首領の恋を主題にした演劇。

ワイマール共和国時代の1928年に初演され、大成功を収めたそうだが、表面的に読めば、訳のわからないドタバタ劇にしか見えない。

ブルジョワ社会の俗悪さへの批判などということが読み取れなくはないが。

これをブレヒトの代表作として高校教科書に載せるのは不適切に思える。

『肝っ玉おっ母とその子どもたち』の方が、はるかに心に染み入るものがあった。

 

まあ、つまらないです。

高校生の頃から名前を知っている名作が、私にとっては面白くなく、理解もできないと、わかったことが収穫です。

2017年3月28日

栗田和明 根本利通 編著 『タンザニアを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 02:06

東アフリカにある国。

北はケニアとウガンダ、西はルワンダ、ブルンジ、コンゴ民主共和国、南はザンビア、マラウィ、モザンビークに接する。

自然環境では、アフリカ最高峰キリマンジャロ山が存在、北にヴィクトリア湖、西にタンガニーカ湖、南でニャサ湖に面する。

首都は中部のドドマだが、中心都市は東海岸近くのダルエスサラーム。

スワヒリ語が公用語、宗教的にはキリスト教徒とイスラム教徒が半々ほど。

歴史としては、イスラムの影響が浸透してくるまではよく分からない。

バントゥー語とアラビア語が合わさって、スワヒリ語が形成。

16世紀ポルトガルがモザンビークを占拠。

それに対抗して、オマーンのイスラム勢力が沖合いのザンジバル島を中心に海上帝国を築くが、1890年イギリスによって保護領化。

1884~85年アフリカ分割に関するベルリン会議で、現在のタンザニア本土はドイツの勢力圏下に。

1905~07年「マジマジの反乱」が起こるが、ドイツ軍に徹底的に弾圧される。

第一次大戦後、イギリスの委任統治領タンガニーカとなる。

1961年独立、翌年ニエレレが大統領就任。

63年ザンジバルが英保護領時代も継続して在位していたスルタンを元首とした立憲君主国として独立したが、翌64年アラブ系とアフリカ系の対立から革命勃発、同年タンガニーカと合邦し、タンザニア連合共和国となる。

ニエレレ政権は徐々に西側諸国と距離を置き、内政ではアフリカ社会主義を標榜、農村での「ウジャマー社会主義」建設を唱えたが、農業集団化と基幹産業国有化という政策は当然行き詰ります。

ニエレレは経済不振の責任を取って1985年辞任。

しかし、私財蓄積もせず、自身への個人崇拝を嫌い、アフリカ諸国では通例となっている内戦やクーデタ、軍政を経ずに国家の統一と平和を維持し、宗教・民族をめぐる対立を深刻化させなかったという点で、依然「国父」としての尊敬を集めている、本書では記されている。

私はもう少し厳しい意見が記されているのかなと予想していたので、やや意外の念を持ちましたが、もちろんこういう見方もあるんでしょう。

その後の政局は特にフォローしないでいいでしょう。

国の位置と、イスラムの影響、独→英という宗主国の変遷、ザンジバルとの合邦、ニエレレという人名、この国についてとりあえず憶えるべきことはこれだけ。

何か国際ニュースになった時、その都度記事を参照すればいい。

それで困ることは無いでしょう。

2017年3月23日

ゴンチャロフ 『オブローモフ 上・中・下』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:16

原著は1859年刊。

高校世界史では影も形も無い、少々詳しい文学史ではないと出てこない著者と作品名である。

ただ、非常にユニークな作品であるということは、仄聞していた。

あらゆることに無気力で、両親より受け継いだ領地から上がる年貢を糧に、従僕のザハールと共に無為徒食の日々を送る主人公オブローモフを描いた、「元祖ひきこもり小説」。

主人公唯一の親友であり、活発で有能なシュトルツは、オブローモフを社会活動に連れ出そうと、知的で清純な美少女オリガを彼に紹介する。

すると、彼もオリガも互いに愛し合うようになる、という都合の良すぎる展開に。

だが、オブローモフの生活上の無能力さに、さすがのオリガも愛想を尽かし、二人は別れる。

その後、オブローモフは性質の悪い知り合いに騙され、あやうく食い物にされそうになるが、再登場したシュトルツに救われる。

シュトルツとオリガは、オブローモフを何とか無気力な生活から連れ出そうとするが、それも実を結ぶことなく、彼はこの世を去る。

ほとんどの人は、主人公のあまりの駄目人間振りにあきれ果てるでしょうが、私自身は、間違いなく自分にも同様の性質があることがわかっているので、何とも言えない同情と共感の念を抱いてしまう。

それにオブローモフにも否定的な面しか無いわけでもなく、後半でシュトルツの身の上に起こったある事実を知って心から彼を祝福したり、自分を害そうとした人物に対し、自分以外の人への侮辱について激怒したり、と時には感動的なまでの振る舞いをすることもある。

シュトルツが作中で言うように、オブローモフはこれ以上ない駄目男ではあるが、善良で潔白な魂も持っている。

 

 

これは凄い・・・・・。

とんでもない怪作だ。

感想に窮するが、非常に印象的な作品であることに間違いはない。

普段あまり文学など読まないという方にも十分薦められる。

機会があれば、是非お読み下さい。

2017年3月16日

佐藤賢一 『ヴァロワ朝  フランス王朝史2』 (講談社現代新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 05:26

『カペー朝』の続編。

2014年刊。

本書を読む上で、当然全ての国王を憶えることを目標にする。

以下、内容メモ。

 

 

 

フィリップ6世(1328~1350年)

王権を大いに伸長したフィリップ4世の子、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世(とルイ10世の嬰児ジャン1世)が次々に死去。

王朝成立以来、奇跡とも呼ばれる単線的な父子継承を続けてきたカペー朝もさすがに断絶。

フィリップ4世の兄弟ヴァロワ伯シャルルの子フィリップ6世が即位、ヴァロワ朝が成立。

と言っても、要は従兄弟に王位が移っただけである。

ここで前著『カペー朝』の記事末尾で、私が書いた疑問に触れられている。

なぜこの程度の継承が王朝交替と見なされるのか、後述のヴァロワ朝内部の継承では、より不自然なものが見られるのに、という疑問です。

結論は、英国王エドワード3世が異議を唱え、王位継承権を主張し、百年戦争という大事件が勃発したため、結果として王朝交替と見られるようになった、ということです。

フィリップ4世の娘で三国王の姉妹イザベルがエドワード2世と結婚、そこから生まれたのがエドワード3世。

先代エドワード1世がウェールズ征服を成し遂げたのに対し、エドワード2世はスコットランド王のロバート・ブルースに大敗、イザベルは、このように失政の多かった夫を宮廷クーデタで廃位し、息子の3世を王位に就けている。

1339年フランドル伯領の争いも絡んで百年戦争勃発。

ブルターニュ公国の継承争いにも英仏が介入。

1346年、北仏を西から東に荒らしまわるエドワード3世にフィリップ6世が応戦し、最初の決定的な戦闘、クレシーの戦いが起こる。

英軍が国王の命令一下、騎兵が下馬して敵を待ち受けたのに対し、統制の取れない仏軍は中世騎士の習いでただただ突進するだけ。

左右に配置された英軍の長弓兵の餌食となり、その後騎兵の突撃を受けて、仏軍は大敗。

王弟、フランドル伯など重要人物の戦死も相次いだが、その中にボヘミア(ベーメン)王ヨハンがいたことを記憶しておく。

ヨハンはルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で、のちの皇帝カール4世の父、ジギスムントの祖父に当たる。

このクレシーの戦いが1346年です。

年号をもう一度見て下さい。

「何か、もうすぐとんでもないことが起きそうだなあ」と感じませんか。

思いません?

出来れば思いついて欲しいんですが。

 

 

 

 

1348年前後の黒死病の大流行です。

(1648年ウェストファリア条約、1848年仏二月革命・独三月革命など全欧規模の革命、と並んで憶えるべき「三つの48年」の一つです。)

ヨーロッパ全域で人口の三分の一が失われたとも言われる、破滅的な災厄となった。

フィリップ6世はドーフィネ候領を購入して獲得するなど(フランス王太子の称号ドーファンの語源)、手堅い政治的手腕を見せたこともあったが、その治世はやはり散々なものと言わざるを得ない。

1350年崩御、子のジャンが跡を継ぐ。

 

 

 

ジャン2世(1350~1364年)

高校世界史では用語集にだけ名前が出るレベルの国王だが、正直、ローマ帝国のヴァレリアヌス帝やオスマン朝のバヤジット1世と並んで、「捕虜になった人」というイメージしかない。

父王に比べれば軍事的才能には恵まれており、国王の命令が貫徹される軍の設立を目指す。

1356年ポワティエの戦いが勃発。

友軍との合流に失敗した黒太子エドワードをジャン2世が捕捉、英軍六千、仏軍三万と数では圧倒的にフランス優位。

今回は仏軍騎兵も国王の命令で下馬したが、徒歩であっても単純な突撃戦法は変わらず、前回同様長弓の餌食となり、大敗を喫する。

ジャン2世自身も捕虜となるが、厳しい監禁生活は強いられず、王侯にふさわしい待遇を受ける。

この戦いで奮戦した王の末子フィリップが「豪胆公」と呼ばれるブルゴーニュ公の祖となったことは要記憶(他の本では「剛勇公」の訳語を当て、「豪胆公」(あるいは「突進公」)は四代目ブルゴーニュ公のシャルルに与えるものもある)。

危機の中、王太子シャルルは全国三部会を招集。

ところが、パリ商人頭(市長)のエティエンヌ・マルセル率いる平民議員は顧問会議による王権の掣肘を主張、王太子の側近が殺害されるなど、革命の様相すら見せ始める。

農村では1358年ジャックリーの乱が起こる。

王太子は両反乱を何とか鎮圧。

イギリスとの交渉では、ポワトゥー、アキテーヌ、カレー市周辺など王国の三分の一と莫大な身代金を代償にジャン2世解放。

で、履行保証のため、国王の身代わりに第二・第三王子などが人質になったのだが、第二王子が逃亡し外交問題になると、傑作なことにジャン2世は海を渡り、自発的に再度捕虜になった。

本書でも記されているように、一国の統治者としては軽率な振る舞いかもしれないが、戦争に国民的憎悪が不在で、名誉とフェア・プレイを重んじる中世の理想が存在していたことは称賛に値すると言うべきかもしれない。

ジャン2世はそのままロンドンで客死。

 

 

 

シャルル5世(1364~1380年)

初代、二代目と散々な治世が続いたヴァロワ朝だが、このシャルル5世の時代に顕著な立ち直りを見せる。

神聖ローマ皇帝カール4世は母方の伯父にあたり、王太子時代に金印勅書発布の場にも居合わせたという。

病弱ではあるが、頭脳明晰、着実に事を進める堅実さを持つ。

タイユ(人頭税・直接税)、エード(消費税・間接税)、ガベル(塩税・間接税)という大革命に至るまで王国財政の基礎となる恒常的全国課税制度を確立。

それまで直接支配する王領の年貢収入25万リーヴルほどに頼っていた王国の予算は、次代シャルル6世時代にかけて200万リーヴル規模に拡大したという。

デュ・ゲクランという小貴族を王国軍総司令官に抜擢、傭兵隊の弊害を避けるため、小規模ながら常備軍を整備。

フランドル伯継承者の女子と末弟ブルゴーニュ公フィリップ(捕虜から解放された際の父ジャン2世によって跡継ぎの無かった公に据えられていた)を結婚させ、ネーデルラントとブルゴーニュを結びつける(中世末期ブルゴーニュはフランスに併合、ネーデルラントは政略結婚政策でハプスブルク家領に)。

各地の要塞を整備、パリにバスティーユ要塞を建設したのもこの王。

ナバラ王国、ブルターニュ公領、カスティリャ王国にも介入。

イギリスとも再戦し、カレー、ボルドー、バイヨンヌなどの港湾都市とその周辺にのみ、英領を封じ込める。

1377年エドワード3世没、孫のリチャード2世即位。

1378年アヴィニョンとローマに両教皇並立(~1417年。教会大分裂[大シスマ])。

ブルターニュの併合には失敗した後、1380年シャルル5世崩御。

 

 

 

シャルル6世(1380~1422年)

シャルル5世の治世に大きく立ち直ったフランスだが、このシャルル6世時代にその国威はどん底にまで落ちてしまう。

11歳で即位。

叔父のアンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公が補佐するが、その中でブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)が台頭。

ブルゴーニュ公に対し、バイエルン公家出身の王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールと王弟ルイ(のちオルレアン公になり、ミラノ公ヴィスコンティ家の娘と結婚)が対抗、両者のバランスの上に、シャルル6世は親政を開始する。

だが、1392年頃から王は不幸にして精神異常の兆候を見せ始め、定期的に正気と狂気の間をさまようようになる。

国王という要を失った国は、ブルゴーニュ派とオルレアン派に分裂していく。

英仏間は長期間の休戦協定が結ばれ、シャルル6世の王女が英国王リチャード2世に嫁いだが、1399年リチャードは王位を奪われ、従兄弟のヘンリ4世が即位、ランカスター朝が成立。

1404年ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が病没、子のジャン無畏公が登位。

ジャン無畏公はパリを占拠し、オルレアン公ルイとイザボー王妃は地方へ逃れる。

一時和解が成立したが、1407年オルレアン公がブルゴーニュ派に暗殺され、いよいよ両者の対立はのっぴきならないものとなり、宮廷内の勢力争いから、武力衝突を伴う内乱のレベルになってしまう。

新たにオルレアン公となったのは子のシャルルで、その後ろ盾になったのが義父の有力諸侯アルマニャック伯だったので、以後オルレアン派はアルマニャック派と呼ばれるようになる。

両派ともにイギリスに支援を求めるという致命的行為を為し、それに消極的だったヘンリ4世が1413年死去すると、替わったヘンリ5世は再度フランスに上陸。

ブルゴーニュ派は「カボッシュの乱」という混乱を引き起こしてしまい、パリを退去、替わってアルマニャック派が入城、中央政権を奪取。

このアルマニャック派政権とヘンリ5世軍が激突したのが、1415年アザンクールの戦い。

クレシー、ポワティエと同じく、数では四分の一以下のイギリス軍が長弓兵の威力で圧勝、仏軍は惨敗する。

さらに、王太子と弟が病没、シャルル6世の末息子シャルルが王太子に昇格、アルマニャック派の旗印になる。

王太子は政争の種となってきた母イザボーを追放するが、イザボーはブルゴーニュ派に投じ、パリを奪還、再びブルゴーニュ派がフランス王家を代表することになる。

これまで親イングランド政策を続けてきたジャン無畏公だが、ヘンリ5世がパリ進軍の気配まで見せるようになると、さすがにアルマニャック派との和解に動く。

王太子シャルルとの会見が準備されたが、そこでジャン無畏公が暗殺されるという衝撃的事件が起こる。

この破滅的事件で内乱への最後の箍が失われてしまった。

激昂したブルゴーニュ派と三代目の公フィリップ(善良公)は「アングロ・ブールギィニョン同盟」を締結、アルマニャック派を不倶戴天の敵と見なし、フランス王国の保全よりもアルマニャック派への復讐を優先するようになる。

後世から見て、党派争いの為に敵国と結ぶのは「裏切り」「売国」の印象が強く、百年戦争におけるブルゴーニュ派にはどうしてもそのイメージが付きまとうが、ナショナリズムと国民国家成立前にはそれが奇異で嫌悪すべきものとの感覚が共有されていなかったし、そもそもブルゴーニュ公も三代目となると、フランス人というより重要な領地であるフランドル人としての自己意識の方が強かったのではないかと本書では述べられている。

1420年トロワ条約締結。

将来のシャルル6世死後、その王女と結婚したヘンリ5世がフランス国王となり、英仏両王国は統合され、同君連合を結び、王太子シャルルは廃嫡される、との内容。

もしこれが実現していたら、世界の歴史は全く変わっていたはずである。

しかし、運命の女神はそのような道を許さなかった。

1422年ヘンリ5世は35歳の若さで死去、その後同年中にシャルル6世も亡くなるが、わずか二ヵ月の差で、ヘンリ5世はフランス王にはなれず。

後継ぎのヘンリ6世はまだ赤子に過ぎず、もしヘンリ5世が強健なまま、王太子シャルルと対峙していたら、との空想は興味深い。

 

 

 

シャルル7世(1422~1461年)

身体能力に恵まれず、外見もぱっとせず、利発とも言えないこの王が百年戦争を勝利に導くことになる。

父シャルル6世の摂政に指定されたアンジュー公家の娘と結婚、賢夫人と定評のある義母ヨランド・ダラゴンの影響を受ける。

父の死後、フランス国王即位を宣言したが、イングランド・ブルゴーニュ派からは「ブールジュの王」と呼ばれる。

ただ、教科書などでは、このシャルル7世の即位当初のフランスを「崩壊寸前」と描写しているものも多いが、この最悪の時期でも中部から南部にかけて、フランス王国の半ば以上はシャルル7世の支配下にあり、あまり窮状を誇張すべきでもない、という意味のことが書かれている。

とは言え、アルマニャック派内部の政争もあり、厳しい状況だったのは確かである。

そこに1429年ジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアンの包囲を解いて入城する。

ジャンヌが王と会見し、信頼を得たのはヨランド・ダラゴンの手引きであり、王に語ったのは母イザボーの奔放な振る舞いから、本当は自身が父王の子ではないのではないかとの疑惑を払拭するに足る出生の秘密ではなかったか、との説もあるが、この辺の真相は永遠に不明でしょう。

オルレアン包囲戦について、ジャンヌの戦術自体は単純で、持久戦となり、各砦に戦力を分散させ過ぎていたイングランド軍を、ジャンヌの登場で戦意が向上していたフランス軍が各個撃破した、というもの。

その背景として、長年続いた戦争とその被害によって、フランスの国民意識が固まりつつあったこと、そのナショナリズムの象徴がまさにジャンヌ・ダルクだったとされている(ジャンヌ自身、ブルゴーニュ公には同じフランス人として和平を勧める手紙を送っている)。

オルレアン解放後、ランスでシャルル7世の戴冠式が挙行されるが、1430年ジャンヌは捕虜となり、31年火刑に処されてしまう。

だが、1435年アラスの和で、ブルゴーニュ派との和平達成、翌36年にはパリ回復。

残るはノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)の二地方だが、シャルル7世は焦らず、大商人ジャック・クールを用い財政制度と常備軍を整備。

ブルターニュ公を親仏派に転向させた上で、1450年ノルマンディーを征服、1453年ボルドーを陥落させ、ギュイエンヌも解放、これで遂に百年戦争が終結。

戦後、王国の行政制度を整え、1461年シャルル7世没。

即位時と崩御時の王国の状況は天と地ほど異なっている。

やはり「勝利王」の名に値する国王であると思われる。

 

 

 

ルイ11世(1461~1483年)

シャルル7世とフランソワ1世の間に在位した三人の王は最も馴染みがない。

「シャルル7世から即8世に行かず、二人のルイが挟まっている」と憶える。

百年戦争終結前後のフランスの課題は、ブルゴーニュ公とブルターニュ公に代表される諸侯の勢力を削減すること。

だが、王太子時代のルイ11世は父シャルル7世にしばしば逆らい、それら大諸侯と共謀し、王に反抗している。

シャルル7世死去時には、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の下に身を寄せていた。

即位後は前王の側近を追放、恣意的・強権的統治を敷き、「暴君」との評も得る。

だが、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公らの反抗を圧伏することでは、かつての父王と同じ立場に立つことになった。

フィリップ善良公死後、後を継いだシャルル突進公と衝突を繰り返す。

シャルル突進公はますます独立傾向を強め、ブルゴーニュとフランドル間の地域も併合し、独仏間に強大な独立王国を建設することを目論むが、それに対してロレーヌ公、アルザス諸都市、スイス諸州が立ちはだかる。

1477年シャルル突進公は、ロレーヌ公とスイス諸州の連合軍に敗れ、戦死。

細かな話だが、ブルゴーニュは西のブルゴーニュ「公」領と東のブルゴーニュ「伯」領に分かれ、東の伯領は「フランシュ・コンテ」と呼ばれる。

突進公戦死後、ブルゴーニュ公領はフランス王国に併合される(フランシュ・コンテが仏領となるのは1679年オランダ戦争を終結させたナイメーヘン条約によって)。

しかし、突進公の一人娘マリーは身柄を拘束されることなくフランドルに逃れ、ハプスブルク朝皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンと結婚、これでフランドルはハプスブルク家のものとなってしまう。

だが、アンジュー公親王家の断絶を機に、元は神聖ローマ帝国に属していたプロヴァンス伯領の併合に成功。

北東部でフランドルを失い、南東部でプロヴァンスを得て、中世フランス王国と現在のフランス共和国の領域変化が概ね完成。

最晩年のルイ11世は異常なほど信心深くなり、半狂乱に近かったとも言われる。

 

 

 

シャルル8世(1483~1498年)

ルイ11世47歳の時の子。

そのせいもあってか、厳重に保護され、外の世界と接触しないまま育てられる。

1483年13歳で即位、当初は王姉夫妻が実質統治、オルレアン公ルイ2世(初代ルイの孫、二代目シャルルの子、後にルイ12世として王位に就く)と勢力争いを演じる。

それまで、北仏のラングドイルと南仏のラングドックに分かれて開かれていた三部会が、文字通り全国三部会として開催されるようになる。

ブルターニュ公が死去、後を継ぐ男子はおらず、公女アンヌとシャルル8世が結婚、これでブルターニュの併合が既定路線となる。

親政を開始したシャルル8世は、幼少期の反動からか、空想とロマンに突かれた言動を見せ、それがフランス王国をイタリア戦争に導く。

1494年から1559年まで断続的に続いた近世初頭におけるヴァロワ朝フランスとハプスブルク朝神聖ローマ帝国(とスペイン)間のこの大戦争は、主権国家体制の確立に大きな影響を与えたが、結局イタリアがスペインの支配下に置かれて終結する。

13世紀、神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝断絶後、その領地だった南イタリア王国をルイ9世の弟でアンジュー伯のシャルル・ダンジューが支配。

フランス支配に反発する「シチリアの晩鐘」という反乱が勃発、シチリア島はアラゴン王家出身者が統治、ナポリはアンジュー家が支配するようになるが、中世末期シチリア王国がナポリを併合。

これを継承権の根拠に、1494年イタリア侵攻を開始。

大軍を擁し、ナポリ入城を果たすが、イタリア内外の諸列強が連合し、ナポリを確保できず。

シャルル8世は1498年城の改築中に柱を頭にぶつけて、28歳の若さで事故死、ヴァロワ朝の直系は途絶える。

 

 

 

ルイ12世(1498~1515年)

シャルル6世の弟が初代オルレアン公ルイ、子がシャルル、孫がこのルイ12世。

即位でヴァロワ・オルレアン朝が成立したとの見方もある。

冷静沈着で温厚寛容な人柄で名君との評も得たが、減税の為に「官職売買」という、大革命に至るまで大きな弊害を残す制度を始めてしまう。

イタリア戦争を継続、初代オルレアン公の妃がミラノ公ヴィスコンティ家出身だったことを根拠に、スフォルツァ家統治に替わったミラノの継承権も主張。

一時ミラノ占領に成功、続いてナポリにも出兵するが、奪回され、以後特にナポリはヴァロワ朝諸王の手には二度と入らないことになる。

1515年死去。

 

 

 

フランソワ1世(1515~1547年)

初代オルレアン公ルイ1世の次男が初代アングレーム伯、その孫がフランソワ1世。

分家の分家が後を継いだわけだから、以後の王統はヴァロワ・アングレーム朝とも呼ばれる。

身長2メートルを超え、陽性で派手好き、活動的な性格、絢爛豪華なルネサンス君主として君臨する。

1519年神聖ローマ帝国皇帝位を争い敗れ、即位したカール5世は終生の宿敵となり、イタリアで死闘を繰り広げるが、1525年パヴィアの戦いで惨敗、フランソワ1世自身が捕虜となる。

内政ではレオナルド・ダ・ヴィンチを招くなどルネサンス文化を保護したが、カルヴァンらの宗教改革については徐々に厳しい姿勢を見せ始める。

1547年死去した際には、オスマン朝やドイツの新教徒との連携も空しく、イタリアは失われており、悪化した財政が残された。

その華やかなイメージは強い印象を与えるが、治世の実績はあまり芳しくないと言わざるを得ないかもしれない。

 

 

 

アンリ2世(1547~1559年)

フランソワ1世まで来ると、後はかなり楽。

その子と三人の孫でヴァロワ朝が終わるので(最後に三兄弟が相次いで即位するというのは、奇しくもカペー朝と同じ展開である)。

まず子のアンリ2世が即位。

妻がメディチ家出身のカトリーヌ・ドゥ・メディシスだったことは当然要チェック。

父のフランソワ1世が捕虜になった際、解放の代償として人質に出され、スペインで一時囚人のような扱いを受ける。

その復讐心もあってか、イタリア戦争を再開、シュマルカルデン戦争中のドイツ新教徒と連携、フランソワ1世の父がサヴォワ家の女性と結婚していたことを根拠に、フランスと隣接し保持しやすいピエモンテに食指を動かす。

内政では後に職務別大臣制の先駆となる地域別の国務卿を設置、諸州巡察制度を整備し、権限の大きな州総督も設置するが、自身の治世中はその独立傾向を抑制し得た。

ギーズ公(当主フランソワ)派とモンモランシー元帥派(甥のコリニー提督を含む)の党派対立が激しくなる。

主戦派のギーズ公がイングランドからカレーを奪回、大陸の最後の英領が消滅。

だが戦局は好転せず、1559年カトー・カンブレジ条約締結、これによって半世紀以上続いた、長い長いイタリア戦争がようやく終結。

シャルル8世以来のイタリア戦争の細かな経緯が本書でも記されているが、憶えるのはかなり苦しい。

結局、ミラノもナポリもサヴォイアも、継承権を主張した地域は全く得ることができず、イタリアはスペインの実質的支配下に入ったことだけをチェック(イタリア統一支持の代償にサヴォイアだけは第二帝政時代に仏領となったのは高校世界史で既出)。

和平後、ドイツのプロテスタントと同盟したアンリ2世は、国内のユグノーに対しては強硬姿勢で抑圧に向かう。

ユグノーはすでに王家にも信者を持ち、フランソワ1世の姉妹マルグリットとナバラ王との間の娘ジャンヌ・ダルブレはそうであり、その夫アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは態度を明確にしなかったが、その弟コンデ大公ルイ・ドゥ・ブルボンは新教徒であることを公言。

1559年アンリ2世は騎馬試合に出場した際、事故で槍が頭部に刺さり、事故死。

この死をノストラダムスが予言していたとされているのは有名。

アンドレ・モロワ『フランス史』を読み返して気付いたのが、このアンリ2世に対する評価の意外な高さ。

16世紀前半、結局敗れたとは言え、スペインとオーストリアの両ハプスブルク帝国に対し戦いを挑み、ヨーロッパの一国支配阻止と勢力均衡維持に貢献したヴァロワ朝フランスが、世紀後半には国内の宗教戦争で混迷を極め、そのバランサーとしての役割をイギリスとオランダに譲ることになったのは、このアンリ2世の不慮の死という偶然も与っているのかなと思った。

 

 

 

フランソワ2世(1559~1560年)

アンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスとの間の王子で順当な即位だが、極めて病弱で、ごく短い在位。

この王については、妻が誰であったのかを必ず記憶しておく。

スコットランド女王メアリ・ステュアート。

イングランドを睨んだ政略結婚だが、メアリ・ステュアートの母はギーズ家出身なので、ギーズ公フランソワは叔父、ギーズ公アンリは従兄弟に当たる。

ギーズ公派は熱心な旧教徒としてユグノーを弾圧。

フランソワ2世と母后カトリーヌは融和策に努めたが、フランソワ2世は病死。

子の無いメアリ・ステュアートは母国に送り返され、後に王位を失い、イングランドに逃亡して捕らわれ、最後は処刑される(ただしその子がジェームズ1世として英国王となる)。

 

 

 

シャルル9世(1560~1574年)

フランソワ2世の弟が即位。

母后カトリーヌが実権を握る。

まず頭の中で「カトリーヌ・ドゥ・メディシス=サン・バルテルミの虐殺の実行者=狂信的カトリック」という図式がもしあれば(私は高校時代このようにイメージしていました)、それを一度完全に白紙にして下さい。

少なくとも当初カトリーヌが追求したのは、新旧両派の融和と王国の安定。

三部会を招集し、新教の限定的容認を定めたが、非妥協的な党派感情が激化する一方で、不幸にして実を結ばず、1562年ユグノー戦争勃発。

旧教側がギーズ公、新教側がコリニー、コンデ大公が中心、モンモランシーとナバラ王アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは旧教側に付く。

この内乱が以後断続的に世紀末まで続く。

ギーズ公フランソワが暗殺され、ナバラ王が戦傷死した後、一時戦火は収まるが、折から1568年オランダ独立戦争が勃発、この国外の事件を機に再度対立が深まる。

コンデ大公が戦没、ギーズ公アンリは王妹マルグリットとの醜聞で失脚、王弟アンリが旧教側の指導者として台頭。

コリニーと並ぶ新教徒の指導者で、アントワーヌの子ナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンと王妹マルグリットとの結婚が両宗派和解の為に決められるが、1572年その婚礼時に勃発したのが、サン・バルテルミの虐殺。

コリニーら多くの新教徒指導者が惨殺され、ナバラ王は捕らわれの身に。

母カトリーヌからの影響を脱し、エキセントリックで異常な行動を見せるようになったシャルル9世の決断と見られる。

王弟アンリが、ヤギェウォ朝断絶後選挙王制となっていたポーランドの国王に選出され、国を離れる。

新教徒はフランス南西部を中心に徹底的に抵抗。

1574年半狂乱に近い状態でシャルル9世は死去。

 

 

 

アンリ3世(1574~1589年)

またもや弟が即位。

兄の死を聞くと、王位に就いていたポーランドを抜け出し、帰国。

即位前は強硬な旧教派だったが、国王となると強硬派だけに密着するわけにはいかなくなる。

モンモランシー家など穏健派カトリックが第三勢力として台頭、宗派よりも政治優先という意味で「ポリティーク派」と呼ばれるようになり、王弟フランソワが担ぎ上げられる。

オランダの君主としてフランソワを迎える動きもあったが、結局実現せず、フランソワは病死。

こうなると、子が無く、男色家の噂のあるアンリ3世の死後、最も近い王位継承者はナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンということになる。

ナバラ王の父の家系ブルボン親王家は、はるか昔、ルイ9世の六男を祖としており、しかもその分家筋だから、王家の末裔とは言え、ずいぶん離れている。

母方はやや近く、上述の通りフランソワ1世の姪ジャンヌ・ダルブレがナバラ王アンリの母であり、そして王妹マルグリットと結婚している。

新教徒とポリティーク派が同盟、旧教派のギーズ公アンリと激突。

アンリ3世とカトリーヌは旧教派に担がれているものの、本心では妥協を求め、右往左往するばかり。

1588年(スペイン無敵艦隊敗北の年だ)パリを中心にますます強硬になる旧教派は事実上のクーデタを起こし、実権を掌握、アンリ3世はパリを逃れる。

激昂した王は側近に命じ、ギーズ公アンリを暗殺させる。

翌1589年カトリーヌが死去、追い詰められたアンリ3世はナバラ王と手を結び、パリを包囲。

しかしここでアンリ3世は旧教派の報復の刃に倒れ、暗殺される。

ナバラ王アンリが、アンリ4世として即位、ブルボン朝が始まることになる。

 

 

 

 

末尾でヴァロワ朝の治世が総括されている。

14世紀から15世紀前半の百年戦争、15世紀後半のブルゴーニュ戦争とブルターニュ戦争、16世紀前半のイタリア戦争、16世紀後半のユグノー戦争、と戦いと国難の連続だった。

しかし、豊かな国土と膨大な人口を持つ、中近世におけるヨーロッパ最大の国家であるフランスはその都度、すぐさま再起することが出来た。

カペー朝の王権拡張と国家統一政策を引き継いだヴァロワ朝は、ブルゴーニュとブルターニュの二大公国を併合、オルレアン公領やアングレーム伯領もルイ12世、フランソワ1世の即位により王領となり、ヴァロワ朝末期には王権に対して実質的独立性を持つ有力諸侯はもはや存在しなくなった。

確かに依然フランスの一体的国家意識よりも地方郷土のアイデンティティを優先する感情は強かったし、カトリックあるいはプロテスタントの信仰を国家統一より重視する考えも濃厚だった。

それがヴァロワ朝末期のユグノー戦争で爆発することになった。

王権を神聖化することによって、それらの障害を克服し、完全な中央集権的統一国家を創り上げることが、次代のブルボン朝の課題となる。

 

 

 

前巻と同じく手堅い良書。

史実を要領よく叙述しているし、その評価も分かりやすい。

効用の高い啓蒙書。

次は『ブルボン朝』が出るんでしょうけど、ブルボン朝の場合、馴染みの無い国王はいないし、『聖なる王権ブルボン家』も既読だから、それは手に取らないかもしれません。

2017年3月10日

井上文則 『軍人皇帝のローマ  変貌する元老院と帝国の衰亡』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 10:55

クラウディウス・ゴティクス(在位268~270年)からヴァレンティニアヌス2世(375~392年)までのローマ皇帝は、バルカン半島出身がほとんどで元老院階層でもない下層出身。

イリュリア人(パンノニアとモエシア出身者)皇帝の時代と言える。

本書では、中国史とヨーロッパ史に見られる並行関係から筆を起こす。

ローマと漢という東西における古代帝国の繁栄と蛮族侵入によるその衰亡。

独創的な東洋史家で、このブログでも多数の著作を紹介している宮崎市定の説。

五胡をゲルマン人に、東晋を東ローマに、隋唐をフランク王国に喩える。

ただし、中国では文人貴族が支配層として継続し、文明の断絶が起こらなかった点が違う。

文人貴族の強靭性が東西の歴史を分けることになった。

ローマ帝国は「自治をおこなう諸都市の連合と、この連合の上にはめこまれたほとんど絶対的な君主政(略)との奇妙な混合物だった」(ロストフチェフ)。

元老院、騎士、都市参事会という三つの階層の都市富裕層が名誉の感覚を持って、様々な自発的施与行為を行って自治を成り立たせていた。

セヴェルス朝下で軍の専横化が生じ、その後も内戦が続く。

元老院議員の軍事的無能力化、軍人キャリアと文民キャリアの分離・専門化が進行。

首都とイタリアにはさしたる兵力が無く、中央軍は弱体、国境沿いの属州に大軍が集中しており、軍の支持を受ければ帝位簒奪が極めて容易。

外敵の侵入よりも、この二つの現象が軍人皇帝時代に深刻化。

そこで行われたのが、ヴァレリアヌス帝の改革。

一般にはササン朝のシャープール1世に敗れて捕虜となったことだけが知られているが、この皇帝の治世が極めて重要な画期を成したと本書では記されている。

帝国統治分担のための複数帝制度を導入、拘束の多いローマを恒常的に離れ、実務的人材登用を軍で実行、中央機動軍を創設し直衛軍を強化。

これらの改革は20世紀前半までの歴史研究では子のガリエヌス帝の業績と考えられていたが、最近の研究では父子の評価が逆転しつつあるという。

クラウディウス・ゴティクス以降、イリュリア人自身が帝位に就く。

帝国東部でパルミラ帝国、西部でガリア帝国が事実上独立。

帝国に残された中央部で強健な兵を供給できたイリュリクムの重要性が高まり、アウレリアヌス帝の帝国再統一でそれがさらに強まる。

ディオクレティアヌス帝がそれを完成させた。

イリュリア人は、厳しい風土ではあるが、それゆえ大規模農場が発達せず自作農が保存されたイリュリクムで生まれ、強壮な兵士を生む。

ローマの軍需に依存して生活、国境ゆえに外敵への対抗意識と愛国心、郷党意識が強く、軍内の国家宗教に深く帰依し、外来宗教ではミトラ教によって軍の団結を強めた。

宮崎市定の言葉を借りれば、典型的「素朴民族」。

一方、この時代の元老院議員について、その文人生活は個人名声の追求に留まり、社会全体から支配者の条件として承認されていたわけではない。

軍事職からの排除にも抵抗せず、その影響力を低下させる。

皇帝不在の都では文民職はむしろ拡大し、比較的平穏なイタリア・アフリカの所領を持ち、経済的には栄えたが、実際にはこの時代が没落の第一歩となる。

ディオクレティアヌスはその前のイリュリア人皇帝の政策を基本的に引き継ぐ。

それに対し、コンスタンティヌスの治世は断絶があるとの判断が記されている。

再度の内戦でコンスタンティヌスは帝国北西部からのし上がり再統一を達成したので、ゲルマン人が軍の中心となり、イリュリア人の地位が低下。

元老院議員の属州総督・近衛長官への任命を増やし、定員も拡充。

キリスト教普及対策というより新たな勢力基盤を広げるため。

コンスタンティノープル元老院創設も同じ意図から。

イリュリア人はゲルマン人と融合して軍人貴族層を形成。

彼らが文人化することはなかったが、それが中国との大きな違いとなる。

首都ローマ市と国境地帯に駐屯する中央機動軍との距離、通婚関係にもならず、相互蔑視の関係が続き、軍人貴族は元老院貴族化せず。

そして圧倒的多数の非支配層も元老院貴族を拒否するようになっていた。

名誉感覚を失い、公的贈与も行わず、利己主義に自閉する文人への敵意が増大していた。

表面的には東西両帝国の不和が、帝国滅亡の政治史的直接原因だが、上記の軍人貴族と元老院貴族の分離も極めて重要と言える。

 

 

論旨が明解。

最新の学説を噛み砕いて分かりやすく提供してくれる良質な啓蒙書。

決して損はしない、手堅い本です。

2017年3月6日

E・H・カー 『危機の二十年  理想と現実』 (岩波文庫)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 00:59

翻訳にかなりの問題があると、一部で言われていた旧版に替わって、原彬久氏訳のこの新版が2011年に出た。

学生時代以来の再読。

1919~39年の国際関係を概観し、ユートピアニズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)の相克を捉える。

19世紀の自由主義と功利主義を単純に受け継ぎ、国際社会における利益の予定調和、世論の正しさと合理性、政治と経済の分離、国際法万能主義などを前提とするユートピアニズムを批判し、それに対し国家間の力関係を直視するリアリズムを対置。

ただし、カー自身は、国際社会における道義の存在を全否定し、国家権力の拡張を自己目的化し、いかなる国際秩序の成立も不可能にする永続的闘争状態をもたらすような似非リアリズム(というかシニシズム)をも批判し、理想と現実の緊張感のある対話と妥協の重要性を説いている。

目の冴えるような面白さ、というものは無いが、国際政治学・国際関係論黎明期の古典として、やはり一読の価値はある。

自衛のための最小限の軍備の必要性すら認めず、「社会主義国の平和的性格」を前提に非武装中立を主張した戦後左翼の平和主義が愚かなユートピアニズムの代表なら、中国・韓国など特定の国・民族に対する硬直した敵対感情の虜になって、子供じみた強硬姿勢を誇示し、反対者を集団的な誹謗中傷と罵詈雑言で沈黙させることを外交の本質だと考えるような最近の形式的ナショナリズムは最低最悪の愚劣なリアリズム(シニシズム)の表れでしかない、と強く感じる。

2017年2月26日

創元社版「図説世界の歴史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 01:25

 

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 1 「歴史の始まり」と古代文明』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』(創元社)  4 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 3 古代ローマとキリスト教』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』(創元社)  5 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』(創元社)  5 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 7 革命の時代』(創元社)  4 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 8 帝国の時代』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 9 第二次世界大戦と戦後の世界』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』(創元社)  3 易

 

 

この日本語版の刊行は比較的新しい。

タイトルに「図説」と付くだけあって、写真や図表が極めて多く掲載されている。

しかもオールカラーなので、見やすく美しい。

もっとも、その分紙質も厚くて重いし、本文が始終分断される感もあって、やや読みにくさもあるが。

全集の形式ではあるが、全10巻と巻数は相当少な目。

しかも1巻ごとの文章量も大したことはないので、通読難易度は著しく低い。

各巻の日本語版監修者も、著名な学者が顔を揃えており、信頼できる。

翻訳も極めて良好。

特に「です・ます」調を採用したことは、大成功。

非常に読みやすく、説得力のある文体に仕上がっている。

内容的には、一人の著者による執筆ということもあってか、一貫した史観が感じられる。

「多くの人びとに重大な影響を与えた思想・出来事・人物」のみを重視し、それに適合しない史実は思い切って省略(ただし図表の解説文などで補足している。よってそこも読み飛ばさない方が良い)。

オリエント文明およびそれから分岐したヨーロッパ文明とイスラム文明を最重視し、それらから独自性を守ったインド文明と中国文明に一定の評価を与えつつ、アフリカおよびアメリカの文明に対する評価は低い。

昔ながらの西欧中心主義からは脱しつつ、それでもギリシア文明からヨーロッパ文明に受け継がれてきた流れを人類の歴史の中で極めて特異で価値のあるものであると評価する。

その筆致があまりに冷静で説得的なので、ほとんど反発も感じない。

凡庸な学者が、もし同じ巻数で世界史を記述しても、毒にも薬にもならない平板な著名史実の羅列に終わるだけでしょう。

しかし、このシリーズは、一見平凡な叙述を続けているように見えて、各巻の中に必ず数箇所、はっとさせられる著者独自の見解が含まれており、知的興奮が得られる(記事中でも、そうした部分を引用したつもりです)。

決してありきたりで内容の粗い通史に終わっていません。

本文中での事実関係の扱いが薄い部分は、上記のように図表とその解説でカバーしていて、網羅性もある程度確保している。

ただ、平易極まりない叙述とは言え、世界史について全く白紙の読者が読んだとして、どれだけ印象に残るかはやや心許ないかもしれない。

漫然と読むのではなく、記事中で引用したような部分を含むポイントをしっかりと把握することが必要になるでしょう。

(もちろん、私と全く同じ感じ取り方をする必要は毛頭ありませんが。)

通読した結果、十分お薦めできるシリーズだと確信しました。

 

2017年2月20日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:00

最終巻。

冷戦と第三世界、日中印三ヵ国を中心とするアジア情勢、冷戦終了後の世界秩序について。

本文に入ると、まず現代アジア史を、イデオロギー的視点から離れた、極めて巨視的な観点から大掴みする記述がある。

第二次世界大戦後、アジアの多くの国が植民地支配を脱し、次々に独立していきました。その結果、植民地時代の政治的・文化的影響は急速に消滅していきます。たとえばインドでは、イギリス支配のもとで一度は実現していたインド亜大陸の政治的統一が、大戦終了から二年後の独立時に崩壊しました。東南アジアの国々も同じです。たとえばインドネシアには強力な中国人(華僑)コミュニティが存在したため、国全体の進路が中国本土の動向に大きく左右されるようになったのです。

そうした事情を考えると、実はアジアの大部分の国々にとって、西洋列強による植民地支配もその終焉も、それほど重大な歴史上の転換点ではなかったように思えます。数世紀にわたり、アジアの広大な地域がヨーロッパ人によって支配されたことは事実ですが、本当の意味でヨーロッパ文明の影響を受けたのは、どの国でもごく少数の支配者層だけでした。アジアでヨーロッパ文明を待ち受けていたのは、おそらく世界のなかでもっとも強力な文化と伝統をもつ社会だったのです。

アジアの文化はアメリカ大陸やアフリカ大陸の文化とは異なり、ヨーロッパ文化の侵入によって一掃されることはありませんでした。ヨーロッパ人がアジアにヨーロッパ文化をもちこもうとしても、あるいは現地の指導者たちがみずからヨーロッパ文化をとり入れようとしても、いずれも大きな障害にぶつかることになったのです。近代教育を受け、古い伝統からすでに脱却したと自認していた人びとでさえ、さらに深い部分ではその伝統的な思想や行動様式になんら変化はありませんでした。大学教育を受けたインド人も日本人も、出産や葬儀の際には伝統的な習慣にしたがい、中国の共産主義者たちの意識から伝統的な中華思想が消えさることもなかったのです。

インドから東側のアジアは、大きくふたつの文化圏に分けることができます。ひとつは南アジア(インド亜大陸)および東南アジアです。この地域は古くから三つの文化-ヒンドゥー文化、イスラーム文化、ヨーロッパ文化-の影響を受けてきました。ヨーロッパ文化はこの地域に、かなり古くから交易や布教とともに伝えられ、のちの植民地支配によってさらに広まっていきました。

ふたつ目の文化圏は、中国を中心とする東アジアです。中国自身が膨大な人口と国土を有することはもちろんですが、加えて周辺諸国に移住した華僑の存在、さらには二〇〇〇年以上も前から日本や朝鮮半島、インドシナ半島などにあたえてきた文化的影響も、この地域における中国の重要性を理解するうえで忘れてはなりません。このふたつ目の文化圏は、ひとつ目の文化圏にくらべるとヨーロッパ諸国に直接支配された期間が短く、その弊害も前者ほど大きくありませんでした。

結局、アフリカとアメリカの固有文明はヨーロッパ文明の進出によって圧倒され、ほぼ消滅することになったが、インドを中心とする南アジアと中国を中心とする東アジアはその存在を守り抜いたことになる(西アジアのイスラム圏もそのはずだが、ヨーロッパとの距離が近い分、[南アジアと同様]政治的には劣勢を強いられたということか)。

ヨーロッパの進出に最もよく抵抗した東アジア文明の動きの先鞭をつけたのは日本だったが、第二次大戦後、それを受け継いだのが中国。

一九六〇年までにアジアで起きた最大の変化は、中国が大国として復活をとげたことだったといえるでしょう。一方、共産主義勢力を排除して西側陣営に属していた日本と韓国は、中国が共産主義国となったおかげで、欧米諸国に対する政治的立場を強めていきました。

伝統的に東アジア諸国は、ヨーロッパ人の侵略に対し、インドや東南アジア諸国よりもうまく対処したといえるでしょう。第二次世界大戦後も東アジア各国は、共産主義国、非共産主義国ともに独立を維持することに成功し、中国から支配されることもありませんでした。これには逆説的ながら、古くから中国を模範としてきた日本社会や韓国社会に深く根づいた、東アジア特有の保守性が関係しているように思えます。

社会の規律、集団としての結束力、個人的権利の軽視、権威と階級の尊重、西洋文明とはまったく異なる文明に属しているというプライド・・・・。東アジアの社会には、中国革命の基盤となった共産主義思想などよりも、はるかに根深い文化的伝統が存在します。実は中国革命そのものも、そうした文化的伝統のなかでとらえて、はじめて理解できるものなのです。

・・・・・・

中国革命ほまちがいなく、人類が行なったもっとも壮大な試みのひとつといえます。世界史全体を見渡してみても、二〇世紀の中国革命に匹敵する出来事は、七世紀のイスラーム教の拡大や、一六世紀以降の近代ヨーロッパ文明の世界進出以外にありません。しかも中国革命が大きく異なっていたのは、それが特定の指導者によってコントロールされ、方向性が定められていたという点です。また無数の民衆の熱気に支えられながら、その一方で国家の指導なしには成立しえなかったという点にも、中国革命のもつ特異性を見ることができます。

中国人は伝統的に権威を重んじ、その権威に高い精神性を求めつづけた人びとでした。これは西洋では遠い昔に失われた現象といえます。個人よりも集団が重視されるべきこと、政府が国家事業のために国民を動員する権限をもつこと、公共の利益のために行使されるかぎり政府の権威は絶対であることを、中国はどの大国よりも長いあいだ、民衆に納得させてきました。国家の権威に対する反抗は、文明全体を崩壊させる恐れかおるため、中国人には受け入れられませんでした。つまり中国では集団としての急進主義はありえても、個人の人権の拡大を求める西洋型の革命は考えられなかったのです。

・・・・・・

中国では権力は「天(天帝)」から授かったものであり、統治者は民衆のために善政を行ない、伝統的な中国文明の価値観を守るかぎりにおいて、その正統性を民衆から認められるという文化的伝統がありました。他の文明圈からは理解しにくい毛沢東という存在は、そうした伝統にのっとって解釈される必要があるのです。

・・・・・・

中国革命のもつ本質的な意味も、その後中国とソ連がすぐに対立するようになったところによく現れています。つまり中国革命は、たしかに歴史上きわめて重要な革命だったものの、実はそれはアジア全体が西洋支配に対して示した拒否反応のひとつだったのです。皮肉なことに、その拒否反応はアジアのどの国でも、ナショナリズムであれマルクス主義であれ、西洋からとり入れた思想や概念をもちいて表現されることになったのですが。

中国の共産主義政権が、主にその最初の30年間で、どれほど多くの犠牲者を生みだしたか、著者は百も承知だろうが、極端な全体主義体制から現在のような権威主義体制に移行した状態を見るならば、中国革命の意義を以上のように大国としての復興と伝統的「王朝」体制への回帰、とまとめることも可能かと思われる。

一方、それに比して現代インドに対する著者の評価はかなり低い。

経済であれ、軍事であれ、政治であれ、諸外国に対して大きな影響力をもつ国を大国とよびますが、インドがそのような国際的地位にないことは、一九八〇年代までにすでにあきらかになっていました。これはよく考えてみると、二〇世紀後半に起きたもっとも驚くべき現象のひとつだったといえます。一九四七年に独立したインドは、その時点ではほかの新興国や敗戦後の混乱期にあった日本などよりも、はるかに有利な条件に恵まれていました。インドにはイギリス植民地時代の遺産である効率的な行政機関と訓練の行きとどいた軍隊、高い教育を受けたエリート層、優秀な大学(約七〇校もありました)などが存在し、国際社会の善意と協力に恵まれ、冷戦構造のなかで米ソの対立を利用することもできたからです。

貧困や栄養不良、公衆衛生の立ち後れといった問題はあったものの、その点では中国も同じだったといえます。ところが一九八〇年代までにインドと中国のあいだには、誰の目にもあきらかなほど大きな格差が生じてしまったのです。中国の都市部の住民たちは一九七〇年までに、ほぼ全員がまともな服(質素でしたが)を着用するようになっており、栄養状態も良好でした。それに対してインドの都市部の住民たちは、そのころになってもまだ貧困と栄養不良に苦しめられていたのです。

独立後のインドの歴史をふり返ると、マイナスの現象ばかりが目につきます。大きく成長した産業もあったものの、その成果は人口の増加によってかき消されてしまいました。一九四七年の独立から長い年月が過ぎても、国民の大半は当時と同じくらいに貧しいか、ごくわずかに生活が改善されたにすぎませんでした。

インド社会にはあらゆる面で歴史と伝統が重くのしかかり、変革の兆しはなかなか現れませんでした。ちょうど同じような状況にあった中国では、毛沢東が修正を加えたマルクス主義によって過去の伝統を一掃したのですが、インドにはそのような強力な思想も運動も出現しなかったのです。とくに独立後はイスラーム教徒がパキスタン建国によって分離したこともあり、インド社会はさらにヒンドゥー色を強めていきました。

現在でも、インドは依然として近代化を達成したといえる段階には達していません。植民地時代にもちこまれた西洋式の政治制度と伝統的なヒンドゥー社会のあいだには、いまなお大きな溝が横たわっています。ガンディーやネルーをはじめとするすぐれた指導者たちが数々の偉業を達成した一方、特権、不正、不平等など、インド社会に根づいた負の遺産は依然としてこの国に重くのしかかり、その発展を妨げているのです。

かなり厳しい評価ではあるが、著者は同時に以下のようにも記している。

・・・・・もっともインド社会の内包する多様性を考えれば、国家としての統一を維持したこと自体が偉大な業績だったともいえます。

・・・・・・

一九四七年、独立とともに明るい未来を思い描いた人びとは、長い歴史をもつインド社会に根本的な変化を起こすことが、どれほど困難で痛みをともなうか、おそらく理解していなかったのでしょう。けれどもインド文明のもつ偉大なる多様性と継続性、異文化に対する同化吸収能力を考えれば、彼らが近代化の過程で足踏みをつづけているからといって、私たちが批判するのはお門違いといえるのかもしれません。

そして、同様に停滞と混乱を続けるイスラム圏について、巨大な宗教共同体と部族集団という大小両極の間で揺れ、その中間の国民国家という政治組織を安定して発展させることが出来ないことを指摘。

なぜ高い教育を受けた学生たちがイスラーム原理主義者の反動的な主張を支持しているのか、西洋人からはほとんど理解できませんでした。けれどもそうした状況を理解するには、イスラーム世界においては長らく西洋式の国家、あるいはいかなる西洋式の政治組織も存在しなかったことをよく認識しておく必要があります。

たとえ有能な政府が存在しようと、その政府が民衆にとって何か望ましい結果をもたらそうと、全イスラーム教徒を包含する宗教共同体「ウンマ」を基本原理とするイスラーム世界にとって、西洋式の国民国家は正統な権威にはなりえませんでした。社会主義的な政権の樹立を求めた急進派の若者たちも、実際のところ国家に本質的な価値を見いだしておらず、たとえば青年将校カダフィが起こした一九六九年のリビア革命でも、その後樹立された新しい「国家」は、西洋式の国民国家の概念からは大きくかけ離れたものでした。部族主義と「ウンマ」の理念にもとづいて維持されてきたイスラーム世界の伝統が、今後どのような形で存続していくのか、それは現在のところ誰にもわからない問題です。

アラブ諸国の多くで見られる暴力的な政争は、抑圧的な独裁制と原理主義運動が敵対した結果として起こるケースが多いようです。一九八〇年代のモロッコとアルジェリアがその典型的な例でした。そうした状況をさらに危険なものにしているのが、アラブ諸国における高い出生率です。人囗にしめる若者の比率と、彼らのもつ不満とエネルギーがあまりにも大きすぎることが、アラブ世界の平和の実現を困難にしているという面もあるのです。

 

 

本文の内容はここまで。

最終巻である本書には、「日本版の刊行に寄せて」という文章が載せられている。

簡単にいえば、本書では伝統的に重要とされてきたテーマを時代順に網羅していくという手法はとりませんでした。過去の事実を網羅するのは百科事典の仕事だからです。その代わりに、「もっとも多くの人びと」に「もっとも重大な影響」をあたえた出来事だけをとりあげ、その相互の関連性を示したいと考えたのです。

そのため本書は年代的にも地理的にも、かなりの偏りをもっています。もちろん私は第一版の刊行後も多くの時間と労力をついやして、ユカタン半島の壮大な遺跡やジンバブエの廃墟、イースター島の神秘的な巨像などについて調査を行なっています。そのような文化について知ることが望ましいのは、いうまでもないでしょう。

しかし世界の歴史という観点からすれば、これらの社会は実はあまり重要とはいえません。サハラ以南のアフリカや、コロンブスが到着する以前のアメリカ大陸についても同じことがいえます。たとえばブッダやキリスト、プラトン、孔子などの教えは、二〇〇〇年ものあいだ、地球上で暮らす無数の人びとに影響をおよぼしてきました。けれどもヨーロッパ人がやってくる前のアフリカやアメリカでは、世界の歴史に大きな足跡を刻むような出来事が起きた証拠は、いまのところ発見されていないのです。

いずれにせよ、世界史に関する膨大な資料をすべて把握することなど不可能です。本書は、「有名」な出来事ではなく、「本質的に重要な」出来事に焦点を当てています。たとえばフランスのルイー四世はヨーロッパ史ではもっとも有名な人物のひとりですが、本書中の彼に関する記述はごく短く、逆に二〇世紀前半に起きた中国革命についてはかなりくわしく説明してあります。そうした視点は現代史を見るうえで、いままで以上に必要になっているといえるでしょう。ある出来事が「有名」だから、つまり大きく報道がなされているからといって、それが重要だとはかぎらないのです。

・・・・・・

もちろんそのような視点には、私自身のもつ文化的バックグラウンドが大きく影響しています。私はイギリスの中産階級に属する白人男性としてしか、歴史書を書くことができません(今回の全面改訂版では、それに「初老の」が加わります)。もし皆さんがそれをあまりにも重大な欠陥だとお考えになるなら、ほかの歴史家が別の視点から書いた歴史書を探されたほうがよいでしょう。

しかし正直にいえばどのような歴史書であれ、結局は著者本人の個性を離れては存在しえないものなのです。私は自分の視点がどのような偏りにおちいりがちかということを、つねに念頭におきながらこの本を書きました。そうすることで、歴史家アクトンのいう「すべての国々を網羅した歴史とは異なった」歴史を皆様に提供し、文明の偉大なる豊かさと多様性を示すことができたのではないかと思っています。

このシリーズを読み通して、著者の以上の様な史観をはっきり感じることができたし、それに対して特に違和感は感じなかった。

 

 

こういう通史ではありがちだが、近現代史の部分は内容が粗くなって効用が薄れる。

本書もそれを免れているとは言えないが、まだ大分マシな方だと思う。

全10巻を読み切りましたが、通読はものすごく楽。

読んだ価値は間違いなくあった。

全体的な感想は別の記事で述べることにします。

2017年2月15日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 9 第二次世界大戦と戦後の世界』 (創元社)

Filed under: 近現代概説, 全集 — 万年初心者 @ 05:21

第二次大戦と冷戦を叙述し、重要地域として特に東アジアと中東を取り上げた後、20世紀文化を扱った巻。

西洋文明の世界制覇に対する反撃が最も強かった東アジアの情勢について。

アジアに対するヨーロッパ人の侵略は、第一次世界大戦が始まった一九一四年にはピークを過ぎていました。ヨーロッパの植民地主義とその強大な経済的・文化的影響は、すでにアジア各地で深刻な反動をまねくようになっていたのです。そうした反動がもっとも強かったのは、おそらく日本だったといえるでしょう。日本ではヨーロッパ列強に対する反発が、近代化を促進するうえでの大きな力となりました。その結果、日本はこのあと起こる東西文明間の長い戦いにおいて、中心的な役割をはたすことになるのです。

近代化に成功した日本は、二〇世紀の最初の四〇年間、アジア史の主役となりました。一方、辛亥革命をへた中国がアジア史の主役に返り咲いたのは、一九四五年以後のことでした。中国がアジアの政治力学のなかでふたたび日本をしのぐ存在となり、アジアにおける西洋の時代を終わらせるためには、第二次世界大戦の終了を待たねばならなかったのです。

近代日本の発展について、著者の見解は定型的に思えてあまり感心する部分が無いこともあるが、以下の見方などは示唆的である。

・・・一九二〇年代の日本には、「大正デモクラシー」とよばれる民主的かつ自由主義的な空気があり、それが日本の帝国主義をおおい隠す役割をはたしていました。一九二五年に男子普通選挙が実施されたことも、明治維新に始まった立憲君主政への道のりが、着実に進んでいることの現れと考えられていました(もっともヨーロッパではすでに、普通選挙の実施がかならずしも自由主義や政治的中庸に結びつかないことは、はっきりと示されていたのですが)。

そして、イデオロギー対立によって「ドイツ問題」の解決が遠のいたことを指摘し、ドイツのナチズムを(イタリア・ファシズムよりもはるかに過激で危険な存在として)徹底的に批判する一方、日本の戦争についての著者の評価は、驚くほど冷静である。

日本が一九〇五年にロシアを敗北させたことが、ヨーロッパとアジアの心理的な従属関係を揺るがす画期的な出来事となったように、一九三八年から四一年にかけて日本が行なった侵略もまた、歴史に一線を画す出来事でした。それは結果として、第二次世界大戦後におとずれた植民地解放の時代の幕開けをうながすことになります。このように、植民地解放の動きはごく自然な流れとして、もっともうまく「西洋化」をなしとげていたアジアの大国によって、そのきっかけがもたらされることになったのです。

・・・・・・

一九三六年の五月、首都のアジス・アベバが陥落し、エチオピアは独立を失うことになります。今日の時点からふり返ってみると、国際連盟がイタリアによるエチオピアへの侵略を阻止できなかったことは、致命的な失敗だったように映るかもしれません。けれども第二次世界大戦はきわめて多くの要因が重なって発生したものであり、いつの時点で戦争が不可避となったかを論じても、あまり意味がないといえるでしょう。

もっとも、一九三三年にドイツのナチ党政権(それはイタリアのムッソリーニ政権よりも、はるかに過激で恐ろしい政権でした)が誕生したことは、まちがいなく歴史の転換点となりました。そうした政権の誕生を可能としたのも、やはり直前に発生していた世界恐慌だったといえます。

世界恐慌はまた、別の面においても重大な影響をおよぼしています。一九三〇年代に入ると、経済破綻がもたらした階級闘争の激化によって、各国の政治家たちは国際関係上の問題を、ファシズム対共産主義、さらには左派対右派、民主主義対独裁制などといったイデオロギー的な観点から解釈するようになりました。イタリアのエチオピア侵略に対する英仏の反応に激怒したムッソリーニが、ドイツと同盟を結んで反共産主義の「聖戦」をとなえるようになると、この傾向にはさらに拍車がかかりました。このように一九三〇年代の国際問題がおもにイデオロギー的観点から解釈されていたために、ドイツのナチ党政権のもつ真の危険性が見えにくくなり、その結果、ドイツ問題への対応がますます遅れることになってしまったのです。

ソ連のプロパガンダ活動も、世界に大きな影響をおよぼしていました。一九三〇年代のソ連の国内情勢はきわめて不安定なもので、大規模な産業化計画の実施(一九二八年に第一次五ヵ年計画が開始されていました)にともない、民衆は多大な犠牲を強いられていたのです。そうした国情不安に対処するため、スターリンによる独裁体制が強化されていきました。・・・・・こうしたソ連の動向は、それにともなうプロパガンダによって、国際情勢にも大きな影響をあたえ始めていました。この時期にソ連が意図的に、ソ連包囲網が形成されているというプロパガンダを行なったことが、国際情勢を左右したことほまちがいありません。・・・・・そうした動きにともない、コミンテルンの主張する世界的な階級闘争論も各国に浸透していくことになりました。それがどのような結果をもたらしたかは、容易に想像することができます。つまり、世界各国で保守派が危機感をつのらせることになったのです。左派はもちろん、穏健派の改革勢力に対してさえ、少しでも譲歩すれば共産主義に敗北したことになるとする風潮が、各地で生まれるようになりました。こうして右派が態度を硬化させる一方で、共産主義者たちもさらに革命にむけての活動を激化させていったのです。

・・・・・・

終戦直後にはまだ、第二次世界大戦がどれほど大きな影響を人類の歴史にもたらしたかを評価することは困難でした。ただひとつだけ、誰の目にもあきらかな事実がありました。それはドイツのナチ党政権が行なった数々の犯罪行為が、決して許されるべきものではないということです。連合軍がヨーロッパ大陸を進軍し、強制収容所を解放していくにつれ、人類史上最悪ともいえる組織的暴力と犯罪の実態があきらかになっていったのです。

かつてチャーチルは、「われわれが敗北するようなことがあれば、アメリカを含む全世界が、われわれがこれまで親しみ大切にしてきたものすべてを含む全世界が、新たな暗黒の淵へと沈んでしまうだろう。その暗黒の時代は悪用された科学の力によって、ますます邪悪なものとなり、そしておそらくは長期化の道をたどるだろう」と語っていました。その言葉は、まさに真実以外の何ものでもなかったのです。

・・・・・・

平和が回復すると、戦時中の美辞麗句は思いがけない害をもたらすようになりました。銃声が鳴りやんだあとの世界をじっくり見渡した人びとの前には、大きな幻滅が待ちうけていたのです。それでもなお、一九三九年から四五年にかけてのヨーロッパの戦争は、ほかのどんな戦争にもなかったほど、倫理的な側面を強くもっていたといえるでしょう。この点は何度も強調しておく必要があります。第二次世界大戦において連合軍が勝利したことで、自由主義文明に対する最悪の挑戦が退けられたことはまちがいないのです。

深い洞察力の持ち主であれば、ヒトラー政権が反自由主義的な性質をもった支配体制だったという点に、重大な皮肉を見てとることができたでしょう。ドイツは多くの点で、ヨーロッパのなかでも群をぬいて進歩的な国でした。ヨーロッパ文明における最善のものを数多く保有していたドイツが、これはどの規模で集団的な犯罪行為に走ったという事実は、自由主義文明の基盤そのものに何らかの重大な誤りがあるのではないかという疑いを人びとにいだかせました。ナチ党の犯罪は、一時的に野蛮な征服欲にとりつかれたゆえの暴走ではなく、計画的、科学的、統制的、官僚的な方法で進められたものであり、そのおぞましい目的をのぞくと、そこに合理性を欠く要素はまったくなかったからです。

この点からすると、アジアにおける戦争の意味は大きく異なっていました。アジアでは日本の帝国主義が、一時的にそれまでの西洋列強の帝国主義にとって代わりましたが、多くの場合、支配された人びとはその変化をそれほど嘆いてはいませんでした。戦時中のプロパガンダによって「ファシスト」日本という見解が流布したものの、それは長い伝統をもつ日本社会の特質を、意図的に歪曲した見解だったといえます。たとえ日本が勝利を収めたとしても、ヨーロッパ諸国がドイツに支配されていた場合ほど悲惨な結果は生じなかったことでしょう。

しかし、巻末の監修者あとがきで五百旗頭真氏が以下のように指摘している面は、全くもって認めるしかない。

といって日本偏向という訳ではなく、日本がはまってしまった歴史的愚行を明快に語る。日本の中国侵略こそが、中国の愛国心を呼び起こし、中国が再び東アジアの主体にたち帰る契機を提供した。そのうえ「日本は不覚にも国民党政権を攻撃したことで、長年にわたって阻止しようと努めてきた中国革命を、最終的な成功へみちびく」結果となった。日本は逆説と皮肉を好む歴史に魅入られたように、忌み嫌う敵の勝利につくしたのである。東アジアの植民地解放と第三世界の船出にも、概して同じような皮肉な役割を日本は果たしたといえよう。

 

 

他の部分は省略。

この巻の記事は、これくらいにしましょう。

2017年2月9日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 8 帝国の時代』 (創元社)

Filed under: 近現代概説, 全集 — 万年初心者 @ 00:49

19世紀末帝国主義時代から第二次世界大戦直前までの巻。

まず、欧米列強による世界分割が、「平和的」に進んだことを指摘。

一九世紀をとおしてイギリスが海軍力を背景に「イギリスの平和」を実現したおかげで、非ヨーロッパ世界の支配をめぐって争っていたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国のあいだでは植民地をめぐる戦争が一度も起こりませんでした。一九世紀が植民地への直接支配がもっとも拡大した時代だったことを考えると、一七世紀や一八世紀には何度も起きた植民地戦争がこの時期起きなかったのは、かなり異例だったといえるでしょう。この「イギリスの平和」のおかげて、無数の貿易商人たちも、なんの障害もなく世界中の海を行き来することができました。ヨーロッパ文明が世界中に広まることができたのは、イギリスの圧倒的な海軍力が経済活動を保護していたからでもあったのです。

・・・・・・

ヨーロッパ諸国は約四〇年にわたって植民地問題をめぐる激しい論争をつづけ、アメリカとスペインの対立は戦争にまで発展しました。ところがその一方で、ヨーロッパ諸国による「世界の分割」は、実は驚くほど平穏なうちに進んでいったのです。

事実、一九一四年に始まった第一次世界大戦では、植民地問題でもっとも対立していたイギリス、ロシア、フランスの三ヵ国が同盟して戦っています。つまり第一次世界大戦を引き起こした原因は、植民地をめぐる対立ではなかったということになります。

一九〇〇年以降、第一次世界大戦までのあいだに領土争いが戦争に発展しそうになったのは、モロッコをめぐるドイツとフランスの対立だけでしたが、このときも植民地をめぐる攻防よりも、ドイツがフランスを攻撃した際に、他国がフランスを支援するかどうかに注目が集まっていました。

こうしてみると第一次世界大戦以前の植民地をめぐる争いは、ヨーロッパ大陸内に存在する深刻な対立から、各国の注意をそらす役割をはたしたともいえるでしょう。さらにいえば、ヨーロッパ内の平和の維持に貢献したとさえいえるのです。

19世紀後半、「帝国主義の最後の波」の描写。

一九世紀前半にイギリスとフランスが新たな領土を獲得したことに刺激され、その他の列強諸国も一八七〇年以降、領土の拡大に乗りだします。しかし、そうした国々がたんなる羨望からイギリスとフランスのあとにつづいたというだけでは、一九世紀後半に突如として起こった大規模な「帝国主義の時代」を説明することはできません。南極と北極をのぞくと、一九一四年までに世界の五分の四以上の地域が、ヨーロッパの支配下に入るか、ヨーロッパ系の新国家となっていました。真の意味での独立をたもったのは、日本とエチオピア、そしてタイ(シャム)のわずか三ヵ国にすぎなかったのです。

その原因について、経済的動機は余り重視せず、実は当時各国で進行していた「民主化」こそが大きな影響を与えたとする。

なぜこうした状況になったかについては、今日もまだ議論がつづいています。しかし、それまで長期にわたってヨーロッパに蓄積されてきた力が、この時期に一気に噴出したことほまちがいありません。ヨーロッパ文明が進歩し、強力になるにつれて、ほかの地域はますますその覇権に抵抗できなくなっていきました。ある時点までの帝国主義の理論や思想は、そうしたヨーロッパ諸国が突然自覚したみずからの巨大な力を、「合埋的」に説明しようと試みたものだったといえるでしょう。

・・・・さまざまな技術の発達によって、ヨーロッパ諸国は世界中に覇権を確立していくことになりました。けれども世界各地に覇権が広がれば、貿易と投資も自然に活性化するだろうという見通しは、たしかな根拠をもたない場合が多く、たいていの場合、期待外れの結果に終わりました。アフリカの「未開の地」にどれほど魅力があろうと、また何億人という農民をかかえた中国が一見どれだけ巨大な市場に見えていたとしても、工業国はやはり他の工業国を最大の貿易相手としていたからです。海外における資本の投資先としてもっとも人気があったのも、新しく獲得した植民地ではなく、既存の植民地や元植民地でした。たとえばイギリスは海外むけの資本の大半を、アメリカ合衆国と南米につぎこんでいました。またフランスの投資家たちはアフリカよりもロシアに関心を示し、ドイツはオスマン帝国領に資本を投入していたのです。

国家と同じく個人としてのヨーロッパ人のなかにも、領土拡大による経済発展に大きな期待をよせた人たちが数多く存在していました。ところが、そうした多くの個人がかかわったために、この時期のヨーロッパの帝国主義には一貫性がなく、全体としての傾向を語ることをきわめて困難にしているのです。

探検家や商人だちからうながされる形で、各国政府はしばしば新しい領土の獲得に乗りだしていきました。領土拡大がもっとも盛んだったこの時期は、民衆の政治参加が急速に進んだ時代でもあり、探検家や商人たちが民衆から英雄視されることも多かったのです。

民衆は新聞を購入したり、選挙で投票したり、あるいは通りで声援を送ることによって、国家間の領土拡張競争を背後から支えつづけていました。このころ誕生した安価な新聞は、植民地における戦争や探検をドラマチックに報道して、帝国主義的な政策を後押ししていたのです。出費を生むだけでなんの利益にもならないような土地でも、新しい領土を獲得することで民衆の不満をやわらげることができると考えた政治家たちもいました。

さらにいえば、領土拡大の動機となったのは、利益の追求や不満の解消だけではありませんでした。一部の帝国主義者たちが信奉していた理想主義は、多くの人びとの良心を満足させるうえでも大いに有効だったといえるでしょう。ヨーロッパ文明こそが真の文明であると信じていた人びとは、他の民族を支配して彼らに「幸福をもたらす」ことを、自分たちの義務であると考えていたのです。

日本の近代化と独立維持について。

天皇がふたたび表舞台に登場したのも、民衆の支持を得て革新的な改革を断行できたのも、教育を受けた日本人の大半が、西洋文明に対する「不名誉な後進性」をなんとしても払拭したいと願っていたからでした。もしそれができないとすれば日本もまた、中国やインドなどと同じく植民地化への道をたどると考えられていたのです。

・・・・・・

朝廷が京都から東京に移ったのは、「明治維新」と日本の再生をつげる象徴的な出来事だったといえるでしょう。新しく誕生した明治政府がまずとりくんだのは、封建制度の廃止でした。日本がこの時代の非西洋諸国のなかで特別な存在となりえたのは、中国の惨状をまのあたりにした結果、改革を早急に進めようと決意した人びとが数多く存在したことと、日本の社会的・道徳的な伝統がその種の愛国心を支えたこと、そして既存の天皇制のなかに、たんに古い伝統を守るというだけではない精神的な権威が存在したということです。こうした条件があったからこそ、日本はイギリスの名誉革命と同じく、既存の体制内の人びとが起こした革命によって、大きな変革を実現することができたのです。

・・・・・・

こうして明治維新は大きな成功を収めることになったわけですが、そのひきかえに日本は、最終的に精神面で大きな代償を支払うことになります。日本は西洋から熱心に学んでいる最中に、早くも内向的な姿勢に転じ、新たに国家の宗教とされた神道の信者たちは、「外国」から伝来した宗教という理由で、儒教や仏教を攻撃するようになりました。そしてしだいに「現人神」としての天皇の権力が強化され、やがてせっかく誕生した憲法よりも、天皇に対する忠誠心のほうが重視されるようになっていったのです。

もしも文化的土壌が異なっていたら、明治憲法に盛りこまれた近代的な原則の数々は、自由主義的な社会の発展に貢献したのかもしれません。しかし実際の明治時代の社会体制は、きびしい警察の取り締まりに代表されるように、自由主義とはほど遠いものでした。

けれども明治時代の日本が直面していた・・・大きな課題を考えると、そうした権威主義的な傾向を退けるのはきわめて困難であったことがわかります。ひとつは、経済の近代化を短期間で達成するためには、政府の強い指導ときびしい財政政策が不可欠だったという点です。・・・・・

大衆民主主義時代の到来とその弊害について。

選挙制度の民主化にともなって起きた政治の「大衆化」は、さまざまな形で社会を変化させていきました。選挙に勝つためには大衆を組織しなければならなくなり、一九〇〇年までに近代的な政党が次々と誕生していったのです(政党はまずヨーロッパとアメリカで生まれ、やがて世界中に広まっていきました)。こうした政党は、いずれも巨大な組織と宣伝のための手段をもち、それぞれの得意分野を開拓して政党としての特色を打ちだしていきました。

古いタイプの政治家たちはそうした動きに反発しましたが、彼らにも言い分がなかったわけではありません。近代的な政党とは、つまりは政治の大衆化を意味するものであり、大衆に迎合するために政治が堕落する危険性があると彼らは考えていたのです。

・・・・・・

その一方で、新聞の発行者や政治家たちの多くは、世論は操作できるものだと考えるようになっていきました。この点に深いかかわりをもっていたのが識字率の向上です。大衆が選挙権を正しく行使するためには教育が必要であるとされた反面、識字率の向上に支えられて、センセーショナルな記事で読者の感情をあおる安価な新聞が人気を集めていきました。一九世紀のうちに、宣伝・広告という新しい産業も誕生していました。

そしてこのころになってもまだ、大衆をもっともひきつける政治思想といえば、ナショナリズムでした。当時のナショナリズムは、革命を起こす力さえ依然としてもっていたのです。

近代技術の発達が、戦争を政治の延長であり、その一手段とする考え方を極めて危険なものにしていたことについて。

一九世紀に入って戦争が減少したことで、ヨーロッパでは戦争に対する楽観的な考えが生まれるようになっていました。たしかに一八七七年にロシアとオスマン帝国が戦っだのを最後に、ヨーロッパでは大国どうしの戦争は起こっていませんでした。加えて、残念なことにヨーロッパの軍人も政治家も、アメリカの南北戦争であきらかになった重大な事実に気づいていませんでした。南北戦争では鉄道や電信、さらには大量生産された近代的な武器がもちいられたことで、それまでとはくらべものにならないほど大きな被害が出ていたのです。

・・・・・・

こうしたヨーロッパの不穏な状況をいっそう危険なものにしていたのが、社会全体にみなぎった心理的なムードでした。当時はナショナリズムや愛国主義の昂揚期であり、大衆がひとつの方向へ感情的に流されやすい時代だったのです。

もうひとつ危険だったのは、大多数の人びとにとって戦争といえば一八七〇年の普仏戦争(短期間でパリが無血開城されました)だったため、近代戦争のもつ悲惨さがほとんど理解されていなかったということがあります。普仏戦争の数年前にはアメリカで南北戦争が起こっており、近代戦争のもつ悲惨さがすでにあきらかになっていたのですが、ヨーロッパではそうした新大陸の出来事には注意がむけられていなかったのです(南北戦争によるアメリカ人の死亡者数は、アメリカがそれ以外にかかわっだすべての戦争の総死亡者数を上まわっていました)。

近代戦争がとてつもない破壊力をもつこと自体は、もちろん周知の事実でしたが、二〇世紀の戦争はすぐに終わるものだという誤った「常識」も存在していました。軍事費ひとつをとっても、もはやナポレオン戦争のような長期戦を行なうことができるとは考えられていませんでした。複雑さを増した世界経済のなか、文明国の納税者たちが長期戦に耐えられるはずがないと考えられていたのです(こうした誤った「常識」が、戦争への不安をやわらげていた可能性もあります)。

しかも一九一四年のヨーロッパには退廃と閉塞感が広まっており、戦争が起こればそうした閉塞感を脱することができると期待されていたふしさえあります。もちろん革命家たちは、革命につながることを期待して、戦争の勃発を歓迎していました。

さらに当時のヨーロッパ各国が外交交渉によって長らく戦争を回避し、重大な危機を乗り越えてきたという事実にも、大きな危険がひそんでいました。そのため、一九一四年七月にいよいよ状況が手に負えなくなったときも、多くの人びとが事態の深刻さにしばらく気づかなかったのです。開戦前夜になってもまだ政治家たちは、各国の外交官なり首脳なりが協議することによって、危機を回避できるのではないかと考えていたのです。

キリスト教の衰退と科学への安易な礼賛によって、人間の精神を律する倫理的規範が失われ、ヨーロッパと世界は破滅的動乱に近づいて行く。

このように科学は第一次世界大戦以前の段階で、すでに「神話」となるにじゅうぶんな成果をあげていました。ただし、ここでいう「神話」という言葉には、つくりごとという意味は含まれていません。科学の成果の大半は、実験によって「真実であることが証明されたもの」だからです。そうではなく、過去の時代における宗教と同じく、科学は人間の世界観(宇宙観)に大きな影響をおよぼすものとなりました。その意味から、「神話」とよぶにふさわしいということなのです。

いまや科学は、自然を解読してあやつるためだけのものではなく、人間が追求すべき目的や、行動を律するための倫理基準など、形而上的な問題に対しても指針をあたえるものと考えられるようになりました。もちろん、そうしたことはすべて、科学者たちが追求する科学の本質とは、基本的になんの関係もありません。しかしそうして科学が形而上的な尊敬を集めたことによって、近代文明はその中核に共通の宗教をもたない、はじめての文明となったのです。

この文明の中核には、自然を操作することによって豊かな未来が開かれるという確信と、じゅうぶんな知性と資金さえあれば、基本的に解決不可能な問題はないという自信が存在していました。そして「あいまいなもの」が存在する余地こそあったものの、「神秘的なもの」が社会に存在する余地はなくなっていったのです。実は科学者たち自身はその多くが、科学を中心とするそのような新しい世界観を支持していなかったのですが、今日では多くの人びとがそうした世界観をもつようになっています。その基本的な部分は、第一次世界大戦以前にほぼできあがっていたものなのです。

・・・・・・

けれども皮肉なことに、科学もまた第一次世界大戦の勃発した一九一四年までには、ヨーロッパ文明内の緊張感を高める一因となってしまいました。伝統的な宗教が直面したさまざまな問題に科学が大きく関与していたことはいうまでもありませんが、科学はもっと微妙な形でも社会の緊張を高めていました。つまり、ダーウィンの理論からみちびきだされた決定論や、人類学や心理学が示唆した相対主義をとおして、一八世紀以降科学が重視してきた客観性と合理性に対する信頼を、科学自身がそこない始めていたのです。その結果、一九一四年までに、自由主義的で合理的で進歩的な「新しいヨーロッパ」が、伝統的で信心深く保守的な「古いヨーロッパ」と同じくらい、不安定な状態におちいってしまうことになったのです。

第一次世界大戦がヨーロッパ文明に破滅的損害を与えた後結ばれたヴェルサイユ条約について、著者は問題の困難性を考えれば、条約に対する批判はしばしば行き過ぎているとしつつ、もはやヨーロッパ内部のみの均衡維持で平和は達成できない情勢だったので、米ソ二大国を除いた戦後体制に有効性は期待できなかった、としている。

そして戦後における右翼全体主義の台頭について、著者はイタリアをはじめとする各国の「ファシズム」とナチズムを区別し、真に革命的で過激なものは後者のみであるとする。

イタリア以外の国々で起こったファシズムとよばれる動きも、それらがかかげていた手法や目標とはかけ離れた結果に終わりました。たしかにそうした政治勢力はみな、自由主義のあとにつづく「新しい何か」(大衆社会を基盤とした何かとしか表現できません)を反映してはいたものの、いずれもつねに保守勢力に譲歩し、妥協をくり返していきました。「ファシズム」という現象を正確に説明することは困難ですが、多くの国々で権威主義的(全体主義をめざすものもありました)できわめて国家主義的、そして反共産主義をかかげる体制が成立していったことは事実です。

しかし、この種の体制を生みだしたのはファシストだけではありません。たとえばスペインとポルトガルで誕生した政権は、民衆の支持よりも伝統的な保守勢力をよりどころにしていました。

ファシスト内部の急進派のなかには、政府が既存の社会体制に譲歩することに強く反発した人びともいました。けれども「ファシスト」とよばれた政治勢力のうち、伝統的な保守勢力倒して革命を成功させたのは、ドイツのナチ党だけだったのです。以上のような理由から、「ファシズム」という言葉はある種の政治的潮流をあらわす一方で、混乱をまねくことの多い言葉でもあります。

 

 

この巻は、ちょっと鋭さが減じたか?

でも、それほど悪くもないです。

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