万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年5月25日

大橋正明 村山真弓 編著 『バングラデシュを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: インド — 万年初心者 @ 00:01

インド東部、ガンジス川下流にあるベンガル人の国。

首都はダカ(ダッカ)。

北海道の二倍ほどの国土に、日本より多い1億4千万人が住み、人口密度は高い。

1947年インド・パキスタン分離独立時には、イスラム教徒が多数だった為、飛び地として東パキスタンとなる。

ただし、ベンガル西部はヒンドゥー教徒が多数派の為、インド領に(ここで1905年のベンガル分割令を想起。西ベンガルの中心地はカルカッタ)。

パキスタンの一部となったものの、独立当初は公用語がウルドゥー語とされ、ベンガル語が排されたように(のちに両方が公用語化)、アユブ・ハーンおよびヤヒヤ・ハーン軍事政権下の西パキスタン優位の状況が続き、不満が高まる中、1971年ムジブル・ラーマン率いるアワミ(「人民の」)連盟が東部の総選挙で圧勝すると、ヤヒヤ・ハーン政権は東パキスタン自治を弾圧、そこにインドが介入し第三次印パ戦争勃発、パキスタンは敗北し、1972年バングラデシュ独立(本書を含め、独立を実質71年としている本もある)。

独立後の経済復興は難航し、アワミ連盟への支持が急速に弱まる中、1975年ムジブル・ラーマンは殺害され、同年軍事クーデタを経て軍人出身のジヤウル・ラーマン政権成立。

81年そのジヤウル・ラーマンも暗殺され、エルシャド中将が大統領就任。

ジヤウル・ラーマンはバングラデシュ民族主義党(BNP)という官製政党を結成し、それがアワミ連盟と並んで二大政党となるが、1990年エルシャド政権を倒した民主化運動にはBNPも参加。

以後、アワミ連盟とBNPの競合による議院内閣制が続いている。

西ベンガル(およびインド)との共通性を強調する「ベンガリ・ナショナリズム」と、ムスリムの独立国民としてのアイデンティティを強調する「バングラデシ・ナショナリズム」が民衆意識の底で対峙している。

アワミ連盟が「社会主義、対インド友好、政教分離、マイノリティのヒンドゥー教徒保護」という基本路線を90年代以降曖昧にしたので、二大政党の対立は理念や政策に拠るものではなく、人的確執や権力闘争の色彩が強くなっているという。

 

 

バングラデシュについて知っておくべき一般常識としては、これくらいでいいか。

本書からは以上のことを読み取れば十分。

全編通読しなくていい。

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2018年5月21日

ゴーゴリ 『死せる魂 下』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:50

上・中巻の第一部に続いて、この下巻は第二部となる。

上・中巻記事で、第二部は未完成の草稿状態と書いたが、読んでみるとそうでもない。

一応きちんとした話の筋は整っている。

ただ、一部で原稿が失われており、末尾は完全に断絶している。

深刻な社会矛盾を描写しながらも、教条的な告発調には陥っておらず、ユーモアとペーソス溢れる文体が全体を中和しているのは、本作全篇のみならず、ゴーゴリの作品全てに共通しているものと思われる。

有難いことに、通読難易度は低い。

高校教科書にも載っているこの代表作を読んだからには、ゴーゴリはもうこれ以上読まなくてもいいでしょう。

2018年5月17日

廣瀬陽子 『アゼルバイジャン  文明が交錯する「火の国」 ユーラシア文庫5』 (群像社)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 04:15

カテゴリに迷う。

「イスラム・中東」でいいかもしれないが、旧ソ連構成国ということで、「ロシア」にします。

中公新書で『物語アゼルバイジャンの歴史』は出そうにもないし、出ても読むかどうかわからない。

明石書店のエリア・スタディーズ『~を知るための〇〇章』でもこの国は見たことはない(たぶん)。

で、たまたま書店で見かけたこれを記事にする。

2016年刊。

アゼルバイジャンは、西の黒海、東のカスピ海に挟まれたコーカサスにある国で、東はカスピ海、西はグルジア(ジョージア)とアルメニア、南はイランに接する。

言語はアルタイ語族でトルコ語に近い。

イスラム教徒が九割以上、そのうち七割がシーア派、三割がスンナ派。

キリスト教を奉ずる、隣国アルメニア、グルジアとこの点異なる。

首都はバクー、石油と天然ガスを産出し、資源は豊か。

民族の起源としては「コーカサス・アルバニア人」説(このアルバニアはバルカン半島の国とは無関係)と「トルコ人」説がある。

独立していた時期は短く、古代からメディア、ササン朝、サファヴィー朝とイラン勢力の支配下にある時期が長い。

1828年トルコマンチャーイ条約でアゼルバイジャンはカージャール朝ペルシアとロシア帝国との間で南北分割、その為、現在でもイラン北部に多数のアゼルバイジャン人が在住。

帝政ロシア治下で、アゼルバイジャン人とアルメニア人の対立が生まれる。

ロシア革命で短期間の独立を経験したが、1920年赤軍がバクー制圧、1922年コーカサス三国がザカフカスとしてソヴィエト連邦加入国に(36年にザカフカスは分解)。

ソ連時代末期、アゼルバイジャン出身者ヘイダル・アリエフが中央指導層の一員に加わるが、ペレストロイカを推進するゴルバチョフからブレジネフ派の残党と見なされ、解任される。

共産党独裁体制弱体化の中で、アルメニアとの民族対立が激化、アゼルバイジャン領内にあり、アルメニア系人口が多いナゴルノ・カラバフ自治州が焦点となる。

1991年ソ連崩壊に伴い、独立。

92年アルメニアがナゴルノ・カラバフを占拠、現在でもこの状態が続いているという。

独立時、最後の共産党第一書記ムタリボフが初代大統領に就任したが、抗議運動で辞任、92年反共産党勢力「人民戦線」のエルチベイが大統領に当選。

しかし、民主的な理想主義者ではあるが、ロシアとイランという南北の大国を敵視する一方、米国とトルコとの連携を重視し、CIS(独立国家共同体)から脱退し、経済混乱も収拾できなかったエルチベイは、93年クーデタで政権の座を追われる。

替わったのは、上記ヘイダル・アリエフであり、経済と社会の安定について一定の成果は挙げたが、その政治は著しく権威主義化し、2003年のアリエフ死後は息子のイルハム・アリエフが後継者となり、「大統領君主制」とも言うべき体制が続いている。

 

 

この国について知っておくべきことは、以上くらいでいいでしょう。

100ページほどのパンフレットみたいな本だが、これで十分。

読む労力とテーマの重要性の兼ね合いから言って、適切な本です。

2018年5月12日

根本敬 『物語ビルマの歴史  王朝時代から現代まで』 (中公新書)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 05:14

『アウン・サン』(岩波書店)と同じ著者。

400ページ超えの分厚い新書。

だが、序章・終章含め全12章のうち、国名・国土・民族・宗教を紹介する序章と王朝時代を一括して扱う第1章以降は全て近現代史が占めるという、ちょっと偏った構成。

著者は、ミャンマーという国名の使用を否定するわけではないが、本書ではビルマという名で通すとしている。

先史時代を省略しているのはいいが、ピューを経て、ビルマ民族のパガン朝、タウングー朝(「トゥングー朝」の表記は適切ではないとしている)およびニャウンヤウン朝、コンバウン朝という、通常ではビルマ史の中軸となる王朝時代をばっさり一章で済ませるのは、やはりアンバランスな感が否めない。

コンバウン朝ビルマ王国は、1824年からの三次にわたる英緬戦争で滅亡。

第二次英緬戦争で沿岸部を割譲し、内陸国に転落したビルマ王国は、米作穀倉地帯と貿易の拠点を失い、植民地化が進むインドに隣接していたという地理的不利もあり、同時期のバンコク朝タイと同様の改革への動きがありながら、独立を維持することが出来ず、1885年イギリスに滅ぼされた。

アフガンやエジプトのように従来の君主制を形式的に存続させた上での保護国化も考えられたが、そのために適切な人物が王室にいなかったこと、すでに王権が首都周辺部にしか影響力を持たないほど弱体化していたこと、などから土着の制度を完全に廃止し、ビルマはインド帝国の一部として併合された。

しかし、土着社会の「合理的」国家制度への大幅な改編は、大きな軋轢を生み、反乱を頻発させ、植民地の統治コストを高めた。

南部の米作増産と北部の油田開発が植民地統治下で進行、インド人移民の流入が多民族社会ビルマの新たな火種となり、植民地現地軍も、分断統治の狙いからビルマ族ではなく少数民族出身者を多く採用。

1906年仏教青年会(YMBA)結成、ビルマ人中間層によるナショナリズム団体の奔り。

そこからより政治色の強い活動を主張する人々が脱退し、1920年ビルマ人団体総評議会(GCBA)結成。

このGCBAが英当局と対立と妥協を繰り返すうちに、35年ビルマ統治法でインドからの分離と外交・国防・造幣などの権限を除く限定的自治が許容され、37年にはビルマ総督の下での首相にビルマ人バモオが就任、将来的にカナダやオーストラリアのような、英連邦内で英国王を元首としたドミニオン国家となることが展望された。

一方、このような漸進的路線に反発し、全面独立を目指す人々が、1930年「我らのビルマ協会(タキン党)」を結成、社会主義色も取り入れた急進的団体となり、後に加入したアウンサンらが指導者となる。

太平洋戦争で日本軍が侵攻、アウンサンらはビルマ独立義勇軍を結成、対日協力に踏み切り、1942年5月日本軍はビルマ全土を制圧。

43年、戦前の首相解任時のいきさつで反英的になっていたバモオを国家元首としてビルマに独立が付与されたが、厳しい軍政と戦局の悪化で日本軍と現地社会の軋轢は強まっていく。

44年インパール作戦失敗を見たアウンサンは「反ファシスト人民自由連盟(ビルマ語略称パサパラ)」を結成、対日武装蜂起。

これは日本側の視点だけで見て、「裏切り」などと言うべきものではないでしょう。

アウンサンらは現実を見て、ビルマの独立の為に、その都度最も有効な手段を採っただけです。

戦争末期の対日蜂起でイギリスとの交渉の基礎を手に入れたアウンサンとパサパラは戦後も主導権を把握。

アトリ―労働党内閣と独立に向けた協定締結に成功するが、47年アウンサンはGCBA系政治家の政敵に暗殺されてしまう。

1948年独立達成後は、後継のウー・ヌが首相となり政権を担当。

だが、共産党およびカレン族ら少数民族の武装蜂起で、独立後の現実は多難を極める。

1962年国軍によるクーデタが発生、ネィウィン軍事政権が成立。

ビルマ式社会主義を標榜、共産主義とは厳に一線を画しつつも、硬直的な産業国有化政策と権威主義的支配、孤立主義的な中立外交路線を採用。

私は、民主主義を絶対視するような立場には全く立っていないが、この軍事政権の長期支配はやはり失敗だと思わざるを得ない。

韓国・台湾やアセアン諸国で、経済発展に成功し次世代の政治自由化の基盤を築いた権威主義政権とは同列に評価できない。

1988年大規模な民主化運動でネィウィンは退陣するが、新たな軍事政権が成立、90年行われた総選挙でのアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)圧勝の結果を認めず、92年指導者となったタンシュエ大将がそのまま二十年近く居座り続ける展開となる。

62年にも88年にも、軍の台頭をある程度必然とする混乱や無秩序は存在したんでしょうが(本書でも88年の民主化運動の中で、人民裁判的な殺戮行為が一部の民衆によって犯されたことが記されているし、これを軍によるプロパガンダと片付けることは出来ないと思う)、この二度目の軍事政権の統治も到底成功であったとも、正統性があるとも言い難い。

本書でのアウンサンスーチーに関する記述は、「民主化運動のカリスマ的闘士」を一方的に礼賛するというのではなく、目的は手段を正当化するという考え方を拒否し非暴力的手段のみを主張し、和解と対話を最重視し、一方的な正邪観念に囚われず、国軍の政治支配を批判してもその存在意義自体は認め、政治的復讐を戒める、妥協を旨とする人物、といったものであり、こうした書き方であれば私のような人間にもすっきりと得心できる。

(ただし、北朝鮮のような完全な全体主義的独裁国家には、そのような高貴な抵抗は無力でしょう。あれほど国際社会で非難されたミャンマー軍事政権ですから、さすがの私も積極的に擁護する気はありません。ただし、それがあくまで権威主義体制に属するものであり、完全な全体主義体制ではなかったであろうことは述べておきたいと思います。)

タンシュエ引退後、軍事政権は2011年民政移管、テインセインが大統領就任。

依然国軍の影響力の強い政治制度ではあるが、驚くべきかつ幸いなことにこの政権で漸進的な議会主義化が着実に行われていった。

軍事政権が、自国イメージと経済状況好転の為には民主化を求める西側諸国との関係改善が不可欠だと判断したこと、また関係が緊密だった中国による支援への過度の依存を懸念するようになったことが理由と考えられる。

本書は2014年1月刊行のため、2013年までの状況しか記されていないが、その後15年総選挙を経て、16年にはアウンサンスーチーが国家最高顧問という形で主導する政権ができるまでになっている。

仏教徒の多数派ビルマ人と対立関係にある、イスラム教徒の少数民族ロヒンギャ族への迫害について、スーチー氏が明確に非難しておらず、一部には彼女からノーベル平和賞を剥奪すべきだとの声すらあるようだが、これが軍事政権にあれほど勇敢に抵抗したスーチー氏すら、近現代の世界史の禍根たる、民衆の多数派が形作る悪には抵抗できないという証拠なのか、それともこの場合も一方を絶対善、他方を絶対悪として対話の基盤を破壊することを避け、苦しい妥協の道を見出すための努力をしているのだと見なすべきなのか、私にもわからないので、判断は留保します。

 

 

著者はあとがきで、国民や民族を主語にした一国史の形式はもはや時代遅れではあるが、いまだその種の通史は必要とされていると自分に言い聞かせて執筆した、ただし、国民国家としての制度が植民地時代に形成された以上、前近代の部分は最小限に抑え、近現代史の記述に重点を置いた、と書いている。

それもわからなくはないんですが、やっぱり私としては他の『物語~の歴史』シリーズと同じ形式に合わせてもらいたかったところです。

同じあとがきで、英文で出版されたビルマ通史の中には、近現代史偏重のビルマ史叙述を批判して、古代や前近代の分析に力点を置いた秀作もあると書かれているが、そういった本を翻訳するか、それを参考にして書き下ろしてもらいたかった。

ページ数の割にはすらすら読めるし、文章は流暢と言える。

データやエピソードも豊富で、興味深い。

著者の史観についても、特に引っかかる点は(予想と異なり)無かった。

だが、やはりこれは『ビルマ現代史』というタイトルで出すべき本だ。

その題であれば、評価は「4」くらいになるが、『物語~』シリーズとしては対象時代のページ配分がおかし過ぎるので、評価は「3」とせざるを得ない。

ミャンマー(ビルマ)の近現代史を知るには適切な本。

ただ、通史としては欠落があります。

2018年5月8日

カレル・チャペック 『ロボット  (R.U.R)』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:46

チャペックはチェコスロヴァキアの作家で、1890年に生まれ、ミュンヘン会談の年、1938年に死去している。

代表作に『山椒魚戦争』もあるが、短い戯曲のこれを選んだ。

チェコ語の「賦役」を意味する「ロボタ」から造られた新語のロボットは、この作品によって世界中に広まることになった。

内容は大概の人の想像通りだが、通俗的なお説教と片付けられない迫力がある。

様々な種類の技術主義による(最近では特に情報通信技術の)進歩を称揚する人間が後から後から湧いて出る現代社会だが、ほとんど同意できる部分が無い。

とは言え、もう技術革新は何をもってしても制御できないんでしょうねえ。

ある種の諦観に浸るしかない。

深刻なテーマを扱いながら、非常に読みやすく、高校レベルの次に出てくるくらいの古典作家に触れるには適切な作品。

充分お薦め出来ます。

2018年5月4日

冨田健之 『武帝  始皇帝をこえた皇帝』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:42

この人物について、どういうイメージを持っていますか?

前漢のみならず、中国古代帝国の最盛期を現出した皇帝であろうことは間違いないが、その分驕慢に陥り、限度を超えた外征で国力を疲弊させ、次代の衰退の種を撒いた「傾国の君主」という意味で、フェリペ2世やルイ14世、アウラングゼーブと共通するイメージを持っている人もいるかもしれません。

本書での解釈はかなり異なる。

まず、漢初に宗族と有力功臣へのやむを得ない妥協として採用された郡国制が、呉楚七国の乱を経て、実質郡県制に移行し、その中央集権化された強力な帝国を武帝は自動的に引き継ぎ、その上に立って華々しい治世を開始した、というイメージを否定。

当時の統治技術では、中央政府に全ての政治決裁が集中する郡県制は、始皇帝のような超人的為政者がいなければ成り立たないシステムであり、それ故、秦は二世皇帝以降瞬く間に瓦解した。

漢王朝はそれに鑑み、郡国制を積極的に採用したのであって、それは「決して緊急避難的に郡県制と封建制を折衷したものではなかった」。

郡国制は皇帝統治にとって、ネガティブな妥協ではなく、効率的な帝国支配の為の、有益な方策であった。

しかし、宗室の諸王封建は、宗室成員の増加と封地をめぐる対立激化に帰結し、呉楚七国の乱後の王国細分化は地方統治の質的低下をもたらした。

そうした事態を受けて、諸王国の実質直轄化が行われたのであり、皇帝統治において「やむを得ない妥協」として採用されたのは、実は「漢初の郡国制」ではなく「景帝期の実質郡県制」の方だった、というのが、本書の主張。

武帝は、既に中央集権化された帝国を自動的に、何の問題も無く継承したのではなく、新たに必要とされた巨大な官僚組織を運用する為、丞相を自立的な政策立案者ではなく組織管理者と位置付け、それを中心に官僚統御の手段である皇帝官房を整備した「創始者」である、とされている。

その結果、漢王朝は秦よりもはるかに長命を保つことを得たのであり、本書の副題の通り、著者は武帝を始皇帝をも超えた存在であると評価している。

なお、本書も80ページ余りのパンフレットのような厚さなので、具体的史実の記述はスケッチに過ぎないが、それでも「曲学阿世」の語源ともなった非難を蒙りながらも武帝の意を受けて丞相職の質的変化を推し進めた公孫弘、巨大な存在感を持つ父の影に置かれ、ついに非業の死を遂げた皇太子劉拠とその母である衛皇后などの描写が興味深い。

 

意外なことに、このレーベルでは、超有名人を扱った本書が一番面白かった。

従来の学説と最新の学説とのズレを初心者にも十分理解できるレベルで説明してくれている。

武帝期、古代の中央集権的皇帝政治が、宋代以降の近世君主独裁制と比較してどうか、なども語って欲しかった気がするが、それは期待しすぎか。

十分有益で読む価値がある本であると保証します。

2018年4月30日

井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝  憧れの都に咲いた花』 (白水社uブックス)

Filed under: ビザンツ — 万年初心者 @ 04:26

「ビザンツ史の本っていつから追加してないんだ?」とふと思ったので、書名一覧を見たら、中公新版世界史全集井上浩一 栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』を2008年10月に記事にしたきりで、絶句してしまった。

十年って・・・・・。

ギボン『ローマ帝国衰亡史 7』での

われわれが東帝国の衰亡の過程に一層深く立ち入るに応じて、次々に続く皇統の年代記は一足ごとに一層実りの乏しい憂鬱な作業を私に課すことになり、この種の年代記は退屈極まる衰弱と悲惨の千篇一律な物語の反復の連続になるに違いない。

という言葉に同意する気は必ずしもないし、ギボンがこの文章の後に記す帝位の有為転変も、実際に読んでみると面白いと思わないことはないが、正直好きな分野ではない。

しかし、いくら何でも間隔が空きすぎており、それで何でもいいから追加しようと思ってこれを選んだのだが、本書は上記『ビザンツとスラヴ』および『生き残った帝国ビザンティン』と同じく井上浩一氏の著書なので、良書であることはほぼ保証済みでしょう。

タイトルだけ見たら、たぶん読もうとは思わなかっただろうが、井上氏の本ということで選択。

ビザンツ全史から8人の皇妃を取り上げ、簡略な伝記的叙述を行いつつ、ビザンツ通史の役割も果たしている。

以下、その8人。

 

 

1.エウドキア

初代東ローマ皇帝アルカディウスの子テオドシウス2世の妃。

アテネの異教徒哲学者の娘で、元の名はアテナイス。

テオドシウスの姉プルケリアが独身を誓い、キリスト教的権威を背景に宮廷で実権を握る。

(かつて、その母エウドクシアも夫アルカディウスを補佐して政治に介入していた。)

異教徒への厳格な措置とササン朝ペルシアへの強硬策失敗が不満を買い、異教的古典文化を重視する「伝統派」が台頭、エウドキアはそれを背景に皇妃に選ばれたものと見られる。

431年エフェソス公会議にて、キリストの人性を強調し、聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに反対し、暗黙裡に女性であるプルケリアの政治支配も批判する、厳格なネストリウス派が異端と認定。

プルケリアとの争いに敗れたエウドキアは自身もキリスト教信仰に目覚め、エルサレムに巡礼、夫婦仲も冷え、のちにエルサレムで二十年近く過ごす。

宦官によって一時宮廷を追われたプルケリアは、キリストの神性を強調する単性論論争をきっかけに復帰、450年テオドシウス2世が死去すると、マルキアヌスという元老院議員と形式上の結婚をして次の皇帝に立てた。

451年カルケドン公会議でローマ教皇の支持も得て、単性論が異端とされた。

当時エルサレムで存命中のエウドキアは単性論派ら異端や異教徒、ユダヤ人に寛容を旨として接したという。

453年プルケリアが死去、西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世と結婚していたエウドキアの娘リキニアが455年ヴァンダル族のローマ掠奪によってアフリカに連れ去られ、460年エウドキアも死去。

その生涯は古典文化とキリスト教、古代と中世への移行期を象徴するものだったとされている。

 

 

2.テオドラ

ユスティニアヌス1世の妻として、歴代皇妃の中で最も有名。

532年首都で起こったニカの反乱に際し、夫を励まし断固鎮圧の意志を固めさせた見事が演説が伝えられる一方、歴史家プロコピオスの『秘史』では様々な醜聞が毒々しく記されている。

テオドラは劇場の見世物業者を父に生まれ、自らも踊り子として舞台に立っていた。

ユスティニアヌス自身が、伯父ユスティヌス1世と共に、一介の農民から成りあがった存在であり、テオドラの生まれも、社会的流動性が極めて高い当時のビザンツ帝国ではさほど異常なこととは見られなかった。

テオドラは、「パンとサーカス」を求める首都の大衆社会、女性の地位向上、皇帝専制政治確立を象徴する存在であり、それが教会人とプロコピオスの非難に繋がったと思われる。

 

 

3.マルティナ

伯父であるヘラクレイオス帝と結婚、近親婚の非難を受ける。

カルタゴから艦隊を率いて暴君と言われるフォーカス帝を打倒し、首都の歓呼の中即位したヘラクレイオス帝だが、最初の妻を亡くしてからは無気力に陥り、ササン朝にエルサレム、シリア、エジプトを奪われ、帝国は崩壊の危機に瀕する。

しかし、マルティナとの結婚を機にヘラクレイオスは胆力を取り戻し、ペルシアの都クテシフォンに進撃、シリア、パレスチナ、エジプトを奪還。

この復活劇はギボンを読んでいて極めて印象的だったのだが、それも束の間、イスラム信仰に燃えるアラブ軍の侵攻を受け、636年ヤルムーク河畔の戦いに敗北、シリア、エジプトは失われる。

641年ヘラクレイオス死去、最初の妻との子コンスタンティノス3世が即位するが病弱でわずか百日余りの在位で死去、マルティナの子ヘラクロナスが跡を継ぐが、3世の子コンスタンス2世を推戴する反乱が勃発、マルティナは舌を切られ、ヘラクロナスは鼻を削がれて、両者とも追放されるという悲惨な結果となる。

本書は、マルティナがコンスタンティノスを毒殺したという説には根拠が薄く、一族の帝位争いというより、皇帝専制体制に伴う党争にマルティナらは意図せず巻き込まれたとの見方を示している。

 

 

4.エイレーネー

ビザンツ史上最初の女帝。

イサウリア朝始祖で聖像禁止令を発布したレオン3世の子がコンスタンティノス5世。

その子レオン4世の妃として選ばれる。

775年レオン4世が即位したが病弱で死去、エイレーネーの子コンスタンティノス6世が9歳で即位、エイレーネーが摂政として実権を握る。

聖像崇拝を慎重に復活させ、正教信仰の擁護者としての名声を得る。

成長したコンスタンティノス6世が母に不満を持ち、エイレーネーを幽閉して実権を取り戻したが、ブルガリア遠征に失敗、離婚と総主教の非難で人心が離反すると、エイレーネーによってコンスタンティノスは捕らえられ、何と実母の命令で目をくり抜かれてしまう。

797年エイレーネーが皇帝即位。

アッバース朝ハールーン・アッラシードの軍勢に敗北、ビザンツが女性皇帝となったのを見たローマ教皇レオ3世はそれを口実としてカロリング朝フランク国王のカールに帝冠を授与。

カール大帝とエイレーネーの結婚による東西ローマ帝国の再統合という驚くべき計画が持ち上がると、それに反発する勢力が802年宮廷クーデタを起こし、ニケフォロス1世が即位、エイレーネーはレスボス島に流され翌年死去。

再度始まった聖像破壊運動は長続きせず、聖像崇拝が復興、エイレーネーは名誉回復し聖人とされた。

 

 

5.テオファノ

二人の夫を始め多くの親族を殺したと疑われ、稀代の悪女と呼ばれてきた皇妃。

時代はバシレイオス1世に始まるマケドニア朝。

テオファノは酒商人または酒場の娘として生まれ、その低い生まれにも関わらず、外戚の政治介入を避けるため、前述のエイレーネーが創案したと見られる「皇妃コンクール」によってか、コンスタンティノス7世の皇太子ロマノスの妃に選ばれる。

956年即位したロマノス2世は放蕩的生活を続けたが、帝国は最盛期を迎えており、クレタ島とシリア諸都市を奪還。

963年ロマノス2世が急死したが、これをテオファノによる毒殺とするのは余りにも根拠薄弱とのこと。

テオファノの二人の子バシレイオス2世とコンスタンティノス8世がひとまず跡を継いだが、この時代、皇帝専制政治を支える官僚群と地方有力貴族の対立が激化しつつあった。

間もなく、後者を代表するニケフォロス・フォーカスが自らを皇帝と宣言、首都の市街戦に勝利し、ニケフォロス2世として即位、二子の後見役として君臨、さらにテオファノと結婚。

対外遠征に成功してイスラム勢力を押し返し、キプロス島、アンティオキアを占領するが、厳格な軍人皇帝が実施する教会財産の制限と兵士優遇策に対し不満が鬱積、969年皇帝の親族のヨハネス・ツィミスケスがテオファノの手引きで宮殿に侵入、ニケフォロス2世を殺害してヨハネス1世ツィミスケスとして即位。

テオファノの悪行とされることの内、この二度目の夫殺害とツィミスケスとの愛人関係だけは事実であろうとされている。

ヨハネス1世は即位した途端、テオファノを体よく追い払い、ロマノス2世の妹と結婚。

この皇帝も引き続き、ブルガリア人などに対する対外的勝利を重ねたが、976年死去。

テオファノの子バシレイオス2世が帝位に就き、テオファノは都に戻ったが、おそらく間もなく死去したものと思われる。

マケドニア朝はビザンツの国力が頂点に達したとされるものの、その割にニケフォロス2世とヨハネス1世は即位の経緯に内乱が絡み在位期間も短いが、このバシレイオス2世は1025年まで五十年近く在位し、皇帝権を阻む貴族層を抑圧し、文字通りの最盛期を現出した。

テオファノの悪行とされるものも、専制体制の動揺と貴族層の台頭という時代背景が生み出したものが多いと評されている。

なお、もう一人、テオファノの子で歴史上極めて重要な役割を果たした人物がいる。

娘のアンナはキエフ公国のウラジミルに嫁ぎ、ロシアを正教世界に導くことになる。

 

 

6.エイレーネー・ドゥーカイナ

コムネノス朝アレクシオス1世の妻。

セルジューク朝の脅威が迫る帝国では、コムネノス家、ドゥカス家、パライオロゴス家、のちにアンゲロス家などの大貴族が実権を握り、帝位を奪い合うことになる。

1081年アレクシオス1世は帝位を奪って即位。

即位前に対立していたドゥカス家との和解・協力のためにエイレーネーと結婚。

伝統的な皇帝専制理念から離れ、大貴族との協力による国制を志向。

娘のひとり、アンナ・コムネナは『アレクシオス1世伝』を著した歴史家として有名。

本書には記載が無いが、もちろん第一回十字軍を招請した時代である。

1118年アレクシオス1世死去、子のヨハネス2世即位。

父と同様、軍事貴族の連合体制という国制を継続、帝国の安定と繁栄をひとまず実現した。

 

 

7.アニェス(アンナ)

アニェスはフランス王ルイ7世の娘で有名なフィリップ2世の妹。

ルイ7世の曽祖父アンリ3世がキエフ公ウラジミルの孫娘と結婚しているので、元々マケドニア朝ビザンツ皇帝の血をわずかながら引いている。

上記ヨハネス2世の子がマヌエル1世、その子アレクシオス2世とアニェスが結婚、アンナと改名。

11世紀末ビザンツ帝国の内政的変化と同時に、皇妃も支援目当てに外国から選ばれることが多くなる。

マヌエル1世はイタリア回復の夢を描き、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と対立、フランス王国との対ドイツ連携の意図でアニェスの縁談がまとまる。

アレクシオス2世即位直後の首都での異母姉夫婦の陰謀をラテン人(西欧人)の力を借りて何とか鎮圧したが、帝室傍系のアンドロニコス・コムネノスが反乱を起こし、ラテン人への市民の反感を利用して首都に入城、アレクシオスを殺害しアンドロニコス1世として即位、自身がアニェスと結婚。

この数年後、第三回十字軍で東方へ向かった兄のフィリップ2世は、コンスタンティノープルには寄らず、アニェスに会わず。

1185年即位当初とは逆に、しだいにイタリア商人を始めとするラテン人優遇に傾きつつあったアンドロニコス1世に対して首都住民が反乱を起こし、イサキオス・アンゲロス(ドゥーカイナの娘テオドラの孫)が担がれイサキオス2世となり、アンドロニコスは市民に惨殺される。

そのイサキオス2世も1195年遠征中に捕らえられて目を潰され、新皇帝アレクシオス3世即位。

アニェスはその配下の一将軍と事実上結婚している。

イサキオス2世とその子アレクシオス4世は、第四回十字軍を呼び寄せ首都を攻略し復位したが、住民の不満を買い倒され、それを見た十字軍は総攻撃の後、コンスタンティノープルに再度入城、1204年ラテン帝国を建てる。

自身の甥に当たるブロワ伯ルイと会ったアニェスは「フランス語は忘れてしまいました」と冷たく答えたという。

1205年ラテン帝国軍はブルガリアに敗れ、ビザンツ亡命政権は息を吹き返し、ブルガリア、セルビアなどスラヴ人国家が乱立する情勢となった。

この状況の中で、アニェスもかつての祖国フランスと和解し、夫はラテン帝国に仕え、ブルガリア人と戦うようになったという。

 

 

8.ヘレネ・パライオロギナ

最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の母。

セルビア候家出身で、マヌエル2世と結婚。

末期のビザンツ帝国を脅かしたのはもちろん東はオスマン帝国だが、西ではセルビアがステファン・ドゥシャン大王の下、大成長しつつあった。

ドゥシャン死後は分裂、各君侯が勢力を競う情勢。

1261年コンスタンティノープルを奪回したミカエル・パライオロゴスがミカエル8世として創始したパライオロゴス朝も凄惨な帝位争いを繰り返してきた。

その争いがヴェネツィア、オスマンといった外部勢力を引き入れる形で行われ、マヌエル2世も甥を追い落とすために、オスマン帝国のバヤジット1世に臣従する始末となる。

1389年コソヴォの戦いでヘレネの父はオスマン側について同族と戦っており、オスマン朝がキリスト教信仰を認めている限り服従する姿勢だった模様で、ヘレネの結婚が反オスマン同盟のためと見ることはできないとされている。

マヌエル2世は西欧へ軍事支援を要請する旅に出るが、1402年ティムール軍に対するバヤジット1世の大敗によってビザンツ帝国は辛くも救われる。

マヌエル2世は巧みな外交を展開、オスマン朝の後継争いに際し、メフメト1世を支援して対ビザンツ強硬派の皇子に勝利させ、協調関係を確立。

続くムラト2世もビザンツとの友好関係を望んだが、マヌエルの皇太子ヨハネス(8世)らの対オスマン強硬論が台頭、対立スルタンを担いだが、この政策は完全に失敗、逆に二十年振りにコンスタンティノープルを包囲・攻撃されてしまう。

1425年マヌエル2世死去、ヨハネス8世は東西教会合同を条件に西欧の支援を求めるが、国内の反対も強く進展せず。

1448年ヨハネス8世死去、弟のコンスタンティノス11世即位。

1450年ヘレネは死去、1453年の帝国滅亡と息子コンスタンティノスの死を見ずに済んだ。

 

 

 

素晴らしい。

無味乾燥な年代記の記述を丹念に読み取りながら、出来る限り史実に則り、歴史学の基準を守った上での想像力を働かせ、歴代皇妃の生涯を生き生きと描き出している。

そしてそれが単に歴史的人物の個人的伝記であるに留まらず、時代背景の適格な説明により、ビザンツ史全体の史的概観をも与えてくれる。

テマ制とかプロノイア制の話とその最近の学説の変化などには触れるところがないが、大した欠点ではない。

予想した通りの良書。

この分野について、初心者は無理してあれこれ読まず、本書と冒頭に挙げた井上氏の二冊の本を再読・三読した方がいいかもしれない。

2018年4月26日

今井宏平 『トルコ現代史  オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:16

分野的に類書が極めて少ない、ケマル・アタテュルク以後のトルコ現代史の本。

第一次大戦敗北後、1920年のセーヴル条約に反対し、抵抗運動を組織したムスタファ・ケマルが勝利、1922年スルタン制を廃止、23年トルコ共和国建国、ローザンヌ条約締結、24年カリフ制も廃止。

以後、ケマルの独裁的指導と与党共和人民党(昔はトルコ国民党と訳されてましたね)の一党支配体制が続く。

政教分離(世俗主義)、民族主義、国家資本主義を指針として、イスラム圏では稀有な急進的西洋化・近代化政策を推進。

1938年ケマルが死去(まだ57歳だったことにやや驚く)、イノニュが後継大統領に就任。

第二次大戦では慎重な中立政策を採り、最末期まで連合国に加わらず。

戦後、複数政党制を認め、民主党が結成。

1950年選挙で民主党が圧勝、政権交代し、メンデレスが首相に就任。

同時にイノニュも大統領職から退くが、ここから行政権の主体が大統領から首相に移行した模様。

このメンデレス政権がちょうど10年続く。

米ソ冷戦が始まり、トルコはトルーマン宣言の支援対象国とされ、西側陣営に加わり、1952年NATO加盟。

メンデレス民主党政権は、経済的門戸開放政策と地方の利益増進などで成果も挙げたが、世俗主義の部分的見直しが波紋を呼び、また民主党自身が権威主義化し、共和人民党を圧迫。

これに反発する軍部が1960年クーデタを実行、建国以来の第一共和政は終焉。

ギュルセル主導の短期の軍政の後、第二共和政成立。

主要政治勢力は四つ。

イノニュおよびエジェヴィト率いる中道左派的な共和人民党。

デミレル率いる中道右派的な公正党(民主党の後身)。

エルバカン率いる親イスラム系の国民救済党。

右派的トルコ民族主義を掲げる民族主義者行動党。

これらの勢力で政権が運営されるが、60年代末から左翼的学生・労働運動の勃興で治安が悪化、71年には軍部の圧力で内閣が総辞職するという「書簡クーデタ」が起こり、74年にはトルコ系住民保護の為、キプロスに軍事介入、西側諸国との関係が悪化。

石油ショックによる経済危機も加わり、結局1980年再度軍事クーデタ発生、第二共和政は崩壊。

それ以後、現在までが第三共和政である。

その前半をリードしたのが、多様な勢力を糾合した祖国党とそのカリスマ的指導者オザルである。

オザルは1983~89年まで首相、89~93年大統領を務め、新自由主義的政策を採用、経済成長を遂げるが、その代償として格差と腐敗も広がる。

共和人民党、(そこから生まれた)民主左派党、(公正党の後身)正道党は、祖国党への明確な対立軸を打ち出すことが出来ず、国民の不満が高まる中、主要政党は没落、第三共和政後半では、その間隙を縫って、親イスラム政党である福祉党および後身の美徳党が台頭する展開となる。

革命以来の世俗主義の守り手を自任する軍部は、96年連立政権の首相となったエルバカンに圧力をかけ翌年辞任に追い込むが、EU加盟交渉での外圧や軍による謀略の暴露などで、その影響力は低下していく。

2000~01年の金融危機を経て、01年美徳党の若手・革新グループであるギュルとエルドアンを中心に結成された公正発展党が02年総選挙で大勝、単独政権を樹立、ギュルが首相就任。

2003~14年にはエルドアンが首相として長期政権を実現、2007年には大統領にもギュルが就任、その後継として14年大統領に転じたエルドアンは、行政権の主体を首相から強大な権限を持つ大統領に移すことを主張。

国内の対立が深まる中、2016年軍部のクーデタが発生するが失敗、かえってエルドアン体制が盤石になる形勢となっている。

 

 

この国は、1789年以来君主制を放棄した国々の中では、ブラジルと並んでひとまず破滅的な結果をもたらさなかった国として、個人的には評価していたのだが、本書の叙述によって内実を見ていくと、必ずしもそうとは言えない模様。

ケマリズムと西洋化政策の恩恵を受けたエリート層とそこから取り残された大衆層との深い断絶が革命以来続き、その矛盾が親イスラム勢力の台頭という形でじわじわ表面化してきた感がある。

しかし、国内の緊張と対立が深まる中、ポピュリスト的指導者が台頭し、これまで象徴的役割だった国家元首に実質的権限が集中していく、という展開は不吉だなあと思わざるを得ない。

スルタン制はともかく、カリフ制だけは温存し、伝統的な制度と信仰を保存し、より漸進的な形での近代化政策を進める展開になっていれば・・・・・というのは都合が良すぎるか。

そんな状況では全くなかったんでしょうねえ。

世の中のことは大抵どうしようもないんでしょう。

人間というのは本当にやっかいな生き物です。

 

 

 

手軽に読める類書がほぼ無いはずなので、極めて貴重な本。

こういう知識の隙間を埋めてくれる本は非常に有り難いです。

2018年4月22日

エドガー・アラン・ポー 『黒猫 モルグ街の殺人』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:11

これも「高校生・大学生の頃、一読したきりで記事にした本を、別の版で再読する」シリーズです。

怪奇小説数篇と推理小説の祖とも言われる「モルグ街の殺人」を収録した短篇集。

感想は・・・・・同じです。

普通に読めて面白い。

「黄金虫」や「アッシャー家の崩壊」は、この版では未収録。

同じ古典新訳文庫で両作品の訳書が出ているはず。

あと、中公文庫の作品集が結構まとまった収録だった気がする。

訳者解説で、ポーを「研究としてはいざ知らず、現代人が楽しめる読書の対象としては、アメリカ文学史に現れた第一号と言って、そう間違いはないはずだ」と書いているが、確かにそう思える。

この訳書辺りをとりあえず押さえておけばいいんじゃないでしょうかね。

2018年4月15日

10冊で読む国際政治学

Filed under: おしらせ・雑記, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 03:38

 

伝統的な外交史から国際政治学、そして経済や文化をも含む現在の国際関係論にまで発達した学問分野であるが、自分の関心領域から言って、やや古い印象があるが、国際政治学の名称が最もしっくりくるので、この記事でもそれを表題にします。

国際関係・外交(と近現代概説)カテゴリを中心にして、そこから必読と思われる10冊を抽出。

花井等『名著に学ぶ国際関係論』中嶋嶺雄『国際関係論』の記事で引用したブックガイドをそのまま示すのも芸が無さ過ぎるので、一応自分自身が読んだ本の中から、読破が容易な全10冊という数で選ぶことにします。

 

 

この分野では、自分にとって二人の導き手がいます。

戦後日本を代表する国際政治学者である高坂正堯(1934~96年)と、アメリカの著名な外交官であるジョージ・ケナン(1904~2005年)です。

以下のリストでも、この二人の作品を多く取り上げることになると思います。

 

 

レベルとしては、国際政治に関心があって、高校で世界史や政経が得意だった人が、大学1・2年生で読むくらいの本を想定しています(それ以上のことは私にはわかりません)。

そして、複雑で抽象的な理論的著作は読んでも分からないので、主に歴史的アプローチの作品だけを取り上げます。

 

 

 

では、具体的に書名を挙げていきましょう。

ここで、国際政治のパワー・ポリティクスを叙述した最古の文献としてトゥキュディデス『戦史』を冒頭に掲げるというのは、なかなか渋いとは思うが、まあ止めておくか。

でも、表面上の唐突さにも関わらず、そうしてもおかしくはない著作だとしておきます。

国際政治学の標準的なブックリストで最初によく挙げられるのはE・H・カー『危機の二十年 理想と現実』(岩波文庫)か。

この学問分野を確立した書と言われているので、それも当然である。

でも、残念ながら、さして面白くない。

分野に限らず、こういう「ネームバリュー抜群で読まないわけにはいかないんだが、実際通読すると面白味が無い」という本が一番困るんだよなあ。

一読は薦めるが、リストに入れるのは止めておきます。

 

 

で、実際に第一冊目に選ぶのはこれだ。

(1)ポール・ケネディ『大国の興亡 上・下』(草思社)

16世紀以降の主要国の政治・経済と覇権闘争を叙述した重厚な歴史書。

(このブログでのカテゴリは近現代概説にしている。)

1980年代末、冷戦時代および昭和時代の末期に刊行されベストセラーになった。

解説で高坂正堯氏が言うように、本書が示す一般原則よりも、細々とした史実の描写とよく考えて作られた図表が、読者にとっては有益である。

結局、国際政治学において、近現代の世界史が全ての思考における基本的材料となるが、一冊でその概観を学べる適切な本。

そして、分野を外交に絞り、その近現代全般の推移を叙述した本として、以下を採用。

(2)ヘンリー・キッシンジャー『外交 上・下』(日本経済新聞社)

著者は、米国のニクソンおよびフォード政権で大統領補佐官、国務長官を務め、学者出身の外交実務担当者としては恐らく最高の成功を収めた人物。

その回顧録である『キッシンジャー秘録 全5巻』(小学館)『キッシンジャー激動の時代』(小学館)は、初心者には極めて通読困難だが、現在の大国の政策決定の実態や、リアル・ポリティクスの外交手法について、飛ばし読みするだけで多くを学ぶことができる。

頭の切れることは間違いないし、ずば抜けた交渉能力を持った外交家でもあろうが、率直に言って、ケナンに比して人間的には好感の持てる人物では無い。

それもあって、リストに挙げるのはこの1冊のみにします。

 

 

そして、いよいよ三冊目にケナンの本を挙げる。

(3)ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)

30冊で読む世界史と重複するが、これを選ばないのはあり得ない。

20世紀のアメリカ外交を概観し、それに明確かつ冷静な評価を下す本で、本書の読み易さと有益さは只事ではない。

封じ込め政策を提唱した「X論文」を含む後半部はやや難易度が上がるが、読みこなせない程ではない。

外交に関する本では真っ先に挙げるべき名著中の名著。

続けてこれも選ぶ。

(4)『ジョージ・F・ケナン回顧録 上・下』(読売新聞社[現在は中公文庫])

一外交官の回顧録に止まらない、様々な貴重な見解に満ちた、極めて格調の高い作品になっている。

共産主義国家という人類の歴史上異例な存在と対峙することを迫られた、タカ派でもハト派でもない、真に現実主義的ながら理想を手放すこともしなかった、知的で真摯で誠実な人物の軌跡を読み取ることができる。

決して省くことのできない最高の名著。

極めて入手し難いのが残念であったが、最近中公文庫に収録されたのは、本当に喜ばしい限りである。

読売傘下に入ってからの中央公論には、いろいろ申し上げたいこともあるんですが、こうした本を再刊してくれることに対しては、感謝の言葉しかないです。

ジョージ・ケナン『レーニン・スターリンと西方世界』(未来社)も、素晴らしいソヴィエト・ロシア(外交)史となっているが、迷いに迷った末に外す。

ケナンの具体的歴史叙述で日本語で読めるものでは最良の作品となっている。

外すのは単に冊数の都合ですので、未読の方は絶対に読んだ方がいい。

その他、『アメリカ外交の基本問題』(岩波書店)『危険な雲』 (朝日イブニングニュース社)も、思索的著作である『二十世紀を生きて』(同文書院インターナショナル[現在は中公クラシックス収録])も読むべきだし、死後出版された伝記であるジョン・ルカーチ『評伝ジョージ・ケナン』(法政大学出版局)も強く薦める。

 

 

それで、戦後国際政治史の著作に進みますか。

ルイス・J・ハレー『歴史としての冷戦』(サイマル出版会)猪木正道『冷戦と共存 (大世界史25)』(文芸春秋)猪木正道『現代の世界 (世界の歴史25)』(講談社)高坂正堯『現代の国際政治』(講談社学術文庫)油井大三郎『第二次世界大戦から米ソ対立へ (世界の歴史28)』(中央公論社)猪木武徳『冷戦と経済繁栄 (世界の歴史29)』(中央公論社)下斗米伸夫『新世紀の世界と日本 (世界の歴史30)』(中央公論社)などの著作をこれまで紹介しているが、近年出たものほど面白くなくなるのは気のせいだろうか。

その中で選ぶとすれば、まずやはりこれか。

(5)高坂正堯『現代の国際政治』(講談社学術文庫)

深い叡智に満ちた歴史叙述の傑作。

やはりこれが基準となるべき著作でしょう。

国際政治学のリストなんだから、戦後史概説の本が1冊では不充分に思えるので、せめてもう1冊追加が欲しい。

これにするかな。

(6)猪木正道『冷戦と共存 (大世界史25)』(文芸春秋)

叙述に迫力と一貫性がある。

1960年代末の刊行というハンデもあるが、それを補える長所があると判断しました。

猪木正道『現代の世界 (世界の歴史25)』(講談社)は70年代末まで叙述対象が広がり、内容も詳細となって参考になる部分が多いので、一読を薦めるが、リストからは外すか。

一方、中公新版「世界の歴史」の三冊は、比較的最近出たものにも関わらず、積極的に薦める気が起きず、自分の中ではあくまでサブテキスト扱いです。

むしろ、古いながらも特色のある、ルイス・J・ハレー『歴史としての冷戦』(サイマル出版会)の一読を推奨したい。

米国の冷戦研究の権威であるギャディス(ガディス)の著作『ロング・ピース』(芦書房)『冷戦』(彩流社)は必読とまでは思えず。

 

 

そしてこの重厚かつ精緻な史書を挙げる。

(7)高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』(中央公論社)

ウィーン体制下の平和が、民主化と産業化が深化する以前の貴族的価値観を前提として成り立っていたことを論ずる本。

叙述の華麗さ、文体の端正さに強く印象付けられる名著。

初心者が読めない本ではないが、これは一応研究書に属する本でしょう。

にも関わらず、これは挙げます。

このテーマに関するリストでは挙げずにおれない。

 

 

他に近現代史や戦略論についての個別的な本は、いちいち紹介しきれない。

国際関係・外交カテゴリを中心に、目に付いた書名だけを少数、脈絡もなく挙げるだけにします。

岡崎久彦『戦略的思考とは何か』(中公新書)は、最初全10冊の中に入れるつもりだったんです。

1980年代前半の冷戦末期に、日本の歴史的戦略環境から対ソ防衛戦略までを平易に説いた本として、昔一読した際、様々なことを教えてくれた本として記憶に残ってはいる。

しかし、21世紀に入ってから感じた岡崎氏への違和感を思うと、無条件で推奨できる本ではなくなったなというのが正直な印象である。

興味深い本ではあるので、サブテキストとしては薦めておきます。

野田宣雄『ヒトラーの時代 上・下』(講談社学術文庫[現在は文春学藝ライブラリー収録])は、ごく簡略な一般読者向けの史書ながら、第二次世界大戦に至る大国の行動について、非常に分かりやすい解説を述べている本。

各国政策決定者の認識を説明し、そこから下した決断とそれに基づく行動が、他国の政策決定者の認識と言動を生み出していく連鎖作用を、非常に巧みに叙述している。

ごく初歩的な内容で、刊行年代が古いにも関わらず、各国が織り成した複雑な外交経緯を明快に理解させてくれるので、極めて有益な書物となっている。

(類書として、三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書)を挙げておきます。)

一方、テイラー『第二次世界大戦の起源』(中央公論社)は、やや晦渋に過ぎ、ネームバリューはあっても、初心者がその良さを汲み取るのは難しいと思われます。

曽村保信『地政学入門』(中公新書)をやたら褒める人がいるが、私にはそれほど面白いとはどうしても思えなかったし、強いて薦める気が起きない。

外交に関する古典的名著であるニコルソン『外交』(東京大学出版会)も、必読とまでは思えず。

だが、難解な本ではなく、通読はさして困難ではないので、一読しておいても良い。

マハン『海上権力史論』(原書房)も初心者には良さが分からないでしょう(もちろん私も分からない)。

著名な戦史家・戦略理論家であるリデル・ハートも、『第一次世界大戦』(原書房)はまだ読めるが、『第二次世界大戦 上・下』(中央公論新社)となると通読困難だ。

まして、クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫)なんて、到底素人が読む本じゃないので、無視しましょう。

アダム・ウラム『膨張と共存 全3巻』(サイマル出版会)は、著名なソ連外交研究家の著書だが、入手も困難だし、ケナンの本もあるのに、強いて読まなければならない本には思えず。

ハンチントン『文明の衝突』(集英社)も、好事家的興味が無ければ、読む必要も無いように思える。

メイヨール『世界政治』(勁草書房)は、期待したほどの面白さは感じなかった。

アーネスト・メイ『歴史の教訓』(岩波現代文庫)も、ケナンの著作のような説得性は持たないと思う。

 

 

リストに戻って、国際関係論の教科書的著作として、以下を挙げる。

(8)ジョセフ・ナイ『国際紛争』(有斐閣)

これは本当に面白かった。

事前の期待を(いい意味で)大幅に裏切る本だった。

現在でも流通する一般的テキストでありながら、内容は最高レベル。

なお、増補されるごとに、細かく版数を重ねているようだが、本書の価値はその前半部にあると思われるので、入手する際には最新版にこだわる必要は無い。

 

 

そして、以下の書もやはり決して外すことは出来ない。

(9)高坂正堯『国際政治』(中公新書)

これほど感動した書物は私の人生でも滅多に無い。

刊行年代の古さを感じさせない、圧倒的な素晴らしさ。

極めて本質的で鋭い内容の叙述が全篇で繰り広げられている。

国際政治学に留まらず、広く政治や国際社会について考える際の、基礎的教養を与えてくれる。

比較的最近に出た、中西寛『国際政治とは何か』(中公新書)などの書は、それなりの良さはあっても、やはり本書に替わり得るものではない。

 

 

そして、最後はこれで締める。

(10)高坂正堯『外交感覚』(中央公論社)

この本を知っていたら、「うん?」となる方も多いと思います。

書名だけ見ると分からないでしょうが、これは1970年代末から80年代半ばに書かれた、短い時事的外交評論集です。

リストの他の本と比べると、明らかに異質ではある。

(現在では、本書の続編である『時代の終わりのとき』および『長い始まりの時代』(関連文献:高坂正堯の記事で書名だけ紹介済み)と合本となって、千倉書房から復刊されているが、最もページ数があって優れているのは第一巻の『外交感覚』なので、これだけでもよい。)

だが、時事的事件を論じた短い文章の中に、政治や外交についての極めて深い考察と叡智が含まれており、読んでいくうちに、知らず知らずその影響が身に付くようになっている。

学生時代に最も頻繁にページを手繰った本でもあるし、いろいろ考えた結果、これはやはり外せないと判断しました。

自分にとって、高坂氏は、歴史と政治を学ぶ上で、他の様々な著者と書物を知る切っ掛けとなる極めて重要な方でした。

史論・評論カテゴリ、近代日本カテゴリにも、『文明が衰亡するとき』(新潮社)『世界地図の中で考える』(新潮社)『世界史の中から考える』(新潮社)『現代史の中で考える』(新潮社)『大国日本の世渡り学』(PHP文庫)『宰相吉田茂』(中央公論社)『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)などの著作を紹介していますが、どれもこれも良書なので、とにかくできる限り多数の著書をお読みになることをお勧めします。

 

 

なお、戦後の国際政治史について、戦後世界史の時代区分 その1 と 同 その2 で、

1943~47年【冷戦前段階期】

1947~53年【冷戦高揚期】

1953~57年【緊張緩和期】

1957~63年【再対決期】

1963~71年【多極化期】

1971~79年【デタント期】

1979~85年【最終対決期】

1985~89年【冷戦終結期】

1989~2001年【ポスト冷戦期】

2001年~【混乱期】

というような時代区分を示しましたが、別にこの通りでなくてもいいので、大まかな国際政治上の傾向はつかめるようにして下さい。

結局、そのためには出来る限り多くの年号を正確に記憶するしかない。

例えば、「1965年」という年号を見れば、ああ、この年の最大の事件はアメリカの北爆開始とヴェトナム戦争本格介入だな、大統領は民主党のジョンソンだ、近隣のインドネシアでは九・三〇事件が起こって容共的なスカルノ政権が実質崩壊した年だ、シンガポール独立もこの年でしたっけ、さらに第二次印パ戦争も起こってるよなあ、中国では翌66年に始まる文化大革命の切っ掛けになった文芸批判に火がついてるはずだ、これで毛沢東が劉少奇・鄧小平ら実権派を引きずり下ろすんだよなあ、アジアではいろいろキナ臭い事件が多いなあ、でも日韓基本条約が結ばれたのもこの年だ、韓国は61年クーデタで成立した朴正熙政権で、日本の首相は前年池田勇人から交替した佐藤栄作だ、北アフリカではクーデタでアルジェリアのベン・ベラ政権が倒れている、これは九・三〇事件と同じく、中国による第三世界での急進的革命外交の失敗を示す出来事だな、ヨーロッパでは特に大事件は無いか、第五共和政のフランスでは対米自主外交を掲げるド・ゴール政権がもちろん続いてる、イギリスの首相は確か64年から労働党のウィルソンだったはず、西ドイツは63年にアデナウアーが引退してて、キージンガー大連立内閣成立が確か66年だったはずだから、首相はエアハルトか、イタリア首相はさすがに思い浮かばないが、ソ連がブレジネフ政権だってことはもちろん憶えてますよ、64年にフルシチョフが失脚してますからね、といった具合に、この程度の史実は、何も見ずに頭に即浮かぶようにならないといけない。

基本的史実と年号がしっかり組み合わさって、頭の中に記憶されている場合とそうでない場合では、同じ史書を読んでいても、理解力に極めて大きな差が出てくる。

こうした基礎的学習を疎かにしたまま、報道に表れる事件に条件反射的に対応して、匿名のネット上で素人の床屋政談をやっても、実りのある結果には何一つならないでしょう。

 

 

 

終わりです。

以下、全10冊のリストです。

 

 

(1)ポール・ケネディ『大国の興亡 上・下』(草思社)

(2)ヘンリー・キッシンジャー『外交 上・下』(日本経済新聞社)

(3)ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)

(4)『ジョージ・F・ケナン回顧録 上・下』(読売新聞社・中公文庫)

(5)高坂正堯『現代の国際政治』(講談社学術文庫)

(6)猪木正道『冷戦と共存 (大世界史25)』(文芸春秋)

(7)高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』(中央公論社)

(8)ジョセフ・ナイ『国際紛争』(有斐閣)

(9)高坂正堯『国際政治』(中公新書)

(10)高坂正堯『外交感覚』(中央公論社)

 

 

個人的な偏りはもちろんあるでしょうが、そうそう変な本も入れていないつもりです。

ですが、中には入手しにくいものもありますし、どうしても合わないという本も人によってはあると思います。

この「〇〇冊で読む△△」の記事は、全て必読書リストの叩き台だけを提供するつもりでやっているので、一応の目安と考えてもらって、後はご自身に合うよう、適当に取捨選択して下さい。

学生の方はともかく、社会人の方は仕事をしながら読書の時間を割くのも大変でしょうし、10冊に絞ったのは我ながら悪くないとは思います。

仮の読書予定リストにでもして頂ければ幸いです。

2018年4月11日

池田嘉郎 『ロシア革命  破局の8か月』 (岩波新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 03:16

副題の「8か月」は、1917年二月革命(三月革命)から十月革命(十一月革命)までの期間を指す。

帝政崩壊からボリシェヴィキの権力奪取まで存在した臨時政府に焦点を当てた著作。

オクチャブリスト(十月党=1905年市民的自由と議会[ドゥーマ]開設を宣言した十月勅書から名付けられた党派、ロジャンコ、グチコフら)と立憲民主党(通称カデット、ミリュコーフら)を中心とする自由主義者と、トルドヴィキ(農村志向で平和的手段による変革のみを主張した党派、ケレンスキー[のちに後記エスエルへ移籍]ら)、社会革命党(通称エスエル、チェルノフら)、メンシェヴィキ(チヘイゼ、ツェレテリら)など社会主義者が主役。

同じく反専制を掲げていても、改革志向の社会的エリートである「公衆」を代表する自由主義者と、労働者・農民・兵士という「民主勢力」を代表する社会主義者との間の断絶は極めて大きかった。

史上初の総力戦となった第一次世界大戦への参戦が致命傷となり、脆弱な帝政ロシアの社会体制は崩壊、自然発生的に生まれた騒乱により、二月革命が起こって帝政は崩壊。

リヴォフ公を首相とし、カデットを中心とした臨時政府が誕生したが、英仏等西側諸国の支援を失うことを恐れて戦争からの離脱を決断できず、臨時政府は最初から途方もない重荷を背負って存続することになる。

戦争継続と軍紀回復をめぐる対立から、外相ミリュコーフは辞任、ペトログラード・ソヴィエトで多数占めるトルドヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの社会主義者が入閣。

ウクライナなど旧帝国周辺民族への自治権についても、それに慎重なカデットは、社会主義大臣およびソヴィエトと対立。

自然発生的で、時期尚早な「七月危機」の鎮圧成功で、臨時政府にも好機が訪れるが、カデットもエスエルもメンシェヴィキも、強固な権力意識と決断力、反対派を排除する徹底性に決定的に欠けていた。

エスエルとメンシェヴィキら穏健社会主義者は、ボリシェヴィキに対して鋭く対立しつつも、帝政時代共に弾圧を受けた立場からの(後から見ればどう考えても誤った)仲間意識を持っており、その指導者を逮捕しても政党活動自体は禁止せずにいたが、その後、独裁体制を確立したボリシェヴィキは、スターリン時代に彼らのほとんどを文字通り抹殺することになる。

首相がケレンスキーに替わるが、前線の崩壊、農村と都市での社会的無秩序化は止まらず、その危機の中、コルニーロフの反乱が勃発。

(本書ではケレンスキーとコルニーロフの間で首都への軍派遣と戒厳令布告について合意が出来ており、それが連絡不備と相互の疑心暗鬼から制御不能な対立関係に至ったとされており、コルニーロフ側が一方的に「反革命的陰謀」を企てたわけではないと書かれている。)

よく知られているように、これでボリシェヴィキは復活、ソヴィエトでも多数派を支配、党内の異論を押し切ったレーニンとトロツキーはついに武装蜂起し、十月革命で権力を奪取、以後ロシアはその長い長い独裁政権の下で呻吟することになる。

本書は、1917年の臨時政府の崩壊とボリシェヴィキの勝利の理由を、エリート社会と民衆世界の断絶という、ロシア史の構造的要因に帰しているが、私は、著者が一部支持を留保している、「民衆の暗愚とボリシェヴィキの煽動を重視する」「ソ連崩壊後にあちこちで見られた反ボリシェヴィキ史観」に近い考え方を持ってしまう。

帝政崩壊を機に、前線では命令無視や将校殺害、農村では土地の奪取、都市では工場資産の接収など、民衆の一方的暴力行動が頻発し、誰にも社会の無秩序化を制御できなくなる。

長年の専制と総力戦体制下で苦しんできた民衆は同情に値するが、この行為は明らかに行き過ぎで自分達自身の首を絞めるに等しいものだ。

混乱時には、噂やデマが蔓延し、極論が思うままに宣伝され、眼前の不都合の責任を押し付けるための「敵」を見い出し、彼らへの暴力衝動が煽動される。

最も無責任で、最も他罰的で、最も煽情的な党派が、群衆の表面的世論に迎合し、その感情を支配した瞬間、暴力的手段によって権力を握る。

そうして独裁体制を確立した後では、反対党派も、かつての支持者である民衆も、いくらでも弾圧できる。

実際、こうしたメカニズムは、1917年のロシアであろうと、1933年のドイツであろうと、(そして近未来の日本であろうと)全く同じである。

ボリシェヴィキが、十月革命直後に選出された憲法制定議会で少数の支持しか得られず、それを解散し、一党独裁への道を歩んだことはよく知られている。

そのことをもって、ロシア革命の「非民主性」を言うことは、たやすい。

冷戦時代、「社会主義・共産主義は、自由主義よりも進歩した民主主義であり、将来の人類の必然の道だ」などという、左翼のたわけた主張が漠然と多くの人々に信じられていたことを思えば、はっきりと「十月革命は真の民主的変革ではなく、民意の支持を得ていない、ボリシェヴィキによる軍事クーデタに過ぎない」と断言することは痛快である。

私も以前そう考えていたことがありました。

しかし、本当にボリシェヴィキが民衆の支持を得ていなかった、と言えるのか。

レーニンらが、実現不可能なものも含め、「平和」「土地」「パン」といったことに関する、ありとあらゆるデマゴギーを振りまき、ソヴィエト内での多数派を獲得し、都市部では大きな流血を伴うことなく権力を奪取した事実は消えない。

激しい内戦があった農村でも、白衛軍が戻り、土地を奪われることを恐れられたこと、また干渉軍への民族主義的反感から、最終的には赤軍が勝利した。

もちろん戦時共産主義による徹底した強制徴用・徴発、赤色テロによる反対者の惨殺、威嚇によって、ボリシェヴィキが暴力的に否応なく国民を引きずっていった側面は間違いなくあるだろうが、それで全て説明がつくとも思えない。

臨時政府時代にも、内戦時代にも、反ボリシェヴィキ勢力は四分五裂し、遂に団結して、ソヴィエト政権を打倒することが出来なかったし、多くの民衆もそれらを支持しなかった。

もちろん「無併合・無賠償の講和」提唱は暴力の停止自体を目標にしたものではなく、他国にロシアと同じような暴力革命を起こすことを目論むものであったし、「土地とパン」を与えると約束された農民たちは、内戦終了後、事実上の国家奴隷となり、過去どんなツァーリの治世でもあり得なかったほどの搾取と飢餓に苦しめ抜かれることになった。

真の断絶は、帝政派と反帝政派、自由主義者と社会主義者の間ではなく、全体主義と暴力を信奉するボリシェヴィキとその他すべての党派の間にあったのだが、それが自覚されることは無かった。

パイプス『ロシア革命史』では、内戦での多数派民衆の立場は中立・傍観的であり、赤軍がロシア中央部の人口稠密で資源豊富な地域を押さえていたのに対し、白軍は地域的・民族的に分裂していたという「客観的」要因が前者の勝利を説明すると書かれているが、それは結局ボリシェヴィキの支配がこれまでの旧体制とは桁違いの圧政をもたらすことを民衆が全く理解していなかったことを示している。

そうした政治的言説の歪みも含め、やっぱり1917年のロシアは「民衆世論が致命的に間違った道を選択し、破局に至った」んです。

私にはそうとしか思えない。

当時のロシア国民には酷な言い方だが、旧体制を急激に崩壊させた後、もたらされた混乱に耐えかね、民衆はボリシェヴィキのヴィジョンに「賭けた」のでしょう。

その結果が数十年にわたる地獄の沙汰であり、その後遺症から今もロシアは抜け出し得ないように思われる。

伝統的な旧来の政治・社会体制に、どれほどの欠陥があろうとも、急進的変革と秩序崩壊がどれほど危険なものか、その際における民衆の選択がどれほど信頼できないかということを、百年前のロシア革命の歴史は示している気がしてならない。

 

 

私の感想とはややズレるが、ごく真っ当な史観に貫かれた良書。

(しかし、岩波書店もこうした本を出すのが半世紀遅かったんじゃないですかと言いたくなる。)

通読は容易だが、中身は濃い。

一日、二日で読めるので、一度図書館で借りてみるのもよいでしょう。

2018年4月7日

ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン 『デンマークの歴史』 (ビネバル出版)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 01:47

訳書は1995年刊。

旅行ガイドの人が、外国人(特に英国人)向けに書き下ろしたデンマーク史とのこと。

前近代中心に、国王の治世を軸に据えて叙述しているのは良い。

しかし、王名がズラズラーっと並んでいるのは、正直キツイなあ・・・・・。

ごく大雑把なところを読み取れればいいと考えて通読。

 

デンマークは、ドイツの北にくっ付いているユトランド半島にある国。

ただし、首都のコペンハーゲンは最大の島シェラン島にある。

さらに北のスカンジナビア半島で、一番西側で長いフィヨルド式海岸を擁するのがノルウェー。

スカンジナビア三国の中で真ん中にあるのがスウェーデン。

その隣、ロシアに面するのがフィンランド。

デンマーク、ノルウェー、スウェーデンが現在も王国なのに対し、フィンランドだけ共和国(独立していた時期も最も短い)。

ヴァイキング時代までの歴史はすっ飛ばしていいでしょう。

北ゲルマン=ノルマン人=ヴァイキングがデンマークを支配、デーン人とも呼ばれ、国名の由来となる。

カール大帝の勢力がユトランド半島南部にまで伸びてくるが、デーン人はイングランド、フランクなどを襲撃。

10世紀デーン人は、ゴーム(老王)の下、初の本格的王朝であるイェリング朝を成立させる。

ドイツに神聖ローマ帝国誕生、その圧力を受けた二代目のハーラル1世(青歯王)はキリスト教に改宗。

少し後にはクヌーズ(クヌート)大王が即位、1018年デンマーク・イングランド・ノルウェーに及ぶ北海帝国を打ち立てたが、その死後は崩壊。

以後、王統が続くが、この辺は省略。

1157年即位したヴァルデマー1世(大王)が王位争いを収拾、盛期を築く。

だが、13世紀半ばから再び100年続く衰退期に入り、東方植民ではドイツ人に後れを取り、経済的にはハンザ同盟の影響下に置かれる。

この形勢をヴァルデマー4世(再興王)が逆転したが、その末娘が高校世界史で唯一特筆大書されているマルグレーテである。

ノルウェー王に嫁していたマルグレーテは夫とデンマーク王の息子の死後、実質女王として君臨し、1397年からデンマーク・ノルウェー・スウェーデン三国から成るカルマル同盟(連合)を統治する。

しかし、間もなくイェリング朝は断絶、1448年ドイツ・ブレーメン近郊のオルデンブルク伯爵家からクリスチャン1世が王位に迎えられ、オレンボー王朝が生まれる。

その際、デンマークとドイツとの係争地であったシュレスヴィヒ(スリースヴィ)について、シュレスヴィヒとドイツ色の強いホルシュタインを分離しないという条件でクリスチャン1世がホルシュタイン伯爵の地位に就くという解決が成されるが、後世にも問題は続く。

1523年グスタフ・ヴァーサの反乱で、スウェーデンが分離独立。

ルター派プロテスタントが浸透、それに絡んだ内乱も起き、国教会が成立。

海峡通行税と穀物輸出で経済は成長。

だが、クリスチャン4世が三十年戦争に新教側で参戦し敗退すると、国運は衰退に向かい、北欧での優位をスウェーデンに奪われる。

戦争での貴族層の没落で、かえって王権は強化され、絶対王政が確立。

北方戦争ではロシアと結んでスウェーデンと戦い、一時窮地に立つが、挽回しノルウェーは保持。

ナポレオン戦争では、デンマーク艦隊がナポレオンに奪われることを恐れたイギリスが艦隊の引き渡しを要求したが、デンマークはこれを拒否、交戦状態に入り、図らずもフランス側に付くことになってしまう。

その為、戦後、フィンランドをロシアに割譲していたスウェーデンにその代償として、デンマークがノルウェーを譲渡するという形になり、450年に亘ったデンマーク・ノルウェー連合王国は終焉。

1849年自由主義的憲法制定。

1863年オレンボー朝断絶に当たって、列強の支持を得て傍系のグリュクスボー朝が成立、これが現在まで続く。

1864年プロイセン・オーストリアに敗れ、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲。

だがそれ以後、荒地開拓・農業協同組合結成・漸進的労使協調による国民経済の順調な発展、議会主義の定着という展開が見られたのは、誠に幸運なことだった。

デンマーク王家からは、ギリシア王ゲオルギオス1世として即位し、英国王エドワード7世と露帝アレクサンドル3世に嫁ぎ、1905年独立したノルウェー王にも迎えられた人々がいる。

第一次世界大戦では中立を守ったが、第二次世界大戦ではドイツに蹂躙され、戦後は中立政策を捨てNATOに加盟、1973年イギリスと共にECにも加わっている。

 

 

さすがに王名を詳細に覚えるのは厳しい。

上記のようなポイントだけつかめばいいでしょう。

中公新書から『物語デンマークの歴史』が出ないかなあと思いつつ、この記事を終えます。

2018年4月3日

ラシーヌ 『フェードル アンドロマック』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:19

『ブリタニキュス ベレニス』に追加して、これも読んでおく。

収録順はタイトルとは逆になっている。

まず『アンドロマック』は、トロイヤ戦争の後日譚。

アキレウスに倒された、トロイヤ側のヘクトールの未亡人アンドロマック(アンドロマケ)が、アキレウスの子ピリュス(ピュロス)の捕虜となり、エペイロスに連れて来られる。

アンドロマックの美しさに心を奪われたピリュスは、遺児の命を助けることを条件に自身と再婚することを迫るが、アンドロマックは頑として受け入れない。

ピリュスにはエルミオーヌ(ヘルミオネ。スパルタ王メネラオスとヘレネの娘)という婚約者がおり、そのエルミオーヌにオレスト(オレステス。アルゴス王アガメムノンとクリュタイムネストラの息子)が恋をしている(メネラオスとアガメムノンは兄弟、ヘレネとクリュタイムネストラも姉妹)。

この片思いの連鎖が、破滅的な悲劇を招く様を描写する。

次の『フェードル』は、アテネ王テゼー(テセウス)の妻フェードル(クレタ王ミノスの娘、姉妹のアリアーヌ[アリアドネ]はアテネに戻る途中に棄てられた)が、義理の息子イポリット(ヒッポリュトス。テセウスとアマゾン族の女王の子)に恋をして破滅する話。

どちらも、ストーリーの構成、台詞を通じた心理描写が非常に精巧で完成度が高い、と素人でも感じ取ることが出来た。

ローマ史を題材にした『ブリタニキュス ベレニス』に比べて、ギリシア神話に取材したこちらは、ちょっと取っ付きにくいかと思っていたが、読み終えてみると、それはほとんど杞憂でした。

普通に楽しめる良作。

翻訳も比較的新しいし、初心者が古典主義文学の巨匠に触れるには、非常に適切な本です。

2018年3月30日

広瀬崇子 山根聡 小田尚也 編著 『パキスタンを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: インド — 万年初心者 @ 03:35

1947年イギリス統治下から、イスラム教徒が多数派の地域が、インドと分離した形で独立した国であることは周知のことでしょう。

パンジャーブ、シンド、バローチスタン、カシュミール、北西辺境州(アフガン寄りでパシュトゥン人居住)を主な構成州とする。

独立当初は現バングラデシュも東パキスタンとして領土の一部だった。

首都はイスラマバードで最大都市はカラチ、他にラホール、ペシャワルなどがある。

古代インダス文明の遺跡、モエンジョ・ダーロなどが存在するのは、現在のインドではなくパキスタンである。

公用語はウルドゥー語。

独立時、大規模な商業・産業都市を持たず、全インド・ムスリム連盟は国民会議派ほどの組織力も無く、インドのヒンドゥー教徒多数派地域から移住してきたムスリムが指導層となったこと、建国の父ジンナーが独立翌年の1948年に病死、後継のリヤーカット・アリー・ハーンも51年に暗殺されたこと、などが相俟って、曲がりなりにも議会制民主主義を維持したインドに比べて、国力の劣勢と政治の不安定に悩まされることになる。

1947年独立(直後に第1次印パ戦争)、48年ジンナー死去、51年リヤーカット・アリー・ハーン首相暗殺、ムスリム連盟の勢力が後退する中、58年軍事クーデタ勃発、アユーブ・ハーン政権樹立。

65年第2次印パ戦争、69年同じく軍事政権のヤヒヤー・ハーン政権成立、71年第3次印パ戦争で敗北、東部領土がバングラデシュとして独立。

民政に移管し、Z・A・ブット政権が誕生するが、77年再度の軍事クーデタ勃発、ジヤウル・ハク軍事政権が成立し、ブットは翌々年に処刑されてしまう。

88年飛行機事故でハク大統領死亡、総選挙でZ・A・ブットの娘B・ブットが首相に就き、シャリフと交替で政権を担当するが、民政は安定せず。

99年軍事クーデタでムシャラフ政権成立、2001年以後米国の対テロ戦争に協力。

政党では、ムスリム連盟(独立時のものとは直接的連続性はない)とパキスタン人民党(ブット派)が二大政党で、他にイスラム系政党が存在するが、一部を例外にして党首の個人的党派の色合いが濃く、組織的には脆弱と書かれている。

本書刊行後、2008年からは何とか文民政権が続いているようだ。

外交的には、インドとの対立関係が重くのしかかり、外交政策はそれに極めて多くが規定されてしまっている。

冷戦時代から米国など西側諸国に近い一方、中印国境紛争以後は、中国とも緊密な関係を保つ。

日本も、単細胞的な中国敵視が、自国の外交戦略にとってどれほどの重荷になるのか、自覚した方がいいと思います(服部龍二『日中国交正常化』)。

 

 

中公新書から『物語パキスタンの歴史』は未だ出ていないし、中野勝一『パキスタン政治史』(明石書店)は大部で通読に骨が折れるので、とりあえず本書から以上のような簡単な概要を読み取るだけでいいでしょう。

2018年3月26日

内田樹 『寝ながら学べる構造主義』 (文春新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:54

今まで引用文カテゴリで散々内田氏の文章を引用してきたが、著作を単独の記事にするのは、ひょっとして今回が初めてか。

私の高校時代の世界史教科書では、哲学・思想の流れは実存主義で打ち止めで、構造主義という言葉自体が出て来なかった(今は違うと思います)。

本書では、構造主義の思想を、マルクス、フロイト、ニーチェの前史から始め、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース、ラカンの五人に各一章を割り当て、紹介している。

難解なところは全然無く、スラスラと読める。

本書で取り上げられている思想家の著作を実際に読むというのは、私の知的レベルでは極めて難しいので、大体これくらいのことがぼんやりわかっていればいいか、とも思える。

中々手頃な本だと評価していいんではないでしょうか。

2018年3月22日

池田美佐子 『ナセル  アラブ民族主義の隆盛と終焉』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:33

戦後、中東の地域大国エジプトで、実質的な初代指導者となった政治家の伝記。

ちょうど100ページくらい。

後継者のサダト、ムバラクは含まず、ナセル単独の伝記なので、分量はまあ適当か。

内容はごく平均的です。

1952年自由将校団によるエジプト革命、表看板のナギブを排してナセルが実権掌握、55年バンドン会議参加、中東条約機構(METO)への対抗意識から東側諸国への接近、56年スエズ運河国有化と第二次中東戦争(スエズ戦争)での政治的勝利、58年シリアとの政治的統合とアラブ連合共和国成立でアラブ民族主義の旗手としてその勢威は絶頂を迎えるが、61年シリア離脱、60年代の「アラブ社会主義」の名の下に推進された産業国有化政策は行き詰まり、ムスリム同胞団と共産主義勢力を抑え込む為の厳しい政治的統制が敷かれる中、67年対イスラエル強硬論に流されてティラン海峡封鎖措置を取るや、イスラエルは先制攻撃に転じ、第三次中東戦争勃発、エジプトなどアラブ諸国は空前の惨敗を喫し、シナイ半島・ガザ地区・ヨルダン川西岸・ゴラン高原を占領され、ナセルの威信は失墜、70年に死去する。

戦後の中東史については、イスラエルと周辺アラブ諸国の対立、および穏健派諸国と急進派諸国の相克で捉えるのが基本。

1948年、56年、67年、73年の四次の中東戦争の年代をまず記憶。

48年パレスチナ戦争の敗北がアラブの旧体制を動揺させ、52年エジプト革命が急進的アラブ民族主義の原点となる。

で、58年イラク革命、69年リビア革命、79年イラン革命、と君主制が倒れるごとにその国が急進派に加わる。

君主制を維持したサウジアラビアとペルシア湾岸諸国およびヨルダン、ケマル・パシャ以来の世俗主義共和国で西側陣営に属するトルコは一貫して穏健派。

急進派内部の対立も激しく、58年の革命で成立したイラクのカセム政権はナセルと激しく対立、シリアは上述の通りエジプトと合邦し「アラブ連合共和国」を結成した(南北ヴェトナムや東西ドイツ、南北イエメンのような明白な分断国家が統一されたのとは違い、別々の主権国家が完全統合した、戦後では珍しい例)が、エジプト優位の体制への反発からわずか3年で崩壊、その後シリア・イラク両国で成立したアラブ統一と社会主義を掲げるバース党政権も、アラブ民族主義の主導権を争ってナセル政権とも、両国同士でも対立。

シリアではアサド政権、イラクではサダム・フセイン政権、リビアではカダフィ政権が独裁体制を敷くが、79年のシーア派によるイラン革命は「イスラム原理主義」を初めて体制として出現させ、急進・穏健派を問わず、周辺のスンナ派アラブ諸国すべてと対立(と書いたものの、急進派イラクと穏健派サウジの双方と対立したのは事実だが、イラン・イラク戦争中、急進派でも直接「イスラム革命輸出」の脅威を受けなかったシリアとリビアはイランと一部協力していたはずだから、厳密に言えばこれも不正確か)。

そうした中、エジプトは、ナセルの後継者サダトがソ連軍事顧問団を追放した後、自力で第四次中東戦争の(緒戦での)勝利をもぎ取り、威信を確保した後、イスラエルとの和解に乗り出し、79年平和条約を締結、穏健派諸国の強力な支柱に変貌した。

よって私にとってはナセルよりもサダトの方が偉大な政治家に思える。

 

 

まあ普通です。

記述はよくこなれていて読みやすい。

史的評価も穏当。

サブテキストとして読むのも悪くない。

2018年3月18日

服部龍二 『中曽根康弘  「大統領的首相」の軌跡』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:02

1980年代、長期政権を樹立し、新保守主義・新自由主義的政策を推し進めた首相の伝記。

1918(大正七)年群馬県高崎市生まれ。

軍部の台頭に不安と反感を抱きながら育つ。

1938年東京帝大法学部に入学、近衛文麿ブレーンの政治学者矢部貞治らの教えを受ける。

41年内務省に入省、同時に海軍経理学校にも入校、海軍主計中尉として出征。

戦後首相の中で、実際に砲火を浴びる経験をしたのは中曽根だけだという。

敗戦後、アメリカへの反発を持つと同時に、自身が接した占領軍将校の紳士的態度に感銘を受けている。

47年旧民政党系の民主党から立候補、天皇制護持と修正資本主義を主張、反共的姿勢を鮮明にして初当選、28歳で全国最年少の議員となる。

同い年の田中角栄も、同時に民主党議員に当選している。

中曽根は、吉田茂の自由党を強く批判、一年生議員ながら民主党総裁に芦田均を推すことを強硬に主張、「青年将校」との綽名を得る。

片山哲社会党・民主党連立内閣成立、炭鉱国家管理法を可決したが、これに反対した幣原喜重郎や田中角栄は民主党を脱党、自由党に合流。

翌48年成立の芦田内閣も疑獄事件で辞職、同年吉田が首相に復帰、以後54年まで続く長期政権を築く。

野党時代の中曽根の政治的スタンスは、自由放任的資本主義の修正による社会的連帯の重視、自主防衛確立と対米独立性の回復、大戦のアジアに対する侵略的性格を認めた上での東京裁判への批判。

現在の私から見ると、どれも真っ当な姿勢と思える。

50年民主党が吉田内閣との連立模索派と反対派に分裂、中曽根を含む反対派は三木武夫の国民協同党と合同して国民民主党を結成、52年には改進党に改組。

51年中曽根は、国会でサンフランシスコ講和条約には賛成票を投じ、日米安全保障条約については棄権。

安保条約での内乱時の米軍出動、有効期限未設定、日米行政協定での米兵への裁判権欠如などを問題視、戦時中の無差別爆撃についてアメリカに賠償を請求すべきだとすら語ったという。

同じ選挙区の福田赳夫と激しい競争を経て、当選を重ねる(後には小渕恵三も同選挙区で当選)。

中台・南北朝鮮の分断、アジア地域の一体感の欠如などの現実から、アジア版のNATOである「太平洋同盟方式」の集団安全保障政策に懐疑的になり、日米安保を容認するようになる。

与野党折衝の末、原子力関連の予算を計上、日本の原子力開発の先鞭をつける役割を果たすことになる(ただし、原子力の平和利用について、当時は保守政党だけでなく、左右両派の社会党も賛成している)。

アメリカに続いて、当時珍しかった共産圏への歴訪も実行、ソ連の抑圧的で貧しい社会を実感した一方、中国ではやや明るい印象を受ける。

54年鳩山一郎を総裁として日本民主党結成、吉田自由党内閣は総辞職、鳩山政権成立。

55年左右社会党統一を受けて、保守合同が成り、自由民主党結成。

反吉田の立場を一貫させていた中曽根は保守二党論者だったが、やむを得ずこれに合流。

56年日ソ共同宣言、国会での演説で中曽根は北方領土問題などでソ連を批判、社共両党の抗議で演説は議事録から削除された。

自民党内の派閥は、官僚派が岸信介派、池田勇人派、佐藤栄作派、党人派が河野一郎派、大野伴睦派、石橋湛山派、三木・松村謙三派(この三木は武夫じゃなくて武吉の方か?)、中間の石井光次郎派など。

中曽根は、河野派に所属。

56年鳩山退陣後の総裁選で、河野派の方針に反して、岸信介ではなく、石橋湛山に投票、石橋内閣が成立。

戦時中の経験から、東条内閣の商工相という地位にあった岸への反感と、軍に抵抗していた石橋への共感による。

しかし、石橋は病気で辞任、57年岸内閣成立。

岸のアジア・アフリカ歴訪に途中まで同行、インドでネールと会談、エジプトではナセルに対しスエズ運河国有化とアスワンハイダム建設への支持を語っている。

河野派が反主流派に転じていた為、岸政権では冷遇、しかし59年内閣改造で中曽根は科学技術庁長官として初入閣を果たす。

60年安保改定にあっては、アイゼンハワー訪日中止を岸に進言。

池田内閣でも主流派は池田派・岸派・佐藤派が占め、中曽根は忍従の時を過ごす。

長年の持論となる首相公選運動も起こすが、これへの拘りは個人的にちょっと理解に苦しむところである。

池田からの禅譲を期待した河野だったが、後継には佐藤が選ばれ、64年東京オリンピック後、佐藤内閣成立。

ライバルの田中角栄は池田内閣で蔵相、佐藤内閣では自民党幹事長を務める。

台湾支持を続ける佐藤政権に対し、中曽根は中国承認を主張。

65年河野が急逝、翌年河野派を割って中曽根派を結成。

67年反主流派の態度を改め、運輸相として入閣、「風見鶏」との評を得る。

沖縄返還に備え、「核を作らず、持たず」の原則を表明することを検討した際、「持ち込ませず」を加えて非核三原則とすることを閣内で主張。

だが、この「持ち込ませず」は世論向けの政治的ゼスチャーであることは中曽根自身も承知しており、「核密約」の公表も視野に入れた大平正芳と違って、中曽根を含む歴代首相は建前論に終始した、と本書ではやや批判的に記されている。

日中国交正常化および米国の核の傘と第七艦隊以外の自主防衛を主張。

70年防衛庁長官に就任、改憲論を一時封印し、「非核中級国家」としての漸次的防衛力増強を志向。

71年佐藤内閣末期、自民党総務会長に就任、佐藤後継を争う、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根の「三角大福中」の一員と見なされる。

72年総裁選で田中を支持、田中内閣で通産相に就任。

対ソ関係を睨んだ日中国交正常化を支持、それが達成されると、日米経済摩擦と石油危機の対処に追われる。

74年金権問題で田中辞職、「椎名裁定」で三木武夫が総理就任、中曽根は幹事長に。

しかし中道左派色の強い三木政権で、国鉄スト、ロッキード事件と田中逮捕などの混乱が起こり、幹事長を辞任、76年内閣も倒れる。

後継の福田内閣で総務会長就任、内政では吉田政権以来の経済偏重を批判し、統治能力回復を主張するが、外交では、対東南アジア友好宣言である福田ドクトリンと、ソ連への対抗連携を暗に含んだ日中平和友好条約などの福田政権の路線を概ね支持。

78年田中派の支持を得て大平が総裁選勝利、大平内閣成立。

大平は中曽根を高く評価せず、そのスローガン「戦後の総決算」は(中曽根が後に唱えた「戦後政治の総決算」とは異なり)「戦前への郷愁」が含まれないものだったとの言葉が紹介されている。

財政再建問題で国会は紛糾、「四〇日抗争」と呼ばれる、主流派の大平派・田中派と反主流派の福田派・三木派・中曽根派の対立が深まり、80年野党提出の内閣不信任案が福田派と三木派の欠席によって可決されるという「ハプニング解散」となる。

ただし中曽根は不信任案には反対投票をしており、これが後に田中派の支持を受けることを可能にした。

最少派閥にも関わらず、「三角大福」の確執から距離を置いてフリーハンドを保てたこと、最大派閥田中派が(田中がオーナーの地位を譲らなかったので)総裁候補を出せないこと、やや若く、他派閥の領袖が交替する時期を活用できる見込みがあったことなどに助けられ、首相の地位に近づく。

大平は選挙期間中に急逝、初の衆参同日選挙で自民党は圧勝、大平派の鈴木善幸が総理就任。

鈴木内閣では行政管理庁長官という、やや格下の役職についたが、第二次臨時行政調査会(臨調)を設置、民間活力による「増税なき財政再建」を掲げ、新自由主義的改革を推進。

鈴木内閣は、対米防衛協力問題、対韓経済支援問題など外交で迷走。

82年11月中曽根内閣成立。

田中派が多数入閣、「田中曽根内閣」とマスコミに揶揄される。

トップダウン型の「大統領的首相」と「指令政治」を志向。

審議会、私的諮問委員会を多用、それに加わったブレーンには高坂正堯、佐藤誠三郎など私にも親しい名がある。

83年日本首相初の公式訪韓を実行、全斗煥大統領と会談し日韓関係を改善、続く訪米では「不沈空母」発言に代表される安全保障面での積極策を強調し、レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と言われる信頼関係を築く。

「戦後政治の総決算」を掲げつつ憲法改正は事実上封印していたが、軽武装経済立国路線の「吉田ドクトリン」を支持する保守本流派からは一部危惧の念が出る。

ウィリアムズバーグ・サミットでは、ソ連に中距離核戦力の全廃を求め、それが応じられなければ西側も対抗措置を取ることを主張、政治声明に取り入れられる。

戦後日本の首相が安全保障分野でリーダーシップを発揮した稀有な例である。

だが内政ではロッキード裁判での田中への有罪判決が下り、総選挙で大敗、自民党は過半数を割り、自民離党者で結成されていた新自由クラブとの連立に追い込まれる。

84年訪中、胡耀邦総書記とも緊密な信頼関係を築き、この年は二千年におよぶ日中関係史上最良の年と言われた。

「中国の存在がまだ巨大でなかったにせよ、日中提携と対米協調を両立できた指導者は、日本外交史をたどっても多くない。」と評されているが、確かにその通りで、冷戦末期軍事力を拡大するソ連への対抗という課題が各国に共有された状況であり、なおかつ日本経済が全盛期を迎えていた故であっても、米欧および中韓などアジア諸国との関係をすべて緊密化した手腕はやはり高く評価すべきものであり、本書が述べるように戦後外交の頂点と言っても過言ではないと思われる。

85年田中派から竹下派が自立、田中も病に倒れ事実上失脚、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の「ニューリーダー」が台頭する中、「三角大福中」の最後に登板した中曽根が政治的フリーハンドを得て、極めて有利な立場を占める。

同年プラザ合意、貿易不均衡解消の為、米国の圧力で円高ドル安に向け先進五ヵ国が協調介入。

このプラザ合意がバブル経済の発生と崩壊、その後の長期不況の原因となったとよく批判されるが、後年中曽根はプラザ合意自体は当時の国際情勢からしてやらざるを得なかった、その後90年代の不況対策の不徹底が問題だったと反論している。

だが、本書では、プラザ合意への是非はともかく、87年中曽根政権末期にそれ以上のドル安を阻止する為、企業が円高不況を克服しつつあったのに6兆円規模の内需拡大策が組まれた、これが景気を過度に加熱させバブル経済への流れを強めた、また貿易黒字削減の為に私的懇談会が提出した「前川レポート」でも民活と規制緩和による内需拡大が意図されており、やはり中曽根政権の経済政策とバブルの発生は無関係とは言えない、とされており、常識的に見てやはりそう言わざるを得ないでしょう。

85年終戦の日、靖国神社への参拝を、首相としての公式参拝であると明言して実行したが、対中関係は悪化、翌年からは参拝自粛、結果として公式参拝にこだわった為に、靖国問題が内政での政教分離と憲法問題を超えて国際政治とリンクするきっかけになってしまった、と評されている。

85年電電公社がNTTに、専売公社がJTに民営化され、86年国鉄分割民営化法案が成立、87年JR発足。

86年東京サミット開催、同年衆参同日選挙で自民党が300議席越えの圧勝、新自由クラブを吸収、総裁任期の一年延長決定。

防衛費GNP1%枠を撤廃するが、大型間接税導入には失敗。

87年退任、後継指名を一任され、竹下登を選択。

竹下内閣で念願の消費税が導入されるが、リクルート事件が発覚し、自身も強い批判に晒される。

しかし、その後も国内外で活発に活動、97年大勲位菊花大綬章を受章、生前にこれを受けた戦後の首相は吉田、佐藤と中曽根だけで、以後「大勲位」とやや揶揄的に呼ばれるようになる。

2003年に年齢制限によって小泉内閣から自民党公認を得られず、議員引退。

2011年東日本大震災での菅民主党内閣の対応を批判、しかし原発事故を受けて、かつて自身が原子力開発の旗振り役だったことへの反省の弁も述べる。

本書刊行時の2015年、そしてこの記事を書いている現在も未だ存命。

世界的に見ても、主要政治家では文字通り最長老というべき存在。

本書を通読して、佐藤退陣以後、二年ごとの短命政権が続いた70年代を経て、久しぶりの長期政権を築いた保守政権・自民党政治中興の祖という印象を再確認した。

冷戦末期、ソ連が軍拡と膨張主義の傾向を露わにしていた以上、日米同盟強化と防衛力増強という政策は首肯できるものだ。

三公社民営化に象徴される新自由主義的経済政策も、この80年代中盤の時点では、まだしも日本の国益と国民経済の発展に役立つ範囲に留まっていたと言うことができよう。

外交・防衛政策では、自主防衛および「常時駐留なき安保」に半歩でも踏み出す行動が見られなかったことが残念だが、ソ連の脅威とアメリカの対日警戒、さらに国内で自衛力の保持にすら反対する左翼・革新勢力の空想的平和主義という三者の板挟みとなっていた状況からすれば、それは無いものねだりと言うべきなんでしょう。

内政・経済面では、バブルを煽るような民間活力促進・規制緩和路線ではなく、官民共同で社会資本を着実に整備する形での内需拡大政策もあり得たのではないかと思えるし、これには上記の自主防衛政策よりも実現性があったはずだが、まあそれもあえて問題視しないことにしましょう。

今振り返っても、中曽根政権を肯定的に評価することは十分可能である。

そして、1990年代、自民党内において、改憲志向でタカ派的な旧中曽根派と清和会(旧福田派)を、ハト派的な保守本流よりも、私は常に高く評価していました。

しかし、21世紀になり、中曽根政権の劣化コピーのような、清和会主導の小泉政権および第二次安倍政権が、対米従属と新自由主義的政策によって、日本の国益と国民経済を害し続けているのを見るとき、その源流とも言える中曽根政権に対しても、かつてのような礼賛的姿勢は取れないなと感じ始めている今日この頃です。

 

 

読みやすい。

煩瑣でもなく、簡略過ぎず、ちょうどいいレベルの密度で安定した叙述が続く。

内容はしっかりしているし、叙述範囲の偏りもなく、著者の史的評価にも違和感は感じない。

同じ著者の『広田弘毅』および戦後政治家の伝記として福永文夫『大平正芳』と並んで、良書として評価できる。

2018年3月14日

西部邁 『西部邁の経済思想入門』 (左右社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:44

1987年に放送大学用のテキストとして執筆された作品に加筆・訂正して2012年再刊したもの。

著者はもともと経済学者ではあったが、原著が刊行された頃から、個人的自由と技術的合理性のみに依拠した「形式において精緻だが内容において空疎な物語」である、経済学から完全に離れることになる。

叙述上、経済学史の形式的系譜は守りながらも、何ものにも拘束されない合理的な原子的個人が完全な自由市場で活動することによって理想的な予定調和に至るという空理空論を基本的前提とする現在の主流派経済学に対して、徹底した批判をもってしている。

間宮陽介『市場社会の思想史』よりも、こちらの方が良い。

より充実した内容を持っている。

難解な数式や概念を用いることなく、極めて本質的な議論を、初心者でも理解できる明解さで展開している。

一般教養的な経済学史を学ぶには、現状では本書が最良でしょう。

 

労働価値説を認めるかぎり、マルクスの剰余価値説はおおいに首尾一貫したものだといわなければならない。しかしマルクスの主張はむしろ労働価値説の不毛なることを、少なくとも科学としては不毛なることを、最終的に自己暴露したものだといわなければならない。なぜといって、資本もまた生産に寄与していることが明白である以上、資本の所有者としての資本家が報酬を稼得することになんの不思議もないからである。私有財産制の不当をいうことによって利潤を不労所得とみなすことは可能であろうが、その制度の枠内で財産収入の原理的不当性をいうことはできない。マルクスをおおよそ最後にして労働価値説が近代経済学のなかで姿を消すようになったのもむべなるかなといわなければなるまい。

だがこのことははたして価値論一般の不要を意味するであろうか。マルクスが当初『経済学・哲学草稿』などにおいて指摘していたのは労働の疎外ということであった。わかりやすくいえば、資本主義的生産の場において労働が喜びとはいえないものに化しているということである。一般的にいって、労働者はあるべき労働形態を意識するであろうし、またあるべき賃金水準をも意識するであろう。それらの意識を公正観念とよぶならば、労働サーヴィスという商品はまさしく人間自身によってなされるものであるために、公正観念とつよくかかわらざるをえない。公正から離れた労働形態あるいは賃金水準は不公正感を労働者のうちに累積させるであろう。マルクスの搾取論はそれ自体としては誤りといわなければなるまいが、市場における自由交換のうちにも公正観念が介在し、それが実現されないとき様々な矛盾をもたらすであろうという文脈においてならば、なおもくみとるべき含意をもっている。逆にいうと、反マルクス派の経済学者はあまりにも安直に自由交換の弁護論に走りがちなのである。

公正観念は社会的通念として成立するものであろう。公正観念が自由交換の場において機能しないということは、そうした通念を支える社会的紐帯が崩壊したということである。そこではたしかに孤立した諸個人の不安な選択が広まるであろう。しかしそれを自由交換の名において正当化するのは個人主義のイデオロギーにすぎない。マルクスの経済学説の誤りはその労働価値説において典型的に表れているのではあるが、そこにおいてすら、経済学をめぐるイデオロギーをいかに解釈するかに当たって、無視しえぬものを残しているのである。

 

先日、著者が自裁されたが、全く意外感が無い。

間違いなくそうした最期を遂げられるんだろうなと思っていたので。

ご冥福をお祈りしますとか、月並みなことも言いたくなかったので、このブログで即座に反応はしなかったんですが。

西部氏は高坂正堯氏と並んで、学生時代以来、自分が最も影響を受けた人だと思う。

今後も、その著作を読み返して、ものを考えることは続けたいと思います。

2018年3月9日

小此木政夫 編著 『北朝鮮ハンドブック』 (講談社)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:36

金日成が死去して三年後の1997年刊。

編著者の小此木政夫氏は、個人的には1990年代から最も信用している朝鮮半島研究者である。

ただし、一般向けの著作はほとんど書いていないので、このブログでも今まで紹介する機会が無かった。

本書は共著ではあるものの、その稀な例外。

タイトルは「ハンドブック」だが、本文は400ページ超とかなりの大部である。

その分、政治、外交だけでなく、経済、法制、思想教化など内容も多彩(その手の詳細な記述は、残念ながら読み飛ばすしかないこともあるが)。

小此木氏以外の執筆者も、伊豆見元氏をはじめ信頼できそうな顔ぶれ。

章ごとに著者が替わるのではなく、同じ章内の節ごとに替わるのだが、通読する上で特に違和感は感じない。

まず、冒頭で金日成死後の金正日時代を扱ってから、日本敗戦後の状況から筆を起こして、順に北朝鮮史を記し、最後に日朝関係の章で締める、という構成。

ソ連占領下で金日成が指導者に就任、48年朝鮮民主主義人民共和国成立後、50年武力統一を目指して南侵し、朝鮮戦争を起こすが、米軍介入で押し戻され53年休戦、ソ連派・延安派・南労党派を粛清して58年頃独裁体制確立、60年代中ソ対立に際しては当初は中国寄りの立場を取るが、文化大革命中に中国とも対立、以後自主路線を推進(日本共産党も同様の経緯で自主独立路線を確立するが、日共と朝鮮労働党も対立関係に入る)、67年甲山派も粛清された後、その体制はますます異常性を増し、首領制と「唯一思想体系」によって個人崇拝を極限まで推し進めたものとなり、スターリン批判と林彪事件を見て、自身と支配層の保身目的で74年息子の金正日を後継者に決定、「主体(チュチェ)思想」という似非哲学で「全社会の金日成主義化」と言われるほどの思想統制・教化を徹底し、悪夢のような究極の個人独裁体制を確立するが、80年代に入る頃には韓国との体制競争で完敗したことが誰の目にも明らかとなり、ソ連・東欧共産圏の崩壊で、経済は完全に破綻状態となる中、核開発による「瀬戸際外交」に活路を見い出し、94年金日成が死去して後、金正日政権が「米朝枠組み合意」を成立させたが、(本書刊行後)21世紀に入って核危機を再燃させ、現在までその状況が続いてしまっている。

90年代以降、北朝鮮の「早期崩壊説」「内部対立説」が繰り返し語られたが、本書は以下のように述べる。

 

編者は北朝鮮体制の最大の特徴は「政治と経済の非対称性」にあると考えている。北朝鮮経済がきわめて脆弱であり、すでに破綻したことは衆目の一致するところである。そうだとすれば、なぜあの国家体制はソ連・東欧諸国のように崩壊しないのだろうか。経済体制とは比較にならないほど強靭な政治体制が存在することに、その秘密があるといわざるをえないだろう。いいかえれば、金日成、金正日を頂点とする一元的で、特異な政治体制の存在が経済体制の破綻を補ってきたのである。

・・・・・・

率直にいって、さまざまな困難にもかかわらず、金日成死後も北朝鮮国家が存続しているのは、宗教的な色彩を帯びたイデオロギーとそれに裏打ちされた強靭な政治体制によるところが大きい。いいかえれば、食糧危機や経済破綻にもかかわらず、それを補うだけのイデオロギーと政治体制が存在することこそが、北朝鮮国家が維持されてきた秘密にほかならないのである。事実、ソ連・東欧型の社会主義国であれば、北朝鮮はすでに消滅しているに違いない。そうではなく、首領・労働党・人民の三位一体が強調される閉鎖的な有機体国家(「社会政治的生命体」)であるがために、北朝鮮は存続してきたのである。

金正日の政治基盤についていえば、それは一般に想像されている以上に強固である。それどころか、長期にわたって、苛酷な暴力装置、極端な情報統制、イデオロギー教化などが維持され、政治体制が人格化されてきた結果、現在の北朝鮮には、首領制に代わりうる政治体制が存在しないのである。最高指導者への正式就任には三年余りの歳月が必要とされたが、その間も金正日の後継者としての地位は公式に確認されていたし、北朝鮮では、後継者もまた「首領」である。だからこそ、金正日の指導も「領導」と表現されたのである。「外部からの脅威」の誇張や「忠孝」などの儒教的な価値体系もまた、国民の間に運命共同体的な政治意識を植え付けるために巧みに利用されている。

もちろん、そのような一元的な政治体制にも物理的な限界がないわけではない。しかし、たとえば食糧危機がさらに深刻化した場合、内部的に予想されるのは、労働者や農民の暴動であるよりも、むしろ「統制された飢餓」であるだろう。いいかえれば、住民に対する統制能力が維持されている限り、「個人的な逃亡」は増大しても、食糧危機が体制崩壊に直結することはないのである。

・・・・・[亡命した]黄長燁はまた、北朝鮮指導部内に「強硬派と穏健派の対立」が存在するとの見方を完全に否定し、「一人独裁下には、“派”という概念もない」とか、「金正日を拒否する勢力はない」と断言している。

 

本書刊行から、実に20年以上経った現在から見て、上記の見解は正しかった。

この最悪の全体主義国家は、残念ながら恐るべき強靭性を持って、経済破綻と国際的孤立を生き延び、現在も存続している。

和田春樹『北朝鮮現代史』の記事でも述べたが、私自身は、本当の本当に遺憾なことだが、金正恩政権を交渉相手と認め、慎重で冷静な外交を行い、経済援助をインセンティブとして核開発凍結と拉致問題解決、国民の権利状況改善を徐々に、粘り強く進めるしかないと考える。

戦争という手段は、軍事情勢を見ると、余りにも危険が大き過ぎる。

日本が受ける被害も尋常じゃないでしょう。

道義的には、この国の体制はとっくの昔に正統性を失い、外部から武力で打倒しても許されるほどの暴政を自国民に敷いていることは確実である。

私は、2003年のイラク戦争を、虚偽の大量破壊兵器製造疑惑と外部からの体制変換による民主化という現実離れした妄想によって起こされた世紀の愚行と見なし、徹頭徹尾否定する立場だが、それに比べれば、北朝鮮の体制打倒の為の軍事行動には遥かに正当性があると思う。

だが、北朝鮮の軍事力と狂信性を考えると、やはり戦争という手段を取ることは事実上不可能だ。

あくまで外交交渉による事態の平和的解決という一線を守るしかない。

現状北が保有している核兵器を放棄させることも難しいだろうし、それ以上の核戦力増強だけは凍結させて、その状態が相当長期間続くことも覚悟しないといけないかもしれない。

 

しかし、共産主義という人類の悪夢がようやく消え去りつつあったと思ったら、その中でも最も異常で劣悪な国家が日本の隣に残ってしまったのも因果なことです。

国民全体へのイデオロギー洗脳における偏狭性と狂信性、政治的反対派への迫害・弾圧における徹底性と残忍性について、誇張でも何でもなく、あの国は正に人類史上の汚点と言うほかない。

ヒトラー、スターリン、ポル・ポト各政権の最悪の時期が、控え目に見ても(建国当初からしばらくの間は、共産主義国の「平均的で」「通常的な」抑圧性に止まっていたと考えたとしても)、1960年代後半からずっと続いている状況だ。

その政治犯収容所は、世界でも最も閉鎖的で厳重な統制下にあるが、亡命者のわずかながらの証言を、疑いを持ちつつ話半分に聞いても、ナチ以上の、凄惨極まりない、恐るべき残虐行為が行われていると判断するしかない。

この世の地獄、とはあの国の強制収容所のためにある言葉だ。

最高位の支配階層に属する人間ですら、いつ粛清され、一族もろとも抹殺されるか、収容所送りになるかわからない(もしそれが自分の身に降りかかったら、収容所で生きている間中、恐ろしい虐待を受けるくらいならば、一思いに殺された方が楽だろうなと想像する)、極限の恐怖政治が敷かれている。

この国の国民にだけは、絶対に生まれたくない。

世界史上のどんな国家・体制よりも、私は北朝鮮に対して否定的印象を持つ。

上に記した通り、私は当分の間、北の現体制と共存を模索せざるを得ないとする立場ですが、それはこのような残忍な国内体制をしばらくの間は放置せざるを得ないという、深刻な道義的ジレンマを自覚した上でのことです。

無責任な好戦論を煽り立てる連中は愚昧・卑怯・劣等の極みだが、平和的解決を主張する人も、以上のことを理解した上で、そうしてもらいたい。

そのような人々の中で、(さすがに北の現体制を積極的に支持する人間はほぼ絶無となったが)かつての大日本帝国と韓国の軍事政権を北朝鮮と同列に置いて批判する人もいるが、私はそこに表れる倫理感覚に対して深い疑いの気持を持つ。

上述の通り、はっきり言ってレベルが違う話なんで。

体制の抑圧性については、北朝鮮は、誇張でなく、全世界史上最悪の程度に達しており、日本の植民地統治と戦時体制、韓国の朴正熙・全斗煥政権のそれぞれ最悪の時期でも及びもつかない程の残忍性を持っている。

北朝鮮がこのような体制になったのは、植民地支配と冷戦構造の結果だ、日本はその責任者だ、という主張には、いや大日本帝国もその前段階での歴史的環境に対応するため、否応なく形成されたものだ、その論法で自国の体制に対する国民の自律的責任を免除していったら、キリがないと言いたいし、韓国の権威主義政権は北の軍事脅威に対抗するための自衛措置の表れであり、現在から見ても十分正当化できるものだと考える。

「戦後の朝鮮半島では、北も南も独裁政権だった、しかし南では民衆の力で軍事政権を倒して民主化を達成した」という物語は、北の異常性を看過し、南北を同列に置く、欺瞞に満ちた虚構である。

「北の最悪の全体主義的独裁に対抗するため、南ではやむを得ず権威主義的体制を構築し、国力の増進に努めたが、その必要性を理解できない人々が正当性に乏しい、無分別の気配が濃厚な激しい反抗を起こした、しかし幸いにも国家が転覆することはなく、北との体制競争に完全に勝利したと思われた時点で、南は正常な議会政治に移行した」という方が余程真実に近い。

(現在の韓国では、残念ながら前者の歴史観が主流となってしまったようだが。)

 

加えて、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」という国名を掲げながら、実態は「金王朝」であり民主主義の欠片も無いと揶揄して済ませる態度からも脱却した方がよい。

あの惨めな体制だって、「民主主義」の帰結なんですよ。

共産主義は、人類社会のありとあらゆる不平等を未来永劫消滅させ、真の実質的自由と民主主義を実現すると豪語し、そのために暴力を用いてあらゆる伝統と既存支配階層を破壊しなければならないという考えから生まれた狂信です。

民主主義の単線的発展上に生まれたのが共産主義です。

これも何度も言っていることですが、共産主義を批判するに当たって、真にそれを否定しようと思うならば、民主主義も否定し疑わなければならないはずである。

 

ひとくちにいって文化の非理性化、このことの危険さかげんは、まずなによりもそれが自然を支配する技術能力の最高度の展開、および物質的幸福と富に対する欲望の激化という事態と並行し、またこれと結びついているという事実のうちに存する。

この物質的なものへの欲望が商業-個人主義的な形態をとるか、あるいは社会-集産主義的な形態であらわれるか、それとも国家-政策的形態のうちに発現するか、それはさしあたり問題ではない。

どのような社会原理に呼びかけんとするか、それは問題ではない、ともかく文化の非合理化からは生そのものの礼拝が結果し、これが支配と所有への非人間的、利己的衝動をいやがうえにも高めるのである。集産主義は利己主義を排除すると考えるなどは、およそ無思慮の一語につきよう。

かかる破滅的諸要因の協働によく対抗しうる釣合の力は、これを至高の倫理的、形而上的諸価値のうちにのみ求めることができよう。理性への回帰ということだけでは渦からぬけだしえないのである。

理性への回帰、せめてこれが要件だとはしても、わたしたちが正しい道を歩んでいるとはだれにもいえまい。どうみても、わたしたちは、この文化を脅かすに足る危機の錯綜を体験しているのだ。

感染と中毒に対する抵抗力の弱まりという状況、酩酊状態にも比すべき状況がみられるのである。精神は荒廃した。思想の交換手段、ことばは、文化の進展につれて、その価値を低めつつある。

ことばは、ますます多量に、ますます安易にまきちらされる。話され、あるいは綴られることばの価値の低下に正比例して、真理に対する無関心がふかまる。

非理性的な精神の構えがその地歩をすすめるにつれて、どの分野にあっても、誤った認識のはたらく余地がますますひろがる。商業的煽動的傾向の一時の宣伝が、たんにみかたの相違にしかすぎぬものを、一国全体の幻覚にまで拡大してしまう。

日々の思念は即座の行動を要求する。いったい、偉大な想念がこの世界にしみとおってゆくのは、ごくゆっくりした歩みでしかないというのに。都会にただようアスファルトとガソリンの匂いのように、世界の上には、むなしくあふれることばの雲がかかっている。

責任の観念は、一見、ヒロイズムのかけ声がこれを強化するかにみえるものの、そのじつ、個人の意識のうちにこそ求められるべきその基盤から引きはなされ、集団の利益のために、その視野のせまい考えを救済の法規とまで持ちあげたがり、これを押しひろめようと図る集団の利益のために動員される。

およそ集団の結びつきにあっては、個人の責任という観念は、個人の判断ともども、そのなにほどかの部分を、グループということばのうちに失うのである。

疑いもなく、今日の世界にあっては、すべての人がすべてのことに対して責任があるという感情が高まっている。だが、それと同時に、また、極度に無責任な大衆行動の危険が、異常なまでに増大してもいるのである。

引用文(ホイジンガ3)より。

 

 

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)より。

 

 

北朝鮮について(北に限らないが)、言論の自由があるにも関わらず、その恐るべき実態が事実上隠蔽され、その言論状況の改善は徐々にしか進まず、最終的には2002年日朝首脳会談による拉致事件公然化まで、その種の左翼的言論抑圧が続いたことは、ある程度以上の年齢の方なら覚えがあるはずです。

それも「民主主義」という言葉に無条件に拝跪する精神態度と無関係ではないと思います。

 

 

これまで北朝鮮通史としては、金学俊『北朝鮮五十年史』(朝日新聞社)徐大粛『金日成と金正日(現代アジアの肖像6)』(岩波書店)和田春樹『北朝鮮現代史』(岩波新書)を紹介しているが、本書も含め、どれも悪い本ではない代わりに、決定版という感じがする本もない。

まあ、和田春樹『北朝鮮現代史』が一番新しいし、コンパクトだし、思ったほどの内容的偏りも無かったので、ひとまずそれを読めばいいんじゃないですかね。

ただ本書も良質な概説であったことは書いておきます。

2018年3月5日

桐山昇 栗原浩英 根本敬 『東南アジアの歴史  人・物・文化の交流史』 (有斐閣アルマ)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 04:07

2003年初版発行の東南アジア地域史。

前近代、植民地時代、独立後の三部構成で、近現代史に多くのページを割く。

そして、「最近の東南アジア史研究の発展を踏まえたうえで、東南アジア各国史の詳細な叙述を必要最小限度に控えて、むしろ域内外の交流の歴史に焦点をあてた東南アジア地域史としての叙述を心がけたこと、そしてまた日本との交流関係史にもつねに注意を払ったこと」を特徴とする。

最近の学界の傾向からすると、もちろんこういう記述が標準的なんでしょうが、読んだ感想は「つまらない」の一言。

面白くもなければ、史実が頭に入ってくるのでもない。

本書とは全く逆の、「各国別で前近代の王統を中心にした政治史」という時代遅れの通史の方が、初心者にとっては効用が高い。

これを東南アジア史に初めて接する人に薦めるのはやや躊躇する。

通読は楽だが、強いて読むほどの本ではない。

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