万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年10月16日

10冊で読む政治思想

Filed under: おしらせ・雑記, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

はじめにの記事で書いたように、私は抽象的思考力が無いに等しいので、このブログでも難解な哲学書、思想書は全く紹介していません。

ただ漠然とした政治思想についてなら、多少は書くこともあり、この記事を上げることにしました。

思想・哲学カテゴリから、私にとって必読と思えるものを抽出(日本人著者を除く)。

世界史全般近代日本史はもちろん、世界文学の各暫定必読書リストに比べても、網羅性にはそれほど配慮しなくてもいいと考え、思い切って10冊に絞ります。

そのデメリットは間違いなくあるでしょうが、この手のリストは冊数があまり多いと最初から嫌気が差して読書意欲を削ぐことがあるし、「とりあえずこれだけ読めばいい」とされると気が楽になって、指定された書を手に取りやすいものと思います(少なくとも私はそうです)。

 

 

高校世界史レベルで触れられる政治思想と言えば、古代ギリシアの政治哲学と近世の社会契約説がメインで、後は断片的に幾人かの学者名を挙げるだけかと思います。

このリストでは三つの柱を想定することにします。

「プラトンを中心とする古代ギリシア政治哲学」。

「バークを始めとする近代保守主義」。

「オルテガに代表される20世紀大衆社会論」。

 

 

 

では、まず古代の政治思想から。

これに関しては、結局プラトンの対話篇を出来るだけ多く読む、ということに尽きる。

『ソークラテースの弁明 クリトーン パイドーン』(新潮文庫)から、『プロタゴラス』(光文社古典新訳文庫)『メノン』(光文社古典新訳文庫)ときて、『饗宴』(光文社古典新訳文庫)といった具合に。

そしてここでリストの第一冊目を採用。

(1)プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)

議論の面白さに一驚した。

遥か古代の哲学書がこれほどの魅力をもって現代人の目に映ることは、真に驚きである。

必読書として確信を持って薦めることができる。

続いて、もうこれを挙げてしまおう。

(2)プラトン『国家 上』(ワイド版岩波文庫) 『同 下』

記事は上下巻に分かれているが、ここは1冊とカウント。

言うまでも無くプラトンの主著だが、これも読んだ際に、初心者が普通に面白く読めることに非常に驚いた記憶がある。

分量と内容はもちろん重厚だが、古代政治哲学の頂点と見なして、これをこなしたら他の本はそれほどフォローしなくてもいいと考えれば、楽なもんです。

プラトンの最後の大著『法律』が未読だが、これは今後の宿題として勘弁してもらいます。

古代はこの2冊だけでいいか。

アリストテレス『政治学』(中公クラシックス)は予想していたものと内容がズレているような感想を持ったので、岩波文庫の全訳も読もう読もうと思いながら未読だし、ここに挙げるのはやめておきます。

素人がやることだし、それでいいでしょう。

 

 

で、中世の政治思想は、高校教科書的には全く空白です。

しかし、個人的にはトマス・アクィナス『君主の統治について』(岩波文庫)は興味深かったことを記しておきます。

近世初頭に入ると、政治学を確立したと言われるマキアヴェッリ『君主論』(岩波文庫)がある。

これなあ・・・・・。

ネームバリューから言って読んだ方がいいんでしょう。

そうなんだけど、はっきり言って全然面白くない。

内容も頭に全然入ってこない。

読み手の私の問題である可能性が高いので、皆様は一読をお薦めしますが、このリストからは外させて下さい。

 

 

そして、現在の民主主義の「欽定学説」である社会契約説が来る。

これも同じなんですよ。

下手したら中学教科書でも書名が出るくらいだから、無視するのは難しい。

しかし、得たものはどれも少ない。

ロック『市民政府論』(光文社古典新訳文庫)ルソー『社会契約論』(光文社古典新訳文庫)は、初心者でも読める難易度と分量である。

ホッブズ『リヴァイアサン 1・2』(中公クラシックス)は抄訳でもちょっと苦しいが。

これらも読んだ方がいいでしょうが、リストに挙げるのは止めます。

むしろ、ヒューム『人性論』(中公クラシックス)収録の「原始契約について」のように社会契約説への批判の方が自分にとっては面白かった。

同様の知名度を誇る、モンテスキュー『法の精神』(中公クラシックス)は、社会契約説の著作に比べれば、読後有益なところもあったが、これもわずか全10冊のリストに加えるほどではない。

 

 

カント、ヘーゲル辺りについては何一つ語る資格が無い。

ただ、カント『永遠平和のために』(光文社古典新訳文庫)ヘーゲル『歴史哲学講義 上・下』(ワイド版岩波文庫)は初心者でもとりあえず読める本だと書いておきます。

 

 

「民主主義の総本山」アメリカ合衆国の建国の父たちの思想について、ハミルトン『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫)はその「非民主的」側面について知ることができる本で、やや貴重ではあるが、これも全巻すべてが素晴らしいとは思えず、外す。

 

 

で、ここで、これが来た。

(3)バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)

近代保守主義の起源となった記念碑的名著。

これも予想していたよりも遥かに容易に読めて、ありとあらゆる政治的叡智の泉であるという感想を持った。

読みつつ、深く嘆息して、感心するところが極めて多かった。

素晴らしいレトリックと論理に圧倒される。

絶対必読の名著。

そして次がこれ。

(4)トクヴィル『アメリカのデモクラシー 全4巻』(岩波文庫)

実はかなり迷いました。

一番最初この記事を考えた時は、絶対入れるつもりだったんです。

しかし、書名を埋めていくと1冊分空きが足りないなと思えて、これは分量も多いし、全訳を読んだはいいが、もう一つしっくりこない部分も多かったので、一旦は外すかと考えました。

しかし、思い直して復活させます。

ただ文庫本全四冊の分量がキツければ、本書に関しては中公クラシックスの抄訳版(「世界の名著」版の翻訳を収録したもの)でもいいです。

民主主義国の「多数の専制」がどれほど始末におえないものかを理解させてくれる。

 

 

マルクス主義については、一般常識として『共産党宣言』(岩波文庫)でも読めば十分だが、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態 上・下』(岩波文庫)は、共産主義が人類史上最悪の被害をもたらした後崩壊した現在でも読むに値する本ではある。

ローレンツ・シュタイン『平等原理と社会主義』(法政大学出版局)は、一部読んだところは興味深いものがあったが、通読は出来なかったので、他人に薦める資格が無い。

『ショーペンハウアー全集 13』(白水社)の中の政治論は非常に面白いのだが、後述のリストに挙げるトーマス・マンの本の中にもその引用が出て来るし、適切に編纂された新訳が出ることを期待して、今回はパス。

自由主義思想を代表するジョン・スチュアート・ミル『自由論』(日経BP社)は、内容的には(私にとっては)つまらないです。

むしろ、反自由主義的なカーライル『過去と現在』(日本教文社)の方が、今読むのなら、新鮮で有益でしょう。

カーライルの書も、リストアップを迷ったが、泣く泣く止めとくか。

 

 

一方、これは外せない。

(5)ル・ボン『群衆心理』(講談社学術文庫)

集団としての人間がどれほど悪逆かつ非理性的になるかという真実を直視した本。

近現代史の病理の原因をいやというほど教えてくれる。

類書のガブリエル・タルド『世論と群集』(未来社)も悪くないが、ル・ボンに比べればやや落ちる。

しかし、読めるものなら読んで下さい。

 

 

キルケゴール『現代の批判』(岩波文庫)も入れようと思ったんだが、10冊にギリギリ入らない。

現在の大衆社会の世論というものの問題点をするどく抉り出したものであり、必要な本ではあるんですが・・・・・。

もし全15冊だったら絶対入る本なので、次に読む候補として頭に入れておいて下さい。

ニーチェは学生時代に『ツァラトゥストラはこう言った 上・下』(岩波文庫)を訳も分からず読んだきりで、以後再読したり、別の作品を読んだりもしていないので、無視。

ブルクハルト『世界史的諸考察』(二玄社)は、著名な歴史家が、民主化と産業化を進行させ、破滅に向かう近代社会に警告した、深慮に満ちた史論であり、記事で引用した部分などは深く考えさせられるものがあったが、心に引っかかる部分が全篇のうちで少な目だったので、悩みつつ外す。

バジョット『イギリス憲政論』(『世界の名著 バジョット ラスキ マッキーヴァー』収録 現在は単独で中公クラシックス収録)は君主制の現代的意義を説いた興味深い著作だが、冊数上これも入れるのは無理。

是非読んで欲しい本だし、惜しいんですけどねえ・・・・・。

 

 

一方、これは迷いなく挙げる。

(6)チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)

キリスト教的正統思想の擁護を実に巧みで華麗な論理で展開しており、初読の際にはほとほと感心した。

広く保守主義の根拠ともなる作品であり、読後感は本当に素晴らしかった。

それでいて、何一つ難しいところはない。

絶対必読の本。

そして、続いてこれだ。

(7)トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)

これ、やや微妙なところがあって、マン自身は、後に本書の内容とは全く逆に民主主義の擁護者になっている。

しかし、現在から見れば、本書の立場の方が圧倒的に興味深く、面白い。

これも、読んでいてページを手繰るのが止まらなくなるほど、素晴らしかった。

でも、入手し難い。

筑摩書房さん、是非とも、ちくま学芸文庫に一刻も早く収録して、再刊をお願いします。

 

 

そして、次はこれかな。

(8)ヤスパース『現代の精神的状況』(理想社)

これは無条件で選んだわけではない。

翻訳も古めかしいし、特に前半は相当悪戦苦闘しながら、何とか読み終えたことが上記リンク先記事からも分かる。

でも、これは現在でも読むべき本だ。

引用文1同2同3を含めて読むと、これ現代のネット世論を予言していたのではないかと思えるほど的確な描写に驚かされる。

悪質なネット世論が他のメディアを侵食し、同様に劣化させて社会を醜悪と荒廃に導きつつある全世界的傾向を見ると、この書の価値を否応なく実感させられる。

どこかの良心的な出版社が新訳を出してくれることを期待してリストに加えます。

そして、この本は絶対に外せない。

(9)ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)

引用文1同2同3同4での文章を含めて読み返すと、近代の宿痾をこれほど鋭く抉った思想書も少ないと思える。

その実状を理解すればするほどほぼ完全に絶望するしかないが、それでもわずかながらの、宗教的というしかない希望を持ち、次の世代に良き価値を引き渡すために自らの義務を果たし続けた人間の遺言のような書。

しかし、本書が新刊として手に入らない現状は、日本の文化的醜聞である。

中央公論さん、本当に何とかして下さい。

文庫のまま復刊するか、中公クラシックスに入れて、可能な限り長期間在庫してもらわないと、本来は困る本。

頼みますから、そうして下さい。

レーデラー『大衆の国家』(創元社)ジグマンド・ノイマン『大衆国家と独裁』(みすず書房)フロム『自由からの逃走』(東京創元社)は、それぞれ特色ある大衆社会論として読む価値があるが、必読とまでは言えないか。

T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』(中公クラシックス)は、階級社会の擁護という反時代的姿勢が興味深く、有益な書であるが、これも泣く泣く外すか・・・・・。

オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)は、読んだ部分は面白く、心に残る文章があったが、難易度が高く、自分でも通読出来ていないので、当然リストには加えられない。

で、最後の10冊目はこれ。

(10)オルテガ『大衆の反逆』(白水社)

思想・哲学カテゴリの一番最初に紹介していることからも分かるように、ものすごい衝撃を受けた本。

これを読まないというのはありえないでしょう。

本書で批判されているような意味での「大衆」は、本書を読んでも自省するどころか、本書のレトリックを用いて他者を攻撃するような救いの無さを持っているんでしょうが(私自身にもそういうところはあるでしょう)、それでも読まないわけにはいかない。

 

 

 

以上で全10冊をリストアップしました。

古典的な思想家と言えるのは、以上に挙げた人々くらいですか。

以下、追加。

まず挙げないといけないのは、コーンハウザー『大衆社会の政治』(東京創元社)です。

大衆社会論全般の見取り図を与えてくれる本として非常に重要。

これ、何とか10冊の中に入らないかなあと検討したんですが、他の思想家と並ぶとさすがに著者名が見劣りするし、本書の「貴族主義的大衆批判」と「民主主義的大衆批判」という整理の仕方が適切ではないとの意見もあるしで、結局外しました。

ただ、リストの準候補には間違いなく入っている著作です。

でも、これも入手しにくいんだよなあ・・・・・。

馬鹿みたいなネトウヨ本を粗製濫造するくらいなら、こういう本を復刊してくれないかなあ・・・・・。

クイントン『不完全性の政治学』(東信堂)ニスベット『保守主義』(昭和堂)は、比較的最近出た保守主義の名著として、コーンハウザーのように入れようかと思ったんですが・・・・・止めときます。

 

 

さらに、番外として、現在大きな問題になっている新自由主義とリバタリアニズムについて。

フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』(東京創元社)は、今となっては読むべき本に思えない。

むしろ、カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)同『公共哲学』(ちくま学芸文庫)同『それをお金で買いますか』(早川書房)などを読んで、市場主義的考えに対する抵抗感を養った方がよい。

 

 

 

 

終わりです。

以下が10冊のリストです。

 

(1)プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)

(2)プラトン『国家 上』(ワイド版岩波文庫) 『同 下』

(3)バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)

(4)トクヴィル『アメリカのデモクラシー 全4巻』(岩波文庫)

(5)ル・ボン『群衆心理』(講談社学術文庫)

(6)チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)

(7)トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)

(8)ヤスパース『現代の精神的状況』(理想社)

(9)ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)

(10)オルテガ『大衆の反逆』(白水社)

 

 

うーん、どうかなあ・・・・・・。

やっぱり全15冊くらいにした方が良かったかなあ。

まあ、これでいいか。

キリもいいし、読むのも楽だし。

自分が、世界の歴史、特に近現代史を読む上で、基本となる考え方を養ってくれた書物です。

当然、個人的偏りが大きくあるので、一部を取捨選択したり、あるいは全く別のリストを作って、それを読むことにしても全然結構です。

普段思想・哲学関係の本など一切読まなかった、という私と変わらないレベルの方に、選書の切っ掛けにでもして頂けたら幸いです。

 

広告

2017年10月6日

伊藤之雄 『原敬  外交と政治の理想  上・下』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:52

上・下巻合わせて900ページを超える大著。

「賊軍」扱いされた東北出身者で、薩長藩閥への怨念を強く持ち、それをバネにして日本初の本格的政党内閣を組織したが、「平民宰相」の美名とは裏腹に普通選挙導入に反対し、党利党略を目的とした「我田引鉄」の利益誘導政策によって政治腐敗を激化させ、遂にはそれに憤激した青年に暗殺された、功罪相半ばする政治家、というのが、平均的な原敬イメージでしょうか。

本書では、伊藤博文を継いで、日本国家の屋台骨を、本来ならば昭和初期まで担うはずであった大政治家として捉え、その生涯を叙述している。

 

 

原敬は、1856(安政三)年、盛岡(南部)藩の家老格の家に生まれる。

9歳の時に父が死去。

学んだ塾では成績優秀で、農民の子供にも親切に接していたという。

戊辰戦争で、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、敗北。

敗者の苦難を舐め、同様の境遇に陥った人々への共感を持つが、ここで原が薩長への根深い怨念を持ったとの定説は否定されている。

1871年上京して苦学し、フランス人宣教師の神学校に住み込み、フランス語を学び、洗礼を受けるが、そのキリスト教信仰は生涯続くようなものではなかったという。

1875年分家した際、自身を士族ではなく平民として登記。

翌年司法省法学校に入学するが、法学に飽き足らず、政治・外交の道を志し、退学。

1879年中江兆民の私塾に半年余り在籍。

当時の兆民は「自由民権運動最左派」のイメージとは異なり、民権の発達が即国家の富強に結びつくものではないこと、十数年先はともかく現在では民選議院は時期尚早であること、分別の無い欧化政策は有害であり儒教などの伝統的価値を近代的に錬成する漸進主義が必要であること、功利主義による無条件な自己利益の追求を否定し常に「公利」を重視する必要があること、などを説いており、原の問題意識とほとんどの点で一致し、その生涯を貫く考え方となった。

同年大隈重信系の郵便報知新聞社に入社。

明治十四年の政変前で、大隈はまだ藩閥政府の一員であり、その紙面は政府批判一色では無かった。

そこで原が主張したことは、藩閥政府の維新以来の近代化政策に一定の評価を与え、旧士族や富者の特権を批判しつつ、フランス革命のような急進的で過激な動きを退け、イギリスを理想とした穏健な議会政治を漸進的に実現すること。

十四年政変後、郵便報知新聞が下野した大隈派の牙城となると、原は退社。

原は「輿論[しっかりした責任感のある国民の意見]」と「世論[物事を十分に考えていない多くの人々の意向]」をはっきりと区別していた

・・・・・ここでは、大隈ら急進的な民権派や国会を有害なものと見る藩閥政府内の守旧派を除いた、伊藤ら藩閥政府首脳や原ら真の「自由民権」論者の意見を「輿論」としているのである。・・・・・なお原は、真の「自由民権」とは、より良い国作りのため、藩閥政府と「人民」、また「人民」同士で議論することで、国益や「勤王」にかなうものである、とした。また、イギリスの保守党を「自由民権」の政党ととらえたように、「自由民権」を保守層まで取り込む幅広い概念で理解したのである・・・・・原はこの約一九年後に伊藤博文の創立した政党、立憲政友会に入党する。原の理解では、この政党は「自由民権」思想の延長線上にある政党といえる。

1882年立憲帝政党系の大東日報社に入社し、同年朝鮮での壬午軍乱に関する取材で井上馨外務卿の知遇を得て、外務省に入省。

1883年清国駐在の天津領事に任命。

清仏戦争に対処する李鴻章とたびたび会談。

1884年甲申事変勃発。

伊藤・井上は日清間の衝突回避と朝鮮の近代化への誘導を、薩摩系は対清強硬論と朝鮮植民地化を志向。

清国に渡った伊藤は李鴻章と会談、天津条約を締結し、この時点での日清戦争は回避され、原は伊藤を情報収集と分析能力で大いに補佐した。

原は伊藤の知遇と評価を期待したが、憲法制定を最大の課題とする当時の伊藤はこの時点で原を腹心の一員に加えるつもりはなく、両者の間にややわだかまりが残る結果となった。

1885年にはパリ公使館書記官として赴任(同年内閣制度発足、伊藤が初代総理大臣に就任)。

フランス語能力を使って、国際法・政治・外交・歴史・哲学・文学など幅広い書物を学習。

オーストリアおよびドイツ公使として赴任してきた西園寺公望と出会うが、当初はやや疎遠な関係。

井上外相の条約改正交渉が、外国人判事任用をめぐる国内の反対で頓挫。

井上辞任後、1888年原が嫌う大隈重信が外相に就任すると帰任命令が出る。

帰国後、農商務省に入省。

黒田清隆内閣で農商務大臣となった井上の下で官制改革を推進するが、大審院への外国人判事任用を含む、大隈外相の条約改正交渉に反対して、井上は辞任。

大隈重信の条約改正交渉が、実は「超然主義」で有名な(悪名高い)黒田内閣時であることは要チェック。

その際、原も枢密院書記官への転身の話が出るが、書記官長の伊東巳代治と肌合いが悪く、流れる。

1889年大隈がテロで重傷を負い、黒田内閣総辞職、第1次山県有朋内閣成立、外相青木周蔵が条約改正交渉継続、新農商務相が病気で辞職した後、後任に陸奥宗光就任。

陸奥は和歌山藩出身、西南戦争で西郷軍に呼応する計画を立て一時投獄、その後伊藤・井上の計らいで駐米公使となり、西園寺とも親しい、伊藤系の有力者。

原は陸奥に心酔し、協力して省内改革を断行。

1890年第一回総選挙と帝国議会開会、陸奥は当選し衆議院に議席を持つ唯一の閣僚となり、自由党にも自派を入党させようとし、将来的には自身を首班とした政党内閣を目指す。

原は、帝国議会での混乱を見て、政府・民党双方に批判的見解を抱く。

1891年第1次松方正義内閣成立、大津事件勃発。

第二回総選挙で、品川弥次郎内相の大選挙干渉。

伊藤・陸奥は政党圧迫一辺倒の松方・品川を批判、陸奥は辞任し、原も農商務省を離れる。

1892年松方内閣総辞職、その際の組閣過程で元老という憲法上にない慣例的な機関が姿を現す。

第2次伊藤内閣成立、陸奥は外相に就任、原は通商局長となる。

陸奥外相は、関税自主権回復をしばし先延ばしし、独立国の主権に関わる治外法権の撤廃を最優先として条約交渉を再開、日清戦争直前に日英通商航海条約締結に成功する。

原は陸奥の側近として議会対策に挺身、民党の主張には是々非々で臨み、もし民党の反対で政権維持が困難なら、藩閥勢力は一時下野も辞さず、民党が失敗し、そこから学ぶのを待つべきだと主張。

この主張は1898年隈板内閣成立で実現したが、しかし、1893年の時点で政府と議会の妥協をもたらした「和協の詔勅」を原が批判したのは、条約改正問題や朝鮮半島問題で懸案の多い中、民党に政権を渡すことが極めて危険であることを見通しておらず、伊藤や陸奥の判断の方が的確だ、と著者は評している。

朝鮮半島問題では、まず防穀令事件に対処、条約上の権利に基づき断固とした態度を示し、朝鮮政府の対応に不信感を持ちつつ、日本側のいたずらに強圧的な交渉態度も批判、あくまで朝鮮国の近代化支援と安定化を推進することを日本の朝鮮半島政策の根本に置き、植民地化・保護国化を目指す議論には同意せず。

著者は、それがこの時点で伊藤・井上・陸奥ら政権中枢に共有された方針であったことを指摘している。

1894年日清戦争勃発、戦時には原は特別な任務を与えられることはなく、無聊をかこつ。

この時期、俊英陸奥の下には、原だけでなく、小村寿太郎、加藤高明も要職を務めていた。

原は1895年外務次官に就任。

三浦梧楼公使が主導した閔妃殺害事件に対処、武官である総督が独立的権限を揮う台湾統治体制を批判。

1896年朝鮮国公使に転任するが、同年第2次伊藤内閣総辞職、第2次松方内閣成立、進歩党と連携した為、外相はまたも大隈で、原は帰国。

同時期、板垣・林有造ら土佐派、岡崎邦輔・星亨ら陸奥側近派、河野広中ら東北派、松田正久ら九州派の対立が目立つ自由党に陸奥が入党し、指導者となることが見込まれるが、陸奥の健康状態は悪化し、1897年死去。

原は外務省を退き、『大阪毎日新聞』に入社、軍部大臣文官制、列強の国際規範を守った現実主義的外交、清国・朝鮮への蔑視を排した上での断固とした対応、日清戦争後の軍備拡張支持、外資導入による産業振興を主張し、部数の大幅拡張に成功。

1898年第3次伊藤内閣を経て、自由党・進歩党合同による憲政党結成と第1次大隈内閣成立、その倒壊と憲政党・憲政本党分裂後、第2次山県内閣成立という混乱の中、伊藤が山県・松方らの反対を押し切って旧自由党を主体とする新政党結成を志すと、原もその動きに合流。

伊藤の盟友であるが、組閣の機を逸して伊藤への複雑な思いを持つ井上との関係を修復、原を自派に取り込もうとする山県の誘いを拒絶。

1900年立憲政友会結成。

西園寺公望、原、星亨、松田正久、末松謙澄、林有造、金子賢太郎、渡辺国武、尾崎行雄(尾崎のみ憲政本党系)が参加。

原と関係が悪く、政党政治への理解も持たない伊東巳代治は参加せず。

同年成立の第4次伊藤内閣には当初入閣できなかったが、伊藤の後継者西園寺との関係を深め、逓信大臣として入閣、東北出身者初の大臣となる。

公債支弁事業に消極的な渡辺国武蔵相と対立、西園寺と連携した原は党内地位を向上させるが、1901年内閣総辞職、後任は山県系官僚を主体とする第1次桂太郎内閣。

同年金権政治家との悪評を受けていた星亨が暗殺、政友会は伊藤と後継者と見られた西園寺の下、原・松田・尾崎らで指導部を形成。

桂内閣への対決姿勢を強める原・松田に対し、国際情勢の緊迫化と不況の深刻化を見た伊藤・井上は倒閣に消極的。

この路線対立を利用した桂内閣の揺さぶりもあり、少なからぬ脱党者が出たが、1903年総裁が西園寺に交替し、原・松田は政友会の勢力保持に成功。

その間、1902年総選挙で原は盛岡市から出馬、大差で当選している。

ここで注目すべきは、選挙運動で、鉄道建設などの公共事業の利益誘導を自身の支持拡大の為に利用しなかったこと。

あくまで「公利」(公共性)重視の主張を貫いた。

また、この時期『大阪新報』という新聞の経営にも携わっているが、世論の大勢に媚びることなく、対露強硬論を唱えず、政府の冷静な外交努力を支持した為、過去の『大阪毎日新聞』とは異なり、大きな成果は収め得なかった、とある。

この辺は筋を通す政治家として、やはり評価に値すると思う。

原と政友会は、外交問題でも世論に迎合せず、日露開戦まで対露強硬論を主張せず。

日露戦争下、桂首相と政友会は政権授受密約を結んだうえで協力。

犬養毅、大石正巳ら憲政本党が賠償金抜きの講和条約反対運動を展開する中、政友会は同調せず。

講和直後、伊藤は、政友会への政権授受密約を承認していながら、山県系軍人ではあるが、山県から独立した立場を取る児玉源太郎を首班とする内閣を作ることを一時構想したが、原の反対で断念、1906年第1次西園寺公望内閣成立。

内相原敬、外相加藤高明(第4次伊藤内閣でも外相)、陸相寺内正毅、海相斎藤実、蔵相阪谷芳郎、法相松田正久、文相牧野伸顕という構成。

政友会からの入閣者は西園寺・原・松田のみで、これは通常「本格的政党内閣」とは見なされず。

原は内相として、地方自治拡充と警視庁改革などで、山県系官僚閥と対決。

輸送・交通の促進と効率化の観点から鉄道国有法を公布。

これらの政友会の鉄道政策も自党の支持を広げるための利益誘導を目的としたものではないとされている。

外相加藤高明が、鉄道国有化と陸軍主導の満州経営に反対して、わずか三カ月で辞任、政友会内での信望を無くし、政治家としての地位を低下させる。

西園寺には、線が細く指導力に乏しいイメージがあるが、伊藤など元老や桂との信頼関係もあり、健康に問題が無い時期の、この第1次内閣の頃はそれなりにリーダーシップを発揮、満州軍政廃止や陸軍軍備拡張問題を適切に処理した。

原は伊藤と肝胆相照らす仲となり、立憲政治と政党内閣の理想を掲げ、山県閥と対立、台湾・満鉄・南樺太の経営について内閣の主導権を確保することを目指して活動。

外交では、ハーグ密使事件後に第三次日韓協約が結ばれたが、伊藤と共に完全な併合には反対。

カリフォルニア州での排日運動を受けて、それへの日本国内の反発が強まるが、西園寺政権と政友会は問題を深刻化させず、日米紳士協定を締結して鎮静化に成功。

1908年総選挙でも勝利したが、山県・松方の政権反対姿勢が強まり、健康問題もあって西園寺は総理辞任。

この第1次西園寺内閣時代、原は数々の重要課題に取り組み、政策理解力・交渉力・実行力で同僚の松田を引き離し、西園寺の後継者としての地位を確立する。

第2次桂太郎内閣時代、原は欧米周遊旅行に出発、米国の富強振りと各国での官僚政治の没落と民意の発展を目撃し、強い印象を受ける。

1909年伊藤が暗殺され、翌年韓国併合が断行、その後、朝鮮を訪れた原は総督府の統治に疑問を持たず、同化政策を実現可能と見た。

朝鮮人に対する愚民観は持っていなかったというが、自身を含む東北人が当初反発していた明治国家に統合された経験を韓民族にも当てはめるというのは、隣国のナショナリズムと愛国心に対する無理解と言われても仕方ないでしょう。

健康が十分に回復せず、政党指導者としての意欲を失いつつあった西園寺や、自党の掌握と桂首相との交渉での不手際が目立つ松田に代わって、原が政友会の実質的主導者となる。

第2次桂内閣の後継として陸相寺内正毅への禅譲が話題に上ると、原は桂との巧みな交渉で、政友会への再度の政権授受の流れを作ることに成功。

その間、1905年に古河鉱業の跡を継いでいた、陸奥宗光の次男が病を得ると、原が実質社長として経営に参画、1890年頃から問題になっていた足尾銅山鉱毒問題に治水工事によって対処するが、田中正造の反対運動には共感を持たず。

1911年第2次西園寺内閣成立、内相兼鉄道院総裁が原、司法相松田、外相は桂が留任を提案した小村寿太郎は対外硬的感覚を懸念して退け内田康哉を起用、蔵相には山本達雄、陸相は非山県系で薩摩出身の上原勇作を当てようとしたが果たせず石本新六、海相は斎藤実留任。

日露戦争後の財政難の中、均衡財政主義の蔵相山本と経費節減をした上での積極政策を推進する原が強く対立。

辛亥革命に対して原は、北方清朝側、南方革命側の間で中立を守ることを主張、安易な利権拡張を目論む動きに釘をさす。

明治天皇崩御、大正改元、桂との関係が微妙になっていた山県の思惑で、桂は内大臣に就任し、宮中に押し込められる形になる。

陸相の石本が病気で辞任すると、上原が後任となるが、ここで二個師団増設問題が起こり、大正政変の契機となる。

原と山県の間で妥協の動きもあったが、再度組閣し表舞台に戻ろうとした桂が上原を焚き付け、1912年西園寺政権は倒壊(非主流派の上原は、山県が妥協的であることと桂と山県の仲が微妙になっているのを知らなかったらしい)。

陸軍・長州閥・藩閥官僚批判の世論が盛り上がる中、元老会議では後任首相に松方・山本権兵衛・平田東助(山県系官僚、前内相)の名が浮かぶが決め手が無く、原は「元老の価値甚だ衰へたり」と日記に記した。

結局第3次桂内閣が成立。

内相大浦兼武、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎、陸相木越安綱、海相斎藤実、逓相兼鉄道院総裁後藤新平。

それに対し、第一次憲政擁護運動が勃興、政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが参加。

桂は新政党組織計画を発表、衆院第二党の国民党内から反犬養派が大挙参加し、国民党は大打撃を受ける。

原は、藩閥官僚批判の輿論の高まり自体は好ましいとしたが、それが非合理的・感情的な世論となり、政治を激変させることは極めて危険であるとの醒めた視線を、自由民権運動の勃興以来、一貫して持っていた。

この為、原は桂に「名誉ある撤退」の道を提示したが、桂は拒否、護憲運動はピークに達し、遂に桂内閣総辞職に至る。

1913年第1次山本権兵衛内閣成立。

薩摩系官僚内閣だが、事実上政友会の支持を受ける。

原はまたも内相、松田が法相、外相牧野伸顕、蔵相高橋是清、陸相木越と海相斎藤は留任(木越は病気で辞任、非山県系で要職経験無しの楠瀬幸彦が後任)。

この内閣で、着実な秩序ある政治改革を推進、高校日本史でも既出だが、軍部大臣現役武官制を廃止し、文官任用令改正によって、政党による官僚自由任用の範囲が1899年第2次山県内閣時代に内閣書記官長と大臣秘書官のみに制限されていたのを、陸海軍省を除く各省次官、法制局長官、警視総監、貴族院・衆議院の書記官長、内務省警保局長、各省勅任参事官にまで拡大。

政友会内部では、護憲運動によって一時党人派の松田の威信が高まるが、松田の指導力に深い疑念を持つ西園寺と原は時期を待ち、巧みに原後継体制を固めていく。

1913年桂が死去、桂の新党計画の結果である立憲同志会が加藤高明中心に結成、14年松田も重病でこの世を去る。

14年シーメンス事件が発覚、山本内閣総辞職。

この事件がなく、また原が自身の希望通りより早い時期に閣僚を辞任し内閣と距離を置けていれば、この時期に原政友会内閣が成立した可能性もあったと評されている。

元老会議で山県が中心となって、大隈重信を首相に推薦、第2次大隈内閣が立憲同志会を与党として成立、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎。

民党の一方の雄であり、自身の宿敵ともいえる大隈を首相に推薦したところに、山県の原と政友会に対する憎悪がいかに強いものなのかが表れている。

原は山本内閣入閣時に政友会に入党した高橋是清、山本達雄らを最高幹部として遇し、遂に自身が西園寺に替わって第三代政友会総裁に就任、山県との対決に備える(西園寺は元老として政治に関与し続ける)。

第一次世界大戦勃発。

加藤高明の参戦外交に対し、原・山県ともに懸念を募らせる。

第一次世界大戦が始まった一九一四年の夏から秋にかけて、日本には二つの道があった。一つは原のように、大戦後に世界をリードすることになる米国との関係を重視し、ヨーロッパの戦争を東アジアにまで広げて日本が中国大陸等で利権の拡大をするような道を取らないことである。その上で、中国との連携を深めて、満州の租借期限の延長など満州問題を解決する。これは原の構想である。もう一つは、ヨーロッパに陸軍すら出兵する覚悟で、日本が大戦に積極的に関与し、世界の秩序形成に加わることで、英国との連携を密にしながら、中国大陸での影響力の拡大(あるいは利権の拡大)を図ることである。

実際にはそのどちらの道も取れずに、中国大陸での利権拡大のみに走る結果となり、大戦後に日本の国際的地位が確立しなかったのであった。

・・・・原は山県ら元老に対米重視の外交論を述べ、元老たちの加藤高明外相・大隈首相の外交への不満の言葉を引き出したが、元老は大隈内閣倒閣に動くことはなかった。それは元老の中心である山県が、将来に困難を生み出すかもしれない外交問題よりも、政友会による陸軍や山県系官僚閥、元老への攻撃と、国内の秩序破壊をより問題視していたからである。山県は原の対米重視の意味を十分に理解できなかったし、大隈内閣の外交に不安や不満を感じても、政友会の多数を崩すほうがより重要だと考えた。

原は入党間もない高橋是清と緊密な関係を築き、高橋の党内地位が向上。

1915年総選挙、青島陥落と大戦景気、大隈の大衆的人気が相まって、立憲同志会が圧勝、政友会大敗。

同年二十一ヵ条要求という近代日本蹉跌の原因となった外交愚行が行われる。

・・・・二十一ヵ条要求が過大なものになったのは、加藤外相や外務省が過大な要求を正当としたのではなく、陸軍などを抑えることができなかったからである。陸軍を抑える力を持っていたのは山県有朋・井上馨ら元老であったが、加藤外相は外交一元化に固執して元老と積極的にコミュニケーションを取ろうとしなかった・・・・。加藤は、大隈内閣成立直後から元老を外交に介入させない、という「外交の一元化」を掲げていた。しかし、外相として米・英や中国となるべく良好な国際関係を作るという最重要課題と、自ら掲げた「外交の一元化」を実施するというプライドとの、事の軽重をまったく判断できなかったのである。

1915年井上馨死去。

政友会設立に当たっては伊藤と協力し、原の最初期のキャリアでの庇護者でもあったが、晩年は元老として原と政友会に対して深い敵意を抱く関係となってしまっていた。

1916年対中・対米関係悪化を受けて山県が大隈内閣に主張していた第四次日露協約が結ばれたが、翌年のロシア革命で全く無意味なものとなってしまう。

加藤高明は内政では大政治家と言っていいんでしょうが、少なくともこの時期に限っては、その外交は原のような慎重策を取るでもなく、陸軍の欧州派遣というリスクを負って日英同盟を深化させるでもなく、ただ火事場泥棒的な利権拡大に走り、中国ナショナリズムの深刻な敵意の標的となった挙句、米英関係も悪化させるという最悪の結果を招いたと言われても仕方がないでしょう。

それを批判した山県はさすがだが、しかし山県ほどの冷徹なリアリストでも、内政での政党政治への敵意に目が曇らされて、外交政策転換の為の大隈内閣倒閣に躊躇したというのは山県にとって名誉なことではない。

本書の筆致では、原こそが当時の国際情勢を最も的確に見抜いていたことになっている。

大隈の後継として、立憲同志会の加藤高明内閣が成立することを西園寺だけでなく、仇敵山県とも暗黙裡に連携して阻止。

大隈内閣打倒と外交政策転換を最重視、山県の政友会アレルギーを考慮し、即時の政権奪還を意図せず。

1916年寺内正毅内閣成立。

内相後藤新平、蔵相勝田主計、外相本野一郎など山県系官僚で固めた超然内閣。

加藤高明は立憲同志会を憲政会に改組、国民党と共に寺内内閣との対決姿勢を強めるが、原の政友会は是々非々主義の態度を表明、寺内政権と事実上連携し1917年総選挙で勝利。

寺内内閣下、原の主張で外交の大枠を決定する組織として外交調査会が発足、原と犬養国民党総理が委員に就任するが、加藤高明は参加せず。

しかし、西原借款、シベリア出兵という問題で、この組織は必ずしも原の望んだような掣肘を政府の外交政策に加えることができず。

米騒動で寺内内閣が揺らぐと、田中義一参謀次長に接近、陸軍内の情報を得て、政権獲得を目指す。

1918年9月西園寺に組閣させようとする、山県の最後の策謀が失敗した後、遂に原に組閣の大命が下る。

この組閣準備において、原は山県および寺内に陸相だけでなく海相人事についても意見を聞いているが、そこで以下のような注目すべき記述が見られる。

元来、陸相の人選は、元老山県元帥を中心に、陸相や山県に準じる存在となった桂太郎大将が相談して行い、桂の死後は寺内が桂の代わりに人選に加わるようになった・・・・また海相は、山本権兵衛が海相を引退した後は、山本が中心となり薩摩海軍の有力者と相談して人選してきた。ところがシーメンス事件で海軍が大打撃を受け、山本権兵衛内閣まで倒れると、海相の人選に山県が口を出すようになった・・・・表に出ないこのような軍部大臣の人選の慣行の変化すら、原は把握したうえで、交渉した。そこに原の政治指導の凄みが出る。従来、軍事の専門家集団として陸軍・海軍が、統帥権独立を掲げて、それぞれ陸相・海相の人選権を分有していたものを、山県が侵した。おそらく原は、将来、首相がその権限を握ることにつながるチャンスととらえ、山県が海相の人選に介入するという新慣行に乗ることにしたのだろう。

結局、海相は加藤友三郎が留任、陸相は田中義一。

外相は内田康哉、内相床次(とこなみ)竹二郎、蔵相高橋是清、農商務相山本達雄、逓相野田卯太郎、文相中橋徳五郎。

陸・海軍相と外相以外はすべて政友会党員で、これが教科書で書かれている「本格的な政党内閣」である。

法相は一時平沼騏一郎の名が挙がっており、意外な感があるが、平沼は司法官僚出身だが山県系ではなく、最近の研究では、政友会と連携しながら司法界でその地位を向上させてきたとされるという。

平沼は政友会入党を求められることを恐れて辞退、法相は原が兼務。

外交も首相の原が大枠の方針を定めたので、外相も事実上兼務した形。

原内閣成立は第一次大戦の休戦直前である。

戦後の国際情勢変動に対応し、対中親善と対米協調を最重視。

当初加藤高明系として警戒していた幣原喜重郎外務次官が国際協調主義を信奉していることを知ると、幣原を駐米大使に起用。

田中陸相が山梨半造を次官に起用することに、原首相の内々の同意を求める。

統帥権に関わる陸軍の重要人事に文官首相が関与することになり、田中は政党内閣首班である原に恭順の姿勢を示したことになる。

パリ講和会議で、山東省旧ドイツ利権について、即時の中国への返還は拒否しながら、数年後のワシントン会議後での返還への道筋も付ける。

米国はラテン・アメリカやフィリピンでの自国の権益は譲らないまま、理想主義的なウィルソン主義外交を日本が大きな権益を持つ中国に適用しようとしていた面があり、この対応は列強の中で特に保守的なものとは言えないと評されている。

1919年の五・四運動をこれまでの国際秩序を一方的に否認する性質の動きとして否定的に見たが、中国の分裂を利用し国際協調を無視した一方的利権拡大を否定する原の外交路線が継続されていれば、日中双方にとって破滅的だった両国の全面対決は避けられたでしょう。

同年の三・一独立運動に際しては、朝鮮の地方自治を容認する構想を持つが、それも伊藤のように朝鮮人による責任内閣と植民地議会という考えからは後退している。

原ほどの人物にしても、日本と韓国の関係を、薩長と自身の郷里盛岡との関係と同類と捉え、隣国のナショナリズムに理解を持てなかったのは残念な事実ではある。

その三・一運動鎮圧の為の憲兵増派を、武官である朝鮮総督ではなく内閣が主導。

朝鮮総督、台湾総督を文官・武官いずれも就任できるように官制を改正、南満州の関東都督府は廃止され、文官の関東長官と武官の関東軍司令官に分離。

内政では、大学令を公布し高等教育機関を大幅拡充。

官立単科大学と公立大学設置の枠組みを定め、これまで大学の名を冠していても専門学校扱いだった早稲田大、慶応大など私学の大学昇格を積極的に認める。

産業振興と鉄道網整備を推進。

陸軍25個師団と海軍八・八艦隊の国防充実要求に対しては、陸海軍の顔も立てつつ、予算全体とのバランスにも配慮、大戦後軍縮ムードが巻き起こるのを見越して、計画を一年延期させるという円熟した政治手法を見せる。

1920年3月から始まる戦後不況に対しては、政府支出を削減して景気回復を待つという古典的な経済政策を抜け出すことができず、さすがの原も独自の指導力を発揮することはなかったが、高橋蔵相・山本農商相という有能な経済閣僚を使って経済安定化に尽力。

都市部での憲政会・国民党の普通選挙要求運動には、大衆の非合理的行動を警戒する漸進主義の立場から即時実現には強く反対、一方で運動の盛り上がりを利用して、革命的騒乱を恐れる山県と貴族院を圧伏、選挙権の財産資格を引き下げ、小選挙区制を導入。

1920年5月総選挙で政友会圧勝。

労働争議に対しては厳しい鎮圧方針を取りつつ、会社側にも労働条件の改善を促し、妥協的解決に成功。

これらの手腕に対しては政党内閣を否定し続けてきた山県も感嘆し、原内閣の存続を望むようになる。

衆議院での絶対多数を背景に、貴族院も政友会の影響下に置かれ、山県閥は枢密院にのみ「籠城」する感がある、と原が日記に記すような状況となる。

思想問題については強い危機感を持ち、森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの思想を紹介した、いわゆる森戸事件に対して、原は、起訴やむなしとの強硬姿勢を示す。

これが批判されるようなことだとは、私には思えない。

「思想の自由競争」を無条件で許せば、社会が自動的に発展・調和に至る、という思い込みには、はっきり言って何の根拠も無い。

共産主義という、人類史上最大の被害をもたらした狂信に、過去どれほど多くの人々が惹きつけられたのかを考えれば、国家による一定の取締措置は必要悪だとしか言いようが無い。

それを非難する人は、(自分自身を含む)民衆の判断能力を過大評価し過ぎている。

現在の社会での、ヘイトスピーチやネット上の誹謗中傷の問題を考えても、言論・表現の自由を無条件に絶対視する意見には、何一つ賛成できる部分が無い。

上記のように、ロシア革命と米騒動を見て、政党政治よりも急進的革命を恐れるようになった山県は、原内閣を見直し、統帥権独立が徐々に侵食されることにすら大きな抵抗を示さないようになる。

シベリアからの段階的兵力削減を内閣主導で実施、参謀総長上原勇作は原首相と田中陸相に抗議し、山県も批判を示したが、結局屈服。

原自身が軍事問題に精通し、その公的キャリアの全時代において軍人との意思疎通を重視、また陸軍改革においては、世論の反軍閥的風潮に迎合して外部からの急進的改革を目指すことなく、田中義一という協力者を得て、あくまで内部からの穏健な改革を推進したことがこの成功の要因。

明治以来の、参謀本部が天皇に直属する仕組みは、政治的軍事的失策の累を皇室に及ぼす危険があるので、それを改め、内閣が国政全ての責任を負う必要があると、原は考えており、もしこのまま事態が推移すれば、山県亡き後、原内閣による軍の統制という慣行を原と田中で法制化することも困難ではなかっただっただろう、と書かれている。

大日本帝国を滅亡させる要因となり、今や中学校の教科書にも載っている「統帥権の独立」という(明治期はともかく、少なくともこの時期での)悪弊が、なし崩し的に消滅する可能性があったわけである。

そう思うと、切歯扼腕せずにはいられない。

1919年大正天皇の健康状態が極めて悪化、翌年から皇太子裕仁親王が代理として活動開始。

その後も原は律儀に大正天皇に上奏を続けたが、ある日大正天皇が机上のタバコ一握りを原に与え、原は「感泣の外」ない、と日記に書いた。

同年皇太子妃候補の久邇宮良子女王の色覚異常問題に関わる婚約辞退問題発生、婚約辞退を主張した山県が右翼勢力の批判を受け、窮地に陥る。

当初傍観した原だが、1921年山県が枢密院議長の辞任、官職・栄典の辞退を申し出て、その影響力が完全に没落しようとすると、陸軍内と国内の秩序混乱を恐れて、原はむしろ山県の権力を維持する方向で動き、辞表を却下させる。

この行動は山県に深い感銘を与え、長年仇敵の間柄だった山県すら、原への好感を示し、その支援者に近い存在となる。

1921年田中陸相が狭心症で倒れ辞任、6月山梨次官の陸相昇格にも首相の原が大きく関与し陸軍を掌握、ワシントン会議に全権として参加する為、加藤海相が渡米すると10月原首相は文官最初の海軍大臣臨時事務管理となり、海相の事務を代行。

同年皇太子訪欧を実現させ、帰国後の摂政就任を既定路線とする。

この時点で原は、衆議院の多数を支配し、貴族院・陸軍・宮中までをも掌握、混乱時の天皇の調停的政治関与を例外として、政党内閣が全政治責任を負う体制を確立しつつあった。

加藤高明指導下の憲政会に対する(二十一ヵ条要求等の対外硬的外交と普選運動に見られる急進的内政改革志向についての)不信感もあり、一先ず政友会一党優位制を築き上げることを目指したが、将来的には二大政党制も視野に入れていたと見られる。

自身の後継者について、まず高橋是清はその協調外交志向と優れた政策構想力は大いに評価していたが、参謀本部廃止構想などの急進的改革を目指し、それを不用意に漏らして、原が田中陸相に釈明する事態を招くなど、政治的配慮の無さを欠点と見ていた。

床次竹二郎内相や内田康哉外相は、原が政策の大枠を指示して両者が実行するような関係で、床次・内田は実質次官のような役割を果たしていたに過ぎず、彼らを後継者にすることは考えられず。

田中義一陸相、加藤友三郎海相も候補だが、彼らが政友会に入党するか、選挙対策などの党務を全く経験しないまま総裁を務められるかは未知数であり、山県から離れて協力している田中を原が心底信用していたかは不明。

結論を言えば、原には後継者として安心して跡を任せられる人材がいなかったのである。原のような用意周到な大物政治家であっても、後継者の育成はきわめて難しかった。比較のため、伊藤博文と山県有朋の例を見てみよう。

伊藤は何人かの後継者候補の中から、立憲政友会を創設する前ごろから、西園寺公望を後継者と決め、第四次伊藤内閣では西園寺を副総理格の班列大臣とした。その後、予定どおり総裁を西園寺に譲った・・・。しかし、実際に政友会の実権を掌握し、発展させたのは原敬であった。原の台頭を妨げることなく自然の趨勢に任せたことが、伊藤の見識であった。

山県は長州系エリート陸軍軍人を陸軍の中枢ポストにつけ、引き立てた。陸軍を中心とし、内務省・貴族院・枢密院・宮中にまで広がる山県系官僚閥の後継者としようとしたのである。しかし山県が政党に対し、かたくなな反感を持っていたので、政党が台頭するのを時勢と見た桂太郎・寺内正毅や田中義一ら後継者(候補者)たちは、ことごとく山県を裏切っていった。また普選運動や労働争議などが拡大する中で、山県自身が原に頼らざるを得なくなっていった・・・。

原は二人の大物藩閥政治家と後継者の関係を、政友会創設のころ以降は間近で見てきた。自分の後継者としてそれほどの人材はいないという事実に対して、育ってくるのを待つしかないと考え、誰にも後継者の話は切り出さなかったのであろう。

原はかたくなに授爵を辞退した。

華族が皇室の藩屏であるとの議論を陳腐と退け、四千余万の国民すべてが藩屏だと書いている。

しかし、藩閥・軍人への対抗の為か、政党人・財界人への授爵には尽力している。

1921年ワシントン会議に参加決定、加藤友三郎海相と幣原喜重郎駐米大使を全権に任命、日英同盟存続を至上命令とはせず、対米協調を最優先。

だが、原は同年11月4日東京駅で18歳の鉄道員中岡艮一(こんいち)により刺殺される。

政友会絡みの疑獄事件や外交問題での政権への憤慨や、9月に起こった右翼青年朝日平吾による安田財閥創始者安田善次郎暗殺に刺激されたことが動機という。

黒幕の存在も推理されるが、真相は不明。

原の死は、原が目標半ばで人生を終えるという、一人の明治人の死にとどまらない意味を持った。日本国家の行く末に、実に大きな影響を及ぼしたのである。

原の死によって、イギリス風の立憲君主制が、日本でさらに発展していく可能性が大きく削がれてしまった。原は政党出身の首相が衆議院(イギリスの庶民院)の支持を背景に陸・海軍や宮中までも統制し、責任を持って政治を主導する制度を形成した。原は、個人的な政治力をもって形成したこの制度を慣行とし、さらには憲法以外の法令を改正することで、日本に定着させていこうとしたのであろう。伊藤博文が遠い将来の目標とし、立憲国家創設期の様々な制約でなかなか実現できなかったものが、実現に向けて本格的に動き出したばかりであった。

また原の死によって、第一次世界大戦後の新状況に適応すべく、米国との協調を特に重視し、中国の統一を促進する新しい外交も、それを支える強い基盤を失った、それは、政友会が内部分裂し、弱体化したからであり、さらには第五代政友会総裁田中義一により、原外交の精神とは異なる外交路線が展開し、失敗するからである。

確かに、原外交の精神は、原が駐米大使に抜擢した幣原喜重郎により、一九二〇年代半ば以降、反対党の憲政会・民政党に受け継がれていく。しかし、幣原外相はすぐれた外交官であったが、彼には原ほどの政治家としての能力や基盤がなかったために、国際環境の変化をとらえて、あるべき外交路線を進めるため、国内政治を主導していくことができなかった。原の死は、一九二〇年代以降に、日米連携が中国問題や軍縮問題等を舞台にさらに強力に展開していく可能性をなくした。

また原は、いずれ政友会総裁を引退すれば、元老や内大臣の有力候補になったことは間違いない。一九二四年に元老松方正義が死去すると、西園寺公望が唯一の元老となる。元老は後継首相候補や内大臣・宮相など宮中の要人候補を天皇に推薦するという重要国務等を果たすだけでなく、この時期には、いずれ天皇になるはずの若い摂政皇太子裕仁親王に政治を指南する役割も加わった。

本書で見てきたように、西園寺が政友会総裁を辞任した後、西園寺が元老として宮中を、原が総裁・首相として党務と国政を行うという住み分けができ、二人の関係はきわめて親しくなった。高齢で唯一の元老となった西園寺は、自分が元老としての仕事を行えない場合を考えて、必ず原に元老か内大臣(あるいは両方)になるよう勧めるだろう。

原はきわめて責任感が強いので、受けることも間違いない。それは本書で見てきたように、余裕のあるうちに辞めようと一九二〇年秋に内閣総辞職を考えながら、皇太子妃選定問題の混乱、皇太子渡欧や摂政設置問題、ワシントン会議などが起こると、「疲れた」と漏らしながらも、一九二二年以降も当面は政権を担当する気持ちになったことからわかる。

もし原が元老か内大臣(あるいは元老兼内大臣)として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、公平な調停者としての昭和天皇のイメージが陸海軍に浸透し、一九三一(昭和六)年九月に満州事変が起きても、陸軍を統制して、事変の拡大を阻止できた可能性がある・・・・。この意味でも、原の暗殺は、満州事変から日中全面戦争・太平洋戦争への道を変え得た、一つの可能性を摘み取った。

分別のない一青年の行動と、警備陣の一瞬の気の緩みが、近代日本の歩む道を大きく変えたともいえるだろう。

本書を読む限り、確かに原敬は、知的理解力・政策構想力・情勢分析力・判断力・決断力・交渉力・実行力全ての面でずば抜けた能力を示しており、伊藤博文に次ぐ、近代日本の大政治家である。

伊藤が、首相権限拡大および軍への統制強化を内容とする「1907年の憲法改革」(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)参照)に乗り出した途端に暗殺されたのも痛かったが、強大な政治力で陸海軍を統御し、文民統制と政党内閣制を確立しつつあった原の暗殺もそれに勝るとも劣らず、近代日本の運命を狂わせた痛恨事と思える。

原の死後、後継者となった高橋是清は国際協調主義を遵守したものの、原ほどの政治力は無く、その跡を継いだ田中義一は政友会の内外政策を大きく右傾化させ、さらに田中以後は矯激な世論にひたすら迎合し、昭和に入ってからの政友会は国益に反することばかりしている、と評されるほどの存在になってしまった。

原がその対外強硬的外交路線に深刻な懸念を持ち、政権担当能力無しと見なした加藤高明を総裁とする憲政会(とその後継である立憲民政党)は幣原外交を採用することで、原の時代とは驚くほど変化し、昭和に入ってからも相対的に妥当な政策路線を守り続けたが、指導者たる若槻礼次郎・浜口雄幸には加藤ほどの判断力と実行力が無く、経済政策では高橋積極財政を採用した政友会ほどの柔軟性も無く、緊縮財政にこだわり過ぎ、軍の暴走と国運の傾きを阻止できなかった。

(余談ですが、「21世紀に入ってからの自民党」って「昭和に入ってからの政友会」と似てるなあ、と思うことがよくあります。いや、今の自民党は新自由主義的政策で国民経済を疲弊させる一方なのだから、「高橋財政抜きの昭和政友会」とでも言うべきで、それ以下の存在です。私が選挙権を得てから、まだ20世紀だったうちは、自民党以外の政党に投票したこと無かったんですがねえ・・・・。)

もちろん、昭和戦前期の日本の破滅は、急激な民主化がもたらした左右の極論の蔓延の後、巻き起こった民意の暴走が主因であり、一人の有力政治家が存在しただけで止め得たものかどうかはわからない。

しかし、実際の歴史を読むと、どうしても「元老原敬が存在した、もう一つの昭和日本」を想像したくなる。

満州事変を封じ込め、日中全面戦争も日米開戦もなく、300万人以上の同胞が非業の死を遂げることもなかった昭和日本、である。

その場合、満州国は存在せず、中国が共産化することもあり得ず、国民政府の中国と日本は和解し、日米は不即不離の関係を続けたはずである。

韓国が植民地に留まり続けることは考えられず、再独立していたことは確実だが、台湾と赤道以北の南洋諸島は全面的な自治が認められた上で、日本と現在の英連邦諸国のような関係を結ぶ。

国内では、政党内閣制が完全に確立し、陸海軍の統帥権独立は形骸化し、時機が来れば明治憲法の該当部分の明文も改正されたかもしれない。

国家主権は依然天皇にあるとされ、皇室に関するタブーは厳然として存在するが、それが他者を圧迫する踏み絵として使われることは無い。

イギリス貴族のように、華族身分は相当部分形骸化しつつも存続し、上院は依然世襲議員と有識者の勅選議員から成る貴族院のまま存在。

衆議院の優位が定められるが、一方で貴族院が民意の暴走を抑止する役割を果たし、君主制・貴族制・民主制の三者が均衡を保ちつつ、政治が運営される。

もしかしたら、21世紀の我々は、そうした「大日本帝国」で暮らしていたかもしれない。

私は、それが今の日本よりも、余程良い国であると考えます。

 

 

 

極めて重厚で、信頼性の高い伝記。

内容は非常に濃い。

叙述が多岐にわたるので、明治中期から大正にかけての政治史全般について、非常に有益な知識と見解を得ることができる。

通読にやや骨は折れるが、その見返りは十分期待できる良書。

強く推薦します。

2017年10月2日

那須国男 『アフリカ全史』 (第三文明社)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 06:17

1995年刊。

これをあるところで目にして、なかなか期待できそうだと思い、手に取る。

だが中身を見ると、文字が大き目なのはいいが、その分単行本の厚味の割に文章量が少ないことに気付く。

さらに、先史時代はともかくとして、何と地質時代から話を始め、古代エジプトおよび北アフリカのイスラム史にもかなりのページを割き、(リヴィングストンとスタンリー以外の)アフリカ探検者も一章を使って紹介しているので、結局、通常アフリカの通史として想定する、ヨーロッパ進出前の前近代ブラック・アフリカの歴史は、「第五章 サハラ以南の古王国の様相」で扱われるだけである。

「全アフリカの歴史」としてなら、それでいいのかもしれないが、はっきり言って期待していたものと大きくズレている。

そのサハラ以南アフリカの歴史も、コンパクトな記述だが、内容を詰め込み過ぎているのか、ざあっと読むだけでは頭に全然入ってこない。

最後の一章では、当時の全アフリカ54ヵ国を、北部・西部・中部・東部・南部・インド洋に分けて、ごく簡略な情勢を一国ごとに記しているが、その形式はこうしたマイナー国家群(失礼)の知識を提供する上で良いとは思うし、内容も悪くはないものの、特筆すべき点も無い。

(それも本書刊行時から20年以上経った今となっては、当然不充分である。)

地図が、巻頭にある、現在の国家を描いたもの一つしか無いのも閉口する。

エジプト革命を1949年としたり(250ページ、270ページ)、アンゴラ、モザンビーク、キニア・ビサウ、カボ・ヴェルデ独立の契機になったポルトガル軍事クーデタを1973年としていたり(219ページ。別の所では正しく74年と書いている。)、不可解な年代の誤記もあった。

残念ながら、予想よりも完成度はかなり低い。

こういう知名度の無い本を、アフリカ史のようなマイナー分野の良書として推薦出来れば、少しは通っぽくてこのブログの主旨にも合うなあと思ってたんですが、そうは問屋が卸しませんでした。

あまりお薦め出来ません。

2017年9月28日

イマヌエル・カント 『永遠平和のために 啓蒙とは何か 他3編』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 国際関係・外交, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 02:14

以前岩波文庫版を読んだことがあった。

表題作の他、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的な起源」「万物の終焉」を収録した、カントの歴史哲学に関する論考を集めた本。

わからない・・・・・。

私のレベルでは、カントの主著はもちろん何一つ理解できないが、本書あたりでも正直かなりきつい。

全くの五里霧中というのでもないが、わかったような、わからないような記述。

通読はしたが、得たものは少ない。

ただ一点、「永遠平和のために」で、カントが平和的国家の条件として挙げた「共和的体制」が「民主的体制」と同一のものではなく、むしろカントは、多元的な抑制と均衡が機能しているという条件において、君主制と貴族制を「共和的」であるとみなしており、民主制が多数の名の下にしばしばそれを破壊するとしていたことを再確認した。

この論文が発表されたのは1795年で、フランス革命においてジャコバン派の独裁政権が人民の名の下に、どんな専制君主も及びもつかない程の暴虐の限りを尽くして崩壊した後である。

一方、君主制と貴族制を維持しつつ、国民の急激な直接的政治参加を避け、漸進的な改革を積み重ねていったイギリスは、名前だけ共和国を名乗る、フランスを含む大陸の国々よりも、よほど実質的な真の「共和政体」を実現した。

それを考えれば、カントの見方がごく常識であると思われるし、その後、多数派世論の専制によって、政治が常に左右両派の極論と狂信に苛まれ続けている、現在までの歴史を顧みても全く同様である。

 

まあ、それぐらいですかね。

未読の方は、手に取ってみてもいいでしょう。

私のように抽象的思考力皆無の人間でも、全く手が付けられないということは無い。

訳者解説なども利用して、大体のイメージだけつかめれば、御の字か。

 

 

共和的な体制は、民主的な体制と混同されることが多いが、この二つを区別するには次の点に配慮する必要がある。国家の形式を区別するには二つの方法がある。国家の最高権力を握っている人格の数の違いで区別するか、それとも元首の数を問わず、元首が民族をどのような統治方法で支配するかによって区別するかである。

第一の区別のしかたは、支配の形式と呼ばれ、ただ三つの可能性がある。支配する権力を握るのが、ただ一人であるか、たがいに手を握った数人であるか、市民社会を構成するすべての人であるかである。この三つの体制は、君主制、貴族制、民主制と呼ぶことも、君主支配、貴族支配、民衆支配と呼ぶこともできる。

第二の区別のしかたは、統治の形式と呼ばれ、憲法に基づいて国家がその絶対的な権力を行使する方法によって区別するのである。ここで憲法とは、群衆にすぎない人々の集まりから一つの国民を作りだす普遍的な意志の働きのことである。これによる区別には、二種類だけがある。共和的であるか、専制的であるかのどちらかである。共和政体とは、行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。だから専制政体における公的な意志とは、統治者が公的な意志を私的な意志として行使することを指すのである。

三つの国家体制のうちで、民主制は語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のもとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。

だから代議的でないすべての統治形式は、ほんらいまともでない形式である。というのは立法者が同じ人格において、同時のその意志の執行者となりうるからである。ところがこのことは、理性の推論において、普遍的な大前提が同時に特殊な小前提をみずからのうちに含むのと同じように、矛盾したことなのである。

ところでほかの二つの国家体制も、民主制と同じような統治形式になる可能性を残しているかぎりでは、欠陥のあるものではあるが、それでも代議的なシステムの精神にかなった統治方式に近づくことはできる。たとえばフリードリヒ二世は少なくとも次のように語ったことがある――「朕は国家の最高の従僕にすぎない」と。これに対して、民主的な体制では、すべての人がみずからの意志の主人であろうとするために、このようなことは不可能なのである。

だから国家権力にかかわる人格の数、すなわち支配者の数が少なければ少ないほど、そして支配者が代表する国民の数が多ければ多いほど、国家体制はそれだけ共和的な体制の可能性に近づくのであり、漸進的な改革をつうじて、いずれは共和的な体制にまで高まることが期待できるのである。このためこの唯一法的に完全な体制に到達する可能性がもっとも高いのは君主制であり、貴族制では実現が困難になり、民主制では、暴力による革命なしでは、実現不可能なのである。

しかし国民にとっては、統治方式の違いのほうが、国家形態の違いよりも比較にならないほど重要な意味をもつのである(もっとも共和体制を実現するためにはどの統治形式が適しているかを決めるという目的では、国家形態の違いも重要となる)。ところで法の概念に適った統治形式は、代議制だけである。共和的な統治形式が機能するのは、代議制においてだけであり、代議制なしではその国家体制がどのようなものでも、専制的で暴力的なものとなるのである。古代の共和国はこのことを知らなかったので、つねに悪しき専制へと堕落せざるをえなかったのである。専制政治のうちでは、ただ一人の元首のもとでの専制が、もっとも耐えやすいものだからである。

2017年9月24日

『朝鮮史のしるべ』 (朝鮮総督府)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:20

記事タイトルを見て、「うん?」となった方も多いと思います。

著者名は本書のどこにも記載が無い。

そして何より、出版者名を見て、「???」となるでしょう。

実はこれ、戦前、昭和前期に出版された古書である。

何でこんなものを取り上げたのかと言うと、神谷不二『朝鮮半島で起きたこと起きること』(PHP研究所)でその存在をかなり以前から知っていたから。

われわれが「一衣帯水」の隣国のことにうといといえば、その最たるものは歴史ではあるまいか。そもそも、現在わが国には古来からの朝鮮半島の歴史を知る恰好な本がほとんどない。いまは国会図書館の分室という形になっている東洋文庫には、東アジア史なら何でもござれという秀れた研究者が何人かおられるが、このかたがたに尋ねてみても、朝鮮通史の書物はきわめて少く、いちばんいいものといえばいまもって、朝鮮総督府から昭和十一年に発行された『朝鮮史のしるべ』にとどめをさすということである。ちなみに、この本は、そのメリットのゆえに第二次大戦後ユネスコ日本支部で翻訳されたが・・・、朝鮮総督府発行の書物を韓国独立後になって国際化するとはなにごとであるかと韓国側からクレイムがつき、結局、製本はしたけれど配布はしないまま全冊オクラになってしまったという後日談がある。

どの国にもあてはまることだが、韓国の場合にも、現地を訪れて人間や自然にじかに触れれば触れるほど、韓民族の民族性といったものを感ずる。民族性といった曖昧な概念では説明にならないという人もあるかもしれない。しかし、戦後マルクシズムに代表されるような、とりのガラみたいな骨格を示すことが歴史「科学」だとして満足できる人ならばともかく、歴史というものを、骨を包む肉の形や色やさらには体温をも含む、いっそう人間的なものとして理解する立場からすれば、民族性という概念は十分有用で不可欠な道具であろう。民族性なるものはいうまでもなく地理的環境と歴史的伝統が織りなした複合体であるが、韓民族の場合われわれはとりわけ歴史的理解の貧困に悩むのである。

・・・・・この小著は日本統治時代に朝鮮総督府の名によって刊行されたものではあるが、執筆者(表に出ていないが実際にはわかっている)の見識からいっても、またユネスコが翻訳を行ったことに徴しても、その内容は概して確かなものであるといってよかろう。

以上の記述から、長年興味は持っていたものの、もちろん図書館でも見つからず、個人的な「幻の書」だったのだが、ある日、行きつけの古書店の均一本コーナーで、わずか数百円の値でころがっているのを発見し、驚いて即座に購入。

本文150ページ余りの小史であり、表記が古いにも関わらず、通読は容易。

コンパクトな通史として、便利ではある。

ただ、内容的には、当然時代的な偏りはある。

「檀君神話」を完全に割愛していたり、三国時代以前は高句麗・日本の南北二国対立時代だとして、古代における倭の軍事的優勢を強調し過ぎている印象があったり(ただし「任那日本府」という表現は一箇所だけ)、近現代においては、もちろん日本の植民地統治を正当化する視点が貫かれている。

今日から見ると、これらは中庸を得た視点とは言えないだろうが、しかし、知性のカケラも無い、醜悪な民族差別をナショナリズムと詐称し恬として恥じない、品性下劣極まる、昨今の嫌韓本に比べれば、はるかにマシである。

古代と近代の一部を除くと、ごく標準的な通史として、現在でもひとまず使えると思う。

(もっとも、74ページに「・・・完顔部の耶律阿保機は諸部統一の業を成して、國を建てて金といひ、南に下つて契丹を討たんとし、それにつけては、高麗との和親にことさら意を用ひました。」という、我が目を疑う誤記があったが。)

もちろん、上記で引用した神谷氏の論文が書かれたのは1970年であるから、それ以後現在まで刊行された朝鮮史・韓国史の蓄積を考えれば、その評価がそのまま通用するわけではない。

しかし、朝鮮カテゴリにある通史を眺めても、「決定版」と言える本はなかなか無いことも事実である。

30冊で読む世界史では、迷った挙句、岡崎久彦『隣の国で考えたこと』(中公文庫)を挙げたが、今のところ、水野俊平『韓国の歴史』(河出書房新社)を基本に、金素雲『三韓昔がたり』(講談社学術文庫)同『朝鮮史譚』(講談社学術文庫)でエピソード的史実を補強する、というのがベストか、とも思う。

高校世界史レベルで出てくる(前近代の)朝鮮史上の人物は、広開土王(好太王)、王建、李成桂、世宗、李舜臣くらいだが、他に赫居世、朱蒙、温祚、乙支文徳、金庾信、甄萱、弓裔、李資謙、金富軾、鄭仲夫、崔忠献、といった辺りの人物名と大まかな事績がすぐ思い浮かべばよい。

(『隣の国で考えたこと』は、戦後左翼が北朝鮮にほぼ無批判で、韓国の「非民主性」を非難していた一方、保守勢力が韓国の朴正熙政権を支持していたという、書かれた時の時代状況と、著者晩年の政治的姿勢との齟齬が大き過ぎるので、復刊は難しいのかもしれないが、是非再び新刊ルートで販売してもらいたいと思う。中央公論には復刊・再版してもらいたい本が色々ありますが、これは相当優先してもらいたい本ではあります。)

 

 

 

もちろん、無理して入手して読むほどの本ではない。

私の個人的思い入れから、記事にしたが、まあそれだけです。

2017年9月15日

エーリッヒ・フロム 『自由からの逃走』 (東京創元社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:46

ウィリアム・コーンハウザーの言う「民主主義的大衆批判」の代表格。

書名自体は極めて有名。

 

 

第一章。

近代ヨーロッパは外的権威を排除し、自由を拡大し、政治的デモクラシー、経済的自由主義、宗教的自律、生活上の個人主義を達成してきた。

だが、20世紀においてファシズムを支持した民衆は、その自由を熱狂的に捨て去り、煽動的支配者に自発的に服従した。

これを、邪悪な少数者の悪魔的策謀のためとするのは無意味であり、民衆の心理学的分析に真因が求められなければならない。

その分析においては、全てを個人の心理的状況に還元することも、社会現象の説明から心理学的要素を全く排除することも、共に排されるべきであり、個人と社会の相互作用が重視されるべき。

 

 

第二章。

子供が親から自立していく場合と同じように、近代化の進展において、社会から個人が自立していく過程で、自我と自由を獲得すると同時に孤独と不安の感情が諸個人の間に広まる。

様々な共同体との「第一次的絆」が個性化によって失われた後、個人が安定した人格を確立する為には、「・・・・からの自由」という消極的自由から「・・・・への自由」という積極的自由へと移行し、他者との愛情と連帯、建設的仕事という能動的行為に飛躍する必要がある。

だが、それを成し遂げられなかった人間は、孤独と不安に耐えかね、自由自体を放棄し、権威主義的支配者に狂信的に服従するようになってしまう。

 

 

第三章。

中世の対照的評価について。

個人的自由が欠如し、固定的階級に縛られ、物質的進歩は乏しかったものの、各人が明確で固定した地位を保ち、安定感と帰属意識が与えられ、過度の経済競争を規制することで一定の生活は保障され、神という絶対者の前での平等が説かれていた。

中世末期からルネサンスにかけて、それが変化し、教会を中心とする伝統的権威の束縛から脱した近代的個人が出現する。

経済活動の活発化によって、ごくわずかの資産家が勃興し、従来の門閥貴族と結合して新たな上流階層を形成、自由を得た彼らはルネサンス文化の華を咲かせる。

だが、権威の衰退と自由の拡大、自己中心主義と物質主義が広まり、同時に孤独と不安も蔓延するようになった社会で、その成果を享受し得た階層はあくまでごく少数だった。

都市中産階級と農民は、経済活動の自由化によって物質的に困窮し、教会の精神的支柱が失われたことで心理的不安定にも陥っていた。

本書ではルネサンスと宗教改革の精神を区別し、前者は近代初頭において優位な地位を享受し得た上流階層のものだったのに対し、逆に後者を経済的不安定に投げ込まれ、精神的にも孤独、不安、動揺、無力感に苛まれるようになった中産階級の反応の産物だとしている。

共同体と階層性の枠組みの中においては、一定の自由を認めていた中世社会の構造と対応するように、精神的にもカトリック教会は、神の恩寵の働きという大前提を認める限りにおいて、個人の善行と自由意志の重要性も認めていた。

それに対し、ルターは人間の根源的な悪と無力を強調し、自己を放棄し、神の恩寵にひたすらすがることによってのみ、救いは得られると述べる。

これが、伝統的信仰が衰退した後、心理的空白が生じていた、当時の中産階級の不安と懐疑に満ちた精神を(無意識的に)満たすものであったがゆえに、ルターの教義は熱狂的に迎えられた。

ルターがドイツ農民戦争に示した敵意も、上流階層に対しては嫉視と反逆の意識を持っていた中産階級が、下層階級の革命運動へは強い脅威を感じていたことの反映だ、と著者は解釈する。

伝統的権威を憎みつつ、心理的空白を満たすため、新たな権威に服従しようとするルターの傾向は、教皇制度に対する反逆と対照的な世俗的権力への服従の姿勢にも表れている。

(本章のこの辺の筆致は、プロテスタンティズムをはっきりとファシズムの先駆と見なすような評価が見られる。だが、正直よりファシズムに近いのは、農民戦争の最急進派のような下層階級の過激派ではないのか、との感想も持った。)

ルターがドイツにおいて果たしたのと同じ役割を、アングロ・サクソン諸国で果たしたのがカルヴァン。

カルヴァンも同様に自我の否定と人間的プライドの破壊を徹底的に唱える。

その象徴が、有名な予定説。

誰が永遠に救われ、誰が地獄の業火で永遠に苦しむのかは、神が一方的に決定することで、人間の意志や行動が影響することは一切ないという思想。

建前上全ての人々の救済可能性を掲げたカトリック教会に対し、カルヴィニズムは人間の根本的不平等を説く。

世俗的成功が救われる「徴」であるとする考えから(主観的教義においては決して「原因」ではない)、勤勉・節約の生活態度が生まれ、それが資本主義の発達につながったという、マックス・ウェーバーの説は高校世界史でも出てきます。

本章におけるプロテスタンティズムは、近代の自由の幕開けに際し、物質的かつ精神的な、両面の不安定に襲われるようになった中産階級が、真の連帯と協力を成し遂げることが出来ずに、無意識のレベルで自己と自由の放棄と新たな権威への服従を求めて生み出したもの、という叙述であり、決して肯定的に評価されてはいない。

 

 

第四章。

近代的自由の進展で、外的権威から解放された個人が、その自由を積極的に活用する術を知らず、いかなる信念も持てず、言論・思想の自由の下で、匿名世論などの新たな外的権威に屈するようになった。

自分自身の人格も「商品」と同じように、他者の人気と評価に全面的に依存するようになる(そしてその他者評価自体が歴史的伝統に支えられるでもない、ほんの一時の気分程度の存在に過ぎない)。

カトリック教会から人々の魂を解放した、プロテスタンティズムの精神的個人主義は(その表面上の現世的利己主義否定にも関わらず)、資本主義社会の経済的個人主義が広まる為の心理的準備を提供した。

過当競争と資本主義の独占化傾向によって、諸個人の孤独と無力感は強まり、方向性を失った大衆は、全体主義国家における指導者への服従か、民主主義国家における画一的商業大衆文化への没入か、のどちらかへと転落する。

 

 

第五章。

消極的自由によって、前近代的な絆と権威から解き放たれた個人が、積極的自由に向かうことが出来ず、不安と孤独に耐えかね、自我と自由を放棄し、新たな権威と支配者への盲従に逃避するメカニズムを、著者は三つの面から分析。

まず、「権威主義的性格」。

孤独を解消し、自己と他者を無理やり「共棲」させる為に、劣等感と自己卑下を徹底し、新たな強者と権威者に心理的に一体化し、服従するマゾヒズム的傾向と、逆に自己より下位にある弱者を支配・虐待し、苦しめることを通じて一体性を確立しようとするサディズム的傾向。

このサド・マゾ的傾向を合わせて、著者は権威主義的性格と名付けている。

「権威者への服従」と言っても、それは確固たる自我と独自の信念に支えられているものではないので、一時服従した権威が弱さを見せるようになると、逆にそれを攻撃し、また新たな権威に忠誠を誓うようになる。

次に、「破壊性」。

これはサディズム的傾向と混同されやすいが、サディズムがあくまで被支配者の存在(とそれへの恒常的虐待)を前提とするのに対し、破壊性は他者と外界そのものの抹殺を目指す傾向。

最後に、「機械的画一性」。

外界の文化的鋳型に自己を嵌め込み、その典型的パーソナリティを受け入れ、外界との矛盾を消滅させるもの。

これによって、個人は自動人形に近いものとなり、他者からの暗示と煽動で与えられたものを、自分自身の意志・思考・行動であると、誤認したまま、何の疑問も持たなくなる。

 

 

第六章。

ナチス・ドイツにおける自由放棄の実態分析。

ナチズムは、経済的社会運動の分析だけでも、心理学的分析だけでも、理解することが出来ず、その両者を総合することによってのみ、真実が得られると著者は主張。

ナチズム支持の中核となった下層中産階級が、元々優位な立場にある資本家とユンカーの上層階級と組合組織に守られた労働者階級の間に挟まれ、君主制崩壊によって心理的安定をもたらしていた精神的権威を失い、大戦後の経済的社会的混乱の中で、最も不満と不安感を募らせ、宗教改革時代の中産階級と同じ立場にあったことを指摘。

 

 

第七章。

自由民主主義諸国においても、権威主義的性格、機械的画一性など、「自由からの逃走」が見られることを自省する必要性を述べる。

まとめとして、以下の文章を引用。

われわれの願望――そして同じくわれわれの思想や感情――が、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。

近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食になっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。

この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感じる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。

このような事態を克服する為、著者は、真に対等な諸個人間の愛情と連帯と建設的仕事による積極的自由と、理性だけでなく感情も含めた全的統一的パーソナリティの発現、そしてその基盤となる民主主義的社会主義の体制が必要だと説いて、本書を終えている。

 

 

なお、続いて「付録」の章があり、そこでは本書の説明原理であるフロムの社会心理学が、フロイトの心理学的接近、マルクスの経済学的接近、ウェーバーの観念論的(イデオロギー的)接近の総合であることが述べられている。

 

 

終わりです。

この記事は、あまり巧くまとめられなかったかもしれない。

もう少し引用したい文章もあったんですが、面倒なんで止めました。

全体的内容は・・・・・それほど面白くない。

「積極的自由」の実現、と言われても、私を含め、圧倒的多数の人間にそれを成就する能力があるとは到底思えない。

本書に限らず、「民主主義的大衆批判」は、議論が空転している感が否めない。

大衆にかんする私の精神主義的な定義はいわゆる保守的懐疑主義の影響を明らかにうけている。つまりそれは、今なお西欧においてその残響を微かながら耳にすることのできるような、E・バークA・ド・トックヴィル流の考え方に想を発している。しかし、財産や教養の量によって選良と大衆を区分するのではないという意味で、私のはW・コーンハウザーいうところの“貴族主義的”な大衆論とは異なっている。財産や教養はすでに大衆の取得するところとなったのであり、したがって懐疑されるべきはそれらの質であると思われる。また、いうまでもないことかもしれぬが、私の定義はコーンハウザーのいう“民主主義的”な大衆論から遠く離れている。ナチズムやスターリニズムの全体主義にたいして民主主義(デモクラシー)を擁護するE・レーデラーS・ノイマンは、民主主義のありうべき頽廃(デモクラティズム)にたいする警戒が少なすぎる。さらに、この種の大衆論のひとつの系であるM・ホルクハイマーやE・フロムの考えは、自由からの逃走および権威への服従を批判するという点については首肯できても、自由を積極的に発動する人間の資質についてまで、したがって自由によってもたらされうる混乱や抑圧についてまで深くは論及していない。逆にいえば、大衆にたいする民主主義的(および自由主義的)な批判者たちは、権威に依拠して大衆を操作する政治階級として選良を定義するのであるが、そうした操作じたいが大衆の自由で民主的な要求に根差しているという可能性、もっといえば政治権力がすでに大衆によって簒奪されているという可能性について考慮を払っていない。

西部邁『大衆への反逆』より)

人類が向かうべきだったのは、「積極的自由」の実現ではなく、「第一次的絆」の回復だったのではないか。

もちろん前近代への全面的な立ち返りなど、完全に不可能であるし、望ましくもないでしょうが、たとえその残像であってもそれを追い求め、意図的に保存し、失われたものを哀悼するという姿勢こそが必要と思われる。

 

本書を読んだ後、現在の日本を顧みると、いろいろ思うところがあります。

現政権のやることなすこと全てを肯定し、その指導者を崇拝せんばかりに礼賛し、皇室すらその下位に置くような態度を平然と示し、ネットを中心に資本によって巧妙に制御されたメディアの煽動に完全に乗せられたまま、ごくわずかの富裕層だけを利して自身がその恩恵に与る見込みなど全く無いようなネオリベ的政策を熱狂的に支持し、その隠れ蓑に過ぎない醜悪な排外的ナショナリズムを狂ったように喚き立て、反対者を全て「左翼」「反日」などと空疎なレッテルを貼って誹謗中傷と罵詈雑言の対象とし、社会的弱者やマイノリティーにも同様の暴言を浴びせ、それがもたらす卑しいサディスト的快楽を唯一の報酬として自己満悦に耽る、暴民に等しいゴミクズ以下のネット右翼を見ていると、本書における「権威主義的性格」と名付けたくなる気持ちも分かります。

もう10年以上前から、衆愚層が自身の醜行を正当化する為に使うお題目が、左翼教条主義から幼児的な排外的ナショナリズムに変わっているのに、それに対して一切警戒も批判も示さないような「保守勢力」と「右派文化人」を私は心の底から軽蔑するようになりました。

20年前なら、間違いなく馬鹿左翼の戯言を口にしていたであろう、知能程度が異常に低い上に、誹謗中傷と罵詈雑言で他者を傷つけ、虐げ、差別したいという卑劣極まりない欲望を自制することが出来ず、その醜い欲望自体が目的であることを隠蔽する為に(かつては左翼の、現在は右翼の)政治的言説を偉そうに述べ立てる、劣悪な精神的(すなわち言葉の真の意味での)賤民が、白痴に等しい能無しの分際で、政治的事象など実際には何一つわかりもしないくせに、本来享受する資格も無い言論の自由を徹頭徹尾悪用し、呆れるほど単純・低劣な「右派的」政治スローガンを喚き立てている。

私にとって、現在のネット右翼(ネット保守)とかつての左翼は、イデオロギーを裏返しただけで、その愚昧・劣等・卑怯・醜悪な害虫ぶりは完全に同じものです。

「左翼批判」を大衆煽動の最大の梃子にしているネット保守自体が、左翼と同様の衆愚集団(「自分には批評性があると思い込んでいる軽信者」)に過ぎない。

引用文(内田樹7)

 

 

同じ流儀の口実や同じ態様の害悪を二つの時代が持つことは滅多にありません。人間の邪悪さはもう少し発明の才に長けていて、人が流儀を論じ合っている間にもその流儀は過ぎ去ってしまいます。まさに同一の悪徳が新しい姿を装うのです。悪徳の精は生れ変り、外見の変化によってその生命の原動力を喪失するどころか、新しい器官を得て、新たに青年の行動の如き新鮮な活力を恢復するのです。人が死体を晒し者にし、墓を発いている間にも、それは大手を振って歩み、破壊を続けるのです。家が盗賊どもの棲家になっているというのに、人は幽霊やお化けを勝手に恐がっています。

歴史の貝殻や外皮にだけ目を奪われながら、しかも自分は非寛容や高慢や残酷さと戦っているのだ、と思っている人間は皆このようなものです。彼らはその一方で、時代遅れな徒党の悪しき原理に対する憎悪という彩の下に、同じ唾棄すべき悪徳を別の―しかも恐らくはより一層悪い―徒党の中に是認し涵養していることになるのです。

引用文(バーク1)より)

 

 

左翼に属することは、右翼に属するのと同様、人が愚かになるために選択しうる無限にある方法の一つである。

つまり、両者はあきらかに、精神的半身不随の形態である。その上、こうした呼び方を固執していることが、それ自体すでに偽りである今日の実状を、なおいっそうゆがめるのに少なからず貢献している。というのは、今日、右翼の連中が革命を約束し、左翼の連中が専制に傾斜しているという事実が示しているように、政治的体験は曲芸的な宙返りを演じているからである。

・・・・・

全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。

もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵――要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。

政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である。

誰かが、われわれに政治上の立場を尋ねたり、また、今日横行しているあの図々しさを持って先手を打ち、われわれの立場を規定するようなことがあれば、われわれは答える代わりに、その無礼者に対し、彼が人間や自然や歴史といったものをどのように考えているのか、社会や個人集団や、国家や慣習や法とは何であるかと逆に質問すべきである。

今や政治は、あらゆる人間を黒一色に塗りつぶすために、急いで光を消そうとしている。

・・・・・

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?

前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。

それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。

だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

オルテガ『大衆の反逆』より)

 

現下の醜い右派的ポピュリズムを阻止する為に、私はかつて自分が毛嫌いしていた、左派・リベラル的な人々とも協力しなければいけない、とこの数年切実に感じています。

しかし、「権威主義的性格」の右派が登場してくる前には、「本物の権威」の破壊があったはずです。

一切の階層的身分を認めず、個人主義と平等主義を徹底し、自由で自立した原子的個人だけが社会に存在すべきであり、その個人はいかなる伝統や常識に囚われることなく、完全な言論の自由を享受して、何の制限も無く自己の意見を形成し、表明すべき、との考えの下、戦後数十年間左翼的偏向が続いた後、世紀が変わるあたりで、時流の変化に迎合し、多数派の大衆が右派的ポピュリズムに没入することになり、今の状況があるわけです。

そして、左派の人々が自らの正当性の根源と考えているらしい、戦前日本の破滅も、その「非民主性」がもたらしたものではなく、全く逆に、現在眼前に見ているような極右的煽動に乗せられた暴民世論の支配によるものです。

さらに、戦後数十年にわたって、左翼勢力はまさに現在のネット右翼のように驕慢至極の振る舞いをしていたことも断固として指摘し、現在のリベラル派の人々に釘を刺しておきます。

「第一次的絆」の破壊を良しとしてきた左派・進歩派の人たちにも、少しは反省してもらいたいです。

 

近い将来、日本が滅びるとすれば、おそらく反天皇制を掲げる人種主義的・排外主義的極右ナショナリズムの蔓延によるものでしょう(あるいはそれを匿名の影に隠れて秘かに煽動しつつ、その後救世主づらで登場し全てを支配することを目論む新自由主義者と腐敗を極める富裕層)。

その兆候は十年以上前から、すでにはっきりと現れています。

一部の皇族方を白々しく持ち上げる一方で、それを免罪符にしたつもりで、皇太子御夫妻と愛子内親王におぞましい限りの誹謗中傷を延々と浴びせかける、強烈な悪臭を放つ醜い害虫どもがそれです。

(バッシングの対象を入れ替えただけの奴等や、すでに皇室全体を攻撃対象にしているゴキブリ以下のネトウヨも同様。)

そんな奴らの真の「欲望」が何なのかは明白です。

私には、ネット右翼に迎合する現代日本の保守派が、ナチと連携したワイマール・ドイツの保守帝政派と二重写しに見えます。

しかし、もうそこまで来たら、邪悪な存在と共に国全体が滅びるのが唯一の救いかもしれません。

 

 

極めて有名な古典ですから、一読しておくのは悪くない。

書名自体は学生時代から知ってましたから、読了して、長年の宿題をやっとやり終えた気分になりました。

20世紀大衆社会論の代表作であることは間違いないので、読んで損は無いでしょう。

2017年9月13日

ストリンドベリ 『恋の火遊び 令嬢ジュリー』 (中央公論事業出版)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:24

高校教科書ではゾラ、モーパッサン、イプセンと並んで自然主義文学者として名前が出てくるストリンドベリだが、文学全集への収録を除けば古い訳本しか無いと思っていた。

だが、調べてみると、2005年にこの本が出ていたことを知る。

ストリンドベリはスウェーデンの作家で、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動。

本書の訳者は文学関係の人ではなく、元駐スウェーデン大使とのことで、ちょっと「うん?」となったが、訳文自体は極端に不自然だったり、全く意味の通らないところは無かった(たぶん)。

収録作のうち、「恋の火遊び」は、ある夫婦と友人を中心とするいくつかの三角関係の連鎖を描いたもので、特にどうと言うこともない。

だが、「令嬢ジュリー」の方は、極めて印象深い。

伯爵令嬢と使用人、料理女という、たった三人の登場人物で、男女の愛憎、身分・階級をめぐる葛藤を、これでもかというくらい鮮やかに描き出している。

さすが高校教科書にも代表作として載っているだけのことはある。

二作あわせても150ページ足らずなので、あっという間に読める。

「令嬢ジュリー」単独の新しい翻訳が見当たらないので、この本の価値は十分ある。

これだけでも読んで、著名文学者の名を読了リストに増やすのもいいでしょう。

2017年9月8日

ジョン・バイロン ロバート・パック 『龍のかぎ爪 康生  上・下』 (岩波現代文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 05:14

中華人民共和国、中国共産党の公安・秘密警察関係を牛耳った最高幹部康生の伝記。

1898年山東省膠州湾近くの地主の家に生まれる。

五・四運動に影響され、急進的ナショナリズム思想を抱き、のち江青と改名して毛沢東夫人となる李雲鶴と知り合う。

上海大学に通い、1925年共産党加入。

同年、五・三〇事件に参加。

続いて、北伐軍に呼応した暴動を成功させるが、1927年上海クーデタに遭う。

以後、上海で国民党と血で血を洗う暗殺テロの応酬を繰り広げる。

共産党指導者は、陳独秀が解任された後、瞿秋白、向忠発、李立三とめまぐるしく替わり、1931年王明が事実上のトップとなる。

モスクワ留学組で親ソ派。

康生は巧みに主流派に乗り、共産党秘密警察の実力者に。

1933~37年王明と共にモスクワ滞在。

瑞金には行かず。

大粛清の最盛期に邪魔者となる中国人同志などを密告して生き残る。

1937年延安に帰国するや、毛沢東に乗り換え、王明派を徹底攻撃。

毛と江青の結婚を擁護。

1942年整風運動発動。

これはどう考えても粛清と言うしかない、ヒステリーじみた迫害であって、他の共産国と違う牧歌的な思想改良運動と言うことはできない(私が若い頃はまだそんな解釈がまかり通っていました)。

権力の座を完全に固めた毛の側近となるが、日中終戦から国共内戦の時期には、ややその権勢は後退。

一時公安関係から離れ、内戦勝利前の土地改革に従事。

地主階層に対する最も残酷で強硬な措置を命令。

上巻末尾の書誌に、ある共産党活動家夫妻の話が載っている。

日本軍に二人の姉を陵辱された夫が、国民党に妻を殺され、しかも地主出身の両親に自身の双子を預けていたが、激烈な土地改革闘争の中で、その子を共産軍が井戸に投げ入れて殺したのを知り、共産主義にも絶望する、という悲痛極まりない事実が記されている。

建国後は数年間表舞台から退き、実権を失うが、部分的自由化措置「百花斉放」に続く弾圧である「反右派闘争」の過程で復活。

破滅的な結果をもたらした「大躍進」政策も支持。

中ソ対立では徹底した対ソ強硬派として振舞う。

同様の立場を鄧小平も取っていたが、このことは改革開放期になると隠されることになる。

「大躍進」政策による経済破綻を受けた、調整政策の主導者は、劉少奇、周恩来、鄧小平、彭真だが、対ソ方針については、前二者と後二者の間には溝があったようだ。

60年代前半、文化大革命前夜にも康生はイデオロギー闘争とそれに伴う迫害を引き起こそうと、毛の意に迎合しそれを煽る。

その被害者の一人として、現最高指導者習近平の父習仲勲の名が挙がっている。

文革を江青、林彪と共に指導。

汪東興、謝富治らを使い、公安部門を再度掌中に置く。

70年頃、毛と林の間の齟齬を見てとるや、穏健派唯一の支柱となっていた周恩来と協力し、71年林は失脚、逃亡中事故死。

しかし、この頃から康生は癌に冒されはじめる。

その後の周と江青ら四人組との権力闘争で、最晩年に判断が不安定になっていた毛が一時的に周支持に傾くと、驚くべきことに康生は、江青の過去の国民党スパイ疑惑を再び取り上げ、この盟友を裏切ろうとしていたという。

一方、現実主義実務派で、73年復活し、周の片腕となっていた鄧小平への批判・攻撃も準備する。

同73年には康生自身副主席となり、形式的序列では毛・周に次ぐ第三位になるが、病が進行し、75年12月死去。

周の死、(第一次)天安門事件、鄧再失脚、毛死去、四人組逮捕、と建国以来最大の激動に見舞われた1976年を迎えることなく死んだ。

もう少し康生が寿命を保っていたら、どうなっていたか?

これほどの悪行を為した人間が、それにふさわしい裁きと断罪を受けなかったのは残念であるが、後に鄧小平体制下で党総書記となった胡耀邦は、康生が生きていれば四人組は逮捕できなかったのではないか、と述べていたという。

さらに恐ろしい可能性として、康生自身が最高指導者の地位に就く可能性すらあったという見方もある。

周が毛より長生きして最高位に就き、四人組・康生を一網打尽にするのがベストだっただろうが、そうはならなかった。

だが著者の推測では、もし76年に生きていれば康生は四人組を打倒する側に加わっただろうと言う。

その場合、現実には汪東興が果たした役割を康生が果たすだけになる。

ほぼ唯一失脚しなかった将軍で軍長老の葉剣英が中心となり、華国鋒(毛死去直前に指名された後継者)と汪東興ら文革右派(もしくは非上海グループ)と協力して、文革左派(上海グループ)の四人組を打倒した。

77年復活した鄧小平が、翌78年には完全に実権を華国鋒から奪い、改革開放路線を確立。

その過程で汪は失脚したものの、極端に厳しい断罪は免れた。

康生も恐らくそうなっていただろう、というのが著者の見方である。

 

 

原著は1992年刊と割と古い(第二次天安門事件は起こった後ではあるが)。

これ以外、まあ日本語で読める伝記は無いでしょう。

中国共産党の権力闘争のあらましをわかりやすく知ることはできる。

ただ、気軽な読み物といった感じで、あまり学術的に思えない印象もある。

余裕があれば一読して下さい。

損はしないと思います。

2017年9月6日

マキアヴェッリ 『君主論』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:12

これも極めて有名な著作ではあるし、読んでおいた方がいいのは間違いないでしょう。

以前中央公論「世界の名著」シリーズで一読済み。

この1998年刊の新訳では、本文は200ページ弱で、全体の半分ほど。

一章の分量が少ないので、さらに読みやすい。

しかし、面白くない。

(表面上の)「権謀術数主義」、「政治の倫理からの自立」、「近代政治学の確立」といったようなことが読み取れないわけでもないが、初心者が興味を持つような内容ではない。

例として挙げられている古典古代や近世イタリア史の史実に即ピンとくる人は、極めて少ないでしょう。

それを通じて語られる思想にも、感銘を受けるような部分はほとんど無かった。

有名な古典をこなしただけで良しとします。

2017年9月2日

アルベール・カミュ 『ペスト』 (新潮文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:40

アルジェリアのオラン市がペストの流行に襲われ、市全体が閉鎖・隔離される。

次々と病魔に斃れる市民を前に、奮闘する医師とその仲間たちを描く。

その事態を、かつてのように神による懲罰として受動的に受け入れるのはもはや不適切であり、信仰の有無に関わらず、狭いイデオロギーに拘ることもなく、全ての人々の連帯によって立ち向かわなければならないことを示した作品。

「ペスト」というのは様々な社会悪の象徴なんでしょうが、それが外部からもたらされた害悪という印象を受けるのがやや不満だなと思っていたら、医師の盟友がそれに関することを話すシーンが出てきた。

私ごときが思いつくことを、この偉大な作家が考えない訳がない、とやや赤面しました。

登場人物の思想についてよくわからない部分もあったが、解説を読むと、ああそういうことか、と思えないでもない。

これは『異邦人』に比べて、まだ初心者でも分かりやすいか。

少なくとも私はそう感じた。

もちろん私の能力では十分にその真価を理解したとは言えないが。

まあ、教科書にも載っている代表作を読めて良かった。

しかし、カミュもこれで「打ち止め」です。

『転落』『追放と王国』『シーシュポスの神話』等、他の作品を読むことは、この先まず無いでしょう。

でも戯曲の『カリギュラ』はひょっとしたら読むかなあ。

2017年8月29日

ジルベール・トラウシュ 『ルクセンブルクの歴史  小さな国の大きな歴史』 (刀水書房)

Filed under: オランダ — 万年初心者 @ 04:01

ベネルクス三国の中の一国だから、オランダカテゴリにまた追加できる。

中世の封建諸侯国家が国民国家の中に吸収されず、現在も主権国家として存続した例。

似た国としては、さらに小国として、スイスとオーストリアの間にリヒテンシュタインがある。

963年アルデンヌ伯爵家の初代ジークフロイトが現在のルクセンブルクの地を入手したのが建国の起源とされる。

アルデンヌ家で最も有名なのは、第一回十字軍のゴドフロワ・ド・ブイヨン。

そこからしばらく系図が続き、1308年アンリ伯が神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世として即位、ルクセンブルク朝が成立。

子のジャン盲目王が、百年戦争で仏軍に加わり、クレシーの戦いで戦死。

ジャンの子カール4世と孫のジギスムントが帝位に就くが、ルクセンブルク家はここで断絶。

なおジギスムントは、一時自領だったが、重要性が薄れたベルリンを含むブランデンブルクをニュルンベルク城主のホーエンツォレルン家に譲渡しており、これがプロイセンの基となる。

ルクセンブルクは抵当に入れられ、結局ブルゴーニュ公爵家の手に入る。

ブルゴーニュ公シャルルの戦死で、娘との婚姻関係からルクセンブルクを含むネーデルラントはハプスブルク家領に。

オランダ独立後も、ベルギーと共にスペイン・ハプスブルク家支配下に留まる。

で、スペイン継承戦争で、スペイン本国がブルボン朝となる代償として、ヨーロッパの他の領土と共にオーストリア・ハプスブルク家に割譲。

フランス革命時代に併合されるが、ウィーン会議で大オランダ王国の一部に(ただしオランダ君主との同君連合国家として、ルクセンブルク単独でドイツ連邦に加盟)。

1830年ベルギー独立革命が起こると、それに同調する気運が高まるが、結局列強の介入で、ルクセンブルクの西側三分の二のフランス語圏が独立ベルギーの一部となり、東側三分の一はルクセンブルクとなり、オランダとの同君連合国家を維持。

ドイツ関税同盟に加入、製鉄業の発達で経済は大きく飛躍を遂げる。

1867年国際会議で永世中立国化。

1890年オランダで女王が即位すると、女系継承の規則が無いルクセンブルクは同君連合を解消、分家のナッサウ・ヴァイルブルク家が大公として即位、これが現在まで続いている。

二度の世界大戦では、ドイツに占領された。

戦後は中立政策を放棄、NATOに加盟、ECSC・EEC・EC・EUなどヨーロッパ統合にも積極的に参加している。

以上の経緯だけ、ざっと確認すればよい。

細かい固有名詞や史実にはこだわらず、軽く流しましょう。

2017年8月27日

O・ヘンリー 『1ドルの価値 賢者の贈り物  他21編』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 00:58

岩波文庫の作品集を読んだのが学生時代で、かなり記憶も薄れていると思ったので、これを読んだ。

しかし、読んでいてすぐ筋を思い出す作品もあるし、オチが予想できるものもある。

ではあるが、やはり「千ドル」や「甦った改心」はしみじみと来るし、「赤い族長の身代金」は楽しい。

文学的価値云々を言うのは野暮でしょう。

しかし、私にとっては、こうした作品が心から楽しめるものであることに間違いないです。

2017年8月22日

鷹木恵子 編著 『チュニジアを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 03:42

このシリーズで引き続きアフリカ史を強化するつもりで手に取ったが、考えたらこの国はカテゴリとしてはイスラム・中東か。

 

北アフリカで、東はリビア、西はアルジェリアに挟まれた国。

地図で見ると、本当に「挟まれた」感が強いです。

首都はチュニス、古代都市カルタゴの遺跡があることでも有名。

他の主要都市はカイラワーンなど。

もちろんスンナ派イスラム教徒が98%と圧倒的多数。

民族的にもアラブ人が98%。

ベルベル人は1%のみ。

私は勘違いしていたが、他のマグリブ諸国(アルジェリア、モロッコなど)でもベルベル人は2~4割ほどらしい。

 

イスラム化以後の歴史としては、まず800年アグラブ朝がアッバース朝から自立。

909年にアグラブ朝を滅ぼし、有名なシーア派政権ファーティマ朝が建国。

ファーティマ朝がエジプトを征服した後、スンナ派のズィール朝がカイラワーンに成立、ファーティマ朝と戦い、11世紀から分裂割拠の情勢となる。

1149年西からムワッヒド朝が侵入・占領。

1228年その総督が自立、ハフス朝成立。

1270年ルイ9世率いる十字軍が侵攻。

ハフス朝はイスラム世界最大の歴史家イブン・ハルドゥーンを生んだことでも有名。

1574年ハフス朝滅亡、チュニジアはオスマン帝国支配下に入る。

その軍長官が自立して1705年フサイン朝が成立。

これが形式的には独立後の1957年まで続くことになる。

1830年フランスがアルジェリアを占領すると、それに脅威を感じたフサイン朝はオスマン朝との関係を強化するようになる。

タンジマートに倣って、1861年には憲法(ドゥストゥール)も制定。

しかし、1881年フランスが外交・財政権を握り、83年正式に保護領化(教科書的には81年が保護国化の年とされているようだ)。

20世紀に入り、独立運動が活発化、1920年チュニジア立憲自由(ドゥストゥール)党結成。

党内対立を経て、ハビーブ・ブルギバがネオ・ドゥストゥール(新立憲)党を主導。

このブルギバという人名だけは要記憶。

結局、1956年独立達成、初代首相ブルギバ。

翌57年フサイン朝を廃し、共和制移行、ブルギバが初代大統領に就任、この政権が30年続く。

ブルギバ政権は世俗的近代化政策を進め、アラブ世界で唯一の、一夫多妻制禁止の家族法などを制定。

対外的には、一時フランスとの緊張もあったが、資源の乏しさもあり西側諸国との全面対立は避け、東西等距離・全方位外交を展開。

国家主導の統制経済が行き詰まると、逆に経済開放・自由化政策へと揺れ動き、国民の不満が高まる中、70年代末から80年代にかけてイスラム過激派が伸張。

1987年クーデタが勃発、ブルギバは失脚し、ベン・アリ政権樹立、イスラム主義者含む反体制派を強権体制で鎮圧。

だが、政治的抑圧の現実は紛れも無くあるものの、とりあえずは社会の安定と経済の成長をベン・アリ政権はもたらした、と本書では評されている。

 

私が読んだ本書の初版が出たのは2010年と、いわゆる「アラブの春」の直前である。

このベン・アリ政権の打倒こそが「アラブの春」の契機になった。

アラブ諸国の、その後の経緯を見ると、やはり手放しで礼賛するような動きでは無かったのではないか?という思いを禁じ得ない。

無秩序と宗派・党派対立が内戦の危機すらもたらし、それを収拾するために以前の政権よりも強権的な体制が生まれる、という世界史上全ての急進的改革がはまり込む隘路に陥っている。

チュニジアはまだ踏み止まっている方らしいが、リビアなんてあの異常なカダフィ体制の崩壊すら惜しむ人々が出るほどの状況のようだ。

そして何よりシリアの惨状。

ああいう結果になることが分かっていたとして、それでも反体制の蜂起を選択する国民が果たしていただろうか。

もちろんバッシャール・アサド政権の抑圧性は、内戦の前でも後でも歴然としている。

だが、確たる成功の見通しも無しに、それへの反抗を外部の人間が称揚し支援するのは、やはり無責任であると思う。

もちろんカダフィ政権含め、既存の体制がそのまま何の変化も無く続いていれば良かったんだと言うつもりはさすがにありません。

しかし、激情的な民意に基づく急激な変化をとにかく礼賛するような態度は、歴史について何も学んでいないに等しいです。

数年前、湾岸産油国についてのメモという記事で書いたような懸念が当たってしまっている。

 

ネット上のSNSが民意を可視化し、より善き民主主義をもたらす、というような能天気な楽観論(と情報技術産業の利益擁護という隠された意図)を見ると、心底うんざりして、もう人類も長くないなと思います。

民意なり、民主主義なり、自由なりを根本から疑わない限り、近現代の世界史から何一つ学んでいないことになりますよ、と無駄を承知で言わずにおれません。

 

 

このシリーズの使用法は全て同じ。

1.アフリカ、(メキシコ以外の)中米、(キューバ以外の)カリブ海諸国など、通史がまず出ないような国の巻を選ぶ。

2.歴史と現代政治の部分だけを集中して読む。

3.民俗、生活、経済、言語、文化、宗教などの章は興味のあるものだけ読み、後は軽く流すか、全く飛ばしても可。

通読する必要は無し。

それより数をこなすことが大事。

2017年8月20日

モーパッサン 『脂肪のかたまり』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:21

モーパッサンの処女作。

ゾラを中心とする自然主義作家たちが、1880年に刊行した小説集に載せられたもの。

師のフロベールに激賞されたという(フロベールは同年死去)。

普仏戦争中、プロイセン軍占領下で、「脂肪のかたまり」と綽名される娼婦と馬車に居合わせた人々を題材に、人間の卑小極まりないエゴイズムを痛烈に描いた短編小説。

楽に読めて、面白い。

と言っても、後味はかなり悪いが。

モーパッサンは短編小説の名手と言われているが、とりあえずデビュー作のこれを読むだけにしておきます。

2017年8月12日

トロツキー 『わが生涯  上・下』 (岩波文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 04:38

何でこんなもの読もうと思ったんだろ?

1930年刊。

レーニン死後、スターリンとの権力闘争に敗れ、ソ連国外に追放されていた時期に執筆されたもの。

本名レフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン。

ユダヤ人で比較的富裕な中農出身。

マルクス主義革命家として、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの間で独自の立場を取っていたが、十一月革命ではレーニンに従いこれを主導、ブレスト・リトフスク条約を交渉・締結、陸海軍人民委員として赤軍を建設、内戦に勝利。

しかし、1928年スターリンによって国内流刑となり、29年には国外追放。

スターリンの政敵ナンバー1だが、権力闘争初期に国外追放されたおかげで、30年代における狂気の大粛清に巻き込まれず、しばらく生き延びることができた。

だが、1940年には亡命先のメキシコで刺客により暗殺される。

 

トロツキーは本書で自身が革命家となった経緯を記すが、そこで描かれる帝政ロシアの矛盾と抑圧を見て、私自身何も感じないわけではない。

蔓延する汚職と腐敗、農民の厳しい生活、少数民族への差別など。

例えば、印象的な以下の記述。

リュビーモフという歴史の教師が、ポーランド人の生徒に対し、白ロシアとリトアニアでのポーランド人カトリックによるロシア正教徒の迫害について、やけにしつこく質問した。ミツケヴィチという、浅黒い痩せた少年は、すっかり青ざめ、歯を食いしばって立っていたが、一言も言葉を発しなかった。

「うん、どうなんだ」、リュビーモフは、明らかに快感をにじませながら答を促した――「どうして黙っているのかね?」

生徒の一人が我慢できずに言った――「ミツケヴィチはポーランド人でカトリックなんです」。

「ああ・・・・そう・・・・」、リュビーモフはわざとらしく驚いたふりをし、間のびした調子で言った――「だがここでは分けへだてしないことにしている」・・・・。

ここに象徴されるツァーリズムの抑圧性から、その全面的打倒を企てるのだが、しかしそれは旧体制が持つ悪というより、人間性一般の限界からくる悪ではないのか。

自分たち革命家もそれを無縁でいられるのかという自己懐疑が全く無い。

そんな懐疑心などは下らぬ気取りに過ぎない、と切り捨てる傲慢さが全編にみなぎっている。

マルクス主義と唯物論という「絶対的真理」の立場に立っているという感覚がそれをもたらすんでしょうね。

本書に限らず(ドストエフスキーやトルストイなどの文学書も含めて)、末期の帝政ロシアから感じるのは、「近世から一切変わらぬツァーリズムの残酷さ、強固さ」ではなく、資本主義の急激な流入がもたらす旧社会秩序の崩壊と個人の原子化である。

君主・貴族への忠誠は衰え、宗教的信仰は薄くなり、一方無制限の自由が西欧より概念として流入し、ありとあらゆる現状変革的急進的思想が社会にヒステリー的に広まる。

この事態に対しては、ツァーリズムの抑圧など(私に言わせれば残念ながら)無力である。

革命家たちの「不屈の闘志」など無くても、体制は自壊していた。

西欧から度々批判されたロシアの専制と弾圧など、実際には穴だらけである。

帝政時代、トロツキーが受けた流刑など、彼が後に作り上げたソ連における強制収容所とは比べものにならない穏和さだ。

正気とは思えぬ残酷さを持つソ連時代の収容所からは、トロツキーが実行したような脱獄など、全く不可能だ。

また亡命時代にレーニンとロンドンで出会った際のエピソードにも感じることがある。

ある日曜日のこと、私とレーニンとクルプスカヤ[レーニンの妻]はロンドンの教会に出かけた。そこでは社会民主主義者の集会が賛美歌の合唱のあいだにはさまれて行われていた。弁士はオーストリア帰りの植字工だった。彼が社会革命についてひとしきり話し終わると、一同は立ち上がって歌いだした。

「全能なる神よ、王者も貧者もなくしたまえ。」

私は自分の目と耳を疑った。レーニンは、教会から出てきたとき、この点について次のように説明した。

「イギリス・プロレタリアートの中には革命と社会主義の要素が数多く散在しているが、それらはすべて保守主義や宗教やさまざまな偏見と結びついている。そこを突破して一般的な認識に到達することがなかなかできないんだ。」

しかし、レーニンが軽蔑と優越感を持って語った、「偏見」だらけのイギリス労働者たちが真に実質的な社会改良を成し遂げたのに対し、レーニンとトロツキーはロシアにこの世の地獄、それもツァーリの下では決してあり得なかった地獄をもたらしたと言うしかない。

加えて、暴力革命と一切の妥協を排した急進的変革という自分たちのヴィジョンに同意しなかった社会主義者への憎悪もあからさまで、実に嫌な感じがします。

カウツキー、ヒルファーディング、ベルンシュタイン、ハーゼ(ドイツ独立社会民主党)、マクドナルド、カール・レンナーおよびヴィクトル・アドラー(レンナー、アドラーはともにオーストリア社会民主党)という面々を毒々しく切り捨てている。

ベーベル、ジャン・ジョレス、ユージン・デブス(デブスはアメリカ社会党)など、少々好意的に書かれている人々もいるし、急進派のローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトなどは称賛されているが、彼らも状況次第では、激しい批判と、それどころか肉体的抹殺の対象にすらされたのではないかと思われてならない。

結局、私がトロツキーに対して持っている印象は、概ね以下のパイプス『ロシア革命史』でのトロツキー評がすべてである。

歴史には、敗者が、彼を滅亡させた人々よりも道義的に優れていたとみられて、後世の共感を得るという例がたくさんある。トロツキーに対しては、そのような共感を呼び起こすのは難しい。確かに、彼は、スターリンとその侍従たちより教養があり、知的により興味深く、人格的により勇敢で、共産主義者の同僚との応対においても、立派であった。しかし、レーニンと同様に、彼のもつそのような美徳は、もっぱら党内で示された。外部のもの、およびより大きな民主主義を求める党内の人々に関しては、彼はレーニンおよびスターリンと考えは同じであった。つまり、彼らに対しては、正規の倫理的基準は通用しないと、信じていたのである。他のボリシェヴィキと同じく、彼は、政治の世界に、組織犯罪者の仲間に通用する集団的忠誠という規範をもち込み、ボリシェヴィズムとそれを真似た全体主義体制を特徴づける政治の犯罪化に貢献したのである。従って、彼は、自らを破滅させる武器の鍛造に手を貸したことになる。というのも、彼は、異論を唱える少数派のなかに自らがいるのに気付くと、直ちに、外部のもの、従って、公正な扱いを求める資格のない敵となったからである。彼は、レーニンの独裁へ反対した人々に与えられた運命――彼は心の底からそれに同意したのであるが――、それと同じ道をたどることになった。カデット、社会革命党員、メンシェヴィキ、赤軍のために戦うことを拒否した旧ツァーリ体制下の将校たち、労働者反対派、クロンシュタットの水兵、タムボフの農民、聖職者たちの運命をである。全体主義が彼を直接脅かしたときに、漸く彼はその危険に気付いたにすぎない。彼が党内民主主義へ突如として改心したのは、自己防衛の一つの手段であり、原則を擁護してのことではなかった。

トロツキーは、ジャッカルの一群に引き倒された誇り高いライオンとして自らを描くのを好んだ。そして、スターリンが怪物のごとき本性をみせればみせるほど、ロシアの内外で、理想化されたレーニン主義を救い出したいと思っている人々にとって、そのトロツキーのイメージは、説得力があるものと思われた。しかし、記録によれば、彼の活動の全盛期には、彼もまた、ジャッカルの群れの一員だったのである。彼の敗北に、それを崇高たらしめるものは何もない。彼は、政治権力を求める汚い闘いにおいて、知謀に負けた故に敗北したのである。

トロツキーが、スターリンとエピゴーネン(亜流)によって打倒されたのも自業自得と思える。

だが、この文章には自由民主主義そのものに対する懐疑が無い(そんなものをアメリカ人に求めるのがそもそも間違いだろうが)。

トロツキーは本書で以下のように言う。

のちにヴィッテは回想録の中で、1905年には「ロシア人の大多数の人々が正気を失ったかのようだった」と書いている。だが、革命が保守主義者にとって集団的精神錯乱に見えるのは、ただ革命が社会的諸矛盾の「通常」の狂気を最高度に緊迫させるからにすぎない。それはいわば、大胆な風刺画に描かれた自分の姿を人が認めたがらないのと同じである。だが、現代の発展過程は全体として、諸矛盾を凝縮させ、緊張させ、先鋭化させ、その諸矛盾を耐えがたい状態に持っていって、ついには、大多数の人々が「正気を失う」ような状態を準備する。しかしこの場合、この「狂気の」多数派が「利口な」少数派に拘束服を着せるのである。そして、こうすることで歴史は前進していくのだ。

この文章は括弧を全て取り去り、末尾の「前進」を「破滅」にでも変えた方が良い。

1789年以後の歴史がそれを証明している。

結局、トロツキーも「人民の多数派による変革」を絶対的に信じている。

米国・西欧の民主主義への敵意も、それら「ブルジョワ民主主義」が真の民意ではなく、支配階級の意思を反映していると考えたがゆえに過ぎない。

個人的には実際それに根拠が無いわけではないと思う。ただし私はそもそも「民意」の正しさを根本的に疑っている。

そして、人間を物質的利害に基づく行動主体としてのみ捉えることにおいて、共産主義も自由民主主義も違いは無い。

前者をトータルに否定するためには、後者も否定しなければならない。

 

 

もちろん無理して読む必要があるような本ではない。

気が向いたら、図書館で借りて飛ばし読みしてもよい。

共産主義者の手に成る、無味乾燥で不毛・退屈な文章の集積の中では、まだしも読むに耐える部分はあると思われますので。

2017年8月8日

サマセット・モーム 『読書案内  世界文学』 (岩波文庫)

Filed under: 読書論, 文学 — 万年初心者 @ 03:58

モームが1940年に出した短いエッセイの翻訳。

最初岩波新書で出て、その後文庫入り。

イギリス文学、ヨーロッパ文学、アメリカ文学の三部構成。

 

まず「はしがき」で、楽しく読める作品を選んだ、文学史上、研究者や批評家にとっていかに重要でも、今日ではもう読む必要の無い書物はたくさんある、ただし「楽しく読める」と言っても、注意力や想像力を働かせることはもちろん必要だ、と述べている。

 

 

第一部イギリス文学。

読書は楽しくあらねばならないという主張。

ところで、だれにせよ、楽しみは不道徳なものだと考えてはならない。楽しみそれ自体は、大きな善である。すべての楽しみがそうなのである。ただ、それからおこる結果を考え、思慮深いひとはある種の楽しみを避けようとする。また、楽しみはすべて下品で官能的であるとはかぎらない。知的な楽しみほど、長持ちがし、また満足がえられる楽しみはほかにないことを悟った者は、英知にとんだひとだといえよう。読書の習慣を身につけるがよい。人生の盛りをすぎてから、それをこころみて、しかも満足のえられるスポーツといっては、読書をおいてそうたくさんはない。トランプの独り占い、詰将棋、クロスワード・パズルをのぞいて、読書のように、相手がなくても楽しめる遊びはほかに何もない。読書には、ほかのスポーツや遊びに見られる不都合は、少しもない。いつでも気の向いたときにはじめ、好きなだけつづけ、他の用事がおこったら、直ちにやめることのできる仕事は、ただ読書だけである。あるいは針仕事がそうであるかもしれない。だが、この針仕事という奴は、手先ばかりはたらいて、落着きのない精神のほうはさらに束縛をうけない。公共図書館が利用でき、廉価版が手にはいる、今日のようなめぐまれた時代に、読書くらい、わずかな元手で楽しめる娯楽はほかにない。読書の習慣を身につけることは、人生のほとんどすべての不幸からあなたを守る、避難所ができることである。いまわたくしは、「ほとんどすべての」といったが、それは、書物をよめば、飢えの苦しみがいやされるとか、失恋の悲しみを忘れるとか、そこまでは主張しようと思わないからである。もっともよみごたえのある探偵小説五、六冊と、それに湯たんぽの用意がありさえすれば、どんな悪性の鼻かぜにかかっても、わたくしたちは、鼻かぜくらいなんだといって、平然としていることができるだろう。だが、もし退屈な書物までもよめというのであると、読書のための読書の習慣など、はたしてだれが身につけようとするであろうか。

 

以下、取り上げられている作品。

デフォー『モル・フランダーズ』

スウィフト『ガリヴァー旅行記』

フィールディング『トム・ジョーンズ』

スターン『トリストラム・シャンディー』

ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』

ジョンソン『詩人伝』

ギボン『自叙伝』

ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』

バトラー『万人の道』

オースティン『マンスフィールド・パーク』

ハズリット『卓上閑話』

サッカレー『虚栄の市』

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

あと、詩人選に加え、もちろんシェイクスピアの偉大な悲劇を読まねばならない、として終えている。

自国文学だけあって、ここでは、一般の日本人にはあまり馴染みの無い作品がいくつか挙げられている。

 

 

 

第二部ヨーロッパ文学。

セルバンテス『ドン・キホーテ』

(なお、この作品中の挿話を、「ミルトンの『失楽園』をよんだジョンソン博士と同様、楽しんでというよりは、むしろ義務の気持からよんだ」と書かれている。同国人の著名文士にしてそうなのだから、やはり『失楽園』は、特に文学好きでもない普通の日本人読者が無理して読むようなものではない、と改めて思った。)

モンテーニュ『エセー』(特に第三巻)

ゲーテ『ヴィルヘルム・マイステルの徒弟(修行)時代』

ツルゲーネフ『父と子』

トルストイ『戦争と平和』

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

ラ・ファイエット夫人『クレーヴの奥方』

プレヴォー『マノン・レスコー』

ヴォルテール『カンディード』

ルソー『懺悔録(告白)』

バルザック『ゴリオ爺さん』

スタンダール『赤と黒』『パルムの僧院』

フローベール『ボヴァリー夫人』

コンスタン『アドルフ』

デュマ『三銃士』

アナトール・フランス『螺鈿の手箱』(短篇集)

プルースト『失われた時を求めて』

 

 

 

第三部アメリカ文学。

フランクリン『自叙伝』

ホーソーン『緋文字』

ソーロー『ウォールデン』

エマソン『エセイ集』

エドガー・アラン・ポー『黄金虫』などの短篇小説集

ヘンリー・ジェイムズ『アメリカ人』

メルヴィル『モービー・ディック(白鯨)』

マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィン』

パークマン『オレゴン街道』

ディキンソンの詩

ホイットマン『草の葉』

パークマンやディキンソンなんて名前は聞いたこともない。

それ以外は定番の著者が並んでます。

 

 

 

なお本書の付録で触れられているように、モームは『世界の十大小説』という本も書いていて、これも岩波文庫に収録されているが、その10作品は以下の通りである。

バルザック『ゴリオ爺さん』

フィールディング『トム・ジョーンズ』

ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

トルストイ『戦争と平和』

メルヴィル『白鯨』

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

スタンダール『赤と黒』

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

フローベール『ボヴァリー夫人』

オースティン『高慢と偏見』

私は、一応8冊は読んでますね。

 

 

 

文学専門家や研究者でもない、普通の日本人読者からすると、ちょっと知名度が無さ過ぎる本が紹介されているところもあるが、たまに手に取って読書意欲をかき立てるのには役立つ本。

ここに載せられている作品を最優先に読む、というのでもいいでしょう。

2017年8月4日

アーネスト・メイ 『歴史の教訓  アメリカ外交はどう作られたか』 (岩波現代文庫)

Filed under: アメリカ, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 05:39

以前、いつかは読まなきゃと書いた本をこの度通読。

外交政策形成に当たって、政策決定者が、直近の、世論に受け入れやすい歴史の出来事にのみ囚われ、そこから現実に適合しない「教訓」を汲み取り、結果として歴史を「誤用」して、不適切な政策を選択してしまうことを、現代アメリカ外交の中から、第二次世界大戦末期、冷戦初期、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争介入という四つの事例から検討する。

続けて、和平達成の為の爆撃という軍事行動について、通常、戦略爆撃は敵国の抗戦意欲を高め、戦争終結に直結するものではない、それが効果を上げるのは、敵国の指導層に分裂が見られ、内部事情による政権交代が生じている場合のみだ、として第二次大戦末期の日本とイタリア、朝鮮戦争の休戦交渉中の共産国の例を挙げている。

残りの部分では、政府・議会・官僚・軍部・世論・専門家などの力関係から生み出されるアメリカ外交の、本書刊行時1973年以降の予測と、歴史家が政策決定者に幅広い視野から適切なアドバイスを与えられるようにする為の仕組みと情報公開について述べている。

難解な部分は特に無い。

著者の意見すべてが説得的とも思えないが、少なくとも、前半から中盤にかけては面白く、中々読ませる。

必読、とまでは言わないが、読む価値はあります。

ただし、ごく基礎的な知識は事前に頭に入れておく必要はあるでしょう。

2017年8月2日

ジョージ・オーウェル 『動物農場』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学, 文学 — 万年初心者 @ 06:17

角川文庫版を読んで以来、20年振りの再読。

この翻訳は2009年初版だが、これが岩波文庫に収録されるんだから、やはり時代は変わりました。

鮮やかな読後感は全く変わらず。

真の傑作だ。

未読の方には強く薦める。

2017年7月28日

チャールズ・キンドルバーガー 『経済大国興亡史  1500-1990 上・下』 (岩波書店)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 02:00

この記事で触れたが、著名な経済学者としてキンドルバーガーの名前は以前から知っていた。

『大不況下の世界』は現在も未読だが、本書を読んだ。

これもかなり以前から気にはなっていた本ではある。

原著は1996年刊、翻訳は2002年刊。

最初に、「国家のライフ・サイクル」「覇権理論」「中心・周辺理論」等々の妥当性・有効性について検討。

それほど難しい話でもないが、まあこんな考え方があるのか、くらいで軽く流せばよい。

その後、(ヴェネツィアを中心にフィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノを含む)イタリア都市国家、ポルトガル、スペイン、(ブリュージュ、アントウェルペン、およびアムステルダムを中心とするオランダを含む)ネーデルラント、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、と近世以降の世界で興隆し、経済的首位に向かった大国の経済を描写していく。

なお、以前記事で書いた近世ヨーロッパの政治・経済の主要国興亡見取り図は、必ず頭に即浮かぶようにしておくこと。

優位を占めた国は、15世紀以前がイタリア、16世紀が(ポルトガルと)スペイン、17世紀がオランダ(後半は、経済的には疑問が残るものの、フランス)、18世紀および19世紀がイギリス、20世紀がアメリカ。

で、各国の全盛期を過ぎても、その国が瞬く間に衰退したのではないことはイメージしておく。

例えば、本書ではオランダの完全な没落は、17世紀後半の三度の英蘭戦争とルイ14世のオランダ戦争ではなく、1780~84年の「第四次英蘭戦争」(高校世界史の範囲外なのでぴんとこないが、これは年代からいってアメリカ独立戦争に伴う戦いか?)およびフランス革命戦争での占領後とされている。

フランス、ドイツ、日本は経済的首位に到達したことはなく、フランスは(一度切りの)長期的な興隆と衰退を経たのではなく、政治的変動と指導層の新旧交代によって何回かの盛衰を繰り返した「永遠の挑戦者」の地位にある、とされている。

国家の衰亡においては、その経済が貿易・工業から金融を中心とするものに変質し、産業構造が硬直化し、所得分配が歪められ貧富の差が拡大し、不道徳な誇示的消費と貧困が同時に広まる、というのが典型的パターン。

著者は、同時代のアメリカもその弊に陥っているとしているが、その後のアメリカは自身の悪しき金融資本主義を開き直って全世界に拡大し、表面上の経済的地位回復を果たしたが、それがリーマン・ショック以後の危機をもたらしたのは周知の通り。

本書では、日本はバブルが弾けたとは言え、依然強力な経済大国で、アメリカを継いで経済首位国となる可能性を持つ存在とされており(ただし著者はそれに懐疑的ではある)、中国をはじめとする新興国の台頭については、基本ほとんど触れられていない。

刊行年代を考えれば当然ですが、何か懐かしさを感じる記述ではありました。

「系列」(これも懐かしい言葉だ)や独特の商慣行という非関税障壁を中心とする閉鎖性や「日本異質論」に基づく対日批判が溢れていた時期ですね。

実際、それらの批判は理不尽・不公平なことが多く、不愉快なことが多かったし、そして我々自身も今振り返ってみれば、少々傲慢なところがあったことは間違いないでしょう。

そう考えれば、バブル景気のような時期が続かなかったことを嘆く一方なのも、おかしいかと感じます。

 

 

思ったよりも相当読みやすかった。

期待していたほどの重厚な内容では無かったが、とっつきやすい。

難解な概念も、理解しがたい数式も、やたら細かい統計数字も、ほぼ出てこない。

一般的な叙述という形式を守っている。

経済史は苦手分野もいいところだが、こういう本なら読める。

普通にお薦めできる良書です。

2017年7月23日

アーネスト・ヘミングウェイ 『武器よさらば 上・下』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:15

『老人と海』に追加して、ヘミングウェイを打ち止めにするために、これを読む。

第一次世界大戦のイタリア戦線が舞台。

イタリア軍に志願して負傷兵移送任務に従事するアメリカ人とイギリス人看護婦の悲恋を描く。

雰囲気的にハッピーエンドではないなと思ってはいたが、こういうラストになるとは予想外だった。

厭戦的なメッセージはよくわかる。

また、ヘミングウェイの簡潔な文体が日本語でも感じ取れる翻訳だった。

だが、特に面白いわけでもなく、まあ普通です。

 

あと、強いてこの記事で言わなければならないことでもないんですが、以前から思っていたことを書きます。

本来なら30冊で読む世界文学の記事で述べておくべきことなのですが、忘れていました。

私を含め、初心者がこの手の古典文学を読む際、「偉大な文学作品では、何気ない描写にも、実は深遠な意味が込められているはずだ」と気負って、一字一句にこだわりながら読むというのは、絶対止めた方がいいです。

間違いなく挫折して、多くの本を途中で放り出すことになると思います。

文学に中心的な関心を置いて、なおかつ読書力のある方はもちろんそうしたらいいと思いますが、文学初心者はむしろ意識し過ぎず、主人公と主要登場人物と大まかな粗筋を確認できればいい、くらいに気軽に構えて、どんどん読み進んだ方がいいでしょう。

熟読・遅読の価値は間違いなくあるでしょうが、やはり数をこなすのも大事。

読んだ本の数が自信になるし、次の本への読書意欲もかき立ててくれる。

完全に飛ばして読むのはお勧めしませんが、心に引っかからない日常情景描写はざっと目に流す感じで軽く読めばいいと思います。

読了した作品が増えてくれば、「コレクター感情」が湧いてきて、雪ダルマ式に読書量を増やすことも可能になってきます(鹿島茂『成功する読書日記』)。

古典と言っても、あまり気負わず、気軽に読んで行きましょう。

Older Posts »

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.