万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年12月12日

ジョナサン・スウィフト 『ガリヴァー旅行記』 (ワイド版岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:21

これも大学時代に読んだきり、ウン十年振りの再読だ。

小人国リリパット、巨人国ブロブディンナグ、浮遊島ラピュタに統治されたバルニバービ、魔術師の島グラブダブドリブ、不死の人間が惨め極まりない形で存在しているラグナグ、「踏み絵」をヨーロッパ人に強要する日本(!)を経て、馬が支配者として君臨し、人間がヤフーという家畜になっているフウイヌムに至る奇譚が実に生き生きと面白可笑しく記されている。

全編にみなぎる社会風刺と人間性批判の徹底振りは本当に凄いの一言。

文学的関心以外の観点からでも必読の本と言える。

未読の方には是非勧める。

なお関連書として、高坂正堯『近代文明への反逆』があるので、併せて手に取ると有益でしょう。

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2017年12月8日

エリック・ホブズボーム 『20世紀の歴史  極端な時代 上・下』 (三省堂)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 02:10

原著は1994年刊、この翻訳は1996年刊。

1914年第一次世界大戦から1991年ソ連崩壊までの、「短い20世紀」を叙述した概説的史書。

著者のホブズボームについて、マルクス主義の影響を強く受けながらも非教条的で優れた史家として名前は以前から知っていたが、著作を読むのはこれが初めて。

1917年生まれ、ベルリンとウィーンで育ち、のちイギリスに渡り、英米圏で活動。

本書全体は三部構成。

第一部は、二度の世界大戦に挟まれ、大恐慌と全体主義が生まれた「破局の時代」、第二部は戦後西側諸国で経済成長と社会的平等化が顕著だった「黄金時代」、第三部は1973年以降石油危機による高度成長の頓挫と社会主義の終焉を含む「地すべり」。

全体的概観を述べれば、19世紀の進歩の発展上にある自由民主主義・資本主義が、戦争・恐慌・ファシズムという三重の挑戦を受け、崩壊に瀕したが、共産主義との奇怪な同盟によって、ファシズムを軍事的に打倒することが出来ただけでなく、のち共産主義への対抗を強いられたため、平時において資本主義の自己改革を促す契機を提供することになった、というのが本書のモチーフ。

しかし、「破局の時代」がもたらした傷跡と歴史の退行はあまりにも深刻だった。

今世紀は、人間はきわめて残酷な状態、本来ならば耐えられないような状態にあっても生きていくことができるということを、われわれに教えたし、今も教えている。そのために、一九世紀の人々ならば野蛮の基準と呼んだであろう状態にどの程度もどったのか、不幸にしてますますもどりつつあるのかを理解しにくくなっている。われわれが忘れていることであるが、老齢の革命家フリードリッヒ・エンゲルスはアイルランド共和派がイギリスの国会議事堂ウェストミンスター・ホールに仕掛けた爆弾が爆発したのを非常に遺憾なことと思ったのである。彼は元軍人として、戦争は戦闘員とするべきものであって、非戦闘員にしかけるべきものではないと信じていたからである。これもまたわれわれの忘れていることであるが、帝政ロシアのポグロム〔ユダヤ人の迫害〕は(当然のことであったが)、世界の世論を憤激させ、一八八一年から一九一四年にかけて何百万人ものロシア系ユダヤ大を大西洋を越えてアメリカに渡らせたのだったが、その殺戮は現代の虐殺と比べれば小規模なもので、ほとんど無視できるほどのものであった。死者は数十人の単位で数えられ、数百人、ましてや数百万人といった規模のものではなかった。

・・・・・二〇世紀が進むにつれて、戦争はますます相手国の経済とインフラストラクチャー、そして相手国の非戦闘員人口にたいして行なわれるようになった。第一次大戦以降、非戦闘員の死傷者数は、アメリカを除くすべての交戦国で戦闘員をはるかに大きく上回るようになった。一九一四年には当然と考えられていた次のようなことを、今日のわれわれの中で何人が記憶しているだろうか。

教科書によれば、文明の戦争は、できるかぎり敵の武力を無力化することに限定されている。さもなければ、戦争は一方の当事国が絶滅させられるまで続くことになるであろう。「このような戦争がヨーロッパ諸国の間で一つの慣行となったのには・・・・・・じゅうぶんな理由がある」

科学技術の発達が戦争の破壊力を19世紀とは桁違いに高め、一方政治的社会的民主化は世論の煽動とイデオロギー化を必然とし、国家指導層間の冷静な妥協的解決を不可能にし、「無条件降伏」を常態化したため、20世紀の総力戦は人類にとって文字通り破滅的なものとなった。

民主主義の反動として現れたファシズムも、世俗的イデオロギーによって大衆を下から動員して権力を奪取するという意味では、決して伝統的諸勢力が生み出したものではなく、大衆民主主義時代の申し子とすべき存在である。

また、生き延びた自由―資本主義社会も、自己利益以外の関心をもたない原子的個人を生み出すことによって、貧富の差を拡大し、社会の分裂と軋轢を蔓延させ、それ自身の基盤を掘り崩していき、地球環境の危機という重大な問題も発生させることになった。

 

 

本書の存在自体は、訳書刊行時に書店や図書館で見かけており、以前から知っていた。

なのに、これまで手に取ることが無かった理由としては、「社会主義が結果として、ファシズムの打倒と自由主義・資本主義の延命に役立ったと言っても、それ自体がもたらした被害が尋常じゃないでしょう、この左翼史家には根本的な自己反省が欠如している」という気持ちがあったことは事実です。

(正確に言えば、確か山内昌之氏が本書の書評でこれと近い意味のことを述べていて、それに大いに共感したということです。)

だが、それから20年以上経って、体制としての社会主義が崩壊した途端に、新自由主義と市場原理主義を盲信し暴走を始め、その弊害が収まる兆候すら表れない現在の資本主義の姿を見るとき、このマルクス主義的史家が述べる、自由市場イデオロギーへの批判が至極真っ当に思えてくる。

なお、本書では自然科学を含む文化史および社会史にも目配りされているが、特に前者の章は、私の知的レベルを超える話が多く、ほとんど理解できませんでした。

あと、訳文があまりこなれていない印象。

それもあってか、上巻の最後辺りから下巻にかけては、読むスピードがかなり落ちました。

読んで無駄だったとは決して思わないが、もう一つしっくりこないところがある。

多分、現在白紙状態の人が普通の概説史書のつもりで読んでも、得るところは少ないと思う。

一定程度のことがわかった人が、ざっと読んで著者の史観に触れて、何かを感じるための本か。

やや晦渋な叙述もあり、私にとってはいまいちでした。

ホブズボームには、『市民革命と産業革命 二重革命の時代』[1789~1848年](岩波書店)、『資本の時代 全2巻』[1848~1875年](みすず書房)、『帝国の時代 全2巻』[1875~1914年](みすず書房)という、「長い19世紀」を扱った三部作もあり、こっちの方が私には向いてるのかなあ、とも思ったが、この先読むかどうかは未定です。

2017年12月6日

モリエール 『いやいやながら医者にされ』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:09

飲んだくれの木こりが、仲の悪い妻の企みで、医者に間違えられることから始まる喜劇。

軽妙なやり取りが愉快だ。

わずか80ページほどで、あっという間に読める。

これも、書名一覧でモリエールの数を増やせたし、それで十分。

2017年12月2日

桃木至朗 樋口英夫 重枝豊 『チャンパ  歴史・末裔・建築』 (めこん)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 04:46

1999年刊。

副題の通り、歴史を扱っているのは冒頭から100ページ弱のみで、「末裔」の章は写真のみが50ページほど掲載され、あと建築関係の記述が100ページ余り続く。

当然歴史の章だけを読み、後は全く無視しました。

著者の桃木至朗氏は、最近高校の日本史・世界史教科書の歴史用語を削減しようと提案したことで話題の人か。

 

 

扶南と並んで、東南アジア最古の国家として高校世界史に出てくるチャンパ―だが、どうもマイナーである。

扶南が(クメール人の国か、マレー人の国かがはっきりしないものの)真臘を経て現在のカンボジア国家に連なる国であるのに対し、ヴェトナム中部にあったチャム人の国チャンパ―は、ヴェトナム人(キン族)の南下に伴い圧迫され、最後はヴェトナムに併合され、チャム人はヴェトナムの少数民族に過ぎなくなってしまったからでしょう。

チャム人がオーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族=マレー語、インドネシア語、タガログ語)に属するのに対し、キン族(ベト族)はオーストロアジア(南アジア語族・モン・クメール語族=ヴェトナム語、カンボジア語)に属する(タイ語、ミャンマー語はシナ・チベット語族)。

なお、チャンパーは中国名の変遷も覚えないといけませんでしたね。

林邑、環王、占城の順。

フランス植民地時代に本格的な歴史研究が始まり、「2~15世紀の」「中部ヴェトナムの」「海洋民チャム族の」「周辺諸国に圧迫されつづけた不幸な」「インド式国家」というチャンパ―の基本イメージが出来上がったという。

紀元前1000年紀後半、北ヴェトナムでドンソン文化が栄えたころ、中部ヴェトナムにもサーフィン文化が出現。

秦の華南征服の後、趙佗が自立して北ヴェトナムを含む南越国が成立、漢の武帝がこれを滅ぼし、ヴェトナム中部まで支配、日南郡を置く。

海のシルクロードの要衝にあたるヴェトナム中部で、192年反乱が起こり、林邑が独立(これが普通チャンパーの建国と見なされる史実か)。

東南アジア史の大きな流れとして、従来から(中国の影響の強いヴェトナムを除いて)「インド化」による国家建設とヒンドゥー教・大乗仏教の普及、13世紀モンゴルの侵入、それを境にしたイスラム教と上座部仏教の広がり、というのが通説になっている。

しかし、本書では「インド化による建国」には否定的で、「范蔓(ヴァルマン?)」というようなインド系の王名が記録されているからといって、それは「倭の五王」が中国名で記されているのと同じで、土着王権が大文明の「磁力」に引かれていただけだとしている。

だが、4世紀以降はグプタ朝の繁栄に影響されて、チャンパーでもインド文明が組織的に導入されるようになり、ヒンドゥー教のシヴァ神が祀られ、国王はバラモンあるいはクシャトリヤの身分を誇り、「インド化」が実質性を帯びる。

ただし、カースト制は根を下ろさず、インドでは見られない王そのものの神格化が東南アジアでは観察される。

チャンパーはチャム人のみを構成員とする国ではなく、多民族国家でもあった。

また、東南アジアの古代国家はいずれも地方王権の連合体で、領域や民族構成のはっきりしない「マンダラ国家」と呼ばれる形態を持っていた。

海洋貿易の拠点となったチャンパーは大いに繁栄。

8世紀半ば、環王と改称、さらに9世紀後半には占城と名を変える。

唐から宋に交替した中国と盛んに朝貢貿易を行う。

だが、千年間の中国支配を退け、北ヴェトナムに独立した李朝大越の攻撃で、チャンパーは南遷を余儀なくされ、ヴィジャヤを新都とする。

また、13世紀初頭カンボジアのアンコール朝ジャヤヴァルマン7世(都アンコール・トム建設者)には一時属領として扱われ、1282年には元朝のフビライ・ハンの侵攻も受ける。

以後はとにかくヴェトナム人の南下によって圧迫され続けた、というイメージが強いチャンパーだが、それには史料の偏りによる誇張があり、大きな農業基盤を持つヴェトナムやカンボジアも「マンダラ国家」から脱却できておらず、王権が国力を集中させることはできず、小規模な海洋交易国家チャンパーが全く対抗できなかったわけではない、と著者は述べる。

実際、アンコールの都や大越の都昇竜(ハノイ)をチャンパー軍が破壊したこともあったらしい。

元の侵入以後、東南アジアのイスラム化について、マラッカ王国が島嶼部イスラム化のすべての起源と考える必要は無い、その一部はチャンパー経由と考えてもいいのではないか、とされている。

一方、ヴェトナムは陳朝(1225~1400年)の下、紅河デルタを開発し、強大な王権を確立。

モンゴル侵入を撃退したことで、「南の中華帝国」という民族意識が高揚、キン族は膨張を続ける。

陳朝滅亡後、明の武力干渉を退けて成立した黎朝は、1471年ヴィジャヤを占領。

これが以前は「チャンパーの滅亡」とされてきた。

私が高校生の頃、チャンパーは黎朝に滅ぼされたと暗記した記憶がありますので、教科書・参考書レベルではそうだったんでしょう(今は違うようです)。

マスペロやマジュムダールのチャンパ史は、1471年以降のことをほんの一、二ページでかたづけている。もともと東南アジア史研究は、アンコールワットやボロブドゥールを見たインド学系統の研究者の感動から出発した面があり、「インド化された国家」がなくなってしまった後など歴史ではない、というわけだ。北インドのイスラーム化と元寇によって13世紀以降、「インド化された国々」は生命力を失った、というセデスの雄大な図式の中で、チャンパもその好例とされ、15世紀にチャンパが「滅びた」と書く教科書もたくさん出された。

本書では、残存勢力によってチャンパーの王権が保たれていたことを強調。

黎朝が分裂期に入り、北の鄭氏と南の阮氏が対立、大航海時代に入りヨーロッパ人が来航する中、チャンパーも貿易や紛争に奮闘する。

だが、「17世紀の危機」が到来、メキシコ銀と日本銀産出に支えられた好況が終焉、日本は鎖国時代に入り、香辛料貿易は減少し、島嶼部ではオランダ人は交易から陸地の囲い込みと植民地化に向かい、商品作物栽培を強制、大陸部では農業国家の優位が決定的になる。

海洋交易の衰退はチャンパーの国力を直撃し、最終的に阮朝越南の二代目皇帝明命(ミンマン)帝が、直轄支配化に反抗していた最後のチャンパー系勢力を1835年に鎮圧、これによってチャンパーは最終的に滅亡する。

現在チャム人は、イスラムと土着信仰が混交した宗教を信じる、ヴェトナム中部の少数民族として暮らし、周辺のカンボジア、マレーシアにもムスリムとして存在しているという。

 

 

短くて手頃。

テーマを考えれば、これくらいが適切。

マイナー分野の復習に使えます。

2017年11月28日

桑原武夫 監修 『西洋文学事典』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 教科書・年表・事典, 文学 — 万年初心者 @ 02:32

1954年福音館書店から出版された文学事典を2012年復刻文庫化したもの。

巻末の沼野充義氏の解説によると、本書の特徴として、

(1)当時の常識に従い、「西洋文学」=「世界文学」として捉えられていること

(2)重点を近現代、特に20世紀に置く、革新的方針を採っていること(刊行当時はカミュもヘミングウェイも存命中の同時代作家だった)

(3)作家事典だけでなく、作品事典も兼ねており、あらすじと鑑賞について、明快で説得力のある記述が盛り込まれていること

(4)記述スタイルに明快さと一貫性があること

(5)当時の「カノン(正典)」に縛られた側面(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文学の欠如)と当時としては斬新な側面の両方があること

が挙げられている。

このうち、沼野氏は(3)の作品解説が本書最大の「売り」になっていると書いているが、私も同感です。

簡潔ながら要領が良く、未読作品の場合、読書意欲をかき立て、既読作品の場合でも、鑑賞・評価を再考させてくれる。

もちろん、刊行が古い分、首を傾げる記述もある。

例えば、ゴーリキーの項などは、時代背景を考慮しても、ちょっと眩暈がしてくる代物ではある。

また戦後間もなくの漢字制限・簡略化の風潮からか、「ヒニク」「タイハイ」「ドレイ」「ガイセン」「ダラク」「ボクトツ」「ギセイ」など、妙なカタカナ表記が散見される。

そうした瑕疵はありつつも、文学初心者にとっては、貴重で有益なツールとして今でも通用する本だと思われる。

大部の文学事典などを買うのは躊躇するが、コンパクトなこれなら、買って手元に置いておいても良い。

一度手に取ることをお勧めします。

2017年11月24日

沢田勲 『匈奴  古代遊牧国家の興亡』 (東方書店)

Filed under: 中央アジア — 万年初心者 @ 06:06

1996年初版で、2015年新訂版刊行、韓国語版、中国語版も刊行されたという、一般向け概説書。

中国史上に現われる北方異民族には、匈奴以前にも、山戎、獫狁(けんいん)、葷粥(くんいく)などが知られているが、匈奴は北アジア初の騎馬遊牧民。

匈奴の名が初めて現るのは、戦国時代中期、前四世紀末。

秦や趙と抗争。

西方のスキタイ人の騎馬戦法を習得した、北アジアの遊牧民が中国北辺の半農半牧民を吸収して成立した政治集団と見られる。

著者は、匈奴がコーカソイドの北欧系人種であるという説は否定し、モンゴロイドであろうとしつつ、それがモンゴル系かトルコ系かとの議論には距離を置き、宗教・言語・文化が一元化された固定的「民族」という考えは適用できないとしている。

始皇帝が中国を統一した頃、匈奴でも頭曼が諸部族を統合し単于を名乗る。

蒙恬によるオルドス征服と万里の長城建築。

始皇帝が死去した直後、前209年、有名な冒頓が父頭曼を倒して、単于に即位。

冒頓単于は、東の東胡、西の月氏・烏孫、北の丁零、南の楼煩を制圧。

前200年、漢の高祖劉邦を平城・白登山で包囲し、漢と事実上対等の和親関係と年ごとの献上品を得る。

子の老上単于時代と併せて西域交易路を支配、孫の軍臣単于時代まで漢に対し優勢を維持。

前漢の武帝が反撃を開始。

まず張騫を大月氏との同盟交渉の為、派遣、往路・帰路とも匈奴に囚われ、同盟締結にも至らなかったが、帰路では、軍臣単于死後の後継争いの混乱を利用して漢への帰還に成功。

軍臣単于死後、弟の伊稚斜(いちさ)単于が甥の太子から位を奪い、単于位の長子継承が崩れる。

衛青・霍去病の攻撃で匈奴は北方に撤退、李広利の大苑遠征で、漢の西域支配確立。

なお、匈奴の地に至った、李陵、蘇武、中行説などの人名は、知っておいた方がよい(上記李広利も、後に匈奴に亡命している)。

単于位争いと天候不順による経済状態悪化を受けて、周辺従属民族は離反、匈奴の最盛期は過ぎる。

前1世紀半ば、五単于が乱立、そのうち兄弟が共に単于の名乗ったことが、普通、匈奴の東西分裂と言われる。

東匈奴の呼韓邪(こかんや)単于は前51年漢に入朝、兄の西匈奴単于は誅殺、これで西匈奴は即座に滅んだことになる。

この呼韓邪単于に降嫁した和蕃公主が、のち元曲『漢宮秋』で描かれる王昭君であることは有名。

安定期に入った漢・匈奴関係だが、王莽の新は、匈奴に対し強硬策を採り、さらに愚かにも他の異民族にも同様の政策を採った為、彼らも中国から離反し、再び匈奴が西域の支配権を握ることになる。

後漢の光武帝は、一先ず対外消極策を維持。

 

匈奴の社会と文化について。

一部で可能性が囁かれている「匈奴文字」は証拠が薄弱であり、存在していた可能性は極めて少ない。

やはり北アジア遊牧民で、初の独自文字は突厥文字と考えられる。

単于個人の絶対的支配権は確立せず、階級分化以前の段階で、確固たる官僚機構もなく、氏族組織が温存され、遊牧生活にも必要な農耕地帯の手工業品の略奪・分配を軸に緩やかに結合した遊牧国家形成期が、匈奴およびその後継である鮮卑、柔然の時代であり、遊牧国家を完成させた突厥とは区別される。

 

紀元後48年、匈奴は南北に再度分裂。

南匈奴は、光武帝晩年の後漢に服属。

後漢は1世紀末から2世紀初めにかけて、班超・班勇が西域経営を進める。

91年、漢と南匈奴連合軍に敗れた北匈奴はモンゴル高原から撤退、かわって鮮卑がその地を支配。

158年頃、北匈奴は東トルキスタンも放棄し、西方に移動、以後文献上では消息が分からなくなる。

で、この行方不明の北匈奴がフン族になったのではないか、と長年言われ続けているわけです。

18世紀のフランス人東洋学者ジョゼフ・ド・ギーニュが最初に提唱、19世紀ドイツの中国史家フリードリヒ・ヒルトに受け継がれる。

本書では、それを肯定も否定もせず、以下のように述べている。

元来、トルコ語もモンゴル語もツングース語もアルタイ語系の中の近縁関係にあって、多くの同一単語を有しており、これを中国史書中のわずかな語彙より拾い出して断定することには無理があろう。筆者は、中国史書中に記された匈奴語の言語学的研究を否定するものではないが、わずかな語彙をもとに匈奴がモンゴル系かトルコ系かと議論してもあまり意味がないと思う。なぜなら中国に伝わった匈奴語は匈奴支配層の言語であって、それらをもって匈奴民族すべてを何々系の民族であると断定することは、危険であるといわざるをえないからである。

・・・・・当初、同族論者は匈奴とフンの原音の類似性に着目した。それゆえ、まず両者が用いた言語を諸文献より拾い出して研究するという方法が採られてきた。そして次に、かれらの容貌より見た人種論、さらにはその文化の比較研究によって両者の同一性が追究されてきた。

それは、「民族」は人種、言語、文化の三大要素から成り立つと考えられ、時には「民族」という用語と「人種」という言葉が同義語として捉えられてきたからである。そして、「民族」と「言語」とは基本的に一致するものだという考え方に基づいた、「民族」の成立根拠と言語の成立根拠には共通性があるという誤解をも生みだすことにもなった。

今日のアメリカを例に取っても明らかなように、ともに英語を話していても、白人もおれば黒人もおり、はたまた黄色人種もいて、文化のありようも多種多様である。それゆえ、「民族」についても、三大要素の中より単純に一つを抽出して他の二つを決定することはできないのである。その上「民族」という概念の成り立ちを、かかる三大要素で限定することにも疑問がある。なぜなら今日「民族」はきわめて政治的な用語としても使われており、これを古代社会にあてはめることには無理があるからである。

・・・・・・

永元年間(八九~一〇五)、モンゴリアの地にいた北匈奴は、東方の鮮卑族の攻撃をしばしば受けていた。そのことは『後漢書』〈鮮卑伝〉に、

 

匈奴の余種の残留するものがなお十余万落ほどあり、  みなみずから鮮卑と称した。

 

とあり、鮮卑の支配下に入った匈奴の遺衆が鮮卑を名乗ったと記録されている。こうした例は、北アジア遊牧民ではしばしば見られることである。

・・・・・遊牧民の社会は一種の契約社会である。土地という不動の自然を基盤に成立した農耕民族の社会と異なり、草原地帯を求めて移動する遊牧民は、牧地の情報蒐集、運輸、交易などの経済生活を保証するものとしての強力な指導者の出現を要請する。遊牧社会はこの点できわめて人為的な社会だともいえよう。匈奴の遺衆がみずから鮮卑と称したのは、新たなる指導者すなわち鮮卑族の首長の傘下に入ることによって、牧草地の保証、手工業品などの分配という恩恵を蒙らんとしたからに他ならない。

護雅夫が「匈奴帝国」(三上次男・護雅夫・佐久間重男共著『中国文明と内陸アジア』講談社、一九七四)の中で匈奴・フン同族問題を取り上げた際、アラル海周辺の遊牧諸族について「かれらの多くは、みずから匈奴なりと称することによって、おのれ自身を栄誉づけようとし、もともと匈奴そのものでないものも、匈奴(フン)として史上に姿をあらわしたものと思われる」と述べられたのは、遊牧社会の実態を端的に表していよう。

これまでの匈奴・フン同族論争が匈奴とフンの民族的な帰属問題に終始したのは、民族という語が人種という語に置き換えて考えられてきたからである。古代ユーラシア遊牧民社会を今日的な「民族」概念(ネイション・ステイト)で考えることは多くの誤解を生み出す源となる。それゆえ、遊牧契約社会に基づく人為的な連合組織として匈奴(フン)民族を解釈することが、今後の匈奴(フン)研究のステップとなるのではないだろうか。

 

漢に服属後、南匈奴は定住民化し、遊牧民としての性格を薄くし、単于の権力は失墜。

西晋の八王の乱以後、五胡十六国の動乱の中、匈奴部族有力者の劉淵・劉聡は前趙を建国、劉曜が後を継ぐが、匈奴の一派、羯族の石勒が建てた後趙に滅ぼされる。

中原を統一した後趙も、暴虐な後継者石虎の治世で滅亡。

他に北涼、夏という匈奴系王朝が存在したが、鮮卑族拓跋氏の北魏によって滅ぼされた。

その中で、匈奴の独孤氏は中国貴族化し、北魏・西魏・北周・隋・唐にわたって外戚として重きを成した。

一方、北魏による農民化政策に抵抗した一般匈奴部衆は北に逃亡し、柔然、突厥の部民として吸収されていった。

 

 

終わり。

一般向け入門書としては、難解な部分も特になく、悪くない。

なかなか類書の少ない分野でもありますし、まだ貴重な本ではないでしょうか。

2017年11月22日

藤澤房俊 『「イタリア」誕生の物語』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 05:50

フランス革命から統一までの、「リソルジメント」と呼ばれる民族独立運動を描いたイタリア史。

内容的にはごく普通。

高校世界史でも教えられるイタリア統一の歴史が、それより少々詳しく、未知の人名や固有名詞を交えて語られるだけ。

オーストリアの支配に対する、マッツィーニら「青年イタリア」の急進派蜂起が次々失敗する中、マニンら「イタリア国民協会」などの穏健派が台頭、それを自陣に組み込み、フランスを中心に国際関係を巧みに利用したカヴール、ダゼーリョ(カヴールの前任首相)らのサルデーニャ王国による統一が実現する。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

高校世界史の復習のためにはいいでしょう。

2017年11月20日

ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:14

ヘッセ、苦手なんですよねえ・・・・・。

『車輪の下』はまあ分かりやすかったが、学生時代に『知と愛』(『ナルチスとゴルトムント』)を読もうとして、余りの晦渋さに挫折したのが、軽くトラウマになっている。

これは比較的短いし、第一次大戦後に書かれた重要な作品らしいので、手に取った。

しかし、やはり分からない。

主人公ジンクレエルと謎めいた友人デミアンとの交流を通じて、伝統的価値観の衰微と善悪の混淆が語られ、ニーチェのような未来志向の超人思想を肯定するような話が展開するのだが、過去の価値観と切り離されたニーチェ的近代批判が暴走して、極右的な最悪の大衆運動の道具に成り下がったことを思うと、何か妙な違和感を覚える。

というのが私が持った表面的感想なんですが、多分こんな解釈は完全に誤読なんでしょう。

かといって、どういう解釈が正しいのかも分からない。

まあ、普通には読めた。

通読難易度は低い。

もう、それしか書くことが無い。

『車輪の下』以外のヘッセの作品は(本書だけでなく、恐らく他の作品も)分からないし、面白さも感じられません、というのが私の結論です。

2017年11月16日

君塚直隆 『ベル・エポックの国際政治  エドワード7世と古典外交の時代』 (中央公論新社)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 03:39

英国王エドワード7世(在位1901~1910年)の伝記。

長期間君臨したヴィクトリア女王の影に隠れ、在位期間も短く、君主の政治的実権が完全に失われた(と一般には思われているが、微妙な、しかし無視できない影響力を持っていたことは本書で記される)20世紀の国王であることから、当然高校世界史では全く触れられない人物である。

 

1841年アヘン戦争中に生まれる。

母はすでに在位中のヴィクトリア女王、父はドイツの小国出身のアルバート公。

謹厳実直な両親に厳しく育てられる。

海外を訪問・遊学し、ナポレオン3世、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会い、南北戦争直前のアメリカも訪問。

大学でやや放蕩的生活を送るが、その心労も一因となって1861年父アルバート公が死去。

息子に不信感を持ったヴィクトリア女王は、以後「万年皇太子」エドワードを政務に関わらせようとしない傾向となる。

1863年、デンマーク王位を継承する直前のグリュックスブルク(グリュックスボー)家のアレキサンドラ王女と結婚。

直後のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争では、妻の実家のデンマーク王を支持し、露骨に反プロイセン感情を表した為、ヴィクトリア女王の叱責を受ける。

夫の死後、あまり人前に姿を現わさなくなったヴィクトリア女王に対し、世論の批判が高まり、一部では公然と共和制への移行すら主張された。

ヴィクトリア女王は、実際には内閣からの報告を受け、多忙な政務をこなしていたが、大衆民主主義に向かいつつある社会において、君主が世論に対して常に自らをアピールする必要があることを失念していた(私は、こういう社会の変化自体を肯定的に見ることができないが、しかし現代社会において君主制が存続する為にはやむを得ないことは理解する)。

この「共和制危機」はエドワードの重病とそこからの回復に際して王室への国民的感情が高まったこと、その後ヴィクトリア女王が各種儀式や行事に積極的に出席するようになったことで回避される。

イギリス社会に長い伝統が生み出す良識が存在していたことも事実だろうが、それでも良き国家には幸運も必要だと思わせる話ではある。

国際親善の目的で各国を訪問、微妙な政治的問題にも触れ、経験を積むことに成功。

イギリス王室と各国王室・皇室は婚姻関係で結ばれる。

エドワードの姉がドイツ皇帝フリードリヒ3世(ヴィルヘルム1世の子、数ヵ月の在位で死去)の妻となり、両者からヴィルヘルム2世が生まれる。

姪はロシア皇帝ニコライ2世と結婚(不幸にして革命で殺害されてしまう。またニコライ2世の母は、エドワードの妻アレキサンドラの妹)。

別の二人の姪はスウェーデン国王グスタフ6世、スペイン国王アルフォンソ13世に嫁ぎ、アレキサンドラの弟がギリシア国王ゲオルギオス1世として即位、娘は新たに独立したノルウェーの国王ホーコン7世(アレキサンドラの甥でもある)と結婚、ポルトガル国王は父アルバート公の実家と縁がある。

1901年遂にヴィクトリア女王が死去、エドワード7世即位。

王朝名をハノーヴァー朝から父の実家のサックス・コーバーグ・ゴータ朝に変更。

首相は即位当初は1895年以来のソールズベリ(保守党)、1902年からは同じく保守党のバルフォア。

1903年フランスを訪問、ファショダ事件とボーア戦争で反英感情が残っていたが、エドワード7世は流暢なフランス語でパリ市民を魅了、それがもたらした世論の全般的雰囲気改善の中、仏大統領ルーベ、外相デルカッセ、英首相バルフォア、外相ランズダウンら両国当局者は植民地問題で広範な合意に達し、1904年英仏協商締結。

翌1905年ヴィルヘルム2世は第一次モロッコ事件という示威行動を起こすが、1906年アルヘシラス会議でも英仏の結束は崩れず、ドイツの孤立化傾向が進む。

皇太子時代にはクリミア戦争以来悪化したままの英露関係改善に尽くし、甥のニコライ2世にも個人的好感を持ってはいたが、ユーラシアをめぐる英露間の「グレート・ゲーム」では政府の対露強硬路線を支持、日英同盟と日露戦争に至る。

加えて対米関係改善にも乗り出す。

後世の歴史を知る我々から見ると、意外なことに、19世紀末からの英米関係は極めて険悪で、パナマ運河建設問題、ベネズエラと英領ガイアナの国境問題などが持ち上がり、米国のクリーヴランド民主党政権、マッキンリー共和党政権とも英国に対してモンロー主義を振りかざし、一部では戦争の可能性さえ囁かれていた。

エドワード7世は新大統領セオドア・ルーズヴェルトと書簡を交換、緊密な関係を築き、両国間の緊張緩和に貢献。

1905年キャンベル・バナマン自由党内閣成立、08年には同じ自由党のアスキス内閣に替わり、外相エドワード・グレイが外交の舵取りとなる。

イギリス王室が縁戚関係を持たない、格上の存在であるハプスブルク家当主フランツ・ヨーゼフ1世統治下のオーストリアも訪問、オスマン衰退後のバルカンをめぐる東方問題の鎮静化を目指すが、1908年オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を切っ掛けに事態は暗転していく。

日露戦争に敗れたロシアはイギリスとの妥協に傾き、1907年英露協商締結。

英仏協商、英露協商、日英同盟、対米関係改善によってエドワード7世即位当初の孤立化傾向からの脱却に成功したイギリスに対し、ドイツは逆に孤立化、エドワード7世とヴィルヘルム2世の関係もギクシャクしたものであり、英独建艦競争は深刻化する。

この時代、無政府主義者による暗殺が頻発、オーストリア皇后エリザベト、イタリア国王ウンベルト1世、ポルトガル国王カルロス1世が暗殺され、1910年にはポルトガルで共和派軍人の反乱勃発、ブラガンサ王朝は崩壊した。

老齢年金と海軍拡張予算確保の為、土地財産の相続税を引き上げる「人民予算」が蔵相ロイド・ジョージの主導で提出、世論煽動的な行動にエドワード7世は不快感を持つ(これをきっかけに1911年下院の優位を定めた議会法制定)。

健康状態が悪化し、1910年死去。

「いや!わしは絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるからな」が最期の言葉だったという。

その死後四年にして第一次世界大戦勃発、ヨーロッパと世界は恐るべき頽落に向かう。

高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』によれば、19世紀ヨーロッパの平和が長期間確保されたのは、外交主体である各国の「同質性、貴族性、自立性」ゆえであった。

その前提が大衆民主主義化と科学技術の発達で失われつつある時代に、政府当局と緊密に協力し、華麗な王室外交によって、外交において最強の要因になりつつある世論に微妙な影響を与え、平和と国際協調を維持しようと奮闘した国王を本書は好意的に評価している。

 

 

かなり良い。

この王の前後を挟む『ヴィクトリア女王』『ジョージ五世』と並んで、手堅い伝記。

十分推奨に値する本です。

2017年11月12日

私市正年 佐藤健太郎 編著 『モロッコを知るための65章』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:40

アフリカ北西端、マグリブ諸国の中で一番西にある国。

まずチェックすべきなのは、君主制国家だということ。

日本名はモロッコ王国。

首都はラバトだが、他にもカサブランカ、フェス、マラケシュなどの有名都市があり。

帝国主義時代の二度のモロッコ事件で出てくるタンジェ(タンジール)とアガディールも。

宗教的にはもちろんイスラム教スンナ派。

民族はアラブ人とベルベル人が半々くらい。

アトラス山脈がもたらす降雨により、農業が繁栄、リン鉱石などの資源にも恵まれ、漁業も盛ん。

ギリシア、フェニキア(カルタゴ)の活動を経て、ローマ支配下に入り、その後ヴァンダル族が侵入、東ローマがヴァンダル王国を滅ぼす。

7世紀末からイスラム時代。

789年モロッコ初のイスラム王朝である、シーア派のイドリース朝建国。

それが衰退すると、後ウマイヤ朝とファーティマ朝による侵入をしばしば受ける。

11世紀半ば、ムラービト朝が大勢力となり、アンダルス(イスラム支配下のイベリア半島)にも進出。

12世紀半ばにはムワッヒド朝が後を継ぐ。

その支配も永続せず、モロッコにはマリーン朝が成立(1248~1465年)。

大旅行家イブン・バットゥータは、この時代、1304年にタンジールで生まれている。

続いてワッタース朝が生まれるが、その統治は弱体で、大航海時代のポルトガルにセウタなどの沿岸都市を奪われる(セウタはスペインのポルトガル併合時代にスペイン領となり、ポルトガル再独立後もスペイン領有のまま)。

1492年レコンキスタ完了で、ナスル朝が滅亡したアンダルスから多数のムスリム亡命者がモロッコに移住。

そうした中、シャリーフ(ムハンマドの後裔)を名乗るサアド朝が16世紀後半にワッタース朝を滅ぼし、モロッコを統一。

ポルトガルとオスマン朝の攻撃を退け、トンブクトゥに遠征し、ソンガイ王国を滅ぼし、サハラ貿易を独占。

17世紀にはサアド朝が衰亡し、一時の分裂状態に陥った後、同様にシャリーフ家系のアラウィー朝が1659年成立、この王朝が現在まで続く。

19世紀帝国主義時代、タンジールのみを貿易港とする「鎖国政策」がヨーロッパ諸国の非難の的となり、隣国アルジェリアでフランスの植民地化に抵抗するアブドゥルカーディルを支援したこともあって、1844年フランスと戦うことになるが敗北、以後不平等条約を押し付けられ、列強の圧迫を受け続ける。

アルジェリア・チュニジアを植民地化したフランス、大西洋・地中海対岸のスペイン、ジブラルタルを領有するイギリスの三者が主だが、そこにドイツが割り込み、対仏威嚇と1904年締結の英仏協商の強さを瀬踏みしようとして起きたのが、1905年第一次モロッコ事件(タンジール事件)、1911年第二次モロッコ事件(アガディール事件)。

結局、1912年、中部の主要地帯はフランス、北部と(現西サハラを含む)南部はスペインによって保護国化。

アラウィー朝自体は存続したが、主権は喪失し、実質的には植民地化。

だがアラウィー朝スルタンは、独立運動の過程で団結の契機と象徴として威信を保つ。

北部のスペイン領モロッコでは、アブドゥルカリーム率いるベルベル農民らがリーフ戦争の名で知られる反乱を起こしたが、1926年鎮圧。

結局、1956年フランス領と北部スペイン領を併せた領土で独立達成、主権回復、スルタンは国王と称号を変え、ムハンマド5世として即位、君主権の強い立憲君主制国家として発足。

以後国王は、ハサン2世(1961~99年)、ムハンマド6世(1999年~)と続く。

チュニジアも似たような経緯で独立したものの、君主制は廃されてしまったが、この違いが何からもたらされたかはもっと詳しい本を読まないと分からないでしょう。

なお、北部のセウタおよびメリーリャは小さな飛び地であるが、現在もスペイン領のまま。

スペイン南端のジブラルタルは現在もイギリス領だが、スペインもモロッコにこの二つの飛び地領土を持っているわけである。

より重要な問題として、西サハラ問題がある。

スペインの南部保護領の一部だった西サハラ地域は、スペインが自治領として維持しようとし、また隣国モーリタニアも一時領有権を主張。

1975年スペイン民主化時代に、スペイン軍は撤退、モーリタニアも領有権を放棄したので、実質的にモロッコ領となったが、武装勢力が独立運動を展開、1984年「サハラ・アラブ民主共和国」がアフリカ統一機構(OAU)に加盟を認められると、モロッコは猛反発してOAUを脱退。

この問題は現在も解決を見ず、モロッコはOAUの後継組織、AU(アフリカ連合)にもアフリカ大陸で唯一非加盟を貫いている。

私が子供の頃のアフリカ地図では西サハラとナミビアだけが非独立地域の意味で白色のままだったのを覚えていますが、後者が独立した今となっては、西サハラだけが未確定領土として残っているわけです。

他に外交的には、イスラム諸国の中では比較的イスラエルに宥和的姿勢を保ち、プラグマティックな親米・親西側路線を採ることが多い。

 

 

メモする必要があるのは、まあこんなもんでしょ。

細かな王朝名は別にして、以上のようなことが常識的にわかっていれば良し。

2017年11月8日

川成洋 坂東省次 桑原真夫 『スペイン王権史』 (中公選書)

Filed under: スペイン — 万年初心者 @ 07:01

王国統一以後、ハプスブルク朝とブルボン朝の歴史を現代まで記したスペイン史。

その前史にも簡略に触れられている。

イスラム勢力侵入により西ゴート王国滅亡、北部の山岳地帯に拠ったキリスト教徒が、ドン・ペラーヨを始祖とするアストゥリアス王国建国。

アストゥリアスはレオン王国と呼ばれるようになるが、その一部であったカスティリャが強大化。

レコンキスタの中で、ナバラ王国のサンチョ3世(大王)が一時覇権を握るが、1035年その死後、ナバラ王国からアラゴン、カスティリャが分離、カスティリャはレオンを併合。

フェルナンド2世とイサベル1世の「カトリック両王」、カルロス1世(カール5世)、フェリペ2世は、高校世界史で既出なのですっ飛ばして、それ以後の国王の治世をごく簡単にメモしていく。

 

 

フェリペ3世(1598~1621年)

寵臣政治の下、国力の衰退と人口の激減が進み、オランダが独立、ムスリムからの改宗者を追放。

 

 

フェリペ4世(1621~1665年)

寵臣オリバレスが権勢を揮い、三十年戦争に介入して敗北、ウェストファリア条約後も続いたフランスとの戦いを終結させたピレネー条約でルシヨン、アルトワを割譲。ポルトガル再独立。

 

 

カルロス2世(1665~1700年)

病弱で、その死によってスペイン・ハプスブルク朝は断絶、ルイ13世、14世共にスペイン王室から后を迎えていた関係で、スペイン継承戦争を経て、ブルボン朝が成立することになる。

 

 

フェリペ5世(1700~1746年)

ルイ14世の孫。地方ごとの差異を排した政治的・法的一元化を実現。各種アカデミー設立や国語統一など文化事業にも実績を上げたが、鬱病を患うこともあった。

 

 

フェルナンド6世(1746~1759年)

英仏間の七年戦争で中立を保ち、産業振興と改革事業を推進した実り豊かな治世と評価されている。

 

 

カルロス3世(1759~1788年)

前王の異母弟。七年戦争に参戦し、1763年パリ条約でイギリスにフロリダ割譲、代わりにフランスから(ミシシッピ川以西の)ルイジアナ獲得、内政では「啓蒙王」の名の通り、社会改革事業を推進、イエズス会を追放。

 

 

カルロス4世(1788~1808年)

即位直後にフランス革命勃発。ゴドイが実質政権担当。共和国フランスに宣戦するが敗北、講和。それはまだいいとして、ナポレオンが権力を握るや、ゴドイはその傀儡と化し、フランスと同盟、1805年トラファルガー海戦で惨敗、スペインはその海軍をすべて失い、それが中南米植民地独立の契機となる。1808年皇太子の反仏陰謀を受けて、ナポレオンは国王父子をフランスに連行、兄のジョセフをスペイン国王に就ける。「ゲリラ」という言葉の語源になった国民的抵抗とイギリスの支援によってナポレオン軍を退けることに成功。父王と異なり、この王の評価は極めて低い。

 

 

フェルナンド7世(1814~1833年)

国民の歓呼の中、帰還し王位に就いたが、アンシャン・レジームの復活を企図、自由主義勢力との対立激化、神聖同盟による軍事干渉も受け、中南米植民地は次々と独立。

 

 

イサベル2世(1833~1868年)

ブルボン朝では初の女王、前王の弟カルロスの即位を主張する一派(カルリスタ)の反乱が起こる。自由主義勢力が政権を握るが、穏健派と急進派の対立が激化、その中で1868年(明治元年だ)発生したクーデタで女王は退位。

 

 

アマデオ1世(1870~1873年)

いくつかの候補の中から選ばれて即位した、イタリア王室出身の国王。本書では記載が無いようだが、普仏戦争のきっかけの一つであるスペイン王位継承問題というのは、この時の混乱時のことでしょう。政界の分裂・混乱に嫌気がさし、2年余りで自発的に退位。1873年第一共和政が宣言されるが、アナーキストや地方分離運動による反乱が頻発、安定と秩序を求める声が高まり、1874年王党派のクーデタが成功。

 

 

アルフォンソ12世(1874~1885年)

カルリスタ戦争を完全に集結させ、立憲君主制を確立、保守・自由両党による政権交代が曲がりなりにも実現、順調な経済成長を遂げる。

 

 

アルフォンソ13世(1886~1931年)

父王病死後の誕生。1898年米西戦争でキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を割譲、翌年ミクロネシアをドイツに売却、モロッコ以外の海外領土をすべて失う。第一次大戦で中立維持、大戦景気に沸くが、貧富の差は拡大、短期政権が続き、アナーキストによる暗殺行為が頻発、アブデル・クリーム率いるモロッコの反乱も起こり、1923年プリモ・デ・リベラ将軍の軍事政権が樹立。一時的緊急避難としてならともかく、軍事政権の長期化を支持したことは、国王の大きな過ちだった、と本書では評されている。反軍政運動の中で、君主派も共和派に移行し、30年プリモ・デ・リベラ辞任後、31年国民投票で第二共和政成立。アルフォンソ13世は、41年ローマで死去。

 

 

31年第二共和政、36年人民戦線内閣とスペイン内戦勃発、39年フランコ勝利。

この辺のことは、本書でも多くの紙数を割いて叙述されているが、ここでは一切省略。

一言だけ書けば、以前書いたような、スペイン内戦ではフランコが勝って良かったんではないか、というような意見はやはり言い過ぎかもしれないが、それでも私には共和国と人民戦線が絶対善とは思えない。

極右と極左への政治的分極化がもたらした不幸な出来事、ぐらいに解釈するのが適当ではないかと思える。

1939年4月、第二次大戦勃発の半年前、フランコが内戦終了を宣言。

フランコは、巧みに大戦への参戦を避け中立維持に成功、冷戦の進行で西側陣営への接近が可能となり、戦後の国際的孤立も解消。

以前も書きましたが、戦前の日本もなぜこのような道を辿れなかったのかなあと思います。

アルフォンソ13世の子ドン・フアンは、フランコに王政復古を要求するが、フランコは当座拒否。

内戦ではフランコ側を支持したものの、開明的な面も持つドン・フアンを警戒したものと見られる。

フランコは代わりにドン・フアンの子フアン・カルロスを国王候補としてスペイン国内で教育することを提案、ドン・フアンはこれを受け入れる。

フアン・カルロスは、面従腹背でフランコに接し、その死後1975年即位。

フアン・カルロス1世は、数年間、フランコ派と軍部の動向を慎重に見極めながら、首相スアレス、国会議長タトーと協力しつつ、漸進的にスペインを議会制民主主義体制に移行させることに成功。

1981年、スアレス首相辞任の際、一部将校が国会に突入しクーデタ未遂を起こすが、国王はテレビ演説で断固反対の決意を示し、鎮圧に成功。

80年代、西側主要国でこのような事件が起こっていたことは驚きである。

以後、社会労働党と国民党による政権交代が続く。

本書刊行の翌年、2014年フアン・カルロス1世は退位、フェリペ6世が即位している。

 

 

 

相当分厚い本だが、読みやすいので、ページ数はさして苦にならない。

スペイン通史としては、これまで茨木晃『スペイン史概説』という、極めて入手し難い本を基本に考えていたが、本書をそれに替えても良い。

十分有益な本であると思います。

2017年11月4日

花井等 編 『名著に学ぶ国際関係論』 (有斐閣)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 03:43

これ、以前 関連文献:読書論 という記事で名前を出しただけで、単独の記事にはしてませんでしたよね?

中身はタイトル通り。

国際関係論、国際政治経済学の名著22冊を取り上げ、その内容と今日的意義を述べたもの。

以下、書名を挙げる。

 

 

第一部 先駆的業績

クラウゼヴィッツ『戦争論』

カー『危機の二十年』

モーゲンソー『国際政治』

 

 

第二部 歴史・文明

トインビー『歴史の研究』

ハレー『歴史としての冷戦』

高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』

スチーブンスン『デタントの成立と変容』

ホフマン『国境を超える義務』

ケネディ『大国の興亡』

ハンチントン『文明の衝突』

 

 

第三部 政策・外交

ケナン『アメリカ外交50年』

ニコルソン『外交』

アリソン『決定の本質』

ホルスティ『国際政治の理論』

コヘイン『覇権後の国際政治経済学』

キッシンジャー『外交』

 

 

第四部 政治・経済

ウォーラースティン『資本主義世界経済』

スペロ『国際経済関係論』

ローズクランス『新貿易国家論』

モデルスキー『世界システムの動態』

ギルピン『世界システムの政治経済学』

ストレンジ『国際政治経済学入門』

 

 

第二版では以上に加えて、ナイ『国際紛争』が取り上げられているそうだ。

 

実際読んだことのある本もあれば、書名だけ聞いたことのあるものもあり、さらに本書を見るまで全く知らなかった本もある。

私がまだしも関心の持てる第三部までの書名を見ると、確かに定番とも言える古典・名著が並んでおり、参考にはなる。

国際関係論・国際政治学に興味のある独学者が、これらを順番に読んでいくというのは苦しいだろうし、多分全て読破するのも難しいだろうが、読書意欲をかき立てて、選書の為の材料には出来る。

2017年10月31日

ウィリアム・フォークナー 『サンクチュアリ』 (新潮文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:24

20世紀前半を代表するアメリカの文学者ではあるが、高校教科書ではほぼ名前が出ないので、私のレベルでは取り上げるかどうか微妙な作家である。

アメリカ南部の黒人差別など深刻なテーマを扱い、難解な作風で知られるそうだが、とりあえずこれを選んだ。

酒の密造者のアジトに迷い込んだ女子大生が陰惨な事件に巻き込まれる話。

読みにくい・・・・・。

登場人物や話の筋を確認するのにも苦労する。

当然、面白いと感じることもない。

どこまでも暗い雰囲気の中、どうしようもない下層階級と、同様にどうしようもない中流・上流階級の行動を淡々と描写して、物語は終わる。

何だこりゃ、というのが正直な感想。

全く分からない。

相当粗く読み進めたが、そうでなければ絶対挫折してた。

評価は「1」を付けるしかない。

私の能力では、この作品から何かを感じ取ることは無理でした。

『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』『八月の光』など他の作品を読む気にも当然なれない。

「フォークナーは、私には分からない、向いていない」ということを理解したことだけが収穫です。

2017年10月27日

宮田律 『物語イランの歴史  誇り高きペルシアの系譜』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:23

かなり前の記事だが、ここここで相当腐した記憶のある、この本を通読。

2002年刊。

 

ペルシア民族は、アケメネス朝・ササン朝という二大帝国をもって古代オリエントに君臨。

イスラム勢力の爆発的膨張によって、中東全域がアラブ民族の居住地域になるが、ペルシア人はイスラム教とアラビア文字は受容したものの、言語と民族の独自性は守り続ける。

それは、サファヴィー朝がシーア派を国教とし、イスラム世界で圧倒的多数のスンナ派への対抗軸を打ち立てたことで、さらに明確になった。

サファヴィー朝は、もう一つの非アラブ系主要民族であるトルコ人のオスマン朝による中東の政治的統一を阻止することにも成功。

「シーア派イスラム」と「“古代ペルシアの栄光”以来のイラン民族主義」という、二つのアイデンティティが、時の体制の思惑や世論の流れによって、交互に表舞台に表れる。

18世紀、サファヴィー朝滅亡後、その末にカージャール朝が成立するが、その歴史はほぼ全てイラン国家の衰退期といった感じで、イギリスとロシアによって半植民地に転落。

イラン人一般のカージャール朝への評価は極めて低い、と本書でも書かれているが、まあそりゃそうなんだろうなと思った。

第一次世界大戦後の混乱期に、レザー・ハーンがパフラヴィー朝(私の世代では「パーレヴィ朝」の表記がしっくりくる)を建国。

1941年レザー・シャーの親独傾斜を見たイギリス・ソ連両軍がイランに進駐、国王は退位し、モハンマド・レザー・パフラヴィーが二代目国王に即位、イラン革命まで四十年近く在位。

普通、「パーレヴィ国王」と言えば、この二代目の人物を指す。

第二次大戦後、モサデク政権の石油国有化政策は米英が援助したクーデタで失敗、国王は「白色革命」という名の上からの近代化政策を推進するが、経済格差の拡大と急激な西洋化が国民の反発を買い、1979年イラン革命で王政は崩壊し、神学者ホメイニ率いるイスラム原理主義政権が樹立される。

厳格なイスラム主義的な統制が国と社会を覆ったが、ホメイニ死後はその改革を求める勢力と保全を主張する勢力が均衡し、神学者である最高指導者による制約はありつつも、選挙で政権が正常に交替する、中東では数少ない国でもある。

 

 

以前、この本をざっと眺めた時には、「近現代史に偏重し過ぎだろう、これは『イラン現代史』と題して出すべき本だ」という感想を持ったのだが、通読してみると、前近代だけでなく近現代の部分も含めて、とにかく内容が粗く、物語性に乏しい。

重要史実にはとりあえず触れられているが、重点が感じられない、通り一遍の記述なので、強い印象を受けたり、事実が頭に刻み込まれるようなことが、ほとんど無い。

『イラン現代史』というタイトルだとしても、不満足である。

著者は、やはり現代イランの研究者であり、歴史研究者ではないのでは・・・・・。

『物語~の歴史』シリーズのコンセプトに合ってない。

これはやっぱり失敗なんでは・・・・・。

シリーズ内の貴重な一国を費消してしまった感がある。

最初に悪い印象を受けていたので、先入観があり、以上のような見方は厳し過ぎるのかもしれないが、やはり他人に推薦したくなる本ではありませんでした。

2017年10月16日

10冊で読む政治思想

Filed under: おしらせ・雑記, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

はじめにの記事で書いたように、私は抽象的思考力が無いに等しいので、このブログでも難解な哲学書、思想書は全く紹介していません。

ただ漠然とした政治思想についてなら、多少は書くこともあり、この記事を上げることにしました。

思想・哲学カテゴリから、私にとって必読と思えるものを抽出(日本人著者を除く)。

世界史全般近代日本史はもちろん、世界文学の各暫定必読書リストに比べても、網羅性にはそれほど配慮しなくてもいいと考え、思い切って10冊に絞ります。

そのデメリットは間違いなくあるでしょうが、この手のリストは冊数があまり多いと最初から嫌気が差して読書意欲を削ぐことがあるし、「とりあえずこれだけ読めばいい」とされると気が楽になって、指定された書を手に取りやすいものと思います(少なくとも私はそうです)。

 

 

高校世界史レベルで触れられる政治思想と言えば、古代ギリシアの政治哲学と近世の社会契約説がメインで、後は断片的に幾人かの学者名を挙げるだけかと思います。

このリストでは三つの柱を想定することにします。

「プラトンを中心とする古代ギリシア政治哲学」。

「バークを始めとする近代保守主義」。

「オルテガに代表される20世紀大衆社会論」。

 

 

 

では、まず古代の政治思想から。

これに関しては、結局プラトンの対話篇を出来るだけ多く読む、ということに尽きる。

『ソークラテースの弁明 クリトーン パイドーン』(新潮文庫)から、『プロタゴラス』(光文社古典新訳文庫)『メノン』(光文社古典新訳文庫)ときて、『饗宴』(光文社古典新訳文庫)といった具合に。

そしてここでリストの第一冊目を採用。

(1)プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)

議論の面白さに一驚した。

遥か古代の哲学書がこれほどの魅力をもって現代人の目に映ることは、真に驚きである。

必読書として確信を持って薦めることができる。

続いて、もうこれを挙げてしまおう。

(2)プラトン『国家 上』(ワイド版岩波文庫) 『同 下』

記事は上下巻に分かれているが、ここは1冊とカウント。

言うまでも無くプラトンの主著だが、これも読んだ際に、初心者が普通に面白く読めることに非常に驚いた記憶がある。

分量と内容はもちろん重厚だが、古代政治哲学の頂点と見なして、これをこなしたら他の本はそれほどフォローしなくてもいいと考えれば、楽なもんです。

プラトンの最後の大著『法律』が未読だが、これは今後の宿題として勘弁してもらいます。

古代はこの2冊だけでいいか。

アリストテレス『政治学』(中公クラシックス)は予想していたものと内容がズレているような感想を持ったので、岩波文庫の全訳も読もう読もうと思いながら未読だし、ここに挙げるのはやめておきます。

素人がやることだし、それでいいでしょう。

 

 

で、中世の政治思想は、高校教科書的には全く空白です。

しかし、個人的にはトマス・アクィナス『君主の統治について』(岩波文庫)は興味深かったことを記しておきます。

近世初頭に入ると、政治学を確立したと言われるマキアヴェッリ『君主論』(岩波文庫)がある。

これなあ・・・・・。

ネームバリューから言って読んだ方がいいんでしょう。

そうなんだけど、はっきり言って全然面白くない。

内容も頭に全然入ってこない。

読み手の私の問題である可能性が高いので、皆様は一読をお薦めしますが、このリストからは外させて下さい。

 

 

そして、現在の民主主義の「欽定学説」である社会契約説が来る。

これも同じなんですよ。

下手したら中学教科書でも書名が出るくらいだから、無視するのは難しい。

しかし、得たものはどれも少ない。

ロック『市民政府論』(光文社古典新訳文庫)ルソー『社会契約論』(光文社古典新訳文庫)は、初心者でも読める難易度と分量である。

ホッブズ『リヴァイアサン 1・2』(中公クラシックス)は抄訳でもちょっと苦しいが。

これらも読んだ方がいいでしょうが、リストに挙げるのは止めます。

むしろ、ヒューム『人性論』(中公クラシックス)収録の「原始契約について」のように社会契約説への批判の方が自分にとっては面白かった。

同様の知名度を誇る、モンテスキュー『法の精神』(中公クラシックス)は、社会契約説の著作に比べれば、読後有益なところもあったが、これもわずか全10冊のリストに加えるほどではない。

 

 

カント、ヘーゲル辺りについては何一つ語る資格が無い。

ただ、カント『永遠平和のために』(光文社古典新訳文庫)ヘーゲル『歴史哲学講義 上・下』(ワイド版岩波文庫)は初心者でもとりあえず読める本だと書いておきます。

 

 

「民主主義の総本山」アメリカ合衆国の建国の父たちの思想について、ハミルトン『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫)はその「非民主的」側面について知ることができる本で、やや貴重ではあるが、これも全巻すべてが素晴らしいとは思えず、外す。

 

 

で、ここで、これが来た。

(3)バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)

近代保守主義の起源となった記念碑的名著。

これも予想していたよりも遥かに容易に読めて、ありとあらゆる政治的叡智の泉であるという感想を持った。

読みつつ、深く嘆息して、感心するところが極めて多かった。

素晴らしいレトリックと論理に圧倒される。

絶対必読の名著。

そして次がこれ。

(4)トクヴィル『アメリカのデモクラシー 全4巻』(岩波文庫)

実はかなり迷いました。

一番最初この記事を考えた時は、絶対入れるつもりだったんです。

しかし、書名を埋めていくと1冊分空きが足りないなと思えて、これは分量も多いし、全訳を読んだはいいが、もう一つしっくりこない部分も多かったので、一旦は外すかと考えました。

しかし、思い直して復活させます。

ただ文庫本全四冊の分量がキツければ、本書に関しては中公クラシックスの抄訳版(「世界の名著」版の翻訳を収録したもの)でもいいです。

民主主義国の「多数の専制」がどれほど始末におえないものかを理解させてくれる。

 

 

マルクス主義については、一般常識として『共産党宣言』(岩波文庫)でも読めば十分だが、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態 上・下』(岩波文庫)は、共産主義が人類史上最悪の被害をもたらした後崩壊した現在でも読むに値する本ではある。

ローレンツ・シュタイン『平等原理と社会主義』(法政大学出版局)は、一部読んだところは興味深いものがあったが、通読は出来なかったので、他人に薦める資格が無い。

『ショーペンハウアー全集 13』(白水社)の中の政治論は非常に面白いのだが、後述のリストに挙げるトーマス・マンの本の中にもその引用が出て来るし、適切に編纂された新訳が出ることを期待して、今回はパス。

自由主義思想を代表するジョン・スチュアート・ミル『自由論』(日経BP社)は、内容的には(私にとっては)つまらないです。

むしろ、反自由主義的なカーライル『過去と現在』(日本教文社)の方が、今読むのなら、新鮮で有益でしょう。

カーライルの書も、リストアップを迷ったが、泣く泣く止めとくか。

 

 

一方、これは外せない。

(5)ル・ボン『群衆心理』(講談社学術文庫)

集団としての人間がどれほど悪逆かつ非理性的になるかという真実を直視した本。

近現代史の病理の原因をいやというほど教えてくれる。

類書のガブリエル・タルド『世論と群集』(未来社)も悪くないが、ル・ボンに比べればやや落ちる。

しかし、読めるものなら読んで下さい。

 

 

キルケゴール『現代の批判』(岩波文庫)も入れようと思ったんだが、10冊にギリギリ入らない。

現在の大衆社会の世論というものの問題点をするどく抉り出したものであり、必要な本ではあるんですが・・・・・。

もし全15冊だったら絶対入る本なので、次に読む候補として頭に入れておいて下さい。

ニーチェは学生時代に『ツァラトゥストラはこう言った 上・下』(岩波文庫)を訳も分からず読んだきりで、以後再読したり、別の作品を読んだりもしていないので、無視。

ブルクハルト『世界史的諸考察』(二玄社)は、著名な歴史家が、民主化と産業化を進行させ、破滅に向かう近代社会に警告した、深慮に満ちた史論であり、記事で引用した部分などは深く考えさせられるものがあったが、心に引っかかる部分が全篇のうちで少な目だったので、悩みつつ外す。

バジョット『イギリス憲政論』(『世界の名著 バジョット ラスキ マッキーヴァー』収録 現在は単独で中公クラシックス収録)は君主制の現代的意義を説いた興味深い著作だが、冊数上これも入れるのは無理。

是非読んで欲しい本だし、惜しいんですけどねえ・・・・・。

 

 

一方、これは迷いなく挙げる。

(6)チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)

キリスト教的正統思想の擁護を実に巧みで華麗な論理で展開しており、初読の際にはほとほと感心した。

広く保守主義の根拠ともなる作品であり、読後感は本当に素晴らしかった。

それでいて、何一つ難しいところはない。

絶対必読の本。

そして、続いてこれだ。

(7)トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)

これ、やや微妙なところがあって、マン自身は、後に本書の内容とは全く逆に民主主義の擁護者になっている。

しかし、現在から見れば、本書の立場の方が圧倒的に興味深く、面白い。

これも、読んでいてページを手繰るのが止まらなくなるほど、素晴らしかった。

でも、入手し難い。

筑摩書房さん、是非とも、ちくま学芸文庫に一刻も早く収録して、再刊をお願いします。

 

 

そして、次はこれかな。

(8)ヤスパース『現代の精神的状況』(理想社)

これは無条件で選んだわけではない。

翻訳も古めかしいし、特に前半は相当悪戦苦闘しながら、何とか読み終えたことが上記リンク先記事からも分かる。

でも、これは現在でも読むべき本だ。

引用文1同2同3を含めて読むと、これ現代のネット世論を予言していたのではないかと思えるほど的確な描写に驚かされる。

悪質なネット世論が他のメディアを侵食し、同様に劣化させて社会を醜悪と荒廃に導きつつある全世界的傾向を見ると、この書の価値を否応なく実感させられる。

どこかの良心的な出版社が新訳を出してくれることを期待してリストに加えます。

そして、この本は絶対に外せない。

(9)ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)

引用文1同2同3同4での文章を含めて読み返すと、近代の宿痾をこれほど鋭く抉った思想書も少ないと思える。

その実状を理解すればするほどほぼ完全に絶望するしかないが、それでもわずかながらの、宗教的というしかない希望を持ち、次の世代に良き価値を引き渡すために自らの義務を果たし続けた人間の遺言のような書。

しかし、本書が新刊として手に入らない現状は、日本の文化的醜聞である。

中央公論さん、本当に何とかして下さい。

文庫のまま復刊するか、中公クラシックスに入れて、可能な限り長期間在庫してもらわないと、本来は困る本。

頼みますから、そうして下さい。

レーデラー『大衆の国家』(創元社)ジグマンド・ノイマン『大衆国家と独裁』(みすず書房)フロム『自由からの逃走』(東京創元社)は、それぞれ特色ある大衆社会論として読む価値があるが、必読とまでは言えないか。

T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』(中公クラシックス)は、階級社会の擁護という反時代的姿勢が興味深く、有益な書であるが、これも泣く泣く外すか・・・・・。

オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)は、読んだ部分は面白く、心に残る文章があったが、難易度が高く、自分でも通読出来ていないので、当然リストには加えられない。

で、最後の10冊目はこれ。

(10)オルテガ『大衆の反逆』(白水社)

思想・哲学カテゴリの一番最初に紹介していることからも分かるように、ものすごい衝撃を受けた本。

これを読まないというのはありえないでしょう。

本書で批判されているような意味での「大衆」は、本書を読んでも自省するどころか、本書のレトリックを用いて他者を攻撃するような救いの無さを持っているんでしょうが(私自身にもそういうところはあるでしょう)、それでも読まないわけにはいかない。

 

 

 

以上で全10冊をリストアップしました。

古典的な思想家と言えるのは、以上に挙げた人々くらいですか。

以下、追加。

まず挙げないといけないのは、コーンハウザー『大衆社会の政治』(東京創元社)です。

大衆社会論全般の見取り図を与えてくれる本として非常に重要。

これ、何とか10冊の中に入らないかなあと検討したんですが、他の思想家と並ぶとさすがに著者名が見劣りするし、本書の「貴族主義的大衆批判」と「民主主義的大衆批判」という整理の仕方が適切ではないとの意見もあるしで、結局外しました。

ただ、リストの準候補には間違いなく入っている著作です。

でも、これも入手しにくいんだよなあ・・・・・。

馬鹿みたいなネトウヨ本を粗製濫造するくらいなら、こういう本を復刊してくれないかなあ・・・・・。

クイントン『不完全性の政治学』(東信堂)ニスベット『保守主義』(昭和堂)は、比較的最近出た保守主義の名著として、コーンハウザーのように入れようかと思ったんですが・・・・・止めときます。

 

 

さらに、番外として、現在大きな問題になっている新自由主義とリバタリアニズムについて。

フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』(東京創元社)は、今となっては読むべき本に思えない。

むしろ、カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)同『公共哲学』(ちくま学芸文庫)同『それをお金で買いますか』(早川書房)などを読んで、市場主義的考えに対する抵抗感を養った方がよい。

 

 

 

 

終わりです。

以下が10冊のリストです。

 

(1)プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)

(2)プラトン『国家 上』(ワイド版岩波文庫) 『同 下』

(3)バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)

(4)トクヴィル『アメリカのデモクラシー 全4巻』(岩波文庫)

(5)ル・ボン『群衆心理』(講談社学術文庫)

(6)チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)

(7)トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)

(8)ヤスパース『現代の精神的状況』(理想社)

(9)ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)

(10)オルテガ『大衆の反逆』(白水社)

 

 

うーん、どうかなあ・・・・・・。

やっぱり全15冊くらいにした方が良かったかなあ。

まあ、これでいいか。

キリもいいし、読むのも楽だし。

自分が、世界の歴史、特に近現代史を読む上で、基本となる考え方を養ってくれた書物です。

当然、個人的偏りが大きくあるので、一部を取捨選択したり、あるいは全く別のリストを作って、それを読むことにしても全然結構です。

普段思想・哲学関係の本など一切読まなかった、という私と変わらないレベルの方に、選書の切っ掛けにでもして頂けたら幸いです。

 

2017年10月6日

伊藤之雄 『原敬  外交と政治の理想  上・下』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:52

上・下巻合わせて900ページを超える大著。

「賊軍」扱いされた東北出身者で、薩長藩閥への怨念を強く持ち、それをバネにして日本初の本格的政党内閣を組織したが、「平民宰相」の美名とは裏腹に普通選挙導入に反対し、党利党略を目的とした「我田引鉄」の利益誘導政策によって政治腐敗を激化させ、遂にはそれに憤激した青年に暗殺された、功罪相半ばする政治家、というのが、平均的な原敬イメージでしょうか。

本書では、伊藤博文を継いで、日本国家の屋台骨を、本来ならば昭和初期まで担うはずであった大政治家として捉え、その生涯を叙述している。

 

 

原敬は、1856(安政三)年、盛岡(南部)藩の家老格の家に生まれる。

9歳の時に父が死去。

学んだ塾では成績優秀で、農民の子供にも親切に接していたという。

戊辰戦争で、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、敗北。

敗者の苦難を舐め、同様の境遇に陥った人々への共感を持つが、ここで原が薩長への根深い怨念を持ったとの定説は否定されている。

1871年上京して苦学し、フランス人宣教師の神学校に住み込み、フランス語を学び、洗礼を受けるが、そのキリスト教信仰は生涯続くようなものではなかったという。

1875年分家した際、自身を士族ではなく平民として登記。

翌年司法省法学校に入学するが、法学に飽き足らず、政治・外交の道を志し、退学。

1879年中江兆民の私塾に半年余り在籍。

当時の兆民は「自由民権運動最左派」のイメージとは異なり、民権の発達が即国家の富強に結びつくものではないこと、十数年先はともかく現在では民選議院は時期尚早であること、分別の無い欧化政策は有害であり儒教などの伝統的価値を近代的に錬成する漸進主義が必要であること、功利主義による無条件な自己利益の追求を否定し常に「公利」を重視する必要があること、などを説いており、原の問題意識とほとんどの点で一致し、その生涯を貫く考え方となった。

同年大隈重信系の郵便報知新聞社に入社。

明治十四年の政変前で、大隈はまだ藩閥政府の一員であり、その紙面は政府批判一色では無かった。

そこで原が主張したことは、藩閥政府の維新以来の近代化政策に一定の評価を与え、旧士族や富者の特権を批判しつつ、フランス革命のような急進的で過激な動きを退け、イギリスを理想とした穏健な議会政治を漸進的に実現すること。

十四年政変後、郵便報知新聞が下野した大隈派の牙城となると、原は退社。

原は「輿論[しっかりした責任感のある国民の意見]」と「世論[物事を十分に考えていない多くの人々の意向]」をはっきりと区別していた

・・・・・ここでは、大隈ら急進的な民権派や国会を有害なものと見る藩閥政府内の守旧派を除いた、伊藤ら藩閥政府首脳や原ら真の「自由民権」論者の意見を「輿論」としているのである。・・・・・なお原は、真の「自由民権」とは、より良い国作りのため、藩閥政府と「人民」、また「人民」同士で議論することで、国益や「勤王」にかなうものである、とした。また、イギリスの保守党を「自由民権」の政党ととらえたように、「自由民権」を保守層まで取り込む幅広い概念で理解したのである・・・・・原はこの約一九年後に伊藤博文の創立した政党、立憲政友会に入党する。原の理解では、この政党は「自由民権」思想の延長線上にある政党といえる。

1882年立憲帝政党系の大東日報社に入社し、同年朝鮮での壬午軍乱に関する取材で井上馨外務卿の知遇を得て、外務省に入省。

1883年清国駐在の天津領事に任命。

清仏戦争に対処する李鴻章とたびたび会談。

1884年甲申事変勃発。

伊藤・井上は日清間の衝突回避と朝鮮の近代化への誘導を、薩摩系は対清強硬論と朝鮮植民地化を志向。

清国に渡った伊藤は李鴻章と会談、天津条約を締結し、この時点での日清戦争は回避され、原は伊藤を情報収集と分析能力で大いに補佐した。

原は伊藤の知遇と評価を期待したが、憲法制定を最大の課題とする当時の伊藤はこの時点で原を腹心の一員に加えるつもりはなく、両者の間にややわだかまりが残る結果となった。

1885年にはパリ公使館書記官として赴任(同年内閣制度発足、伊藤が初代総理大臣に就任)。

フランス語能力を使って、国際法・政治・外交・歴史・哲学・文学など幅広い書物を学習。

オーストリアおよびドイツ公使として赴任してきた西園寺公望と出会うが、当初はやや疎遠な関係。

井上外相の条約改正交渉が、外国人判事任用をめぐる国内の反対で頓挫。

井上辞任後、1888年原が嫌う大隈重信が外相に就任すると帰任命令が出る。

帰国後、農商務省に入省。

黒田清隆内閣で農商務大臣となった井上の下で官制改革を推進するが、大審院への外国人判事任用を含む、大隈外相の条約改正交渉に反対して、井上は辞任。

大隈重信の条約改正交渉が、実は「超然主義」で有名な(悪名高い)黒田内閣時であることは要チェック。

その際、原も枢密院書記官への転身の話が出るが、書記官長の伊東巳代治と肌合いが悪く、流れる。

1889年大隈がテロで重傷を負い、黒田内閣総辞職、第1次山県有朋内閣成立、外相青木周蔵が条約改正交渉継続、新農商務相が病気で辞職した後、後任に陸奥宗光就任。

陸奥は和歌山藩出身、西南戦争で西郷軍に呼応する計画を立て一時投獄、その後伊藤・井上の計らいで駐米公使となり、西園寺とも親しい、伊藤系の有力者。

原は陸奥に心酔し、協力して省内改革を断行。

1890年第一回総選挙と帝国議会開会、陸奥は当選し衆議院に議席を持つ唯一の閣僚となり、自由党にも自派を入党させようとし、将来的には自身を首班とした政党内閣を目指す。

原は、帝国議会での混乱を見て、政府・民党双方に批判的見解を抱く。

1891年第1次松方正義内閣成立、大津事件勃発。

第二回総選挙で、品川弥次郎内相の大選挙干渉。

伊藤・陸奥は政党圧迫一辺倒の松方・品川を批判、陸奥は辞任し、原も農商務省を離れる。

1892年松方内閣総辞職、その際の組閣過程で元老という憲法上にない慣例的な機関が姿を現す。

第2次伊藤内閣成立、陸奥は外相に就任、原は通商局長となる。

陸奥外相は、関税自主権回復をしばし先延ばしし、独立国の主権に関わる治外法権の撤廃を最優先として条約交渉を再開、日清戦争直前に日英通商航海条約締結に成功する。

原は陸奥の側近として議会対策に挺身、民党の主張には是々非々で臨み、もし民党の反対で政権維持が困難なら、藩閥勢力は一時下野も辞さず、民党が失敗し、そこから学ぶのを待つべきだと主張。

この主張は1898年隈板内閣成立で実現したが、しかし、1893年の時点で政府と議会の妥協をもたらした「和協の詔勅」を原が批判したのは、条約改正問題や朝鮮半島問題で懸案の多い中、民党に政権を渡すことが極めて危険であることを見通しておらず、伊藤や陸奥の判断の方が的確だ、と著者は評している。

朝鮮半島問題では、まず防穀令事件に対処、条約上の権利に基づき断固とした態度を示し、朝鮮政府の対応に不信感を持ちつつ、日本側のいたずらに強圧的な交渉態度も批判、あくまで朝鮮国の近代化支援と安定化を推進することを日本の朝鮮半島政策の根本に置き、植民地化・保護国化を目指す議論には同意せず。

著者は、それがこの時点で伊藤・井上・陸奥ら政権中枢に共有された方針であったことを指摘している。

1894年日清戦争勃発、戦時には原は特別な任務を与えられることはなく、無聊をかこつ。

この時期、俊英陸奥の下には、原だけでなく、小村寿太郎、加藤高明も要職を務めていた。

原は1895年外務次官に就任。

三浦梧楼公使が主導した閔妃殺害事件に対処、武官である総督が独立的権限を揮う台湾統治体制を批判。

1896年朝鮮国公使に転任するが、同年第2次伊藤内閣総辞職、第2次松方内閣成立、進歩党と連携した為、外相はまたも大隈で、原は帰国。

同時期、板垣・林有造ら土佐派、岡崎邦輔・星亨ら陸奥側近派、河野広中ら東北派、松田正久ら九州派の対立が目立つ自由党に陸奥が入党し、指導者となることが見込まれるが、陸奥の健康状態は悪化し、1897年死去。

原は外務省を退き、『大阪毎日新聞』に入社、軍部大臣文官制、列強の国際規範を守った現実主義的外交、清国・朝鮮への蔑視を排した上での断固とした対応、日清戦争後の軍備拡張支持、外資導入による産業振興を主張し、部数の大幅拡張に成功。

1898年第3次伊藤内閣を経て、自由党・進歩党合同による憲政党結成と第1次大隈内閣成立、その倒壊と憲政党・憲政本党分裂後、第2次山県内閣成立という混乱の中、伊藤が山県・松方らの反対を押し切って旧自由党を主体とする新政党結成を志すと、原もその動きに合流。

伊藤の盟友であるが、組閣の機を逸して伊藤への複雑な思いを持つ井上との関係を修復、原を自派に取り込もうとする山県の誘いを拒絶。

1900年立憲政友会結成。

西園寺公望、原、星亨、松田正久、末松謙澄、林有造、金子賢太郎、渡辺国武、尾崎行雄(尾崎のみ憲政本党系)が参加。

原と関係が悪く、政党政治への理解も持たない伊東巳代治は参加せず。

同年成立の第4次伊藤内閣には当初入閣できなかったが、伊藤の後継者西園寺との関係を深め、逓信大臣として入閣、東北出身者初の大臣となる。

公債支弁事業に消極的な渡辺国武蔵相と対立、西園寺と連携した原は党内地位を向上させるが、1901年内閣総辞職、後任は山県系官僚を主体とする第1次桂太郎内閣。

同年金権政治家との悪評を受けていた星亨が暗殺、政友会は伊藤と後継者と見られた西園寺の下、原・松田・尾崎らで指導部を形成。

桂内閣への対決姿勢を強める原・松田に対し、国際情勢の緊迫化と不況の深刻化を見た伊藤・井上は倒閣に消極的。

この路線対立を利用した桂内閣の揺さぶりもあり、少なからぬ脱党者が出たが、1903年総裁が西園寺に交替し、原・松田は政友会の勢力保持に成功。

その間、1902年総選挙で原は盛岡市から出馬、大差で当選している。

ここで注目すべきは、選挙運動で、鉄道建設などの公共事業の利益誘導を自身の支持拡大の為に利用しなかったこと。

あくまで「公利」(公共性)重視の主張を貫いた。

また、この時期『大阪新報』という新聞の経営にも携わっているが、世論の大勢に媚びることなく、対露強硬論を唱えず、政府の冷静な外交努力を支持した為、過去の『大阪毎日新聞』とは異なり、大きな成果は収め得なかった、とある。

この辺は筋を通す政治家として、やはり評価に値すると思う。

原と政友会は、外交問題でも世論に迎合せず、日露開戦まで対露強硬論を主張せず。

日露戦争下、桂首相と政友会は政権授受密約を結んだうえで協力。

犬養毅、大石正巳ら憲政本党が賠償金抜きの講和条約反対運動を展開する中、政友会は同調せず。

講和直後、伊藤は、政友会への政権授受密約を承認していながら、山県系軍人ではあるが、山県から独立した立場を取る児玉源太郎を首班とする内閣を作ることを一時構想したが、原の反対で断念、1906年第1次西園寺公望内閣成立。

内相原敬、外相加藤高明(第4次伊藤内閣でも外相)、陸相寺内正毅、海相斎藤実、蔵相阪谷芳郎、法相松田正久、文相牧野伸顕という構成。

政友会からの入閣者は西園寺・原・松田のみで、これは通常「本格的政党内閣」とは見なされず。

原は内相として、地方自治拡充と警視庁改革などで、山県系官僚閥と対決。

輸送・交通の促進と効率化の観点から鉄道国有法を公布。

これらの政友会の鉄道政策も自党の支持を広げるための利益誘導を目的としたものではないとされている。

外相加藤高明が、鉄道国有化と陸軍主導の満州経営に反対して、わずか三カ月で辞任、政友会内での信望を無くし、政治家としての地位を低下させる。

西園寺には、線が細く指導力に乏しいイメージがあるが、伊藤など元老や桂との信頼関係もあり、健康に問題が無い時期の、この第1次内閣の頃はそれなりにリーダーシップを発揮、満州軍政廃止や陸軍軍備拡張問題を適切に処理した。

原は伊藤と肝胆相照らす仲となり、立憲政治と政党内閣の理想を掲げ、山県閥と対立、台湾・満鉄・南樺太の経営について内閣の主導権を確保することを目指して活動。

外交では、ハーグ密使事件後に第三次日韓協約が結ばれたが、伊藤と共に完全な併合には反対。

カリフォルニア州での排日運動を受けて、それへの日本国内の反発が強まるが、西園寺政権と政友会は問題を深刻化させず、日米紳士協定を締結して鎮静化に成功。

1908年総選挙でも勝利したが、山県・松方の政権反対姿勢が強まり、健康問題もあって西園寺は総理辞任。

この第1次西園寺内閣時代、原は数々の重要課題に取り組み、政策理解力・交渉力・実行力で同僚の松田を引き離し、西園寺の後継者としての地位を確立する。

第2次桂太郎内閣時代、原は欧米周遊旅行に出発、米国の富強振りと各国での官僚政治の没落と民意の発展を目撃し、強い印象を受ける。

1909年伊藤が暗殺され、翌年韓国併合が断行、その後、朝鮮を訪れた原は総督府の統治に疑問を持たず、同化政策を実現可能と見た。

朝鮮人に対する愚民観は持っていなかったというが、自身を含む東北人が当初反発していた明治国家に統合された経験を韓民族にも当てはめるというのは、隣国のナショナリズムと愛国心に対する無理解と言われても仕方ないでしょう。

健康が十分に回復せず、政党指導者としての意欲を失いつつあった西園寺や、自党の掌握と桂首相との交渉での不手際が目立つ松田に代わって、原が政友会の実質的主導者となる。

第2次桂内閣の後継として陸相寺内正毅への禅譲が話題に上ると、原は桂との巧みな交渉で、政友会への再度の政権授受の流れを作ることに成功。

その間、1905年に古河鉱業の跡を継いでいた、陸奥宗光の次男が病を得ると、原が実質社長として経営に参画、1890年頃から問題になっていた足尾銅山鉱毒問題に治水工事によって対処するが、田中正造の反対運動には共感を持たず。

1911年第2次西園寺内閣成立、内相兼鉄道院総裁が原、司法相松田、外相は桂が留任を提案した小村寿太郎は対外硬的感覚を懸念して退け内田康哉を起用、蔵相には山本達雄、陸相は非山県系で薩摩出身の上原勇作を当てようとしたが果たせず石本新六、海相は斎藤実留任。

日露戦争後の財政難の中、均衡財政主義の蔵相山本と経費節減をした上での積極政策を推進する原が強く対立。

辛亥革命に対して原は、北方清朝側、南方革命側の間で中立を守ることを主張、安易な利権拡張を目論む動きに釘をさす。

明治天皇崩御、大正改元、桂との関係が微妙になっていた山県の思惑で、桂は内大臣に就任し、宮中に押し込められる形になる。

陸相の石本が病気で辞任すると、上原が後任となるが、ここで二個師団増設問題が起こり、大正政変の契機となる。

原と山県の間で妥協の動きもあったが、再度組閣し表舞台に戻ろうとした桂が上原を焚き付け、1912年西園寺政権は倒壊(非主流派の上原は、山県が妥協的であることと桂と山県の仲が微妙になっているのを知らなかったらしい)。

陸軍・長州閥・藩閥官僚批判の世論が盛り上がる中、元老会議では後任首相に松方・山本権兵衛・平田東助(山県系官僚、前内相)の名が浮かぶが決め手が無く、原は「元老の価値甚だ衰へたり」と日記に記した。

結局第3次桂内閣が成立。

内相大浦兼武、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎、陸相木越安綱、海相斎藤実、逓相兼鉄道院総裁後藤新平。

それに対し、第一次憲政擁護運動が勃興、政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが参加。

桂は新政党組織計画を発表、衆院第二党の国民党内から反犬養派が大挙参加し、国民党は大打撃を受ける。

原は、藩閥官僚批判の輿論の高まり自体は好ましいとしたが、それが非合理的・感情的な世論となり、政治を激変させることは極めて危険であるとの醒めた視線を、自由民権運動の勃興以来、一貫して持っていた。

この為、原は桂に「名誉ある撤退」の道を提示したが、桂は拒否、護憲運動はピークに達し、遂に桂内閣総辞職に至る。

1913年第1次山本権兵衛内閣成立。

薩摩系官僚内閣だが、事実上政友会の支持を受ける。

原はまたも内相、松田が法相、外相牧野伸顕、蔵相高橋是清、陸相木越と海相斎藤は留任(木越は病気で辞任、非山県系で要職経験無しの楠瀬幸彦が後任)。

この内閣で、着実な秩序ある政治改革を推進、高校日本史でも既出だが、軍部大臣現役武官制を廃止し、文官任用令改正によって、政党による官僚自由任用の範囲が1899年第2次山県内閣時代に内閣書記官長と大臣秘書官のみに制限されていたのを、陸海軍省を除く各省次官、法制局長官、警視総監、貴族院・衆議院の書記官長、内務省警保局長、各省勅任参事官にまで拡大。

政友会内部では、護憲運動によって一時党人派の松田の威信が高まるが、松田の指導力に深い疑念を持つ西園寺と原は時期を待ち、巧みに原後継体制を固めていく。

1913年桂が死去、桂の新党計画の結果である立憲同志会が加藤高明中心に結成、14年松田も重病でこの世を去る。

14年シーメンス事件が発覚、山本内閣総辞職。

この事件がなく、また原が自身の希望通りより早い時期に閣僚を辞任し内閣と距離を置けていれば、この時期に原政友会内閣が成立した可能性もあったと評されている。

元老会議で山県が中心となって、大隈重信を首相に推薦、第2次大隈内閣が立憲同志会を与党として成立、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎。

民党の一方の雄であり、自身の宿敵ともいえる大隈を首相に推薦したところに、山県の原と政友会に対する憎悪がいかに強いものなのかが表れている。

原は山本内閣入閣時に政友会に入党した高橋是清、山本達雄らを最高幹部として遇し、遂に自身が西園寺に替わって第三代政友会総裁に就任、山県との対決に備える(西園寺は元老として政治に関与し続ける)。

第一次世界大戦勃発。

加藤高明の参戦外交に対し、原・山県ともに懸念を募らせる。

第一次世界大戦が始まった一九一四年の夏から秋にかけて、日本には二つの道があった。一つは原のように、大戦後に世界をリードすることになる米国との関係を重視し、ヨーロッパの戦争を東アジアにまで広げて日本が中国大陸等で利権の拡大をするような道を取らないことである。その上で、中国との連携を深めて、満州の租借期限の延長など満州問題を解決する。これは原の構想である。もう一つは、ヨーロッパに陸軍すら出兵する覚悟で、日本が大戦に積極的に関与し、世界の秩序形成に加わることで、英国との連携を密にしながら、中国大陸での影響力の拡大(あるいは利権の拡大)を図ることである。

実際にはそのどちらの道も取れずに、中国大陸での利権拡大のみに走る結果となり、大戦後に日本の国際的地位が確立しなかったのであった。

・・・・原は山県ら元老に対米重視の外交論を述べ、元老たちの加藤高明外相・大隈首相の外交への不満の言葉を引き出したが、元老は大隈内閣倒閣に動くことはなかった。それは元老の中心である山県が、将来に困難を生み出すかもしれない外交問題よりも、政友会による陸軍や山県系官僚閥、元老への攻撃と、国内の秩序破壊をより問題視していたからである。山県は原の対米重視の意味を十分に理解できなかったし、大隈内閣の外交に不安や不満を感じても、政友会の多数を崩すほうがより重要だと考えた。

原は入党間もない高橋是清と緊密な関係を築き、高橋の党内地位が向上。

1915年総選挙、青島陥落と大戦景気、大隈の大衆的人気が相まって、立憲同志会が圧勝、政友会大敗。

同年二十一ヵ条要求という近代日本蹉跌の原因となった外交愚行が行われる。

・・・・二十一ヵ条要求が過大なものになったのは、加藤外相や外務省が過大な要求を正当としたのではなく、陸軍などを抑えることができなかったからである。陸軍を抑える力を持っていたのは山県有朋・井上馨ら元老であったが、加藤外相は外交一元化に固執して元老と積極的にコミュニケーションを取ろうとしなかった・・・・。加藤は、大隈内閣成立直後から元老を外交に介入させない、という「外交の一元化」を掲げていた。しかし、外相として米・英や中国となるべく良好な国際関係を作るという最重要課題と、自ら掲げた「外交の一元化」を実施するというプライドとの、事の軽重をまったく判断できなかったのである。

1915年井上馨死去。

政友会設立に当たっては伊藤と協力し、原の最初期のキャリアでの庇護者でもあったが、晩年は元老として原と政友会に対して深い敵意を抱く関係となってしまっていた。

1916年対中・対米関係悪化を受けて山県が大隈内閣に主張していた第四次日露協約が結ばれたが、翌年のロシア革命で全く無意味なものとなってしまう。

加藤高明は内政では大政治家と言っていいんでしょうが、少なくともこの時期に限っては、その外交は原のような慎重策を取るでもなく、陸軍の欧州派遣というリスクを負って日英同盟を深化させるでもなく、ただ火事場泥棒的な利権拡大に走り、中国ナショナリズムの深刻な敵意の標的となった挙句、米英関係も悪化させるという最悪の結果を招いたと言われても仕方がないでしょう。

それを批判した山県はさすがだが、しかし山県ほどの冷徹なリアリストでも、内政での政党政治への敵意に目が曇らされて、外交政策転換の為の大隈内閣倒閣に躊躇したというのは山県にとって名誉なことではない。

本書の筆致では、原こそが当時の国際情勢を最も的確に見抜いていたことになっている。

大隈の後継として、立憲同志会の加藤高明内閣が成立することを西園寺だけでなく、仇敵山県とも暗黙裡に連携して阻止。

大隈内閣打倒と外交政策転換を最重視、山県の政友会アレルギーを考慮し、即時の政権奪還を意図せず。

1916年寺内正毅内閣成立。

内相後藤新平、蔵相勝田主計、外相本野一郎など山県系官僚で固めた超然内閣。

加藤高明は立憲同志会を憲政会に改組、国民党と共に寺内内閣との対決姿勢を強めるが、原の政友会は是々非々主義の態度を表明、寺内政権と事実上連携し1917年総選挙で勝利。

寺内内閣下、原の主張で外交の大枠を決定する組織として外交調査会が発足、原と犬養国民党総理が委員に就任するが、加藤高明は参加せず。

しかし、西原借款、シベリア出兵という問題で、この組織は必ずしも原の望んだような掣肘を政府の外交政策に加えることができず。

米騒動で寺内内閣が揺らぐと、田中義一参謀次長に接近、陸軍内の情報を得て、政権獲得を目指す。

1918年9月西園寺に組閣させようとする、山県の最後の策謀が失敗した後、遂に原に組閣の大命が下る。

この組閣準備において、原は山県および寺内に陸相だけでなく海相人事についても意見を聞いているが、そこで以下のような注目すべき記述が見られる。

元来、陸相の人選は、元老山県元帥を中心に、陸相や山県に準じる存在となった桂太郎大将が相談して行い、桂の死後は寺内が桂の代わりに人選に加わるようになった・・・・また海相は、山本権兵衛が海相を引退した後は、山本が中心となり薩摩海軍の有力者と相談して人選してきた。ところがシーメンス事件で海軍が大打撃を受け、山本権兵衛内閣まで倒れると、海相の人選に山県が口を出すようになった・・・・表に出ないこのような軍部大臣の人選の慣行の変化すら、原は把握したうえで、交渉した。そこに原の政治指導の凄みが出る。従来、軍事の専門家集団として陸軍・海軍が、統帥権独立を掲げて、それぞれ陸相・海相の人選権を分有していたものを、山県が侵した。おそらく原は、将来、首相がその権限を握ることにつながるチャンスととらえ、山県が海相の人選に介入するという新慣行に乗ることにしたのだろう。

結局、海相は加藤友三郎が留任、陸相は田中義一。

外相は内田康哉、内相床次(とこなみ)竹二郎、蔵相高橋是清、農商務相山本達雄、逓相野田卯太郎、文相中橋徳五郎。

陸・海軍相と外相以外はすべて政友会党員で、これが教科書で書かれている「本格的な政党内閣」である。

法相は一時平沼騏一郎の名が挙がっており、意外な感があるが、平沼は司法官僚出身だが山県系ではなく、最近の研究では、政友会と連携しながら司法界でその地位を向上させてきたとされるという。

平沼は政友会入党を求められることを恐れて辞退、法相は原が兼務。

外交も首相の原が大枠の方針を定めたので、外相も事実上兼務した形。

原内閣成立は第一次大戦の休戦直前である。

戦後の国際情勢変動に対応し、対中親善と対米協調を最重視。

当初加藤高明系として警戒していた幣原喜重郎外務次官が国際協調主義を信奉していることを知ると、幣原を駐米大使に起用。

田中陸相が山梨半造を次官に起用することに、原首相の内々の同意を求める。

統帥権に関わる陸軍の重要人事に文官首相が関与することになり、田中は政党内閣首班である原に恭順の姿勢を示したことになる。

パリ講和会議で、山東省旧ドイツ利権について、即時の中国への返還は拒否しながら、数年後のワシントン会議後での返還への道筋も付ける。

米国はラテン・アメリカやフィリピンでの自国の権益は譲らないまま、理想主義的なウィルソン主義外交を日本が大きな権益を持つ中国に適用しようとしていた面があり、この対応は列強の中で特に保守的なものとは言えないと評されている。

1919年の五・四運動をこれまでの国際秩序を一方的に否認する性質の動きとして否定的に見たが、中国の分裂を利用し国際協調を無視した一方的利権拡大を否定する原の外交路線が継続されていれば、日中双方にとって破滅的だった両国の全面対決は避けられたでしょう。

同年の三・一独立運動に際しては、朝鮮の地方自治を容認する構想を持つが、それも伊藤のように朝鮮人による責任内閣と植民地議会という考えからは後退している。

原ほどの人物にしても、日本と韓国の関係を、薩長と自身の郷里盛岡との関係と同類と捉え、隣国のナショナリズムに理解を持てなかったのは残念な事実ではある。

その三・一運動鎮圧の為の憲兵増派を、武官である朝鮮総督ではなく内閣が主導。

朝鮮総督、台湾総督を文官・武官いずれも就任できるように官制を改正、南満州の関東都督府は廃止され、文官の関東長官と武官の関東軍司令官に分離。

内政では、大学令を公布し高等教育機関を大幅拡充。

官立単科大学と公立大学設置の枠組みを定め、これまで大学の名を冠していても専門学校扱いだった早稲田大、慶応大など私学の大学昇格を積極的に認める。

産業振興と鉄道網整備を推進。

陸軍25個師団と海軍八・八艦隊の国防充実要求に対しては、陸海軍の顔も立てつつ、予算全体とのバランスにも配慮、大戦後軍縮ムードが巻き起こるのを見越して、計画を一年延期させるという円熟した政治手法を見せる。

1920年3月から始まる戦後不況に対しては、政府支出を削減して景気回復を待つという古典的な経済政策を抜け出すことができず、さすがの原も独自の指導力を発揮することはなかったが、高橋蔵相・山本農商相という有能な経済閣僚を使って経済安定化に尽力。

都市部での憲政会・国民党の普通選挙要求運動には、大衆の非合理的行動を警戒する漸進主義の立場から即時実現には強く反対、一方で運動の盛り上がりを利用して、革命的騒乱を恐れる山県と貴族院を圧伏、選挙権の財産資格を引き下げ、小選挙区制を導入。

1920年5月総選挙で政友会圧勝。

労働争議に対しては厳しい鎮圧方針を取りつつ、会社側にも労働条件の改善を促し、妥協的解決に成功。

これらの手腕に対しては政党内閣を否定し続けてきた山県も感嘆し、原内閣の存続を望むようになる。

衆議院での絶対多数を背景に、貴族院も政友会の影響下に置かれ、山県閥は枢密院にのみ「籠城」する感がある、と原が日記に記すような状況となる。

思想問題については強い危機感を持ち、森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの思想を紹介した、いわゆる森戸事件に対して、原は、起訴やむなしとの強硬姿勢を示す。

これが批判されるようなことだとは、私には思えない。

「思想の自由競争」を無条件で許せば、社会が自動的に発展・調和に至る、という思い込みには、はっきり言って何の根拠も無い。

共産主義という、人類史上最大の被害をもたらした狂信に、過去どれほど多くの人々が惹きつけられたのかを考えれば、国家による一定の取締措置は必要悪だとしか言いようが無い。

それを非難する人は、(自分自身を含む)民衆の判断能力を過大評価し過ぎている。

現在の社会での、ヘイトスピーチやネット上の誹謗中傷の問題を考えても、言論・表現の自由を無条件に絶対視する意見には、何一つ賛成できる部分が無い。

上記のように、ロシア革命と米騒動を見て、政党政治よりも急進的革命を恐れるようになった山県は、原内閣を見直し、統帥権独立が徐々に侵食されることにすら大きな抵抗を示さないようになる。

シベリアからの段階的兵力削減を内閣主導で実施、参謀総長上原勇作は原首相と田中陸相に抗議し、山県も批判を示したが、結局屈服。

原自身が軍事問題に精通し、その公的キャリアの全時代において軍人との意思疎通を重視、また陸軍改革においては、世論の反軍閥的風潮に迎合して外部からの急進的改革を目指すことなく、田中義一という協力者を得て、あくまで内部からの穏健な改革を推進したことがこの成功の要因。

明治以来の、参謀本部が天皇に直属する仕組みは、政治的軍事的失策の累を皇室に及ぼす危険があるので、それを改め、内閣が国政全ての責任を負う必要があると、原は考えており、もしこのまま事態が推移すれば、山県亡き後、原内閣による軍の統制という慣行を原と田中で法制化することも困難ではなかっただっただろう、と書かれている。

大日本帝国を滅亡させる要因となり、今や中学校の教科書にも載っている「統帥権の独立」という(明治期はともかく、少なくともこの時期での)悪弊が、なし崩し的に消滅する可能性があったわけである。

そう思うと、切歯扼腕せずにはいられない。

1919年大正天皇の健康状態が極めて悪化、翌年から皇太子裕仁親王が代理として活動開始。

その後も原は律儀に大正天皇に上奏を続けたが、ある日大正天皇が机上のタバコ一握りを原に与え、原は「感泣の外」ない、と日記に書いた。

同年皇太子妃候補の久邇宮良子女王の色覚異常問題に関わる婚約辞退問題発生、婚約辞退を主張した山県が右翼勢力の批判を受け、窮地に陥る。

当初傍観した原だが、1921年山県が枢密院議長の辞任、官職・栄典の辞退を申し出て、その影響力が完全に没落しようとすると、陸軍内と国内の秩序混乱を恐れて、原はむしろ山県の権力を維持する方向で動き、辞表を却下させる。

この行動は山県に深い感銘を与え、長年仇敵の間柄だった山県すら、原への好感を示し、その支援者に近い存在となる。

1921年田中陸相が狭心症で倒れ辞任、6月山梨次官の陸相昇格にも首相の原が大きく関与し陸軍を掌握、ワシントン会議に全権として参加する為、加藤海相が渡米すると10月原首相は文官最初の海軍大臣臨時事務管理となり、海相の事務を代行。

同年皇太子訪欧を実現させ、帰国後の摂政就任を既定路線とする。

この時点で原は、衆議院の多数を支配し、貴族院・陸軍・宮中までをも掌握、混乱時の天皇の調停的政治関与を例外として、政党内閣が全政治責任を負う体制を確立しつつあった。

加藤高明指導下の憲政会に対する(二十一ヵ条要求等の対外硬的外交と普選運動に見られる急進的内政改革志向についての)不信感もあり、一先ず政友会一党優位制を築き上げることを目指したが、将来的には二大政党制も視野に入れていたと見られる。

自身の後継者について、まず高橋是清はその協調外交志向と優れた政策構想力は大いに評価していたが、参謀本部廃止構想などの急進的改革を目指し、それを不用意に漏らして、原が田中陸相に釈明する事態を招くなど、政治的配慮の無さを欠点と見ていた。

床次竹二郎内相や内田康哉外相は、原が政策の大枠を指示して両者が実行するような関係で、床次・内田は実質次官のような役割を果たしていたに過ぎず、彼らを後継者にすることは考えられず。

田中義一陸相、加藤友三郎海相も候補だが、彼らが政友会に入党するか、選挙対策などの党務を全く経験しないまま総裁を務められるかは未知数であり、山県から離れて協力している田中を原が心底信用していたかは不明。

結論を言えば、原には後継者として安心して跡を任せられる人材がいなかったのである。原のような用意周到な大物政治家であっても、後継者の育成はきわめて難しかった。比較のため、伊藤博文と山県有朋の例を見てみよう。

伊藤は何人かの後継者候補の中から、立憲政友会を創設する前ごろから、西園寺公望を後継者と決め、第四次伊藤内閣では西園寺を副総理格の班列大臣とした。その後、予定どおり総裁を西園寺に譲った・・・。しかし、実際に政友会の実権を掌握し、発展させたのは原敬であった。原の台頭を妨げることなく自然の趨勢に任せたことが、伊藤の見識であった。

山県は長州系エリート陸軍軍人を陸軍の中枢ポストにつけ、引き立てた。陸軍を中心とし、内務省・貴族院・枢密院・宮中にまで広がる山県系官僚閥の後継者としようとしたのである。しかし山県が政党に対し、かたくなな反感を持っていたので、政党が台頭するのを時勢と見た桂太郎・寺内正毅や田中義一ら後継者(候補者)たちは、ことごとく山県を裏切っていった。また普選運動や労働争議などが拡大する中で、山県自身が原に頼らざるを得なくなっていった・・・。

原は二人の大物藩閥政治家と後継者の関係を、政友会創設のころ以降は間近で見てきた。自分の後継者としてそれほどの人材はいないという事実に対して、育ってくるのを待つしかないと考え、誰にも後継者の話は切り出さなかったのであろう。

原はかたくなに授爵を辞退した。

華族が皇室の藩屏であるとの議論を陳腐と退け、四千余万の国民すべてが藩屏だと書いている。

しかし、藩閥・軍人への対抗の為か、政党人・財界人への授爵には尽力している。

1921年ワシントン会議に参加決定、加藤友三郎海相と幣原喜重郎駐米大使を全権に任命、日英同盟存続を至上命令とはせず、対米協調を最優先。

だが、原は同年11月4日東京駅で18歳の鉄道員中岡艮一(こんいち)により刺殺される。

政友会絡みの疑獄事件や外交問題での政権への憤慨や、9月に起こった右翼青年朝日平吾による安田財閥創始者安田善次郎暗殺に刺激されたことが動機という。

黒幕の存在も推理されるが、真相は不明。

原の死は、原が目標半ばで人生を終えるという、一人の明治人の死にとどまらない意味を持った。日本国家の行く末に、実に大きな影響を及ぼしたのである。

原の死によって、イギリス風の立憲君主制が、日本でさらに発展していく可能性が大きく削がれてしまった。原は政党出身の首相が衆議院(イギリスの庶民院)の支持を背景に陸・海軍や宮中までも統制し、責任を持って政治を主導する制度を形成した。原は、個人的な政治力をもって形成したこの制度を慣行とし、さらには憲法以外の法令を改正することで、日本に定着させていこうとしたのであろう。伊藤博文が遠い将来の目標とし、立憲国家創設期の様々な制約でなかなか実現できなかったものが、実現に向けて本格的に動き出したばかりであった。

また原の死によって、第一次世界大戦後の新状況に適応すべく、米国との協調を特に重視し、中国の統一を促進する新しい外交も、それを支える強い基盤を失った、それは、政友会が内部分裂し、弱体化したからであり、さらには第五代政友会総裁田中義一により、原外交の精神とは異なる外交路線が展開し、失敗するからである。

確かに、原外交の精神は、原が駐米大使に抜擢した幣原喜重郎により、一九二〇年代半ば以降、反対党の憲政会・民政党に受け継がれていく。しかし、幣原外相はすぐれた外交官であったが、彼には原ほどの政治家としての能力や基盤がなかったために、国際環境の変化をとらえて、あるべき外交路線を進めるため、国内政治を主導していくことができなかった。原の死は、一九二〇年代以降に、日米連携が中国問題や軍縮問題等を舞台にさらに強力に展開していく可能性をなくした。

また原は、いずれ政友会総裁を引退すれば、元老や内大臣の有力候補になったことは間違いない。一九二四年に元老松方正義が死去すると、西園寺公望が唯一の元老となる。元老は後継首相候補や内大臣・宮相など宮中の要人候補を天皇に推薦するという重要国務等を果たすだけでなく、この時期には、いずれ天皇になるはずの若い摂政皇太子裕仁親王に政治を指南する役割も加わった。

本書で見てきたように、西園寺が政友会総裁を辞任した後、西園寺が元老として宮中を、原が総裁・首相として党務と国政を行うという住み分けができ、二人の関係はきわめて親しくなった。高齢で唯一の元老となった西園寺は、自分が元老としての仕事を行えない場合を考えて、必ず原に元老か内大臣(あるいは両方)になるよう勧めるだろう。

原はきわめて責任感が強いので、受けることも間違いない。それは本書で見てきたように、余裕のあるうちに辞めようと一九二〇年秋に内閣総辞職を考えながら、皇太子妃選定問題の混乱、皇太子渡欧や摂政設置問題、ワシントン会議などが起こると、「疲れた」と漏らしながらも、一九二二年以降も当面は政権を担当する気持ちになったことからわかる。

もし原が元老か内大臣(あるいは元老兼内大臣)として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、公平な調停者としての昭和天皇のイメージが陸海軍に浸透し、一九三一(昭和六)年九月に満州事変が起きても、陸軍を統制して、事変の拡大を阻止できた可能性がある・・・・。この意味でも、原の暗殺は、満州事変から日中全面戦争・太平洋戦争への道を変え得た、一つの可能性を摘み取った。

分別のない一青年の行動と、警備陣の一瞬の気の緩みが、近代日本の歩む道を大きく変えたともいえるだろう。

本書を読む限り、確かに原敬は、知的理解力・政策構想力・情勢分析力・判断力・決断力・交渉力・実行力全ての面でずば抜けた能力を示しており、伊藤博文に次ぐ、近代日本の大政治家である。

伊藤が、首相権限拡大および軍への統制強化を内容とする「1907年の憲法改革」(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)参照)に乗り出した途端に暗殺されたのも痛かったが、強大な政治力で陸海軍を統御し、文民統制と政党内閣制を確立しつつあった原の暗殺もそれに勝るとも劣らず、近代日本の運命を狂わせた痛恨事と思える。

原の死後、後継者となった高橋是清は国際協調主義を遵守したものの、原ほどの政治力は無く、その跡を継いだ田中義一は政友会の内外政策を大きく右傾化させ、さらに田中以後は矯激な世論にひたすら迎合し、昭和に入ってからの政友会は国益に反することばかりしている、と評されるほどの存在になってしまった。

原がその対外強硬的外交路線に深刻な懸念を持ち、政権担当能力無しと見なした加藤高明を総裁とする憲政会(とその後継である立憲民政党)は幣原外交を採用することで、原の時代とは驚くほど変化し、昭和に入ってからも相対的に妥当な政策路線を守り続けたが、指導者たる若槻礼次郎・浜口雄幸には加藤ほどの判断力と実行力が無く、経済政策では高橋積極財政を採用した政友会ほどの柔軟性も無く、緊縮財政にこだわり過ぎ、軍の暴走と国運の傾きを阻止できなかった。

(余談ですが、「21世紀に入ってからの自民党」って「昭和に入ってからの政友会」と似てるなあ、と思うことがよくあります。いや、今の自民党は新自由主義的政策で国民経済を疲弊させる一方なのだから、「高橋財政抜きの昭和政友会」とでも言うべきで、それ以下の存在です。私が選挙権を得てから、まだ20世紀だったうちは、自民党以外の政党に投票したこと無かったんですがねえ・・・・。)

もちろん、昭和戦前期の日本の破滅は、急激な民主化がもたらした左右の極論の蔓延の後、巻き起こった民意の暴走が主因であり、一人の有力政治家が存在しただけで止め得たものかどうかはわからない。

しかし、実際の歴史を読むと、どうしても「元老原敬が存在した、もう一つの昭和日本」を想像したくなる。

満州事変を封じ込め、日中全面戦争も日米開戦もなく、300万人以上の同胞が非業の死を遂げることもなかった昭和日本、である。

その場合、満州国は存在せず、中国が共産化することもあり得ず、国民政府の中国と日本は和解し、日米は不即不離の関係を続けたはずである。

韓国が植民地に留まり続けることは考えられず、再独立していたことは確実だが、台湾と赤道以北の南洋諸島は全面的な自治が認められた上で、日本と現在の英連邦諸国のような関係を結ぶ。

国内では、政党内閣制が完全に確立し、陸海軍の統帥権独立は形骸化し、時機が来れば明治憲法の該当部分の明文も改正されたかもしれない。

国家主権は依然天皇にあるとされ、皇室に関するタブーは厳然として存在するが、それが他者を圧迫する踏み絵として使われることは無い。

イギリス貴族のように、華族身分は相当部分形骸化しつつも存続し、上院は依然世襲議員と有識者の勅選議員から成る貴族院のまま存在。

衆議院の優位が定められるが、一方で貴族院が民意の暴走を抑止する役割を果たし、君主制・貴族制・民主制の三者が均衡を保ちつつ、政治が運営される。

もしかしたら、21世紀の我々は、そうした「大日本帝国」で暮らしていたかもしれない。

私は、それが今の日本よりも、余程良い国であると考えます。

 

 

 

極めて重厚で、信頼性の高い伝記。

内容は非常に濃い。

叙述が多岐にわたるので、明治中期から大正にかけての政治史全般について、非常に有益な知識と見解を得ることができる。

通読にやや骨は折れるが、その見返りは十分期待できる良書。

強く推薦します。

2017年10月2日

那須国男 『アフリカ全史』 (第三文明社)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 06:17

1995年刊。

これをあるところで目にして、なかなか期待できそうだと思い、手に取る。

だが中身を見ると、文字が大き目なのはいいが、その分単行本の厚味の割に文章量が少ないことに気付く。

さらに、先史時代はともかくとして、何と地質時代から話を始め、古代エジプトおよび北アフリカのイスラム史にもかなりのページを割き、(リヴィングストンとスタンリー以外の)アフリカ探検者も一章を使って紹介しているので、結局、通常アフリカの通史として想定する、ヨーロッパ進出前の前近代ブラック・アフリカの歴史は、「第五章 サハラ以南の古王国の様相」で扱われるだけである。

「全アフリカの歴史」としてなら、それでいいのかもしれないが、はっきり言って期待していたものと大きくズレている。

そのサハラ以南アフリカの歴史も、コンパクトな記述だが、内容を詰め込み過ぎているのか、ざあっと読むだけでは頭に全然入ってこない。

最後の一章では、当時の全アフリカ54ヵ国を、北部・西部・中部・東部・南部・インド洋に分けて、ごく簡略な情勢を一国ごとに記しているが、その形式はこうしたマイナー国家群(失礼)の知識を提供する上で良いとは思うし、内容も悪くはないものの、特筆すべき点も無い。

(それも本書刊行時から20年以上経った今となっては、当然不充分である。)

地図が、巻頭にある、現在の国家を描いたもの一つしか無いのも閉口する。

エジプト革命を1949年としたり(250ページ、270ページ)、アンゴラ、モザンビーク、キニア・ビサウ、カボ・ヴェルデ独立の契機になったポルトガル軍事クーデタを1973年としていたり(219ページ。別の所では正しく74年と書いている。)、不可解な年代の誤記もあった。

残念ながら、予想よりも完成度はかなり低い。

こういう知名度の無い本を、アフリカ史のようなマイナー分野の良書として推薦出来れば、少しは通っぽくてこのブログの主旨にも合うなあと思ってたんですが、そうは問屋が卸しませんでした。

あまりお薦め出来ません。

2017年9月28日

イマヌエル・カント 『永遠平和のために 啓蒙とは何か 他3編』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 国際関係・外交, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 02:14

以前岩波文庫版を読んだことがあった。

表題作の他、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的な起源」「万物の終焉」を収録した、カントの歴史哲学に関する論考を集めた本。

わからない・・・・・。

私のレベルでは、カントの主著はもちろん何一つ理解できないが、本書あたりでも正直かなりきつい。

全くの五里霧中というのでもないが、わかったような、わからないような記述。

通読はしたが、得たものは少ない。

ただ一点、「永遠平和のために」で、カントが平和的国家の条件として挙げた「共和的体制」が「民主的体制」と同一のものではなく、むしろカントは、多元的な抑制と均衡が機能しているという条件において、君主制と貴族制を「共和的」であるとみなしており、民主制が多数の名の下にしばしばそれを破壊するとしていたことを再確認した。

この論文が発表されたのは1795年で、フランス革命においてジャコバン派の独裁政権が人民の名の下に、どんな専制君主も及びもつかない程の暴虐の限りを尽くして崩壊した後である。

一方、君主制と貴族制を維持しつつ、国民の急激な直接的政治参加を避け、漸進的な改革を積み重ねていったイギリスは、名前だけ共和国を名乗る、フランスを含む大陸の国々よりも、よほど実質的な真の「共和政体」を実現した。

それを考えれば、カントの見方がごく常識であると思われるし、その後、多数派世論の専制によって、政治が常に左右両派の極論と狂信に苛まれ続けている、現在までの歴史を顧みても全く同様である。

 

まあ、それぐらいですかね。

未読の方は、手に取ってみてもいいでしょう。

私のように抽象的思考力皆無の人間でも、全く手が付けられないということは無い。

訳者解説なども利用して、大体のイメージだけつかめれば、御の字か。

 

 

共和的な体制は、民主的な体制と混同されることが多いが、この二つを区別するには次の点に配慮する必要がある。国家の形式を区別するには二つの方法がある。国家の最高権力を握っている人格の数の違いで区別するか、それとも元首の数を問わず、元首が民族をどのような統治方法で支配するかによって区別するかである。

第一の区別のしかたは、支配の形式と呼ばれ、ただ三つの可能性がある。支配する権力を握るのが、ただ一人であるか、たがいに手を握った数人であるか、市民社会を構成するすべての人であるかである。この三つの体制は、君主制、貴族制、民主制と呼ぶことも、君主支配、貴族支配、民衆支配と呼ぶこともできる。

第二の区別のしかたは、統治の形式と呼ばれ、憲法に基づいて国家がその絶対的な権力を行使する方法によって区別するのである。ここで憲法とは、群衆にすぎない人々の集まりから一つの国民を作りだす普遍的な意志の働きのことである。これによる区別には、二種類だけがある。共和的であるか、専制的であるかのどちらかである。共和政体とは、行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。だから専制政体における公的な意志とは、統治者が公的な意志を私的な意志として行使することを指すのである。

三つの国家体制のうちで、民主制は語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のもとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。

だから代議的でないすべての統治形式は、ほんらいまともでない形式である。というのは立法者が同じ人格において、同時のその意志の執行者となりうるからである。ところがこのことは、理性の推論において、普遍的な大前提が同時に特殊な小前提をみずからのうちに含むのと同じように、矛盾したことなのである。

ところでほかの二つの国家体制も、民主制と同じような統治形式になる可能性を残しているかぎりでは、欠陥のあるものではあるが、それでも代議的なシステムの精神にかなった統治方式に近づくことはできる。たとえばフリードリヒ二世は少なくとも次のように語ったことがある――「朕は国家の最高の従僕にすぎない」と。これに対して、民主的な体制では、すべての人がみずからの意志の主人であろうとするために、このようなことは不可能なのである。

だから国家権力にかかわる人格の数、すなわち支配者の数が少なければ少ないほど、そして支配者が代表する国民の数が多ければ多いほど、国家体制はそれだけ共和的な体制の可能性に近づくのであり、漸進的な改革をつうじて、いずれは共和的な体制にまで高まることが期待できるのである。このためこの唯一法的に完全な体制に到達する可能性がもっとも高いのは君主制であり、貴族制では実現が困難になり、民主制では、暴力による革命なしでは、実現不可能なのである。

しかし国民にとっては、統治方式の違いのほうが、国家形態の違いよりも比較にならないほど重要な意味をもつのである(もっとも共和体制を実現するためにはどの統治形式が適しているかを決めるという目的では、国家形態の違いも重要となる)。ところで法の概念に適った統治形式は、代議制だけである。共和的な統治形式が機能するのは、代議制においてだけであり、代議制なしではその国家体制がどのようなものでも、専制的で暴力的なものとなるのである。古代の共和国はこのことを知らなかったので、つねに悪しき専制へと堕落せざるをえなかったのである。専制政治のうちでは、ただ一人の元首のもとでの専制が、もっとも耐えやすいものだからである。

2017年9月24日

『朝鮮史のしるべ』 (朝鮮総督府)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:20

記事タイトルを見て、「うん?」となった方も多いと思います。

著者名は本書のどこにも記載が無い。

そして何より、出版者名を見て、「???」となるでしょう。

実はこれ、戦前、昭和前期に出版された古書である。

何でこんなものを取り上げたのかと言うと、神谷不二『朝鮮半島で起きたこと起きること』(PHP研究所)でその存在をかなり以前から知っていたから。

われわれが「一衣帯水」の隣国のことにうといといえば、その最たるものは歴史ではあるまいか。そもそも、現在わが国には古来からの朝鮮半島の歴史を知る恰好な本がほとんどない。いまは国会図書館の分室という形になっている東洋文庫には、東アジア史なら何でもござれという秀れた研究者が何人かおられるが、このかたがたに尋ねてみても、朝鮮通史の書物はきわめて少く、いちばんいいものといえばいまもって、朝鮮総督府から昭和十一年に発行された『朝鮮史のしるべ』にとどめをさすということである。ちなみに、この本は、そのメリットのゆえに第二次大戦後ユネスコ日本支部で翻訳されたが・・・、朝鮮総督府発行の書物を韓国独立後になって国際化するとはなにごとであるかと韓国側からクレイムがつき、結局、製本はしたけれど配布はしないまま全冊オクラになってしまったという後日談がある。

どの国にもあてはまることだが、韓国の場合にも、現地を訪れて人間や自然にじかに触れれば触れるほど、韓民族の民族性といったものを感ずる。民族性といった曖昧な概念では説明にならないという人もあるかもしれない。しかし、戦後マルクシズムに代表されるような、とりのガラみたいな骨格を示すことが歴史「科学」だとして満足できる人ならばともかく、歴史というものを、骨を包む肉の形や色やさらには体温をも含む、いっそう人間的なものとして理解する立場からすれば、民族性という概念は十分有用で不可欠な道具であろう。民族性なるものはいうまでもなく地理的環境と歴史的伝統が織りなした複合体であるが、韓民族の場合われわれはとりわけ歴史的理解の貧困に悩むのである。

・・・・・この小著は日本統治時代に朝鮮総督府の名によって刊行されたものではあるが、執筆者(表に出ていないが実際にはわかっている)の見識からいっても、またユネスコが翻訳を行ったことに徴しても、その内容は概して確かなものであるといってよかろう。

以上の記述から、長年興味は持っていたものの、もちろん図書館でも見つからず、個人的な「幻の書」だったのだが、ある日、行きつけの古書店の均一本コーナーで、わずか数百円の値でころがっているのを発見し、驚いて即座に購入。

本文150ページ余りの小史であり、表記が古いにも関わらず、通読は容易。

コンパクトな通史として、便利ではある。

ただ、内容的には、当然時代的な偏りはある。

「檀君神話」を完全に割愛していたり、三国時代以前は高句麗・日本の南北二国対立時代だとして、古代における倭の軍事的優勢を強調し過ぎている印象があったり(ただし「任那日本府」という表現は一箇所だけ)、近現代においては、もちろん日本の植民地統治を正当化する視点が貫かれている。

今日から見ると、これらは中庸を得た視点とは言えないだろうが、しかし、知性のカケラも無い、醜悪な民族差別をナショナリズムと詐称し恬として恥じない、品性下劣極まる、昨今の嫌韓本に比べれば、はるかにマシである。

古代と近代の一部を除くと、ごく標準的な通史として、現在でもひとまず使えると思う。

(もっとも、74ページに「・・・完顔部の耶律阿保機は諸部統一の業を成して、國を建てて金といひ、南に下つて契丹を討たんとし、それにつけては、高麗との和親にことさら意を用ひました。」という、我が目を疑う誤記があったが。)

もちろん、上記で引用した神谷氏の論文が書かれたのは1970年であるから、それ以後現在まで刊行された朝鮮史・韓国史の蓄積を考えれば、その評価がそのまま通用するわけではない。

しかし、朝鮮カテゴリにある通史を眺めても、「決定版」と言える本はなかなか無いことも事実である。

30冊で読む世界史では、迷った挙句、岡崎久彦『隣の国で考えたこと』(中公文庫)を挙げたが、今のところ、水野俊平『韓国の歴史』(河出書房新社)を基本に、金素雲『三韓昔がたり』(講談社学術文庫)同『朝鮮史譚』(講談社学術文庫)でエピソード的史実を補強する、というのがベストか、とも思う。

高校世界史レベルで出てくる(前近代の)朝鮮史上の人物は、広開土王(好太王)、王建、李成桂、世宗、李舜臣くらいだが、他に赫居世、朱蒙、温祚、乙支文徳、金庾信、甄萱、弓裔、李資謙、金富軾、鄭仲夫、崔忠献、といった辺りの人物名と大まかな事績がすぐ思い浮かべばよい。

(『隣の国で考えたこと』は、戦後左翼が北朝鮮にほぼ無批判で、韓国の「非民主性」を非難していた一方、保守勢力が韓国の朴正熙政権を支持していたという、書かれた時の時代状況と、著者晩年の政治的姿勢との齟齬が大き過ぎるので、復刊は難しいのかもしれないが、是非再び新刊ルートで販売してもらいたいと思う。中央公論には復刊・再版してもらいたい本が色々ありますが、これは相当優先してもらいたい本ではあります。)

 

 

 

もちろん、無理して入手して読むほどの本ではない。

私の個人的思い入れから、記事にしたが、まあそれだけです。

2017年9月15日

エーリッヒ・フロム 『自由からの逃走』 (東京創元社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:46

ウィリアム・コーンハウザーの言う「民主主義的大衆批判」の代表格。

書名自体は極めて有名。

 

 

第一章。

近代ヨーロッパは外的権威を排除し、自由を拡大し、政治的デモクラシー、経済的自由主義、宗教的自律、生活上の個人主義を達成してきた。

だが、20世紀においてファシズムを支持した民衆は、その自由を熱狂的に捨て去り、煽動的支配者に自発的に服従した。

これを、邪悪な少数者の悪魔的策謀のためとするのは無意味であり、民衆の心理学的分析に真因が求められなければならない。

その分析においては、全てを個人の心理的状況に還元することも、社会現象の説明から心理学的要素を全く排除することも、共に排されるべきであり、個人と社会の相互作用が重視されるべき。

 

 

第二章。

子供が親から自立していく場合と同じように、近代化の進展において、社会から個人が自立していく過程で、自我と自由を獲得すると同時に孤独と不安の感情が諸個人の間に広まる。

様々な共同体との「第一次的絆」が個性化によって失われた後、個人が安定した人格を確立する為には、「・・・・からの自由」という消極的自由から「・・・・への自由」という積極的自由へと移行し、他者との愛情と連帯、建設的仕事という能動的行為に飛躍する必要がある。

だが、それを成し遂げられなかった人間は、孤独と不安に耐えかね、自由自体を放棄し、権威主義的支配者に狂信的に服従するようになってしまう。

 

 

第三章。

中世の対照的評価について。

個人的自由が欠如し、固定的階級に縛られ、物質的進歩は乏しかったものの、各人が明確で固定した地位を保ち、安定感と帰属意識が与えられ、過度の経済競争を規制することで一定の生活は保障され、神という絶対者の前での平等が説かれていた。

中世末期からルネサンスにかけて、それが変化し、教会を中心とする伝統的権威の束縛から脱した近代的個人が出現する。

経済活動の活発化によって、ごくわずかの資産家が勃興し、従来の門閥貴族と結合して新たな上流階層を形成、自由を得た彼らはルネサンス文化の華を咲かせる。

だが、権威の衰退と自由の拡大、自己中心主義と物質主義が広まり、同時に孤独と不安も蔓延するようになった社会で、その成果を享受し得た階層はあくまでごく少数だった。

都市中産階級と農民は、経済活動の自由化によって物質的に困窮し、教会の精神的支柱が失われたことで心理的不安定にも陥っていた。

本書ではルネサンスと宗教改革の精神を区別し、前者は近代初頭において優位な地位を享受し得た上流階層のものだったのに対し、逆に後者を経済的不安定に投げ込まれ、精神的にも孤独、不安、動揺、無力感に苛まれるようになった中産階級の反応の産物だとしている。

共同体と階層性の枠組みの中においては、一定の自由を認めていた中世社会の構造と対応するように、精神的にもカトリック教会は、神の恩寵の働きという大前提を認める限りにおいて、個人の善行と自由意志の重要性も認めていた。

それに対し、ルターは人間の根源的な悪と無力を強調し、自己を放棄し、神の恩寵にひたすらすがることによってのみ、救いは得られると述べる。

これが、伝統的信仰が衰退した後、心理的空白が生じていた、当時の中産階級の不安と懐疑に満ちた精神を(無意識的に)満たすものであったがゆえに、ルターの教義は熱狂的に迎えられた。

ルターがドイツ農民戦争に示した敵意も、上流階層に対しては嫉視と反逆の意識を持っていた中産階級が、下層階級の革命運動へは強い脅威を感じていたことの反映だ、と著者は解釈する。

伝統的権威を憎みつつ、心理的空白を満たすため、新たな権威に服従しようとするルターの傾向は、教皇制度に対する反逆と対照的な世俗的権力への服従の姿勢にも表れている。

(本章のこの辺の筆致は、プロテスタンティズムをはっきりとファシズムの先駆と見なすような評価が見られる。だが、正直よりファシズムに近いのは、農民戦争の最急進派のような下層階級の過激派ではないのか、との感想も持った。)

ルターがドイツにおいて果たしたのと同じ役割を、アングロ・サクソン諸国で果たしたのがカルヴァン。

カルヴァンも同様に自我の否定と人間的プライドの破壊を徹底的に唱える。

その象徴が、有名な予定説。

誰が永遠に救われ、誰が地獄の業火で永遠に苦しむのかは、神が一方的に決定することで、人間の意志や行動が影響することは一切ないという思想。

建前上全ての人々の救済可能性を掲げたカトリック教会に対し、カルヴィニズムは人間の根本的不平等を説く。

世俗的成功が救われる「徴」であるとする考えから(主観的教義においては決して「原因」ではない)、勤勉・節約の生活態度が生まれ、それが資本主義の発達につながったという、マックス・ウェーバーの説は高校世界史でも出てきます。

本章におけるプロテスタンティズムは、近代の自由の幕開けに際し、物質的かつ精神的な、両面の不安定に襲われるようになった中産階級が、真の連帯と協力を成し遂げることが出来ずに、無意識のレベルで自己と自由の放棄と新たな権威への服従を求めて生み出したもの、という叙述であり、決して肯定的に評価されてはいない。

 

 

第四章。

近代的自由の進展で、外的権威から解放された個人が、その自由を積極的に活用する術を知らず、いかなる信念も持てず、言論・思想の自由の下で、匿名世論などの新たな外的権威に屈するようになった。

自分自身の人格も「商品」と同じように、他者の人気と評価に全面的に依存するようになる(そしてその他者評価自体が歴史的伝統に支えられるでもない、ほんの一時の気分程度の存在に過ぎない)。

カトリック教会から人々の魂を解放した、プロテスタンティズムの精神的個人主義は(その表面上の現世的利己主義否定にも関わらず)、資本主義社会の経済的個人主義が広まる為の心理的準備を提供した。

過当競争と資本主義の独占化傾向によって、諸個人の孤独と無力感は強まり、方向性を失った大衆は、全体主義国家における指導者への服従か、民主主義国家における画一的商業大衆文化への没入か、のどちらかへと転落する。

 

 

第五章。

消極的自由によって、前近代的な絆と権威から解き放たれた個人が、積極的自由に向かうことが出来ず、不安と孤独に耐えかね、自我と自由を放棄し、新たな権威と支配者への盲従に逃避するメカニズムを、著者は三つの面から分析。

まず、「権威主義的性格」。

孤独を解消し、自己と他者を無理やり「共棲」させる為に、劣等感と自己卑下を徹底し、新たな強者と権威者に心理的に一体化し、服従するマゾヒズム的傾向と、逆に自己より下位にある弱者を支配・虐待し、苦しめることを通じて一体性を確立しようとするサディズム的傾向。

このサド・マゾ的傾向を合わせて、著者は権威主義的性格と名付けている。

「権威者への服従」と言っても、それは確固たる自我と独自の信念に支えられているものではないので、一時服従した権威が弱さを見せるようになると、逆にそれを攻撃し、また新たな権威に忠誠を誓うようになる。

次に、「破壊性」。

これはサディズム的傾向と混同されやすいが、サディズムがあくまで被支配者の存在(とそれへの恒常的虐待)を前提とするのに対し、破壊性は他者と外界そのものの抹殺を目指す傾向。

最後に、「機械的画一性」。

外界の文化的鋳型に自己を嵌め込み、その典型的パーソナリティを受け入れ、外界との矛盾を消滅させるもの。

これによって、個人は自動人形に近いものとなり、他者からの暗示と煽動で与えられたものを、自分自身の意志・思考・行動であると、誤認したまま、何の疑問も持たなくなる。

 

 

第六章。

ナチス・ドイツにおける自由放棄の実態分析。

ナチズムは、経済的社会運動の分析だけでも、心理学的分析だけでも、理解することが出来ず、その両者を総合することによってのみ、真実が得られると著者は主張。

ナチズム支持の中核となった下層中産階級が、元々優位な立場にある資本家とユンカーの上層階級と組合組織に守られた労働者階級の間に挟まれ、君主制崩壊によって心理的安定をもたらしていた精神的権威を失い、大戦後の経済的社会的混乱の中で、最も不満と不安感を募らせ、宗教改革時代の中産階級と同じ立場にあったことを指摘。

 

 

第七章。

自由民主主義諸国においても、権威主義的性格、機械的画一性など、「自由からの逃走」が見られることを自省する必要性を述べる。

まとめとして、以下の文章を引用。

われわれの願望――そして同じくわれわれの思想や感情――が、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。

近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食になっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。

この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感じる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。

このような事態を克服する為、著者は、真に対等な諸個人間の愛情と連帯と建設的仕事による積極的自由と、理性だけでなく感情も含めた全的統一的パーソナリティの発現、そしてその基盤となる民主主義的社会主義の体制が必要だと説いて、本書を終えている。

 

 

なお、続いて「付録」の章があり、そこでは本書の説明原理であるフロムの社会心理学が、フロイトの心理学的接近、マルクスの経済学的接近、ウェーバーの観念論的(イデオロギー的)接近の総合であることが述べられている。

 

 

終わりです。

この記事は、あまり巧くまとめられなかったかもしれない。

もう少し引用したい文章もあったんですが、面倒なんで止めました。

全体的内容は・・・・・それほど面白くない。

「積極的自由」の実現、と言われても、私を含め、圧倒的多数の人間にそれを成就する能力があるとは到底思えない。

本書に限らず、「民主主義的大衆批判」は、議論が空転している感が否めない。

大衆にかんする私の精神主義的な定義はいわゆる保守的懐疑主義の影響を明らかにうけている。つまりそれは、今なお西欧においてその残響を微かながら耳にすることのできるような、E・バークA・ド・トックヴィル流の考え方に想を発している。しかし、財産や教養の量によって選良と大衆を区分するのではないという意味で、私のはW・コーンハウザーいうところの“貴族主義的”な大衆論とは異なっている。財産や教養はすでに大衆の取得するところとなったのであり、したがって懐疑されるべきはそれらの質であると思われる。また、いうまでもないことかもしれぬが、私の定義はコーンハウザーのいう“民主主義的”な大衆論から遠く離れている。ナチズムやスターリニズムの全体主義にたいして民主主義(デモクラシー)を擁護するE・レーデラーS・ノイマンは、民主主義のありうべき頽廃(デモクラティズム)にたいする警戒が少なすぎる。さらに、この種の大衆論のひとつの系であるM・ホルクハイマーやE・フロムの考えは、自由からの逃走および権威への服従を批判するという点については首肯できても、自由を積極的に発動する人間の資質についてまで、したがって自由によってもたらされうる混乱や抑圧についてまで深くは論及していない。逆にいえば、大衆にたいする民主主義的(および自由主義的)な批判者たちは、権威に依拠して大衆を操作する政治階級として選良を定義するのであるが、そうした操作じたいが大衆の自由で民主的な要求に根差しているという可能性、もっといえば政治権力がすでに大衆によって簒奪されているという可能性について考慮を払っていない。

西部邁『大衆への反逆』より)

人類が向かうべきだったのは、「積極的自由」の実現ではなく、「第一次的絆」の回復だったのではないか。

もちろん前近代への全面的な立ち返りなど、完全に不可能であるし、望ましくもないでしょうが、たとえその残像であってもそれを追い求め、意図的に保存し、失われたものを哀悼するという姿勢こそが必要と思われる。

 

本書を読んだ後、現在の日本を顧みると、いろいろ思うところがあります。

現政権のやることなすこと全てを肯定し、その指導者を崇拝せんばかりに礼賛し、皇室すらその下位に置くような態度を平然と示し、ネットを中心に資本によって巧妙に制御されたメディアの煽動に完全に乗せられたまま、ごくわずかの富裕層だけを利して自身がその恩恵に与る見込みなど全く無いようなネオリベ的政策を熱狂的に支持し、その隠れ蓑に過ぎない醜悪な排外的ナショナリズムを狂ったように喚き立て、反対者を全て「左翼」「反日」などと空疎なレッテルを貼って誹謗中傷と罵詈雑言の対象とし、社会的弱者やマイノリティーにも同様の暴言を浴びせ、それがもたらす卑しいサディスト的快楽を唯一の報酬として自己満悦に耽る、暴民に等しいゴミクズ以下のネット右翼を見ていると、本書における「権威主義的性格」と名付けたくなる気持ちも分かります。

もう10年以上前から、衆愚層が自身の醜行を正当化する為に使うお題目が、左翼教条主義から幼児的な排外的ナショナリズムに変わっているのに、それに対して一切警戒も批判も示さないような「保守勢力」と「右派文化人」を私は心の底から軽蔑するようになりました。

20年前なら、間違いなく馬鹿左翼の戯言を口にしていたであろう、知能程度が異常に低い上に、誹謗中傷と罵詈雑言で他者を傷つけ、虐げ、差別したいという卑劣極まりない欲望を自制することが出来ず、その醜い欲望自体が目的であることを隠蔽する為に(かつては左翼の、現在は右翼の)政治的言説を偉そうに述べ立てる、劣悪な精神的(すなわち言葉の真の意味での)賤民が、白痴に等しい能無しの分際で、政治的事象など実際には何一つわかりもしないくせに、本来享受する資格も無い言論の自由を徹頭徹尾悪用し、呆れるほど単純・低劣な「右派的」政治スローガンを喚き立てている。

私にとって、現在のネット右翼(ネット保守)とかつての左翼は、イデオロギーを裏返しただけで、その愚昧・劣等・卑怯・醜悪な害虫ぶりは完全に同じものです。

「左翼批判」を大衆煽動の最大の梃子にしているネット保守自体が、左翼と同様の衆愚集団(「自分には批評性があると思い込んでいる軽信者」)に過ぎない。

引用文(内田樹7)

 

 

同じ流儀の口実や同じ態様の害悪を二つの時代が持つことは滅多にありません。人間の邪悪さはもう少し発明の才に長けていて、人が流儀を論じ合っている間にもその流儀は過ぎ去ってしまいます。まさに同一の悪徳が新しい姿を装うのです。悪徳の精は生れ変り、外見の変化によってその生命の原動力を喪失するどころか、新しい器官を得て、新たに青年の行動の如き新鮮な活力を恢復するのです。人が死体を晒し者にし、墓を発いている間にも、それは大手を振って歩み、破壊を続けるのです。家が盗賊どもの棲家になっているというのに、人は幽霊やお化けを勝手に恐がっています。

歴史の貝殻や外皮にだけ目を奪われながら、しかも自分は非寛容や高慢や残酷さと戦っているのだ、と思っている人間は皆このようなものです。彼らはその一方で、時代遅れな徒党の悪しき原理に対する憎悪という彩の下に、同じ唾棄すべき悪徳を別の―しかも恐らくはより一層悪い―徒党の中に是認し涵養していることになるのです。

引用文(バーク1)より)

 

 

左翼に属することは、右翼に属するのと同様、人が愚かになるために選択しうる無限にある方法の一つである。

つまり、両者はあきらかに、精神的半身不随の形態である。その上、こうした呼び方を固執していることが、それ自体すでに偽りである今日の実状を、なおいっそうゆがめるのに少なからず貢献している。というのは、今日、右翼の連中が革命を約束し、左翼の連中が専制に傾斜しているという事実が示しているように、政治的体験は曲芸的な宙返りを演じているからである。

・・・・・

全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。

もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵――要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。

政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である。

誰かが、われわれに政治上の立場を尋ねたり、また、今日横行しているあの図々しさを持って先手を打ち、われわれの立場を規定するようなことがあれば、われわれは答える代わりに、その無礼者に対し、彼が人間や自然や歴史といったものをどのように考えているのか、社会や個人集団や、国家や慣習や法とは何であるかと逆に質問すべきである。

今や政治は、あらゆる人間を黒一色に塗りつぶすために、急いで光を消そうとしている。

・・・・・

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?

前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。

それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。

だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

オルテガ『大衆の反逆』より)

 

現下の醜い右派的ポピュリズムを阻止する為に、私はかつて自分が毛嫌いしていた、左派・リベラル的な人々とも協力しなければいけない、とこの数年切実に感じています。

しかし、「権威主義的性格」の右派が登場してくる前には、「本物の権威」の破壊があったはずです。

一切の階層的身分を認めず、個人主義と平等主義を徹底し、自由で自立した原子的個人だけが社会に存在すべきであり、その個人はいかなる伝統や常識に囚われることなく、完全な言論の自由を享受して、何の制限も無く自己の意見を形成し、表明すべき、との考えの下、戦後数十年間左翼的偏向が続いた後、世紀が変わるあたりで、時流の変化に迎合し、多数派の大衆が右派的ポピュリズムに没入することになり、今の状況があるわけです。

そして、左派の人々が自らの正当性の根源と考えているらしい、戦前日本の破滅も、その「非民主性」がもたらしたものではなく、全く逆に、現在眼前に見ているような極右的煽動に乗せられた暴民世論の支配によるものです。

さらに、戦後数十年にわたって、左翼勢力はまさに現在のネット右翼のように驕慢至極の振る舞いをしていたことも断固として指摘し、現在のリベラル派の人々に釘を刺しておきます。

「第一次的絆」の破壊を良しとしてきた左派・進歩派の人たちにも、少しは反省してもらいたいです。

 

近い将来、日本が滅びるとすれば、おそらく反天皇制を掲げる人種主義的・排外主義的極右ナショナリズムの蔓延によるものでしょう(あるいはそれを匿名の影に隠れて秘かに煽動しつつ、その後救世主づらで登場し全てを支配することを目論む新自由主義者と腐敗を極める富裕層)。

その兆候は十年以上前から、すでにはっきりと現れています。

一部の皇族方を白々しく持ち上げる一方で、それを免罪符にしたつもりで、皇太子御夫妻と愛子内親王におぞましい限りの誹謗中傷を延々と浴びせかける、強烈な悪臭を放つ醜い害虫どもがそれです。

(バッシングの対象を入れ替えただけの奴等や、すでに皇室全体を攻撃対象にしているゴキブリ以下のネトウヨも同様。)

そんな奴らの真の「欲望」が何なのかは明白です。

私には、ネット右翼に迎合する現代日本の保守派が、ナチと連携したワイマール・ドイツの保守帝政派と二重写しに見えます。

しかし、もうそこまで来たら、邪悪な存在と共に国全体が滅びるのが唯一の救いかもしれません。

 

 

極めて有名な古典ですから、一読しておくのは悪くない。

書名自体は学生時代から知ってましたから、読了して、長年の宿題をやっとやり終えた気分になりました。

20世紀大衆社会論の代表作であることは間違いないので、読んで損は無いでしょう。

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