万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年9月17日

桜井三枝子 編著 『グアテマラを知るための65章』 (明石書店)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 04:18

労力を使わずに記事を書くには、このシリーズが一番だ。

(次いで山川出版社の世界史リブレットになる。)

歴史と政治に関する記述だけ読んで、後は全く無視しているんだから、そりゃ楽ですわ。

安易と言えば安易だが、しかしそれくらいで済ますしかない分野も確かにある。

中米諸国のグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマについてそれぞれ通史1冊ずつ読め、と初心者に強いるのは無理と言うもんです。

かと言って、ラテン・アメリカ通史の中の断片的な記述では不充分だし、結局本書のようなものを飛ばし読みするのが一番適切になってしまう訳です。

 

 

グアテマラはメキシコのすぐ南にあり、東隣のベリーズと並んで中米諸国では最も北にある国(もちろんメキシコ自体は除いて)。

首都は国名と同じくグアテマラ市。

マヤ文明の中南部が現グアテマラの地に存在。

現在も混血のメスティーソではなく、先住民マヤ族が人口の6割を占め、多数派を形成。

アステカ帝国を滅ぼしたコルテスの部下アルバラードがグアテマラの先住民を征服、総督に就任。

先住民の保護と改宗を条件に貢納と労働力の使用を許すエンコミエンダ制が敷かれた後、賦役を割り当てるレパルティミエント制に移行したが、先住民保護は徹底せず。

1821年中米連合の一員として独立。

一時メキシコとの併合を目指す動きがあったが、皇帝イトゥルビデ失脚によって破綻、その後の1823年の完全独立宣言の方が現在では重視されているという。

1838年中米連邦共和国は分解、グアテマラも分離独立。

保守派と自由主義派が対立し、軍の頭領カウディーリョがしばしば専制的支配を敷くのは、他国と同様。

東隣ベリーゼにイギリスが入植、グアテマラは協定で同地を割譲、ベリーゼは中米唯一のイギリス領となり、他地域から大きく遅れて1981年ベリーズとして独立。

コーヒー栽培が発展、中米再統合主義が生まれたが、他の中米諸国とアメリカ、メキシコの反対で挫折。

1898~1920年大統領のカブレラが独裁者として君臨、ユナイテッド・フルーツ社にバナナ栽培プランテーションの為に広大な土地を譲渡、自国の中に外資企業国家の飛び地領が存在するような状態になってしまう。

1931~44年にはウビコも独裁的統治を敷くが、対外債務減少と経済発展では功績を残す。

1944年ウビコ失脚後も続いた軍人政権に対するアルベンス・グスマンら若手将校の蜂起が成功、大統領アレバロを長とする進歩派政権が成立。

続いて51年大統領となったアルベンスが、ユナイテッド・フルーツ社はじめとする外国資本大企業の経済支配を排し、土地改革を行おうとするが、冷戦激化時代の反共政策を採り、自国の覇権下にある地域での左派政権に過敏になっていた米国および国内保守派と軍の反対で、54年アルベンス政権はクーデタで崩壊。

以後旧体制に逆転、長期間軍政が敷かれ、60年代から左派ゲリラとの内戦が勃発、1996年の和平協定締結まで多くの犠牲者を出す。

80年代半ばからは文民大統領が就任、とりあえず民主体制が続いている。

同国では、ノーベル文学賞受賞作家アストゥリアスが一番の有名人か。

 

 

まあ、こんなもんでいいでしょ。

これだけ読み取れば十分。

グアテマラと聞いて、国の位置と以上のようなことさえ頭に浮かべば、社会人の一般常識として恥ずかしくない。

これで終わりにしますが、このシリーズ、書名一覧で難易度を付けるときに悩むんだよなあ。

歴史と政治の章だけを、しかも精読せず飛ばし読みするだけなら「易」に決まってるんだが、自分がやってない全編通読なら少なくとも「中」にはなる。

最近は「中」を付けてるし、本書もそうしますか。

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2018年9月12日

桜田美津夫 『物語オランダの歴史  大航海時代から「寛容」国家の現代まで』 (中公新書)

Filed under: オランダ — 万年初心者 @ 04:17

このシリーズで、出て欲しかった国がちょうど出た。

低地諸州で、中央集権化への反発と宗教改革の影響により、ハプスブルク家支配からの独立運動が起こる。

ルター派は、カトリックとは違う教会組織の代案を持たず、教会の支配権を世俗君主に委ねてしまう。それゆえ、君主の支持が得られない場合の対応策を知らなかった。他方カルヴァン派は、同じ新教徒でも、自前の教会組織のネットワークを作り上げ、世俗君主による迫害に対しては抵抗権理論をもって反撃する戦闘性を備えていた。

こうして牧師と俗人の長老を主要構成員とするカルヴァン派の「教会会議」が、南部諸州(現ベルギー)各地に続々形成される。だが北部諸州(現オランダ)にカルヴァン派が根づくのは一〇年余り遅く、「低地諸州の反乱」(オランダ独立戦争の前半)勃発以後になる。

北部はカルヴァン派が多かったので独立し、南部はカトリックが多かったので再びスペイン王の支配を受け入れたという、昔からよく耳にする説明は事実に反する。オランダとベルギーの宗教の違いやその背景に想定されている国民性の違いなどは、低地諸州の南北分裂の原因というよりむしろ結果であった。分裂以前に北と南に違いがあったとすれば、それは、先進地帯の南のほうが宗派対立が先鋭化していた点だろう。

オランイェ(オラニエ)公ウィレムは、ドイツのナッサウ家出身。

ナッサウ家は、ドイツの地方君主と南フランスのアヴィニョンの北にあるオランジュ(オランイェ)公の二系統に分かれていた。

ウィレムはカール5世の信任も厚く、フェリペ2世とも当初良好な関係。

1568年オランダ独立戦争、79年ユトレヒト同盟、81年国王廃位布告(いわゆる独立宣言)。

1584年ウィレム1世暗殺、1609年休戦条約で実質独立達成。

国名はネーデルランデン(ネーデルラント)連邦共和国であり、国制は正式には君主制ではない。

各州議会では、都市為政者層(レヘント)と農村貴族が政治を運営。

高校世界史では「オランダ総督」と習うが、正式には州ごとに総督が存在し、北部の一、二州はドイツ・ナッサウ家が、残りの大半の州ではオラニエ家が兼務するという形だった。

経済的に大躍進を遂げ、17世紀にはヨーロッパ最先進国となる(それに関して、オランダ東インド会社によるアジア貿易の寄与はこれまで過大評価されてきた、とのこと)。

カルヴァン派内での「穏健派」「厳格派」「中間派」の争いもあったが、カルヴァン派が絶対多数を占めていたわけではなかったこともあり、カトリック、ルター派、メンノー派(再洗礼派から過激派を除いた宗派)、ユダヤ教含め、同時代での比較では相当に寛容な宗教政策が採られる。

ウィレム1世死後、その子のマウリッツおよびフレデリック・ヘンドリックが跡を継ぐ。

「厳格派」に近い総督マウリッツと「穏健派」レヘント層との対立が深まり、後者の代表オルデンバルネフェルトは死刑となり、「国際法の父」として有名なグロティウスも投獄される。

1625年フレデリック・ヘンドリックが総督になると対立は緩和。

その息子ウィレム(2世)は英国王チャールズ1世の娘と結婚、両者からウィレム(ウィリアム3世)が生まれる。

1647年フレデリック・ヘンドリック死去、48年ウェストファリア条約でオランダ独立正式承認、50年ウィレム2世死去、レヘント層の勢力が強まり、以後「第一次無州総督時代」に入る。

この無総督時代の指導者になった政治家が、ヨハン・デ・ウィットである。

しかし、その治世は国難の連続に見舞われる。

1651年航海法(航海条令という名称はもう消えましたか)と52~54年第一次英蘭戦争、提督トロンプが戦死し敗北。

1665~67年第二次英蘭戦争は名提督デ・ライテル(ロイテル)の活躍もあって何とか勝利。

開戦直前に奪われたニウ・アムステルダム(後のニューヨーク)はそのまま英領となったが、オランダは逆に南米のスリナムを奪取しているので、この第二次戦争をもイギリス勝利として捉えるのは間違っているとのこと。

しかし、1672年「災厄の年」と呼ばれる最悪の事態が訪れ、第三次英蘭戦争とルイ14世のオランダ戦争が勃発。

苦境の中、国民の声に押されて、ウィレム3世が総督に就任、デ・ウィットは激昂した民衆に惨殺される(この行為にデ・ウィットの友人である哲学者スピノザは憤激の言葉を残している)。

岡崎久彦『繁栄と衰退と』では、この17世紀オランダの政争では、中央集権志向のオラニエ家がとにかく正しくて、州権分立主義のブルジョワ政治家は全体的国益を省みず、厳しい国際情勢を直視しない利己主義に走って国を破滅させた、というかなり一方的な書き方になっているが、本書を読むと、やはりそう単純に断言できるものでもないようだ。

ウィレム3世がジェームズ2世の長女メアリと結婚(上記の通りウィレム自身の母がチャールズ1世の娘だから従妹との結婚だ)、名誉革命でウィリアム3世、メアリ2世として即位するのは周知の通り。

ここでイギリスとオランダが「同君連合」となったという場合があり、私もこのブログでそう書いたことがあるはずだが、厳密にはもちろんオランダはこの時代共和国なので、本書ではイングランドの国王とオランダの州総督が同一人物になった、と正確に記している。

ウィレム3世が死去すると、メアリとの間に子がいなかったので、英国はアン女王が継ぎ、オランダは「第二次無州総督時代」に入る。

階層が硬直化し、貧富の差が拡大、経済は明らかに衰退期に入る。

スペイン継承戦争で、南仏のオランジュ(オラニエ)公領を最終的にフランスに割譲。

オーストリア継承戦争の危機の中、ドイツ・ナッサウ家からウィレム4世が迎えられ、総督就任。

続くウィレム5世時代にアメリカ独立戦争を支援、1780~84年第四次英蘭戦争が戦われ、オランダは甚大な被害を蒙る。

フランス革命で、1795年仏軍と「愛国者」派を名乗る急進派の軍勢が侵入、(ローマ時代の古名にちなむ)「バターフ(バタヴィア)共和国」を樹立。

1806年ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世の父)を国王とする「オランダ王国」が生まれるが、それも1810年にはフランス帝国に併合。

ウィーン会議では、オランダはベルギーと合邦して連合王国を形成、総督ウィレム5世の長男が初代国王ウィレム1世として即位。

「啓蒙専制君主」志向のウィレム1世と議会が対立、王国成立と憲法制定に尽力した保守派政治家ホーヘンドルプもしだいに自由主義的反対派に属するようになる。

仏七月革命の余波でベルギーが分離独立。

海外ではジャワ戦争とアチェ戦争でインドネシアを植民地化。

1840年即位したウィレム2世は、仏二月革命に恐れをなし、国王の統治権限をほとんど無くした新憲法を容認、大臣が議会に責任を負う制度に移行、自由主義者トルベッケが三度にわたり内閣を率いて議院内閣制と近代化政策を確立、49年跡を継いだウィレム3世(~90年)もそれを覆すことは出来ず。

以後オランダでは、100年以上に亘って、女王が三代続く。

ウィルヘルミナ(1890~1948年)、ユリアナ(1948~80年)、ベアトリクス(1980~2013年)。

(2013年にはウィレム・アレクサンデル王が即位。)

カルヴァン派(カイペル率いる反革命党)、カトリック(スハープマンら)、社会主義者(穏健派トルールストラの社会民主労働者党)、自由主義者の四大勢力が並立。

第一次世界大戦では、隣国ベルギーがドイツの侵攻を受けたが、オランダは自由主義者の首相コルト・ファン・デル・リンデンの指導下、中立維持に成功。

戦間期、世界恐慌襲来後の困難な時期に反革命党党首コレインが首相在任(1933~39年)、緊縮財政と金本位制に拘り、恐慌対策には成功しなかったものの、高い人気と威信を保ち、親ナチ政党の勢力拡大を阻止。

1940年5月西部戦線で大攻勢に出たドイツ軍により蹂躙され降伏、ウィルヘルミナ女王と政府はロンドンに亡命。

ナチ支配下、アンネ・フランクを始めとして多くのユダヤ人が犠牲になる。

戦後、反革命党、カトリック国民党、労働党、自由民主国民党などで議会を運営、内閣はほとんど連立政権。

(後に急進派主体の「民主主義者1966年党」が誕生。)

東インド植民地維持を目論むが失敗、1949年インドネシア独立。

48~58年首相を務めた労働党のドレースは、外交では連立相手のカトリック国民党に引きずられ植民地維持政策を一時採ったものの、結局軌道修正し、内政ではマーシャル・プランの援助を得て経済再建に成功、社会保障制度を整備して福祉国家を建設し、現在でも最も高い評価を得る首相となっている。

67~71年首相デ・ヨング(カトリック国民党)は急進的学生運動が高揚した時代を巧みに舵取りし、イギリスのEC加盟(73年)の道筋をつけることにも貢献。

73~77年首相デン・アイル(労働党)は石油危機後の困難な経済情勢に対処、雇用・福祉問題で進歩的政策を推進。

キリスト教系政党は1973年連合して「キリスト教民主アッペル(CDA)」を結成。

82~94年そのCDAのルッベルス長期政権、財政再建と労使協調による社会保障制度見直しを進めることに成功。

94~2002年労働党のコック政権も旧来型の社会民主主義とは決別し、高い経済成長を実現。

21世紀に入ると、反移民・反多文化主義政策を掲げるポピュリスト的なピム・フォルタイン党および自由党が台頭。

しかし、02~10年のバルケネンデ(CDA)内閣、10年~のルッテ(自由民主国民党)内閣ともに、移民・難民政策を転換し、ピム・フォルタイン党・自由党と一時連立や閣外協力を組み、共同責任を負わせて「無害化」する、といった巧みな手法を発揮し、主導権を確保することに成功している(とりあえず本書刊行時までは)。

 

 

かなり良い出来。

時代ごとのページ配分も偏りが無く、内容的にも穏当。

このシリーズにふさわしい良質な通史になっている。

やっとオランダ史の標準的テキストが出た。

岡崎久彦『繁栄と衰退と』(文春文庫)は独立と17世紀だけしか記されておらず、内容的にも偏りがある(ただし物語的には面白い)。

ブロール『オランダ史』(白水社)チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』(平凡社)は生硬で日本人初心者向けでは到底ない。

本書に加えて松尾秀哉『物語ベルギーの歴史』(中公新書)ジルベール・トラウシュ『ルクセンブルクの歴史』(刀水書房)を読めば、ベネルクス三国については「あがり」です。

初心者は他に何も読まなくていい。

定番本が出て良かったなあ、と記して終わります。

(『物語ベルギー~』の書名一覧での評価を「3」にしているのに気付いたが、改めて考えると「4」くらいにはなりそうである。今から変えようかとも思ったが、記事を書いた当時はそれなりの感覚上の根拠があってそうしたのかもしれないので、とりあえずそのままにしておきます。)

2018年9月8日

アレクサンドル・プーシキン 『大尉の娘』 (未知谷)

Filed under: ロシア, 文学 — 万年初心者 @ 06:38

高校生の頃、岩波文庫版を読んで以来、数十年振りの再読。

他社の翻訳が無いかなと探していたら、2013年にこれが出ていた。

しかし、元は1969年講談社版『世界文学全集』の中に収録されていたものを校訂したものだそうで、訳自体はそれほど新しくない。

200ページ余りの分量で、ストーリー展開が速く、読みやすい。

登場人物は皆精彩に富んで、生き生きしている。

プガチョフとエカチェリーナ2世という史上の著名人物の肖像も非常に興味深い。

 

面白い。

もの凄く面白い。

家庭小説としても歴史小説としても、最高の傑作だ。

通読難易度は著しく低いが、完成度は素晴らしい。

『青木世界史B講義の実況中継 5 文化史』で、著者が本書を皮切りに世界文学に耽溺するようになったと書かれているが、さもありなんという感じだ。

文学初心者の入門書としても良好。

決定稿からは外された補遺の章で、プーシキンは以下のように記している。

神よ願わくは、このロシヤ的反乱――不条理で無慈悲な――をもう見ることのないようにしてください。不可能な大変革をわが国で企てる人々は、年若くてわが国民を知らない連中か、あるいは自分の首を一コペイカぐらいに考え、他人の首なら四分の一コペイカぐらいに思っている残忍な連中なのである。

プーシキンは専制政治と農奴制への批判、デカブリストへの共感を咎められ、監視された謹慎生活を送っていた人だが、しかしこの文章は当局の検閲を意識したものというより、作家の本心からのものだと思える。

プーシキンの生きた時代から一世紀後、「不可能な大変革をわが国で企てる人々」が起こした「ロシヤ的反乱」によって、ロシアと世界はこの世の地獄に突き落とされた。

眼前に見る残酷な階級社会の不平等をそのまま肯定することなど出来るはずもないが、だからといって急進的な破壊運動がすべてを解決するという狂信に陥ってはならないことは、どんな社会においても肝に銘じるべき真理だと思う。

 

 

これは再読して正解だった。

素晴らしい作品。

私個人の仮想「世界文学全集」には必ず収録されるべきものと思えます。

2018年9月4日

高島俊男 『本と中国と日本人と』 (ちくま文庫)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 04:19

関連文献:読書論の記事末尾で名を出した本では、『世界史のための文献案内』(山川出版社)はその記事を書いた時点で単独の記事にしていたし、残るのは『独断 中国関係名著案内』(東方書店)を改題文庫化したこれだけか。

中国関係の書籍の紹介を通じて著者自身の読物的評論を展開した本。

この文庫版の紹介本は、元版からかなり変更されている。

元版の方が面白いかなあという気がする。

なお同じ著者の本としては『中国の大盗賊』および『三国志 きらめく群像』(特に後者)が素晴らしいので、お薦めしておきます。

2018年8月31日

君塚直隆 『物語イギリスの歴史 上・下』 (中公新書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 02:43

このシリーズで、ド直球の主要国が出た。

国の重要性からして、一巻200ページ余りではあるが、上下巻になった。

「王権」と「議会」という二つの要素が、対立と協調の試行錯誤を経ながら、一方が他方を圧倒することなく、相互依存と共存の関係を作り上げ、結果として少なくとも近現代の世界では最も良質で安定した政治を成立させた、というモチーフを持った通史。

決して長くはない紙数と簡略な叙述ではあるが、そのことが読み取れる内容になっている。

 

 

アングロ・サクソン七王国での統一への動きでは、まずマーシア王国のオファ王に触れ、(エグバートには触れず)デーン人襲来で唯一生き残ったウェセックス王国のアルフレッド大王と孫のアゼルスタン王、その甥エドガー王の治世を重視。

アゼルスタンが設置した「賢人会議」は、後の国王評議会と議会の起源となった。

「北海帝国」の征服者カヌートのデーン朝が成立、イングランドの「海峡を越えた王政」が始まり、その後ウェセックス朝が復活、エドワード証聖王が即位。

後継ぎに恵まれなかった証聖王死後、地方豪族出身のハロルド2世、ノルウェー王ハラールとの三つ巴の戦いを制したノルマンディー公ギョームがウィリアム1世として即位、ノルマン朝が始まる。

これら王位の転変においても、国王が支持を得る為に、賢人会議など臣下との対話と協調を保証したことは幸運なことだった。

王位争いはその後も続き、ウィリアム1世の子ウィリアム2世およびヘンリ1世を経て、ウィリアム1世の娘アデラの子スティーヴンとヘンリ1世の娘マティルダ(独帝ハインリヒ5世未亡人)間の内乱が勃発、結局マティルダの再婚から生まれたアンジュー伯ヘンリ2世が即位しプランタジネット朝が始まるが、そこでも父子・兄弟間の抗争が継続。

だが、これが国民の自由と自立の為には、肯定的に作用した。

ノルマン朝・プランタジネット朝とも、大陸に所領を抱え、その防衛の為に、臣下に課税についての協調を求めざるを得ず、海外遠征における王の不在や王位争いの末の王の廃位は議会の実権を大いに高めた。

フランスを始め、中世に身分制議会を持った国は少なくないが、イングランドの議会だけが国政において格別の重要性を持つに至った理由は上記のものと思われる。

百年戦争とバラ戦争を経て、国内では議会が確固たる地位を確立していたが、国際的にはヴァロワ朝フランスとオーストリア・スペインの両ハプスブルク帝国に挟まれたイングランドは依然小国に過ぎず。

17世紀には国王と議会の協力が崩れ、クロムウェルの独裁的共和政を経験するが、幸いにも伝統的国制を目指す復元力が働き、名誉革命で「議会君主政」が復興。

18世紀ハノーヴァー朝治下では、議院内閣制を確立、フランスとの植民地争奪戦に勝利。

19世紀には革命と戦争に明け暮れる大陸諸国を尻目に、選挙法改正・穀物法廃止・カトリック教徒解放などの改革を順調に推し進め、国内の騒乱と急進的変革を見事に阻止する。

20世紀に帝国の没落とアメリカ的大衆民主主義化の波に洗われ、大きな変容を余儀なくされながら、今も君主制と貴族院を守り続けている。

 

 

やはりこの国は、日本を含む多くの国にとって範とするに足る、鑑の役割を果たす存在といっていいと思う。

この中公新書『物語〇〇の歴史』シリーズの主要国では、中国が成功例で、ドイツが失敗例だと私は考えているが、これは前者に近いと言っていいんではないでしょうか。

限られた紙数で、平板な事実羅列式の通史ではなく、歴史的登場人物の個性と彼らの活動が織りなす物語性を感じさせる、特色のある歴史叙述を何とか成り立たせている。

「イギリス通史の決定版」という感じはしないが、普通に推薦できる良書。

しかし評価は「3」かな。

書名一覧の評価で「3 易」が多過ぎるから、もっとメリハリをつけた方がいいんだろうが、内容からするとやはり本書に「4」はつけられない。

なお、同じ著者の君塚氏が書いたイギリス君主の伝記は(『ヴィクトリア女王』『ジョージ五世』『ベル・エポックの国際政治』[エドワード7世伝]など)それぞれ充実した内容を持っているので、(本書よりも)お薦めです。

2018年8月27日

中澤俊輔 『治安維持法  なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:37

讒謗律・新聞紙条例(1875年)、集会条例(1880年)、保安条例(1887年)、治安警察法(1900年)などが知られる近代日本の公安立法の中で、最大級の悪名を着せられている治安維持法(1925年)の具体的研究。

1922年提出の過激社会運動取締法案が、その「宣伝」取締法としての性格から、言論弾圧の懸念を生み、不成立。

1923年虎ノ門事件、25年日ソ基本条約を経て、加藤高明護憲三派内閣で治安維持法成立。

日ソ交渉で、ソ連は相互の破壊的宣伝禁止を政府間では認めたものの、コミンテルンはソ連政府とは直接無関係との遁辞を吐いているが、これは正常な国際関係のルールが通用しない国家であることを自ら示したとしか言いようが無いと思える。

言論の自由を重視する憲政会の影響で、治安維持法から「宣伝」罪が除かれ、「結社」取締法として成立、「国体変革」と「私有財産制否認」を主張する結社の組織・加入を罰する。

なお原案では「国体」だけでなく、「政体」が護持の対象とされていたが、例えば貴族院・枢密院改革の主張がそれに抵触するとされる恐れがあることなどから削除。

しかし「政体」の文言を代議政体・衆議院と解して存置しておけば、すぐ後に来た政党政治の危機において極右勢力の攻撃を防ぐ上で、むしろ役立ったのではないかとの見解もある。

1928年三・一五事件での検挙者の多数が、共産党自体には加入しておらず、「結社」取締法としての治安維持法では対応できず。

外郭団体を取り締まる為に、同年田中義一内閣下で治安維持法改正。

この改正では、従来最高刑が死刑となったことが注目されてきたが、著者は「目的遂行」罪が導入されたことの方を重視し、これが以後拡大解釈されて猛威を振るうことになった。

(日本本国では、治安維持法違反のみを理由とした死刑執行例はゼロ。ただし取り調べ途中の拷問死や、植民地朝鮮での死刑執行例はあり。)

1930年代に入り、激しい弾圧とそれに伴う転向で共産党はほぼ壊滅、代わりに極右国家主義の脅威が台頭、その右翼テロを罰する為の改正が意図されたが実現せず、政党政治は没落。

41年支援結社・準備結社への罰則、予防拘禁の導入を内容とする二度目の改正実施。

新興宗教団体、植民地独立運動、反戦運動などにも適用範囲は広げられていったが、一方近衛新体制運動・大政翼賛会による総力戦体制整備が、「私有財産制否定」「幕府的存在による国体毀損」という観点から、ブレーキがかけられるという一面もあった。

 

著者は最後に以下のように述べる。

個人の言論の自由を不当に抑圧するような結社はやはり規制されてしかるべきである。

しかし、その為に政党は共産主義思想よりもまず不法な暴力(誹謗中傷という言論の暴力も含む)を取り締まるべきだったのであり、当然左翼だけでなく右翼のテロもその対象となる。

また、日本の命運をかけるには「国体」という言葉は漠然とし過ぎており、もっと真摯に言葉を選ぶべきであった、と。

 

この著者の見解はごく穏当なものだとは思うが、私としては本書の冒頭に記されている、過去に清水幾太郎が述べたような治安維持法肯定論に近い感想を抱いてしまう。

以下、あくまで個人的感想です。

私は、無制約の自由放任的資本主義がどれほどひどく社会を荒廃させ、悲惨な状況を作りだすかについては理解しているつもりです(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)。

それを防ぐ為、政府による規制と介入は絶対に必要である(中野剛志『保守とは何だろうか』)。

しかし、共産主義という狂信が勝利し、体制として確立した場合、どれほどおぞましい地獄の沙汰がもたらされるかは、20世紀の歴史が嫌と言うほど証明している。

例えば、小林多喜二のような人が持っていた超人的な勇気と自己犠牲の精神を、私も認めないわけではない。

だが、彼が拷問死していたのとまさに同時期のソ連では、国家の政策によって人為的に数百万人の農民が餓死させられていたし、その後に狂気の大粛清が始まり近現代史上最悪の暗黒政治と大量虐殺が訪れる(戦前昭和期についてのメモ その2)。

もちろん多喜二の死は日本国家にとっての不名誉であり、無かった方がよかった。

しかし、以上の対比は歴然とした事実である。

にも関わらず、いかに多くの知識人と大衆がその狂信に魅せられ、支持者となったかに驚かされる。

共産主義に対しては、その不法な暴力行為のみを取り締まり、「思想には思想をもって戦う」方針で言論・結社の自由は制限すべきではなかったというのが、現在の平均的意見かもしれません。

しかし、私には、完全な言論の自由を保証すれば、極端で過激な思想は自然に淘汰され、穏当な多数意見が予定調和的に形成されるという、自由民主主義の「神話」が信じられない。

多数派世論が完全に間違った偏向意見を支持して破滅的な結果をもたらし、世論が依存する基盤的自由自体が崩壊するという、民主主義の自己破壊は、実は歴史上しばしば見られることではないか。

共産主義国家の底無しの残忍さ・劣悪さが、戦後数十年間の左翼偏向世論でほとんど無視されていたことを思うと、戦前の「国家による闇雲な弾圧」にも一定の効果はあったと考えざるを得ない。

それが様々な弊害を生んだのは事実にしても、国家にそのような過剰反応をさせた民衆の側の責任は間違いなくあるはずである。

そして、治安維持法がほぼ無力だった右翼テロと軍部の暴走の原因となった排外的国粋主義も、民衆世論の中の急進主義・現状変革志向・革新熱・破壊衝動・攻撃欲の現われという点では、共産主義と同じものである(井上寿一『山県有朋と明治国家』福田和也 『昭和天皇 第四部』)。

そうした世論の根本的問題性を避けて、治安維持法を諸悪の根源として扱うのはやはり当を失していると思える。

 

 

以上は、あくまで私の個人的感想です。

本書の内容とはほぼ関係ありませんので、「何言ってやがんだ、馬鹿野郎」と思われた方も、本書を避ける必要はございません。

いろいろ考える材料を提供してくれる良書として推薦します。

2018年8月23日

加茂雄三 『ラテンアメリカの独立  (世界の歴史23)』 (講談社)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 03:43

ラテン・アメリカ史を追加する為の本を探していたのだが、最近のものでは適切な本が見つからない。

なかなか読もうと思える本が無い。

それで、少々古いが、講談社旧版世界史全集のこれを選んだ。

まず目次を見て、「うん?」と思う。

18世紀のスペイン領アメリカ、ポルトガル領ブラジル、カリブ海地域の英仏領など、植民地体制の状況から話が始まっている。

ああ、そうだ、講談社旧版だと、この巻の前に『インディオ文明の興亡』があるんだった。

講談社旧版の特徴である第三世界重視の表われとして、ラテン・アメリカ史が二巻もあると、自分で書いておきながら忘れていた。

しかし、先住民文明と植民地化だけで一巻費やすって、改めて考えるとやはりすごいな。

 

本書は18世紀半ば、スペイン王カルロス3世時代の改革から始まる。

七年戦争でスペインはフロリダを失い、その代償にミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから得た。

その広大な領土を保全するために、それまでの重商主義的政策を改め、貿易自由化と行政機構改革が行われた。

イギリスを中心とした他国の貿易参入によって、現地白人のクリオーリョ有力者が台頭、民兵制によって植民地の軍事力もクリオーリョの寄与が大きくなる。

ここでラテン・アメリカ史の基本事項である、人種にまつわる分類を再確認。

クリオーリョがスペイン人と区別される植民地生まれの白人、社会の最下層に置かれたのが黒人の奴隷、混血の総称はパルド、白人と先住民のそれはメスティーソ、白人と黒人のそれはムラート、先住民と黒人のそれはサンボ。

植民地時代末期、三つの大衆蜂起が発生。

ペルー、ボリビアでのトゥパク・アマルの反乱、仏領サン・ドマングでの黒人奴隷反乱とハイチ革命、メキシコでのイダルゴの蜂起である。

これらはラテン・アメリカ独立の先駆けと見なされることもあるが、先住民・黒人中心の急進的暴動であり、クリオーリョの支持を得ることは出来ず。

むしろ、先住民・黒人の多いカリブ海などの地域では、恐れをなしたクリオーリョたちの独立志向を冷ます役割を果たした。

長年にわたる虐待と差別を考えれば、こうした蜂起が起こるのも無理はなかったのだろうが、それでも暴力の全面肯定は出来かねる。

メキシコで先住民を率いて蜂起したイダルゴに、部下の一人が反乱軍のあまりに残虐なやり方や略奪を見て「これらのゆきすぎに対して処罰せねば、われわれの大義は失われる」と直言したことや、後に奴隷制廃止を認めたシモン・ボリバルすら「黒人の反乱はスペイン人の侵入よりも一千倍も悪いことだ」と語ったというエピソードを読むと、そう思う。

高校世界史では、ラテン・アメリカの独立はウィーン体制崩壊の一現象として扱われるので(今の教科書では違う配置もあるようです)、独立運動はナポレオンが完全に没落した1815年以降の出来事だという印象があるが、本書で独立の画期とされているのは、1810年スペイン本国でナポレオンに反抗してカディスに中央臨時政府が樹立されたことである。

カディスは本国の重商主義政策の中心だった都市で、中央臨時政府が本国の特権商人たちに取り込まれるのではないかと考えた植民地クリオーリョが、自由貿易を求めて自立に向け動くことになった。

戦後スペインではブルボン朝が復位したが、1820年自由主義者の反乱勃発、これで進歩的な1812年憲法が一時復活したので、それまでスペイン支配が強固で独立志向が薄かったメキシコ、ペルーなどの保守的クリオーリョも独立派に転向。

ここで、誰でも知ってるサン・マルティンとシモン・ボリバルの登場となる。

細かな経緯はさすがに面倒なので省略。

サン・マルティンが南部のラプラタ諸邦連合(アルゼンチン)、チリなど主に大陸南部を、シモン・ボリバルがベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアなど大陸北部をその軍事的才能で独立に導く。

メキシコでは、イダルゴより穏健なメスティーソ出身のモレロス率いる蜂起が起こったが、これにも保守的クリオーリョは反応せず、モレロスは処刑、結局独立は本国の自由主義運動の波及を恐れて1821年イトゥルビデという人物を皇帝に選出する帝国成立の形で成されたが、その帝政も23年には廃され共和制に移行。

1823年中央アメリカ連合が独立したが、38年には現在の中米各国が分離独立、ボリバルによって創設された大コロンビア共和国も結局分解、植民地時代の行政区分に概ね基づく国家が分立する形勢となり、ボリバルの南米統一の理想は実現せず。

しかし、国家にはやはり適正サイズというものがあり、あれだけの広大な地域が単独の国民国家はもちろん、連邦国家としても機能するとは思えないので、これは嘆くには当たらないと個人的には思える(本書でも各国の領域はそれなりの自律性を持っており、全く便宜的なものであったわけではない、とされている)。

ラテン・アメリカの独立には海軍力などイギリスによる暗黙の援助が寄与、実際その目論見通り経済的にはイギリスが最大の影響力を持つことになった。

1823年のモンロー宣言は、長期的に見ればアメリカ合衆国の西半球での覇権確立の意図を示したという意義はあるが、当時のアメリカの国力では実効性はほぼ無く、実際に独立を促進したのは、イギリスの海軍力とスペイン・フランスへの政治的圧力だった。

南米大陸で広大な領域を占めるブラジルはスペイン領ではなく、ポルトガル領。

18世紀の金鉱・ダイヤモンド鉱発見で経済は大きく発展、黒人奴隷が大量流入。

1807年ナポレオンの侵入を受け、ポルトガル王室はイギリス海軍に保護され、ブラジルへ避難。

国王は本国に帰国したが、ブラジルを本国と対等の王領とする政策が撤回されそうになると、1822年国王の息子がペドロ1世として皇帝に担ぎ上げられ、ブラジル帝国が独立。

1840年ペドロ1世は議会との対立で退位、続くペドロ2世は安定した治世を実現、コーヒー栽培が盛んとなり、多くの移民が流入、88年奴隷制が廃止されたが、翌89年共和主義的な軍部のクーデタで帝政は倒壊、共和制に移行。

1870年代以来皇帝と教会が対立していたこと、奴隷制廃止によって寡頭支配階級が帝政を奴隷制維持の為の必要な支えと見なさなくなったこと、ペドロ2世の老弱化と後継者が娘しかおらず帝政の将来に不安が持たれたことなどがその原因とされている。

一方、スペイン領アメリカでは、あまり触れられることはないが、独立戦争の過程で極めて大きな人的・物的損害が出た。

さらにその過程で、政治・社会が軍事化し、独立後には多くの国で軍が大きな地位を占め、その領袖である最有力者がカウディーリョと呼ばれ、大統領となり国政を壟断するようになってしまう。

中南米では、ブラジルを除いて長期間存続した君主制国家は無く、最終的には全ての国家が共和制を採用したが、実は独立闘争初期には、サン・マルティンを含む多くの指導者は君主制論者であった。

スペイン、ポルトガルのような絶対君主制は否認しつつ、立憲君主制の下で社会的動乱や政治的アナーキーを防止しようとの意図から。

当時のヨーロッパで、フランス革命後、ナポレオンの独裁が誕生したことへの幻滅感も強かった。

しかし、ヨーロッパの諸王室で、スペイン王室を裏切ってまで危険な中南米で即位しようとするメンバーはおらず、シモン・ボリバルがサン・マルティンとは異なり強固な共和制論者だったことも与って、短期間だけのイトゥルビデのメキシコ帝国以外に君主国は成立せず。

共和制論者のシモン・ボリバルにしても、大衆の政治参加による混乱と破壊的傾向には大いに警戒心を持っており、彼が構想していたのは、有産者による寡頭的共和制だった。

ボリバルやサン・マルティンは先住民の地位向上に理解を持っていたが、それは必ずしも徹底せず、奴隷制は独立後廃止されていったが、黒人の境遇にも目立った変化は見られなかった。

独立後のラテン・アメリカ諸国史では、メキシコ史だけは高校世界史でも簡略な通史を学ぶ感がある。

イトゥルビデ帝政の崩壊とサンタ・アナの独裁(この両者は範囲外だが)、テキサス独立と米墨戦争、ナポレオン3世の介入とマクシミリアン皇帝、フアレスの自由主義政権、ディアス独裁体制、メキシコ革命とマデロ、カランサ政権成立、といった具合に。

しかし、他の諸国すべてについて、これくらいの簡略なものであっても通史を知るというのは正直難しい。

断片的な史実と指導者を記憶していくくらいでやむを得ないでしょう。

ラプラタ連邦ではロサスの独裁の後、アルゼンチン連邦が形成され、牧畜業が盛んとなり比較的順調な発展の道を歩み、パラグアイではフランシア政権の独特な鎖国政策の後、ロペス父子が大統領となるが、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイを相手とする無謀なパラグアイ戦争で人口が控えめに見ても半減する被害を受け、社会が大きく停滞したこと、チリでは寡頭支配層が軍部を統制下に置くことに成功し、銅鉱業が発展、ボリビア・ペルー相手の「太平洋戦争」で硝石産出地帯を併合し(これでボリビアは内陸国となった)、国力を伸ばしたこと等々。

1870~80年代以降、各国の国内政治は比較的安定し、ヨーロッパ諸国の武力干渉は例外的となり、近隣諸国との大きな戦争も見られなくなり、輸出志向型の経済発展が起きたが、同時にその経済の従属的構造とアメリカ合衆国の覇権的支配も強まる。

それへの大衆の反抗に直面した支配層は極端な独裁的統治による抑圧を選択する場合もあれば、階級協調的で大衆の国民国家への包摂を目的とする人民主義的政治を展開する場合もあった。

後者の代表がメキシコのカルデナス政権、ペルーのアプラ運動、ブラジルのヴァルガス政権、アルゼンチンのペロン政権、チリの人民戦線内閣である。

一方、キューバ革命はそれとは異なる急進主義的な解決策を提示し、この地域を大きく揺さぶることになった。

 

 

前半はまあまあ面白いし、各国別の細かな史実も割と紹介されているので、役に立つ感じではある。

現代史の部分はやや左派色の強い記述のような感があり、ひっかかる点もないではないが、超大国アメリカの専横やむき出しの資本主義がもたらす弊害などは、左右の政治的立場に関わらず、公平に見て存在するのは間違いないであろうから、あえて気にしないことにする。

なお、講談社旧版「世界の歴史」についての記事で書くのを忘れていたが、このシリーズは参考文献欄が充実しているのが長所であった。

ただ書名を並べてあるのではなく、簡単なコメントを付けているのだが、それだけでも効用がグンとアップする。

これは他の世界史全集にも見習って欲しかったところではあります。

刊行年代は古いが、普通の通史として充分使えます。

2018年8月19日

中野剛志 『日本思想史新論  プラグマティズムからナショナリズムへ』 (ちくま新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:38

幕末の尊王攘夷論者である会沢正志斎、その思想の源流となった古学の確立者伊藤仁斎と荻生徂徠を取り上げ、それら三者がプラグマティズムに基づくナショナリズムという思想を共有していたことを示し、さらに明治期の啓蒙思想家の代表格である福沢諭吉にもその思想が一貫していたことを主張する本。

著者にとって、専門外とも思える分野でこれだけ論旨明解で興味深い書物を書く力量に感嘆する。

このブログで紹介している中野氏の本は、とにかくすべて読まれることを強くお薦めします。

 

ジャック・シュナイダーは、各国の民主化・自由化の過程と攻撃的なナショナリズムとの関係について、歴史的・実証的な比較研究を行い、急激な民主化と自由化は、人気主義的なナショナリズムを引き起こし、それは過激な排外主義と化して、他国との戦争や国内の民族紛争をもたらすことを明らかにした。

例えば、フランス革命による急進的な民主化や自由化は、過激なナショナリズムを引き起こし、フランスを対外侵略戦争へと駆り立てていった。あるいは、ドイツのワイマール共和国における民主化や自由化もまた、ナチズムをもたらした。最近では、九〇年代に、国際人権団体の圧力によって、急激な言論の自由化と民主化を推し進めたルワンダ及びブルンジでは、言論と民主政治を通じて過激な民族主義が増幅し、国内で民族間対立を過熱させ、五〇万人もの犠牲者を出した。

これに対して、国家と大衆の間の中間勢力を維持しつつ、漸進的に民主化や自由化を進めた国々では、こうした自己破壊的なナショナリズムの過激化は、比較的抑えられているとシュナイダーは論じている。例えば、一八~一九世紀のイギリスは、フランスに比べれば、攻撃的なナショナリズムの発生は抑えられていたが、それは、イギリスでは、エリート層の間で言論の自由や代議制度が確立してから、民衆参加の民主化を進めるという漸進的な過程を経たからである。最近でも、マレーシアが、複雑な民族問題を抱えているにもかかわらず、国内紛争や虐殺を引き起こすような民族主義が抑制されているのは、この国が、先進国の批判にもかかわらず、言論の自由化や民主化を急進的に進めようとはしないおかげである・・・。

実は、民主化や自由化といった改革は、中間勢力を維持しつつ漸進的に行わないと、混乱や無秩序を招くという議論は、フランス革命を批判したエドマンド・バークアレクシス・ド・トクヴィルといった思想家たちが指摘してきたことであるし、また民衆が政治に直接的に参加する共和国が好戦的な傾向にあることは、デイヴィッド・ヒュームアレクサンダー・ハミルトンといった一八世紀の思想家や政治家にも知られていた。シュナイダーの研究は、こうした近代保守思想の伝統を裏付けるものなのである。

正志斎らが天皇の聖的権威の下に国民を統合しようとしつつも、天皇と国民の間に幕藩体制という中間勢力を残存させようとしたこともまた、ナショナリズムを過激化して国内を分裂させることを避けようとしたためではないだろうか。徂徠の武士土着論に対する東湖の批判や、勅諚降下問題を巡る正志斎の保守的な姿勢は、彼らの懸念が内乱にあったことを示している。内乱は、言うまでもなく、外国に侵略の機会を与えることになる。国家の独立を守るためには、国内分裂は最も避けなければならないことである。

イギリスが、大衆の政治参加が実現する以前に、エリート層の間でのリベラルな制度を確立していたように、後期水戸学の指導者たちは、おそらく、藩政改革を実践に移す中で、まずはエリート層における言論の自由化や人材登用を進め、そして豪農層にも政治参加を拡大していくという漸進的なアプローチが望ましいことを学んでいったのであろう。

だが、国際情勢の緊迫化はもはや漸進的な改革を許さず、すでにナショナリズムに火をつけており、尊王攘夷の過激化は避けるべくもない全国的な政治運動と化していた。しかも、その運動の拡大に貢献したのは、未だ西欧列強の脅威が一般に知られていなかった頃に正志斎が著した警世の書『新論』であった。結局、正志斎らは暴走するナショナリズムの統御に失敗し、他ならぬ水戸藩自身が、藩内の呵責なき内部抗争や天狗党の乱のような過激化した土民の蜂起によって著しく弱体化して自滅していくのである・・・。

しかし、この水戸藩の自壊こそが、ナショナリズムに訴えた直接的な民衆動員が運動の自己破壊的な過激化をもたらし、社会の内部分裂を引き起こすということを証明するものであり、朝廷と国民との間に幕藩体制という中間勢力を残そうとした水戸学の思想を正当化するものなのである。もし水戸藩の攘夷論が、「民ノ或ハ動カンコト」をまったく恐れずに、丸山の言う「広く国民と共に対外防衛に当たろうとする近代的国民主義」の理想を目指して突き進んでいたら、より過激な排外主義が台頭し、より悲惨な内戦が引き起こされていたのではないだろうか。

正志斎の晩年における保守化は、封建道徳の限界ゆえというよりは、中間勢力なき急進的な民主化や自由化がナショナリズムの過激化を経由して暴力と混乱を引き起こすというメカニズムに気づいていたからだったのではないだろうか。彼は、ナショナリズムによって防衛力を強化し、国内体制を改革する原動力とするという国家戦略を先駆的に構想しただけではなく、その戦略を実践する中で、ナショナリズムの危険な側面にもいち早く気づき、その暴走を制御しようと腐心した。単にナショナリズムを刺激し、覚醒させるだけでは、国民の分裂を招き、国民統合という大目的の達成に失敗しかねない。国民統合から強力なパワーを引き出しつつも、同時に破壊的にならないように制御するような制度が必要である。正志斎は、そこまで洞察した上で、自らの置かれた時代環境の制約下でのベストの判断として、聖的権威である天皇によって国民全体を統合しつつも、天皇と民衆の間に幕藩体制という中間勢力を残す公武合体の国民国家を構想したに違いなかった。それを単なる封建反動としてしか解釈することのできない後世の学者たちは、プラグマティックなセンスにおいてはもちろん、国民国家という政治秩序に関する理論的な理解、さらにはナショナリズムがはらむ危険性に対する洞察においても、正志斎よりはるかに後れているのである。

2018年8月14日

南塚信吾 『図説ハンガリーの歴史』 (河出書房新社ふくろうの本)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 01:49

この「ふくろうの本」というのは、ちょっと大きめの判型で、写真と図版が満載のシリーズである。

世界史関係も相当数出ているが、文章量が少ない分、内容が薄い気がして、今まで読んだことはなかった。

しかし、ハンガリー史の適切な本が見当たらないので、読みやすいことは間違いないだろうと考え、これを手に取る。

140ページほどの分量で、ほぼ全ページに写真と図版が載っているので、やはり通読は楽。

 

マジャール人はフィン・ウゴル語族に属し、ウラル山脈の東でも活動していたため、「アジア系」と言われることもあるが、名前が「姓・個人名」の順序であることを除けば、まあ我々が通常考える「白人」である。

「ハンガリー」は他称だが、これはフン族に由来するのではなく、6世紀頃マジャール人が合流して暮らしていたブルガール・トルコ系のオノグル人のラテン語名「フンガルス」から来たものだという。

ウラル山脈南部から徐々に西方に移動、9世紀終わり頃、首長アールパードに率いられ、現在のハンガリーの地であるカルパチア盆地に侵入。

ノルマン人と並んで、「第二次民族大移動」の主役となり、ゲルマン民族大移動以来、フランク王国の統一でようやく安定していたヨーロッパ世界を揺るがす。

西スラヴ族の大モラヴィア国を崩壊させ、東フランクにも侵入したが、955年高校世界史でも出てくるレヒフェルトの戦いでザクセン朝のオットー1世(神聖ローマ皇帝即位前)によって撃退される。

1000年ちょうど(あるいは1001年)キリスト教の洗礼を受けていたイシュトヴァーン1世が神聖ローマ皇帝オットー3世とローマ教皇の了解の下、独立したハンガリー王国を樹立(アールパード朝)。

ラースロー1世はキリスト教化と法整備に努めクロアチアも支配、カールマーン王もその政策を継続し、第一回十字軍の国内通過を認める。

アンドラーシュ2世(位1205~35年)は王権強化を目指すが、貴族の反抗でその特権を確認するハンガリー版「金印勅書」の発布を余儀なくされる。

その子ベーラ4世(位1235~70年)の治世にモンゴル軍が襲来、大きな被害を受けるが、貴族層との妥協と森林・鉱山開発、特権授与による都市の発展という政策を推進。

しかし、アールパード朝は断絶、1308年婚姻関係によりナポリからカーロイ1世が迎えられアンジュー朝が始まる。

ビザンツ帝国も神聖ローマ帝国も衰退期に入り、英仏百年戦争と黒死病など「14世紀の危機」にあった人口8000万ほどのヨーロッパで、ハンガリー王国は300万の人口を擁す大国の地位を得る。

カーロイ1世は大貴族を抑圧し、王権を拡張、子のラヨシュ1世(大王)は短期間ポーランドとの同君連合を組み、最大版図を実現したものの、内政面の発展はやや停滞。

ラヨシュ1世に子が無く、1387年娘婿のルクセンブルク家ジギスムントが王位を継承(1410年神聖ローマ皇帝にも即位)。

このジギスムントは著名ではあるが、オスマン帝国との1396年ニコポリスの戦いを始めとする対外的敗北を重ねた凡庸な王と評されている。

ジギスムント死後、ルクセンブルク朝も断絶、王位をめぐる対立の中、オスマン軍に果敢な戦いを挑んでいたフニャディ・ヤーノシュの声望が高まり、その死後、子のマーチャーシュが1458年国王に即位、アールパード朝以来の土着王朝を樹立。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を王位に推す勢力を圧伏、中央集権化を進め商工業が活発化。

しかし、16世紀に入ると、ハンガリーを含む東欧では、王権が衰退し、分権化が進行、農民が再度領主に従属の度を深め、「再版農奴制」が成立し、輸出用の商品生産に従事する、という西欧とは真逆の史的展開が見られるようになる。

フニャディ朝はマーチャーシュ王一代で終わり、王位争いの末、ポーランドのヤゲウォ朝出身のボヘミア王ウワディスワフ2世が即位したが、その統治は弱体で貴族層の勢力が回復、それへの反発から農民反乱が勃発、国内危機が進行。

1526年モハーチの戦いで、スレイマン1世治下のオスマン軍に対して、ヤゲウォ朝のボヘミア王兼ハンガリー王ラヨシュ2世は惨敗、国王は戦死。

以後、ハンガリー中央平原部はオスマン朝支配下に入り、北西部はラヨシュ2世の義兄でハプスブルク家のフェルディナント1世が国王となり、東部のトランシルヴァニアはオスマン朝の宗主権下の自治公国となる。

1683年第二次ウィーン包囲失敗によってオスマン帝国は後退、1699年カルロヴィッツ条約によってハンガリーをオーストリアに割譲。

一部貴族の反ハプスブルク・独立運動が起こるが、結局カール6世の「国事詔書」で同家の世襲王位継承を承認。

マリア・テレジアとヨーゼフ2世の啓蒙専制政治が行われ、宗教面での「寛容令」が出されるが、「農奴制廃止令」は貫徹できず。

ロマン主義の影響で民族的自覚が高まり、小貴族出身のコッシュート・ラヨシュらの民族自立と立憲制、農奴解放を求める急進的改革派が生まれるが、同時にハンガリー人以外の少数民族にはその民族意識高揚への警戒が強まる。

1848年革命での自立(必ずしも独立ではない)への動きは、急進派と穏健派およびハンガリー人と他の少数民族間の分裂、オーストリア側へのロシア軍の支援によって、49年に鎮圧、コッシュートらは亡命。

フランツ・ヨーゼフ1世の中央集権的統治下、農奴解放が実現され、順調な経済発展を遂げる。

普墺戦争後、1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国成立。

「アウスグライヒ(ドイツ語で「妥協」「和約」の意)体制」とも呼ばれる。

(「アウグスライヒ」と空目して間違えて覚えないように。私の事ですが。「アウスグライヒ」です。)

ハプスブルク帝国内の諸民族のうち、ハンガリー人にのみ、オーストリア・ドイツ人と対等の地位を認めて、独自の政府を設置するということだが、単なる同君連合とも違う。

「アウスグライヒ」によってハプスブルク帝国は、オーストリア帝国とハンガリー王国が一つの国家をつくることになった。この二重君主国は同君同盟を超える不思議な体制を持っていた。まず共通の君主のもとで、国防、外交、それに財政の一部がオーストリアとハンガリーの共通で行われる「共通事項」となり、それぞれ皇帝によって任命される「共通大臣」が担当した。そして、この三大臣と両国の首相から成る共通内閣が行政を行った。また、両国の国会からそれぞれ六〇名の「代議員」が選ばれて代議員会議を構成した。さらに両国は、共通関税を設定し、一〇ごとに更新することになった。他方、両国それぞれが国会と政府と首相を持って、内務、司法、宗教・教育、農工商業、交通などは両国の内政の問題となった。

・・・・・・

オーストリア側に編入されたチェコ人は、アウスグライヒに強く反対して、帝国をオーストリア、ハンガリー、チェコの三ヵ国からなる三重制へと再編することを目指した。そして一八七一年に「基本法」を準備したが、オーストリア・ドイツ人とハンガリー政府の反対によって、挫折してしまった。

アウスグライヒは、オーストリアとハンガリーの支配階級が国内のスラヴ諸民族やルーマニア人を支配し続けるための「妥協」であった。経済的には、六〇年代からの穀物ブームに乗って発展してきたハンガリーの地主層と製粉業などの大資本と、ドイツ市場を失ってむしろハンガリー市場に眼を向けてきたオーストリアの大資本家との「妥協」であった。こうして、ハンガリーはいわばまわりの諸民族を「踏み台」にしつつ、民族的独立と内政の自由を勝ち得たのであった。

このアウスグライヒの体制をどう評価するかということは、今日にいたるまで、ハンガリー史の大きな論争点である。このように「妥協」するのがよかったのか、あるいは断固「独立」を目指すべきであったのか、あるいはドナウ流域の「連邦」を構想すべきではなかったのか、議論はつきない。「国民国家」という観点からはこの体制は「異質」で「過渡的」であるが、多民族を擁する地域の国家の形態としては、それなりの知恵であって、その内的な改善を積み上げていって「三重制」など独特の国家を発展させることができれば、興味深い歴史になったとも考えられる。

この時代のハンガリーの指導者は、デアーク、アンドラーシ、ティサ父子らであり、1878年ベルリン会議、79年独墺同盟などを主導した時の共通外相はアンドラーシである。

1873年以降「大不況」の到来で金融界の独占化が進行、農業恐慌のあおりで農村部での激しい労働闘争が頻発する一方、哲学者のルカーチ、社会学者のカール・マンハイム、経済学者のカール・ポランニーら錚々たる学者を輩出した。

1908年青年トルコ革命後、二重帝国が(ベルリン会議で行政権だけを得ていた)ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したことで、セルビアおよびロシアのスラヴ系国家との対立が激化、遂に第一次世界大戦の破局に至る。

1918年10月敗戦で帝国は崩壊。

共和制が宣言され、自由主義者カーロイ首班の内閣が成立するが、激しい対立と混乱の中、19年3月クン・ベーラがソヴィエト政権を樹立。

これが西欧諸国の支援を受けたチェコスロヴァキア軍とルーマニア軍に倒された後、ホルティ提督率いる反革命派が首都ブダペストに入城、20年「王国」が復活したが、国王は置かれず(文字通りの「王政復古」の場合、さすがにドイツ系のハプスブルク家は、保守層にももはや受け入れられなかったということか?)ホルティが「摂政」となるという、奇妙な体制に移行。

同年トリアノン講和条約で旧領土の三分の二と人口の四分の一を失う。

戦後は「白色テロ」と領土回復を目指す「修正主義」的ナショナリズムを抑制した、安定した保守体制を志向し、伝統的保守主義者「摂政」ホルティの下、1921~31年長期間任に当たったベトレン内閣はひとまずそれに成功した。

しかし世界恐慌の襲来と共に右翼急進主義が台頭、32年首相となったゲムベシュはナチス・ドイツに接近、36年のゲムベシュ病死後もその政策は継続され、それよりさらに過激で親ナチ的なサーラシらの「矢十字党」も結成される。

右傾化したとはいえ、依然権威主義の段階にあり、「矢十字党」の政権奪取を阻止し、チェコ・ルーマニア・ユーゴからの領土回復目的でナチス・ドイツを外交的に利用しつつ、国内のナチ化は拒否する方針のハンガリーだったが、39年1月日独伊防共協定加入、第二次大戦勃発には中立を守ったものの、40年11月日独伊三国同盟に加入、41年4月ドイツがユーゴ侵攻のためにハンガリー領通過を要求すると、連合国との外交断絶を恐れた首相のテレキは自殺、41年6月独ソ戦が始まると対ソ宣戦に踏み切る。

戦況の悪化で、ホルティは戦争からの離脱を試みるが、44年3月ドイツ軍が進駐、10月クーデタで矢十字党政権を樹立し、ホルティを追放、ユダヤ人と反政府派の弾圧に狂奔する。

戦後、ソ連軍により全土が占領。

共産党、社会民主党、独立小農業者党、民族農民党などによる連立政権成立。

東欧圏の、この広範な反ファッショ的連帯は「人民民主主義」と呼ばれ、本書でもこの時期の諸改革は比較的好意的に書かれているが、少し後には単に共産党による独裁の隠れ蓑に過ぎない名称となる(その過程で共産党が社会民主主義政党などを吸収合併したので、東欧諸国の独裁的執権党は「〇〇共産党」以外の名称が多い)。

47年冷戦本格化でソ連および共産党による圧迫が激しくなり、49年にはラーコシ率いるスターリン主義的な共産党独裁政権が樹立。

53年スターリンが死ぬと、改革派のナジ・イムレが首相となるが、55年に失脚。

56年ソ連共産党大会でスターリン批判が行われると、ハンガリー動乱が勃発。

(「動乱」には悪いイメージがあるという意見があるようで、本書でも「1956年革命」との表記になっているが、私は「ハンガリー動乱」と書いたところで、反対派として立ち上がった人々が不当であるとのニュアンスは感じないので、以前のまま書きます。ただ私の感覚の方がおかしいのかもしれない。)

民衆デモでラーコシ派は退陣、首相にナジが復帰、党書記長にも改革派寄りのカーダールが就任、45~48年当時の政策への復帰を発表、ソ連軍が首都に現れたが、この第一次介入はひとまず収まり、ソ連軍は撤収。

しかし一部で激情に駆られた民衆による共産党や治安警察への攻撃が起こると(それまでの共産党の抑圧を考えればこれも不可避だったのかもしれない)、ソ連は第二次介入を決断、ナジはワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言、激しい戦闘により多数の死者が出る大惨事となる。

ナジは一時ユーゴ大使館に避難したが、逮捕され58年に処刑。

出国していたカーダールはナジと決別し、別個の共産党である社会主義労働者党を結成、帰国後新体制を樹立。

ソ連軍と共に帰国したカーダールは、当初国民の怨嗟の的となったが、元々は反ラーコシ的な改革派だったこともあり、「敵でないものは味方である」との政治姿勢で、一定の自由化措置を講じ、農業集団化など硬直した社会主義政策を改め、1988年冷戦終結直前までにおよぶ超長期政権下に東欧共産圏の中では最も抑圧度の低い体制を作り上げることになった。

ソ連のペレストロイカの影響で1989年には共産党独裁放棄、ハンガリー動乱の再評価、複数政党制移行、西側への国境開放、国名「ハンガリー人民共和国」からの「人民」の削除などが行われた。

他の東欧諸国でも同じなんですが、体制の非共産化以後の政局には余り興味が持てないんだよなあ。

旧共産党が社会党に改称、自由選挙で「民主フォーラム」が勝利したが、自由化・民営化に伴う混乱が国民の不満を買い、94年社会党が政権復帰、ホルン内閣が成立したが、この政権も政策転換に成功せず、98年青年民主連合(フィデス)のオルバーン内閣成立、99年NATO加盟、2004年EU加盟、フィデスと社会党が現在政治の主軸になっている模様。

 

 

類書が無い中では、まあいい方じゃないでしょうか。

読み易さと詳しさのバランスがちょうどいい。

初心者のハンガリー史はとりあえずこれ一冊だけでいいでしょう。

2018年8月10日

飯倉章 『第一次世界大戦史  諷刺画とともに見る指導者たち』 (中公新書)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 03:47

2016年刊。

序章で、大戦前の外交危機を取り上げ、敵対国の意図の取り違え、疑心暗鬼、同盟国との意思疎通の失敗、動員と鉄道輸送に関する硬直した軍事計画が外交交渉の余地を狭めたこと、などが重なり地滑り的に大戦争に至ったメカニズムを描く。

その後は、一年ごとに一章を割り当て、戦局の推移を叙述していく。

そこにおいては、指導者の決断と行動に焦点を合わせ、様々な逸話を紹介しており、非常に興味深く、読みやすい。

具体的記述としては、1914年マルヌとタンネンベルク、1915年ガリポリ、1916年ヴェルダン、ソンム、ユトランド沖という主要戦闘を年号と結び付け、1917年ロシア革命とアメリカ参戦という転機を経て、1918年ドイツの最後の攻勢が失敗し、休戦に至ることを最低限記憶すること。

政治家以外に、軍人の名として、ドイツの(小)モルトケ、ファルケンハイン、ヒンデンブルク、ルーデンドルフ、マッケンゼン、ホフマン、ゼークト、ティルピッツ、シェーア、フランスのジョフル、ニヴェル、ペタン、フォッシュ、イギリスのキッチナー、フレンチ、ヘイグ、ジェリコー、オーストリアのコンラート、ロシアのブルシーロフ、イタリアのカドルナ、アメリカのパーシングあたりを目に慣らしておき、それぞれの役割をごく大まかでいいから頭に入れる。

以下、興味深く思った部分の、断片的な引用。

 

これまでの歴史家の多くは、イギリスは、ヨーロッパ大陸で一国(この場合はドイツ)が覇権を握るのを好まず、伝統的な勢力均衡策をとり、露仏側に立って参戦したと説明してきた。

しかし、よりグローバルに見るとどうだろう。イギリスが参戦せずに露仏が勝ったとすれば、インドや地中海でのイギリスの利益は両国に脅かされる可能性がある。いささか皮肉なことに、イギリスにとって、ドイツは海外での大きな脅威にならないが、露仏はそうではない。ただ他方で、ドイツが勝ってしまうと、大陸でイギリスは友邦フランスを失ってしまう。大陸でフランスという友邦を確保したうえで、ロシアに恩を売り、海外における権益を保持する最良の策は、ドイツと戦うことだと判断したとも言えるのだ。

 

 

一九一四年の八月から一二月までの五ヵ月の戦いで、膨大な死傷者・行方不明者が出たことが現在の研究では明らかになっている。・・・・・なかでもフランス軍は、八月だけでも八万人、九月初めで八〇〇〇人、マルヌの戦いで二万五〇〇〇人の戦死者を出したとされる。一年半に及んだ日露戦争での日本軍の戦没者数はおよそ八万八〇〇〇人(戦死者は五万六〇〇〇人弱)であるから、開戦二ヵ月弱でフランスは日露戦争の日本軍をはるかに上回る戦死者を出していたのである。

 

 

[1915年5月]独墺同盟軍はロシア軍陣地を突破し、一週間あまりでロシア軍は二一万の兵員を失う。そのうちの一四万人は捕虜である。ロシア軍は一六〇キロメートルも後退し、同盟国軍は六月三日にはプシェミシュル要塞を奪い返す。ストローンは、ヒンデンブルクとルーデンドルフでなく、マッケンゼンとゼークトこそ、大戦のドイツ陸軍でもっとも成功したコンビであると評価している。

 

 

リデル=ハートは、コンラートを当時おそらく「もっとも有能な戦略家」とも評価している(オーストリア軍の将軍たちも、彼を軍事的天才とみなしていた)が、率いる軍隊が彼の「戦略的妙技」に向いていなかったとも指摘している。彼は、自身の軍の実力をわきまえていなかったのだ。

コンラートだけに責任があるのではないが、オーストリア軍は弱かった。東部戦線が長く、敵と接触する面が多いという事情もあるのか、オーストリア軍は捕虜になる確率も非常に高かった(ただ、同じ東部戦線にいるドイツ軍に捕虜はあまり出ていない)。これは士気の低さもあったと考えられる。非ドイツ系民族の兵士には、逃亡や集団投降も目立った。装備も貧弱で、ドイツ軍、フランス軍、イギリス帝国軍などと比して、オーストリア軍(それとロシア軍、イタリア軍)は一段も二段も劣っていたのだ。

 

 

英雄コンビ[ヒンデンブルクとルーデンドルフ]が戦争指導の先頭に立ったことは、ドイツにとっても悲劇であった。同時代のドイツのもっとも偉大な軍事史家ハンス・デルブリュックは、「この日に、この決定をもって、ドイツ帝国は敗れた」と評している。彼が言うには、この英雄コンビの二人には、将来に対する賢明な悲観主義とでも言うべきものが欠けていたのである。ファルケンハイン、[宰相]ベートマン、そしてカイザーは、少なくとも一九一五年にはそのような悲観主義を共有し始め、交渉による和平が必要であると感じ始めていた。

ところが、ヒンデンブルクとルーデンドルフは、盲目的に勝利を確信していた。そのような勝利は、すべての国民、武力、外交的策謀を奮い起こしてこそ達成されるものであると考え、彼らはドイツをさらなる戦争の深みに引きずり込んだのである。

 

 

この時期にドイツは、無制限潜水艦作戦を再開するしか手がなかったのだろうか。これまでドイツは、全体として優位に戦いを進めていた。ルーマニアを打ち負かし、ロシアも混乱しており、予見は難しかったにせよ革命で崩壊する途上にあった。

また、後に明らかになるように、フランス軍の士気は低下していたし、イギリスは資金不足で深刻な財政危機の瀬戸際にあった。さらにアメリカ国内でも、一九一六年秋にはイギリスのドイツ封鎖に対する怒りの声が上がり始めて、米英関係はどん底にあった。

「アメリカの参戦とそれに伴う包括的な援助がなければ、一九一七年の夏か秋には、イギリスは講和を求めざるを得なかっただろう」と歴史家のクラークは指摘し、ドイツが無制限潜水艦作戦を実施せず、アメリカを参戦させずにいたら、連合国の手によるドイツの敗北は「高い確率であり得なかった」と言う。

確かに「制限つき」の潜水艦作戦を仮に継続し、アメリカ市民に多少の犠牲が出続けたとしても、それだけでアメリカが自ら参戦に向かったとは思えない。では、ドイツは、ただ待っていればよかったのだろうか。後知恵をもって歴史を見ればそう言えそうである。しかし、政策決定者にとっては待つこともリスクであり、積極的に何かをしたいという誘惑を抑えるのは往々にして難しいのだ。

 

 

本書の最後は、革命と敗戦後、オランダに亡命したカイザー、ヴィルヘルム2世の余生に触れている。

ワイマール共和国大統領ヒンデンブルクに頼って復位を希望したものの、もはやそのような状況ではなく、ヒトラーは1934年2月強烈な君主制批判を発し、君主制関連組織を非合法化する。

40年ドイツのオランダ・フランス占領に当たってはヒトラーに祝電を送るが、ドイツへの帰国の誘いは拒否(同様にチャーチルからの政治亡命の誘いも拒否している)。

41年6月82歳で死去、ヒトラーは国葬をベルリンで行おうとするが、ドイツが君主国でなければオランダに埋葬するようにとの遺言に従い、遺族はナチス関係者を葬儀に招くだけにした。

ヴィルヘルム2世が第二次世界大戦中まで生きていたことと、ヒトラーの勝利に祝電を送ったことは以前から知っており、もっとナチ体制に密着していたのかと思っていたが、暗君と言うほかない人物ではあるものの、最晩年には、最低限の(本当の最低限とはいえ)名誉は守ったのか、と思えた。

 

 

全く期待せずに、単に暇潰しのつもりで手に取ったのだが、予想より遥かに良かった。

これは思わぬ拾い物だ。

副題がややミスリードで、確かに当時の諷刺画が多数載せられているが、それを中心にした社会史的著作ではなく、ごくオーソドックスな政治・軍事史である。

それが非常に整理された、明解な叙述で、初心者にとって理解し易く、とても役に立つ。

これまで類書としてテイラー『第一次世界大戦』(新評論)山上正太郎『第一次世界大戦』(講談社学術文庫)リデルハート『第一次世界大戦』(原書房)の三つを挙げているが、本書が一番コンパクトで手頃な上、分かり易い。

どれが一つだけ読むのなら、これを薦める。

なお、大戦の原因論・責任論については、ジェームズ・ジョル『第一次世界大戦の起源』(みすず書房)がある。

(クリストファー・クラーク『夢遊病者たち  第一次世界大戦はいかにして始まったか 1・2』(みすず書房)は、今のところ手を出す余裕がない。)

2018年8月6日

中田一郎 『ハンムラビ王  法典の制定者』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: オリエント — 万年初心者 @ 02:07

オリエント史、相変わらず苦手なんだよなあ・・・・・。

歴史的人物の個性がはっきり表れてくる時代の史書でないと、読んでいて面白くない。

考古学的研究に基づく歴史叙述はおおむね退屈である。

杉勇『古代オリエント(世界の歴史1)』(講談社)の記事で書いたような大まかな史実すら、油断すると記憶から抜け落ちている。

結局、オリエントだけでなく、例外的に史料に恵まれたギリシア・ローマ史や春秋戦国以後の中国史を除く古代史全部が苦手である。

(もっとも私はイスラム史もあまり好きじゃないので、西アジア全般に弱いのかもしれない。あと、中央アジアの遊牧民の歴史も好きじゃない。)

補強の為、すぐ読み終えることのできるこのシリーズを手に取る。

20世紀初頭にその法典碑が発見され、古代オリエント史上、最も著名な人物の一人となった君主。

在位期間は紀元前18世紀前半、前1792~50年(推定。以下全ての年号も同じく)。

シュメール人のウル第三王朝が、イラン西南部のエラム人の攻撃で、前2004年滅亡。

以後、主にセム系のアムル人が建てた都市国家を中心に、諸王国が覇を競う。

イシン、ラルサ、エシュヌンナ、マリ、そしてバビロン第一王朝である。

この辺の王名とか、年代とか、紛争の経緯とか、とてもじゃないが憶えてられませんわ。

こういう砂を噛むような記述が、オリエント史で一番嫌なところなんだよなあ・・・・・。

前1880年頃、バビロン第一王朝建国。

建国時は抜きん出た存在ではなく、当時の勢力均衡を構成する一国で、他国と共に強国エラムの宗主権下にあった状態。

前1792年即位のハンムラビ王が、エラムの侵攻を退け、他国を併合し、前1759年ついに全メソポタミアの統一を達成。

灌漑用の運河を開削し、社会正義の達成を願って法典を制定。

メソポタミア最古の法典は、ウル第三王朝のウルナンム法典(王の在位は前2112~2095年)で、他にもイシン、エシュヌンナの法典が知られている。

ハンムラビ法典は模範的判決を集めた一種の手引書であって、法的拘束力を持つ法規ではなく、出土した裁判記録でハンムラビ法典に言及したものは一例も無い。

先行する法典に比べて刑事罰の側面が強くなり、多数の自由人と少数の奴隷の区別だけでなく、上層自由人と一般自由人の階層分化を反映して、上層自由人が被害者の場合には賠償ではなく同害復讐原則が適用される、という特徴がある。

残っている裁判記録からは、自ら訴えを聞き、役人の不正を厳しく罰し、比較的弱い立場の者に配慮する裁きを下す、有能な王という姿が浮かび上がってくる。

後継者サムス・イルナ王の治世にはカッシート人との戦いや諸都市の反乱があり、衰退期に入った模様で、以後四代の王の後、前1595年バビロン第一王朝はヒッタイトによって滅ぼされてしまったが、多くの勝利をあげ、人々の生活を豊かにし、正義を回復した王として記憶されたいというハンムラビの願いは叶えられたのではないか、と書いて著者は本書を終えている。

 

 

これだけ薄い本でも、すっとは読み通せなかった。

この辺の話、本当に嫌いなんだよ。

面白くないもん。

まあ、我慢して読めるものを確実に読んでいくしかないか。

苦手分野を多少とも克服するには忍耐が必要です。

2018年8月2日

ベルトルト・ブレヒト 『ガリレオの生涯』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:43

コペルニクスを継いで地動説を唱えたが、教会の圧力により自説を撤回したガリレオを描いた戯曲。

初版では、ガリレオの転向は秘かに学問研究を守り通すための妥協であったと肯定的に捉えられていたのが、広島・長崎への原爆投下後、科学の権力への屈従をより批判的に見る内容に変更されたという。

しかし、この作品に科学技術の進歩に対する根本的懐疑を読み取ることは難しかった。

科学的真理を抑圧しようとする教会など旧支配者と、それを利己的目的のために奉仕させようとする資本という新支配者への批判は見られても、そもそも人間に技術を制御するための倫理規範を主体的に作り出す能力が無いのではないか、との懐疑は見られない。

ブレヒトは、「人民の権力」が確立すればそれは可能になる、と考えていたのかもしれないが、その「人民の権力」が恐ろしいほど甚大な犠牲を出したのち崩壊したと思ったら、それに対抗する必要の無くなった大資本が思いつく限りの専横を尽くし、その弊害をほんのわずか抑えることすら出来ない、というのが現在の世界なわけです。

それを考えれば、社会の安定と人々の精神的秩序を維持する観点から、天動説を固守し、科学技術の進展自体に歯止めをかけようとしてガリレオを圧迫した教会の姿勢を、自らの特権維持を目論んだ頑迷固陋な醜行と片付けられるのか、極めて疑問に思う。

はっきり言ってしまうと、作品中、私はガリレオを迫害する側に共感を抱いてしまった。

少なくとも、能天気に技術進歩によるユートピアを信じるガリレオ自身や、それを物質的利害のために利用しようと煽る資本よりも、はるかに人間性の真実に沿っていると思えてくる。

こんな読み方をするのは私だけでしょうが、正直な感想は以上の通りです。

それと、巻末の著者年譜を見ていると、ブレヒトのナチスとの戦いに示された勇敢さは永遠に称えられるべき偉業であることは全く疑い得ないし、マッカーシズム時代のアメリカを批判的に見たことも当然だと思うが、しかし、1954年「スターリン国際平和賞受賞」というのは、この偉大な作家にとって名誉なことでは無いよなあと思ってしまう。

 

 

非常に良い。

いろいろなことを考えさせてくれる優れた作品。

初心者でも読みやすく、分かりやすい。

ブレヒトは『肝っ玉おっ母とその子供たち』と並んでこれを薦める。

2018年7月29日

外山三郎 『図説太平洋海戦史 全3巻』 (光人社)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:59

初めに言っときますが、通読はしていません。

極めて粗く飛ばし読みしただけ。

日米戦争の主要海戦を、多くの図版と共に叙述した本だが、とてもじゃないが、作戦上のチマチマ細かな記述を全て読んでいられない。

事実関係の記述よりも、著者による考察と評価に重点を置いて、目を通した。

以下、要点をメモ。

 

 

真珠湾攻撃について。

もし第二撃を加えて、燃料および修理施設を破壊しておれば、ミッドウェーを含む以後の戦闘の結果が大きく変わっていた可能性があり、是非実行すべきではあったが、その責任は南雲忠一中将ら機動部隊指揮官よりも、明確な命令を断固として下しておかなかった後方の山本五十六大将ら連合艦隊司令部が負うべきであること。

 

 

珊瑚海海戦について。

日本側の損失が軽空母1隻で、他方米側が正規空母「レキシントン」を失ったことから、この海戦の勝者を日本とする見解があるが、ポートモレスビー攻略という戦略目標を達成できず、以後の作戦で日本軍が大きな被害を蒙ったことを考えれば、そうした見方は謬論である。

敗因としては、索敵の不備・失敗とそれを分析する艦隊司令部の情報処理能力不足、機動部隊の指揮不統一と上級指揮官の敢闘精神の欠如、「見敵必殺」の言葉の虜になり、不充分な偵察情報に基づき攻撃隊を発進させたような形式的部隊運用を挙げている。

そのうち、空母に相当の艦載機を残しながら、撤退を命令した南洋部隊指揮官井上成美中将について、基地航空隊を基幹とした「新海軍軍備論」の提唱者であることから、持論に自縛され、空母の脆弱性への過度の懸念から、不適切な命令を下したのではないかとされている。

 

 

ミッドウェー海戦について。

米側の大勝利の原因として幸運の要素が大きいことは間違いない。

燃料の限界に近付いていた米爆撃機隊が、引き返す直前に、まさに艦載機に補給中の日本空母を発見できたこと、米雷撃隊が先行して日本の零戦隊を低空に引き付けて上空がガラ空きだったこと、などは偶然の産物ではある。

しかし、空母の緊急集結、急速出撃という大局的作戦指導、ミッドウェー基地の存在という地理的利点を最大限活用したこと、日本艦隊発見後、極力距離を詰めた上で攻撃隊を発進させたことなどが、その幸運を引き寄せたことを見逃すべきではない。

日本側の敗因として、米側による暗号解読と作戦計画の察知、索敵の失敗、敵空母発見の報を受けて即座の攻撃隊発進を主張する山口多聞少将の意見具申を、米艦隊の位置を実際よりも遠くに誤認していた南雲忠一中将が退けたこと、などが挙げられるが、著者はいずれも決定的なものとは見ず。

以上のうち、「索敵の失敗」と言っても、偵察機搭乗員のミスは、通常想定すべきもので、その上で二段索敵など、より慎重かつ重厚な偵察を行うべきであった。

それを可能にする為に、偵察用水上機を搭載した巡洋艦の、機動部隊への随伴を増すべきであったのであり、この空母を護衛する直衛艦の不足こそが、ミッドウェー海戦の決定的敗因である、と著者は主張している。

またそれは、米戦艦群が真珠湾で壊滅し、主力艦同士の水上戦がほぼありえない状況下では、後方の主力艦隊から巡洋艦を引き抜き、機動部隊に編入することによって、当時の日本海軍にも充分可能な方策だった。

 

 

ガダルカナルをめぐる第二次ソロモン海戦および南太平洋海戦について。

第二次ソロモン海戦で、日本海軍が総力を挙げて支援した、陸軍の輸送船団が潰えた以上、この海戦後はガダルカナルを諦め、ラバウルのみを固守し、攻勢に出た米軍に出血戦を強いることが賢明だったが、残念ながら山本連合艦隊司令長官にもそこまでの明断は無かった。

南太平洋海戦では、日本側機動部隊の行動が全般的に周到で、パイロットが優秀さと勇敢さを発揮し、米側の基地航空機の活動が粗雑であったことにも助けられ、戦術的勝利は収めたが、日本軍は多数の熟練パイロットを失い、米軍が自らの航空威力圏内に撤退した為、戦果を拡大できず。

 

 

マリアナ沖海戦について。

ミッドウェーの戦訓による固定観念に囚われ、空母戦の優位は先制攻撃にのみあるとして採用された、長距離攻撃であるアウトレンジ戦法が、慎重な守勢戦術を採ったスプルーアンス大将率いる米艦隊の前に完膚なきまでに破綻したこと、米側の陽動作戦に引っかかり、基地航空隊を無意味に移動・消耗させ、機動部隊と基地航空隊の連携による集中攻撃という、わずかながらあった日本軍唯一の勝機を逃したことを指摘。

 

 

レイテ沖海戦について。

彼我の戦力差を考えれば完敗は当然だが、それでも劣弱な残存空母艦隊をおとりにして米空母を引き付け、戦艦部隊が米輸送艦隊に突入するという作戦は途中までは成功しかけている。

それが結局失敗したのは、各艦隊の連絡とタイミングの調整、敵軍艦ではなく輸送船団を目標とするという最重要作戦目的の徹底が欠けていたからだ、豊田副武司令長官が陣頭指揮に立たなかったことがそれを招いた、とされている。

 

 

 

そこそこ興味深い文章が散見されるので、ざっと目を通しておくのも良い。

戦史ものでは、清水政彦『零式艦上戦闘機』(新潮選書)と並んで薦める。

2018年7月25日

深町英夫 『孫文  近代化の岐路』 (岩波新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 01:42

2016年刊。

「中国革命の父」の、手頃かつ手堅い伝記。

余程細かい史実や固有名詞を除くと、事実関係の叙述で新たに得た知識は特に無い。

史的評価の面での、全体的感想を言うと、やっぱり私はこの人物に好感が持てない。

急進的社会変革に対する呆れる程の楽観論、それを遂行する(自身を含む)革命家達の資質への過信、清朝と満州人に対する硬直した敵意、諸外国に対する機会主義的態度と信頼性の無さだけが目に付く。

中国国民党にとっては「国父」、中国共産党にとっても「国共合作」を推し進めた「革命の先駆者」であり、双方から肯定的に評価される存在だが、私には急進主義によって破滅的結果を得た20世紀中国を象徴する人物としか思えない。

孫文の「民主共和国の建設」というヴィジョンへの楽観が、結局20世紀中国の左右の独裁に帰着したのは、必然だったと思える。

現在の中国大陸での体制が民主的に変容することがあったとしても、その種の楽観論への懐疑心が無い限り、結局は袋小路に陥るでしょう。

やはり清朝の下での洋務運動・変法運動が成功しなかったことが、中国の悲劇の最大要因だったと思える。

 

 

内容的には特筆すべきところは無いが、初心者向け伝記としては悪くない。

一読しておくのもいいでしょう。

2018年7月21日

石野裕子 『物語フィンランドの歴史  北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』 (中公新書)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 02:36

おお、このシリーズで『物語北欧の歴史』だけじゃなくて、各国別の通史も出るのか。

よかった、よかった。

まず、序章「フィンランド人の起源」の副題は「『アジア系』という神話」である。

確かにフィン人はハンガリー人と並んで、ヨーロッパの中の「アジア系」民族というイメージがあった。

かつて「ウラル・アルタイ語族」というカテゴリが提唱され、ここにトルコ語、モンゴル語、朝鮮語、日本語、ハンガリー語と共にフィンランド語も属すとされたため。

しかし現在ではウラル語族とアルタイ語族の関係は否定され、ウラル語族のフィン・ウゴル語系の中にフィンランド語、ハンガリー語、エストニア語が属するとされている。

国土は、西のスウェーデン、東のロシアに挟まれ、北ではノルウェーにも接している。

独立したのは20世紀になってから。

 

 

北方十字軍遠征が行われ、スウェーデンとノヴゴロドの両者の争奪対象となるが、1323年パハキナサーリ条約でフィンランド南部が正式にスウェーデン領となる。

以後司教座が置かれたオーボ(トゥルク)を中心にスウェーデン王国の辺境として発展。

14世紀末デンマークのマルグレーテを中心にカルマル連合が結成され、北欧は統一状態に。

しかし、1523年グスタヴ・ヴァーサがスウェーデン王に即位し、カルマル連合は崩壊。

デンマーク(ノルウェー)とスウェーデン(フィンランド)が分立する形勢が以後長く続く。

宗教改革で北欧諸国はルター派に改宗。

絶対王政を確立し、三十年戦争で強勢を誇ったスウェーデンだが、新興ロシアとの北方戦争に敗北し、その北欧での覇権は衰退。

フィンランド語の文化興隆で民族意識が徐々に高まっていく。

ナポレオン戦争中、1807年ティルジット条約で一時ナポレオンと和解していたロシアが1808年スウェーデンに侵攻、フィンランドを奪取。

ナポレオン没落後もフィンランドは返還されず、スウェーデンはその代償にノルウェーを獲得、フィンランドは実質ロシア支配下の「大公国」となる。

このロシア統治時代の「圧政」がよく語られるが、実際にはその統治は現地の制度を尊重するもので、さして反発や独立運動を誘うものではなく、それらが激化するのは世紀末からの強引な「ロシア化政策」が行われるようになってからだ、とされている。

1917年11月革命後、独立を宣言、ボリシェヴィキ政権は民族自決の建前とロシアに続く社会主義革命への期待からこれを承認。

翌18年1月から5月まで、赤衛隊と白衛隊との間で内戦状態となり、元帝政ロシア陸軍に属していたマンネルヘイム率いる白衛隊が勝利。

内戦終結後、ドイツからヘッセン公を国王に迎える計画もあったが、ドイツの敗北と革命により頓挫、共和制の独立国として出発。

強大な権限を持つ大統領職を設置。

当初赤衛隊を支持したが、その後革命運動から距離を置いた、左派の社会民主党と、独立前の「フィン人党」内の保守派が結成した国民連合党、同じく保守派の農民同盟(のちの中央党)などが主要政党。

紙・パルプ・木材の輸出が発展、工業化も徐々に進行。

世界恐慌波及後、ラプア運動と呼ばれる極右勢力が台頭するが、幸い国政を根底から覆す勢いにはならず、政治は中道化。

しかし、第二次世界大戦の激動に巻き込まれ、ソヴィエト・フィンランド戦争に至る。

1939年8月独ソ不可侵条約締結、9月独ソによるポーランド分割、英仏とドイツが開戦。

直後、ソ連はレニングラードに近いカレリア地峡の領土割譲、バルト海の岬の租借などの要求をフィンランドに突きつける。

フィンランドがそれを拒否すると、39年11月ソ連軍はフィンランドに侵攻、ここに「冬戦争」と呼ばれる戦いが勃発。

マンネルヘイム率いるフィンランド軍は善戦、国際連盟はソ連を除名処分とし、40年2月西部戦線が未だ膠着状態だったこともあり、英仏軍のフィンランド支援の可能性が囁かれるようになると、それを背景にフィンランドは和平交渉を提案、3月に講和が成立し、国土の十分の一を割譲するなど大きな犠牲を払ったものの、フィンランドはその独立を守ることに成功。

同年中ドイツはデンマーク、ノルウェーを制圧、フランスを降伏させ、ソ連はバルト三国を併合。

孤立無援の上、独ソ間の緊張も高まってきた状況の中で、フィンランドはドイツに接近せざるを得なくなる。

41年6月独ソ戦が開始されると、ドイツ軍がフィンランド領からソ連を攻撃したことを理由にソ連はフィンランドを空爆、これに対してフィンランドは対ソ宣戦、いわゆる「継続戦争」が始まる。

「継続戦争」という呼称通り、フィンランドはこの戦争を「冬戦争」から続く防衛戦で、独ソ戦とは別の戦いであると主張したが、ドイツとの軍事協力は明白であった。

北欧のフィンランドが枢軸国だったと聞くと、普通の人は驚くが、実際はかなりそれに近い状態だった。

ソ連の圧迫と不正は明らかだが、ナチス・ドイツとの(事実上の)同盟はどう考えても筋が悪い。

(って三国同盟結んだ日本が言えることじゃないですね。)

戦況が悪化すると、フィンランドは単独和平を模索、44年9月大統領に就任していたマンネルヘイムが休戦条約締結に成功。

ソ連の体質と行動様式を考えると、これは極めて幸運な展開と言える。

対フィンランド戦に充てていた軍を中欧の対独戦に早期に投入するためか、フィンランドの亡命政権がスウェーデンに樹立されるより、親ソ的な政権がフィンランドにできる方が得策だとスターリンが判断した可能性があるための模様。

戦後のフィンランドは、共産化されることはなく、冷戦下でとりあえず独立と中立を守ったが、ソ連の影響を受け、外交ではソ連の意に沿わない政策を採ることは出来ず、内政でもしばしば微妙な干渉を受けることになる。

もう死語になったが、東欧共産圏のようにソ連による明々白々な支配を受けず、国内体制は議会制民主主義を守っているものの、実際には「衛星国」に近い影響をソ連から与えられてしまっている状態は、かつて「フィンランド化」と言われた。

しかし、マンネルヘイムの辞任後、大統領となったパーシキヴィ(1946~56年)が、共産党の流れを汲む政党が自由選挙で国政上大勢力になることが阻止されたことに助けられ、さらに現実的な外交戦術を徹底したことによって、この困難な時期の微妙な舵取りに成功したことは事実である。

ソ連と友好協力相互援助条約を締結、マーシャル・プランの支援を受けることは出来ず、北欧でデンマークとノルウェーがNATOに加盟すると(スウェーデンは親西側重武装中立路線)、フィンランドはワルシャワ条約機構に組み込まれそうになるが、巧みな交渉でそれを回避。

1956年ケッコネンが大統領に就任、81年までその任に当たる。

フルシチョフ、ブレジネフ両政権と良好な関係を築き、「霜夜事件」「覚書危機」などソ連による内政干渉危機を何とか乗り切り、経済成長を遂げ、北欧諸国内では遅れ気味だった福祉国家化を達成、75年には全欧安保協力会議を首都ヘルシンキで開催。

冷戦終結とソ連崩壊後、95年スウェーデン、オーストリアなど冷戦時の中立諸国と共にEU加盟。

新憲法が制定され、大統領権限を縮小、首相が行政の主体となる。

経済危機で既成政党の国民連合党、中央党、社会民主党が伸び悩み、反移民反EUの「フィン人党」(本書では独立前のそれと区別するために「真のフィンランド人」と表記)が台頭するというは、もうどこのヨーロッパ諸国でも同じような展開ですね。

 

 

もうメモ・ノートはこれでいいや。

細かなことは省略だ。

長年スウェーデンの一部だったが、19世紀初頭にロシア統治下となり、ロシア革命後独立、その後二度の対ソ戦争を戦い、独立は維持したものの、親ソ的色彩の濃い中立主義国となり、冷戦終結後に西ヨーロッパに復帰、というのが大まかな歴史の流れ。

必ず憶えておくべき人名はマンネルヘイム一人だけでしょう。

独立したのが遅いし、その歴史で押さえておくべきポイントはさほど多くない。

それもあって、本書も気楽に読める。

手軽で要領の良い通史として評価できる。

しかし、本書読了後、スウェーデンのやや詳しい通史を読む必要を感じた。

北欧史ではやはりデンマークとスウェーデンが主要国であり、ノルウェーとフィンランドはややマイナーな位置にいることは否めないと思うので。

それを探すのが次の課題ですね。

2018年7月17日

中津孝司 『アルバニア現代史』 (晃洋書房)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 01:44

この国の一般的な通史は存在しないでしょう(たぶん)。

ざっと検索したくらいでは、これしか出て来ない。

東欧共産圏崩壊直後の1991年刊。

古代イリュリア人の末裔と言われる。

ローマ・ビザンツの支配とスラヴ人の侵入を経て、15世紀末オスマン帝国支配下に。

1912年第一次バルカン戦争を契機に独立達成。

第一次大戦後、ゾークが指導者となり、初代大統領就任の後、王政創始。

39年4月イタリア軍侵攻、アルバニア労働党(共産党)が抵抗運動を組織、戦後共産化。

労働党指導者エンヴェル・ホッジャが独裁者となる。

48年隣国ユーゴスラヴィアがコミンフォルムを追放されるとこれと断絶。

だが、ソ連がスターリン批判を行うと対ソ関係も悪化し、61年コメコンを脱退、68年にはワルシャワ条約機構も脱退、中ソ対立では東欧諸国で唯一中国側に立ち(チャウシェスク政権下で自立化路線を進めていたルーマニアは中立か)、以後中国の支援を受ける。

そこからさらに、中国が米中接近を決断し、改革開放政策に舵を切ると、これを批判して中国との関係も断絶、完全な鎖国政策を採るようになる。

ホッジャ独裁下、東欧唯一の極端なスターリン主義国家として長年存在し、ヨーロッパ最貧国の汚名を着る。

85年ホッジャ死去、後継アリア政権でも体制に即座の変化は見られなかったが、89年の東欧変革を受け、さすがに翌90年一党独裁制の放棄と政治的自由化を表明、92年野党民主党が政権樹立、以後混乱を孕みつつ、旧労働党である社会党と民主党が政権を奪い合う展開のようだ。

また、隣国旧ユーゴのコソヴォ自治州には多数のアルバニア系住民が存在し、その問題でNATOの空爆にまで至ったことも、頭の片隅に入れておいた方がよい。

 

 

さすがに中公新書でも『物語アルバニアの歴史』は出ないか。

日本人の一般常識として知っておくべきアルバニア史は上記のことだけと考えていいでしょう。

100ページ強のパンフレット並みに薄い本だが、これで充分です。

2018年7月13日

小川浩之 『英連邦  王冠への忠誠と自由な連合』 (中公叢書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:29

過去イギリスの植民地統治下にあった国々を中心にした、イギリス君主を象徴的首長として共有する国家間の自由な連合体としての英連邦の歴史を全般的に叙述した本。

本書刊行時の2012年において54ヵ国が加盟し、国連加盟国の28%を占める。

そのうち、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ジャマイカ、パプア・ニューギニアなどは今もイギリス君主を国家元首とする。

その他はインドを始めとして独自の大統領を選出する共和制国家が多いが、マレーシア、ブルネイ、トンガ、レソト、スワジランドなど世襲君主を持つ国もある。

連邦加盟国相互間では、大使ではなく高等弁務官が派遣され、外交業務を行っている。

1995年加盟のモザンビーク、2009年加盟のルワンダなど、歴史上イギリスおよび他の英連邦諸国との関係を持たない国も加わっている。

18世紀七年戦争およびフレンチ・インディアン戦争で、北米・インドにおいてフランスに決定的勝利を収めたイギリスは第一次帝国を確立。

それがアメリカ独立で破綻した後、19世紀インドを中心としてカナダ、オーストラリア、南アフリカ、東南アジアなどを含む第二次帝国形成。

アメリカ独立の教訓から、白人定着植民地では外交・防衛を除く内政的自治を容認する方針が立てられる。

まず1867年(日本では大政奉還の年だ)カナダ自治領が成立。

初代首相ジョン・マクドナルド。

少し間が空いて、1901年オーストラリア連邦成立。

初代首相エドモンド・バートン。

1907年ニュージーランド自治領成立。

初代首相ジョゼフ・ウォード。

ボーア戦争でイギリス支配地域が拡大した南アフリカでも、ボーア人との妥協によって1910年南アフリカ連邦成立。

初代首相ルイス・ボータ、二代目首相(こちらの方が有名か)ヤン・スマッツ。

第一次世界大戦時、これら自治領は「自動的交戦原則」により参戦国となる。

本国への支援によって発言権を強め、独自性を高める。

ヴェルサイユ条約、国際連盟にもイギリスと別個の形で加わる。

1922年長年の懸案であるアイルランド自治がともかくも実現し、自治領としてのアイルランド自由国成立。

漸進的・部分的自治の方針しか示されなかったインドではナショナリズム運動が高揚(英領インド帝国は単独で国際連盟に加盟している)。

自治領は独自の公使派遣、二国間条約締結など、事実上の国際法人格を獲得。

1926年帝国会議でバルフォア報告が採択され、それに基づき1931年ウェストミンスター憲章で英連邦成立、イギリス本国とカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランド、ニューファンドランド(当時はカナダとは別の単独領)の六つの自治領で構成、一部の形式的条項を除いて本国と自治領の法的な対等性を確認。

世界恐慌襲来、32年オタワ会議で特恵関税圏とスターリング・ブロック形成。

第二次世界大戦では、英連邦各国が独自に対独宣戦を行う(アイルランド[当時はエールと国名変更]は中立維持)。

戦後、英統治下から独立した国のうち、イスラエル、ヨルダン、ビルマなどは英連邦に加盟しなかったが、インド、パキスタン、セイロンは加盟の意向を示す。

その際、1948年アトリー労働党政権により、「ブリティッシュ・コモンウェルス・オブ・ネイションズ」という正式名称から「ブリティッシュ」を削除することが定められ(これは意外な事実だが、日本語訳では慣用的に「英連邦」のままとなっている)、「自治領」という語も用いられなくなり、「コモンウェルス諸国」との呼び名が定着。

インドが英国王を元首とすることを止める共和制移行の意志を示すと大きな困難に直面したが、結局イギリス国王を「加盟国の自由な連合の象徴」とするという決定が行われ、50年の共和制化と総督廃止の後もインドは連邦残留。

この英・印両国の賢明な決定によって英連邦はその存在を維持。

(ただし49年、アルスター問題で反英感情が強いアイルランド共和国が初の英連邦脱退国となる。)

実現可能性はほぼ無かったが、フランスなど西欧諸国の加盟を検討する人々もいたし、吉田茂は日本の英連邦加盟を口にしたこともあるという。

スエズ戦争の失敗、イギリスのEEC加盟意向、スエズ以東からの英軍撤退方針などの動揺を経つつ、植民地独立の波が続き、遠心化の傾向を示しつつも英連邦は加盟国を増やし、「多人種の連合」としての面を持つようになる。

61年アパルトヘイト政策を続けて、加盟国から批判を受けていた南アフリカが共和国に移行し、英連邦も脱退(94年マンデラ政権下で復帰)。

第三次印パ戦争により72年バングラデシュ独立、その承認に抗議してパキスタンも英連邦脱退(89年復帰)。

ムガベ政権の強権化が目立つジンバブエは2003年に脱退。

このように脱退や加盟資格停止がありつつも、英連邦は現在も存続し、各国の緩やかな連合体として機能し続けている。

 

思えば、大日本帝国が同様に、悲惨な戦争を経て崩壊せずに、漸進的に「日本連邦」に進化出来なかったことは痛恨の極みです。

その場合、反英感情の強いアイルランドが英連邦から飛び出したように、再独立した韓国が加入する余地はなかったでしょうが、たとえ台湾、パラオ、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島だけから成る小規模なものであっても、それらの国家が緩やかに連合した日本連邦を空想したくなります。

 

 

内容は相当充実している。

バランスの良い叙述で、様々な知識を得られる。

説明は丁寧かつ適切。

晦渋なところは無く、通読は容易。

良書として推薦します。

2018年7月10日

ウィリアム・シェイクスピア 『テンペスト』 (白水社uブックス)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:38

シェイクスピア最晩年の作。

『あらし』という邦題を採用している版もあり。

弟の策謀によって位を奪われ、娘と共に無人島にたどり着いた元ミラノ大公が、魔法の力で近海を航海していた弟とその主君のナポリ王が乗る船を難破させる。

元大公は難破者を追い詰め、後悔に導き、最後は娘とナポリ王の息子の恋を通じて、物語は大団円となる。

人間が必ず持つ性悪を直視しつつ、それを超える調和を展望する、文豪の最晩年に相応しい名作。

十分面白い。

シェイクスピア作品で、何より優先してこれを、と言うわけでは全くないが、読んでも決して損はしないと思います。

2018年7月6日

井上寿一 『戦前昭和の国家構想』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 00:08

社会主義(日本共産党・労農派マルクス主義者・合法無産政党)、議会主義(民政党)、農本主義(民間右翼)、国家社会主義(陸軍・革新官僚)という四つの国家構想の展開を通じて、関東大震災から敗戦までの戦前日本の政治と社会を概観した本。

章立ては以上の順番通りで、それできちんと時代順に叙述を成り立たせているのは、なかなか読ませる。

 

これら国家構想の興廃を決定したのは、指導的な上層部ではなく、あくまで広範な民衆世論である。

戦前日本の民主化は、想像以上に進行していたんだなと改めて感じた。

だから日本は結構だと言うつもりじゃないんです。

戦前日本の破局自体が、民主主義の帰結であることを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

昭和戦前期の政治を「ファシズム」と定義するような、一昔前の硬直左翼の論調には、相当の違和感を感じていました。

ファシズム(右翼全体主義)は、伝統的・前近代的な制度と価値観が破壊された後の無秩序に置かれた民衆が狂乱状態で自発的・能動的に生み出すものであって、その意味で、かつての「天皇制ファシズム」という言葉は形容矛盾である。

その考えに変わりはないのだが、戦前日本の大衆は、天皇制という最後の非民主的な拘束要因すら払い除ける寸前だったのではないかと思わざるを得ない。

政党政治・華族・財界など既成制度への攻撃と現状革新志向に満ち満ちた世論が、戦前の危機の根底にあり、共産主義運動と右翼国粋主義運動は双方ともその根底要因の違った表われ方に過ぎないと思える(井上寿一『山県有朋と明治国家』)。

後者の中の、異様な形式的天皇中心主義と「一君万民思想」、「君側の奸」批判は、天皇制を正面から攻撃できなかった民衆の狂信的破壊衝動が見い出した捌け口ではなかったか。

(左翼思想が完全に崩壊し、イデオロギー的な天皇制批判が無効になった後、自称右翼の精神異常者が皇族への厚顔無恥な誹謗中傷を煽動している今の状況は不吉ではある。)

とにかく、全体主義と民主主義を相容れないものと考えること自体が根本的に誤謬であり、前者は後者の勝利から生まれたものだ。

戦前日本を「非民主的」だとして批判するのではなく、同時代の独ソ両国のような完全な全体主義国ではなくとも、アメリカでも見られたような民主主義の紊乱から生み出された〈ファシズム〉が跋扈する状況にあったとの認識が必要であると思える(三宅昭良『アメリカン・ファシズム』)。

 

 

読みやすいが、眼の冴える程の面白さは無く、内容は平均的出来。

良くも悪くもない。

通読に大した労力は要らないので、一読しておいてもいいでしょう。

2018年7月4日

丸谷才一 鹿島茂 三浦雅士 『文学全集を立ちあげる』 (文芸春秋)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:15

タイトル通り、架空の世界および日本文学全集を作り上げるとして、そこに収録する作品を、あれこれ月旦評しながら、決定していくという趣向の本。

世界文学は全体の三分の一だが、「文学的キャノン(正典)」を定める上での評価が面白い。

当然、挙げられている作品を全部読むなんて芸当はほとんどの人には不可能でしょうが、それでも読書意欲をかき立てる効果はある。

図書館で借りて、ざっと眺めるのもいいでしょう。

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